三月。学年が終わる。校庭の桜のつぼみが、春の訪れを待つように膨らみ始めていた。春の訪れは、いつだって待っている者の心に、新しい予感をもたらす。しかし、俺の心はまだ、冬の檻の中に閉じ込められたままだった。
俺はいつものように階段の踊り場にいた。一人でいるのが楽だった。誰も俺を傷つけないし、俺も誰も傷つけない。そんな時、校庭の反対側で、ざわめきが聞こえた。女子の声。好奇心から、そっと覗き込む。そこには、一ノ瀬がいた。後輩の女の子に囲まれ、屈託のない笑顔で何か話している。その笑顔が、あまりにも眩しい。そして、その眩しさが、俺には痛い。女の子の手には、手作りのクッキーらしき包み。一ノ瀬は、いつものように軽やかに笑い、クッキーを受け取る。その笑顔が、眩しい。あの子と、付き合えばいいのに。あいつの笑顔に、ふさわしいのは、傷だらけの俺じゃなくて、もっと明るい子だ。胸が、チクチクと痛む。俺は、階段に戻り、膝を抱える。涙が、こぼれる。自分で選んだ道なのに、なんでこんなに苦しいんだ。この感情は、嫉妬だ。彼を手放したいのに、他の誰かに渡したくない。結局、俺は自分勝手な人間なんだ。桜のつぼみが、風に揺れる。まるで、俺の心の揺れを映すように。はぁ、とため息をつき何もない床を見る。どのくらい時が経ったのだろう。
「…先輩?」
その声に、身体が震える。ゆっくり顔を上げると、一ノ瀬が階段の下に立っていた。制服のシャツが、春の風に揺れる。瞳は、いつもみたいに俺をまっすぐ捉える。でも、その目は、どこか傷ついた光を帯びていた。俺の心が、ぎゅっと締め付けられる。じわり、涙が滲む。
「何でもない。目にゴミが…」
俺は立ち上がると、一ノ瀬の横をすり抜け、階段を降りようとした。逃げたかった。これ以上、彼を傷つける前に、自分の罪に彼を巻き込む前に。
「待ってください、先輩!」
彼の声が、今度は追いすがってきた。だが、俺は振り向かない。
「もう、俺に構うな。お前はもっと、普通に幸せになれ。俺なんかとじゃなくて」
最後まで言い終わる前に、彼の腕が俺の身体を強く引き寄せた。背中が壁に打ち付けられる。そして、俺の言葉を遮るように、彼の唇が俺の唇に、強く、そして切実に押し当てられた。
一ノ瀬のキス。それはしょっぱかった。俺の流れる涙の味だ。春の風が、桜のつぼみをそっと揺らす。まるで、夜明けの光が、暗闇を切り裂くように。
彼はゆっくりと唇を離し、額と額を合わせた。彼の乱れた息遣いと、甘い香りが俺の五感を支配する。
「……俺は、先輩の隣で幸せになる」
彼の声は震えていたが、その瞳の奥には、これまでの軽薄な余裕は消え失せ、燃えるような本気の光があった。
「もう逃げない。覚悟してください」
俺は、震える声で呟いた。
「ごめん……俺、馬鹿だ」
一ノ瀬の瞳が、驚きと戸惑いで大きく見開かれる。俺は、過去の自分、そして自分を罰し続けてきた弱い心を罵倒するように、絞り出す声で言葉を続けた。
「俺、お前のことが……好きだ。ずっと、怖かった。でも、お前を遠ざけているのが、一番辛かった……」
涙が、止まらない。 一ノ瀬は、一瞬の沈黙の後、優しく、でも力強く、俺を抱きしめた。その温もりが、俺の心の壁を、過去の雪の冷たさを全部溶かしていく。
「馬鹿じゃないですよ、先輩。俺は、その馬鹿な先輩が好きなんです。……これで、俺のものですね?」
「ずるいぞ、お前は……」
「先輩の方がずるいですよ」
顔が熱くて、彼の顔を見ることができない。一度深呼吸を挟んだ。
「一ノ瀬……俺は……俺はお前のことが、好きだ。俺の隣にいてほしい」
その瞬間、一ノ瀬は静かに、そして深く微笑んだ。その笑顔は、これまでのどの笑顔よりも優しく、俺の心に救いの手を差し伸べた。彼は、俺を力強く抱きしめた。その温もりが、俺の心の壁を全部溶かしていく。
「もちろんです。大好きですよ、怜先輩」
「苦しいって、櫂人」
あはは、と笑顔を浮かべる。俺は初めて、彼の名前を呼んだ。抱きしめられた肩越しに見えた桜のつぼみは、もう開花を待つだけだった。俺の心もまた、暖かな春を迎えた。
それから、俺と一ノ瀬は一緒に過ごす時間が増えた。一ノ瀬は相変わらず俺を振り回すけど、その笑顔が、俺の心を温める。過去の傷は、消えない。でも、一ノ瀬のそばにいると、前に進める気がする。自分の中から消えてくれないその痛みごと、生きていこう。
出会いの秋、すれ違った冬。季節を越えて、俺たちは春を迎えた。亮太は、卒業を前に別の街に引っ越した。一枚の手紙を残して。
「幸せになれよ。夜明けは、お前にも来るから」
亮太の笑顔は、どこか軽やかだった。まるで、彼もまた夜明けを迎えたように。
「先輩、これからも俺の隣にいてくださいね」
一ノ瀬の甘い声が、俺の心に響く。朝焼けの空が、桜の花びらを柔らかく照らす。俺はただ頷く。拭い切れない怖さは、まだ残ってる。でも、一ノ瀬の笑顔が、声が、存在が俺の夜を照らす。太陽が少しずつ、少しずつ昇る。曙光が彼の瞳を輝かせる。
夜明けは、君の隣で。

