冬が街を静かに包み込んでいた。十二月の終業式の日、校舎の窓の外では、冷たい風が裸木の枝を震わせ、どんよりとした灰色の空に雪の気配が漂う。校庭のグラウンドは霜に覆われ、朝の光が白く反射して、薄いガラス細工のように儚く輝いていた。教室の中は、期末考査を終えた解放感と冬休みの期待でざわめいている。俺は机に頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めていた。金木犀の甘い香りは遠い秋の記憶となり、今はただ冷たい空気が肺を満たす。心のどこかで、過去の傷が疼く。
「初瀬先輩!」
その声に胸がドキリとする。教室の後ろの扉が勢いよく開き、聞き慣れた甘い声が響いた。一ノ瀬櫂人。マフラーを首に巻き、制服のネクタイを少し緩めた姿は、まるで冬のモノクロの風景に鮮やかな色を添える絵の具のようだ。黒髪が冷たい風に揺れ、頬がほのかに赤い。教室に残っていた数人のクラスメイトがチラリと振り返り、女子の何人かが小さくざわめく。彼の美貌は、いつ見ても現実離れしている。
「…何か用?」
俺は慌てて姿勢を正し、動揺を隠そうと咳払いをする。一ノ瀬はそんな俺を見て、くすっと笑う。いつもの、意地悪で、でもどこか優しい笑顔。鞄を肩にかけ、俺の机に片手をついて身を乗り出してくる。近い。息が詰まるほど近い。冬の陽光が彼の涼やかな瞳に反射し、星屑が散ったようにキラキラと輝く。
「先輩、冬休みですよ! デートしましょう!」
「デートって…えっ?」
一ノ瀬の声は、まるで温かいミルクティーのように甘く、俺の凍りついた心をそっと溶かす。だが、その瞳の奥には、いつものように何か企むような光がチラリと見える。
「固いなