夜明けは君の隣で。



 それから、俺は一ノ瀬を避けるようになった。あいつの真っ直ぐな想いが怖かった。イルミネーションの下で話した夜、俺の心は確かに揺れた。あいつの笑顔、温もり、言葉。全部が、俺の閉ざした心をこじ開けようとしていた。でも、だからこそ、怖かった。また失うかもしれない。あの冬の夜、弟を失い、亮太を失った痛みが、胸の奥で疼く。一ノ瀬が俺を必要としてくれるなら、なおさら、離れていくのが怖い。俺は、もう立ち直れないかもしれない。だって、俺は、一ノ瀬のことが…
一月、冬休み明けの校舎は、雪の気配に静まり返っていた。教室の窓の外では、雪が静かに降り積もり、校庭を白く染める。生徒たちのざわめきも、どこか遠く感じる。俺は、いつもより早く教室に入り、机に突っ伏して目を閉じた。一ノ瀬に会わないように、朝は早く登校し、放課後はすぐに帰る。ある日、廊下で一ノ瀬の声が聞こえた。
「先輩!」
弾むような声が、俺の心を刺す。振り返らず、足を速めて階段を駆け下りた。コートの裾が、冷たい風に揺れる。心が、チクチクと痛む。雪が靴に積もり、足元が冷たくなる。まるで、あの日の公園を思い出すようだ。図書館でも、同じだった。いつもの窓際の席で参考書を開くと、一ノ瀬の気配を感じた。振り返ると、彼が入口に立っていた。いつもの笑顔で、俺に手を振る。でも、俺は慌てて本を閉じ、カバンを掴んで席を立つ。
「先輩、待ってください」
声が追いかけてくるけど、俺は走り出した。図書館の静寂を切り裂くように、足音が響く。息が上がる。胸が、締め付けられるように痛い。カバンの中の弟の絵本、表紙の角が折れた小さな本が、いつもより重く感じる。なんで、こんなことしてるんだ。自分で選んだのに、なんでこんなに苦しいんだ。体育の授業の日も、避けた。学年全体での授業、グラウンドでバスケをしていた。一ノ瀬が遠くから俺を見ているのに気づいた。黒い瞳が、俺をまっすぐ捉える。いつもみたいに、逃げ場を許さない視線。でも、俺は目を逸らし、ボールに集中した。パスを受け損ねて、クラスメイトにからかわれる。
「初瀬、ぼーっとしてんなよ!」
笑い声が、耳に刺さる。一ノ瀬の視線が、背中に突き刺さる。授業が終わると、俺はロッカールームに逃げ込んだ。冷たい床に座り込み、膝を抱える。弟の笑顔が、頭をよぎる。「兄ちゃん、いつか…」。心臓が、うるさい。情けない。最低だ。なのに、怖いんだ。ある日、校舎裏の階段の踊り場にいた。誰も来ない、静かな場所。雪が窓の外で舞い、ガラスに小さな結晶を刻む。俺は膝を抱え、冷たいコンクリートに座り込んでいた。カバンの中には、あの封筒。「先輩のことが知りたい」。何度も読み返した言葉が、頭の中で反響する。一ノ瀬の笑顔が、胸を締め付ける。なんで、こんなに苦しいんだ。好きなら、素直になればいいのに。なのに、俺は…。ポケットの中で、弟の絵本の表紙を指でなぞる。折れた角が、指先に引っかかる。まるで、俺の心の傷をなぞるように。
「初瀬先輩」
その声に、身体が震える。ゆっくり顔を上げると、一ノ瀬が階段の下に立っていた。黒いコートに、青いマフラー。雪が彼の肩にうっすら積もり、まるで冬の精霊のようだ。瞳は、いつもみたいに俺をまっすぐ捉える。でも、その目は、どこか傷ついた光を帯びていた。俺の心が、ぎゅっと締め付けられる。
「…何でも、ない」
嘘をつこうとした瞬間、一ノ瀬が階段を登ってくる。ゆっくり、でも確実に。俺は慌てて立ち上がり、逃げようとするけど、足が動かない。雪の結晶が、窓の外で静かに舞う。一ノ瀬は俺の目の前で立ち止まり、じっと見つめる。その視線が、俺の心の傷を暴くようで、痛い。
「先輩、なんで俺のこと避けるんですか?」
一ノ瀬の声は、静かだった。いつもみたいに軽やかじゃなく、どこか掠れている。俺は言葉を失い、ただ目を逸らす。雪の光が、階段の踊り場を白く染める。まるで、俺の心の冷たさを映すように。
「…別に、避けてない」
嘘だ。自分でも、バレバレだと分かってる。一ノ瀬は小さく息をつき、俺に一歩近づく。マフラーの端が、風に揺れる。甘い香りが、俺の鼻腔をくすぐる。心臓が、うるさい。
「嘘、ですよね。俺気づいてますよ。先輩、俺と目合わせないし。話しかけても逃げるし。俺、なんかしましたか?」
その言葉に、胸が締め付けられる。一ノ瀬の目が、揺れている。いつもは自信に満ちたあの瞳が、今はまるで壊れ物を見るように、俺を見つめる。俺のせいだ。俺が、あいつの光を曇らせてる。情けない。最低だ。なのに、言葉が出てこない。
「…ごめん」
小さく呟く。声が、震える。一ノ瀬は一瞬目を細め、唇をきつく結ぶ。そして、ゆっくり、俺の手を握る。その温もりが、俺の凍りついた心を刺す。痛い。温かいのに、痛い。
「先輩、俺のこと嫌いですか?」
その質問に、頭が真っ白になる。嫌い? そんなわけない。好きだ。好きだから、怖いんだ。失うのが、怖いんだ。なのに、口が動かない。一ノ瀬の目が、雪の光に濡れて、キラキラと輝く。
「…嫌い、じゃない」
ポロッと本音が零れる。一ノ瀬の顔が、一瞬明るくなる。でも、俺は続ける。
「でも、俺は…お前を傷つけるかもしれない。俺はダメな奴だから」
声が、掠れる。雪が、窓の外で静かに積もる。一ノ瀬は、俺の手を強く握る。その力が、まるで俺の心を掴むようだ。
「先輩がダメでも、俺には関係ない。俺、先輩の全部が好きだから。可愛い先輩も、寂しそう先輩も、傷ついてる先輩も、全部。俺だって一人だから。先輩と一緒なら怖くない」
その言葉に、涙がこぼれる。雪の光が、俺の視界をぼやけさせる。一ノ瀬は、俺の頬にそっと触れる。冷たいのに、温かい。その感触に、俺の心が、初めて崩れる。怖い。なのに、逃げられない。


二月、雪が溶け始め、校庭の地面に泥濘が広がっていた。俺はまだ一ノ瀬を避けていたが、ある日、校舎裏の物置小屋の近くで、意外な光景を見た。一ノ瀬と亮太が、向かい合って立っていた。夕陽が二人の影を長く伸ばし、まるで夜明けと夕暮れが交錯するような、不思議な空気が漂っていた。
「神内先輩」
一ノ瀬の声は、いつもより低く、静かだった。亮太は腕を組み、目を細めて一ノ瀬を見つめる。その視線には、警戒と、どこか諦めのような色があった。
「ああ。お前か。怜の…後輩」
亮太の声は、どこか苦しげだ。一ノ瀬は軽く頷き、マフラーを指でいじる。夕陽が、彼の黒髪に赤い光を投げかける。まるで、夜明けの赤みが彼を包むように。
「俺、初瀬先輩のこと、好きです。大事にします」
一ノ瀬の言葉は、ストレートだった。亮太の目が、一瞬揺れる。でも、彼は小さく息をつき、視線を地面に落とす。
「…知ってる。怜が避けてるのも、お前のせいじゃない。俺のせいだ」
亮太の声が、掠れる。一ノ瀬は眉を寄せ、亮太を見つめる。夕陽が、物置小屋の錆びた屋根に反射し、鈍い光を放つ。
「怜の弟のこと…俺は知らなかった。あの日、俺が別れようなんて言わなきゃ、怜は…。俺は怜を傷つけたことずっと後悔してた」
亮太の言葉に、一ノ瀬の目が鋭くなる。でも、その目は、怒りじゃなく、どこか理解するような光を帯びていた。
「神内先輩、先輩の傷は俺が癒します。俺、先輩の夜明けになりたいんです」
一ノ瀬の声は、静かだけど、強い。亮太は一瞬目を閉じ、ゆっくり頷く。夕陽が、彼の顔に深い影を刻む。
「…お前ならできるかもしれない、な。俺にはできなかったことだ。怜のこと…頼む」
亮太の声は、震えていた。彼は一ノ瀬の肩を軽く叩き、校舎の奥に消えていく。その背中は、どこか軽やかだった。まるで、彼自身が夜明けを迎えたように。一ノ瀬は、亮太の背中を見送り、静かに息をつく。夕陽が、彼の艶やかな髪を染め、まるで夕陽が、太陽が彼を包むようだった。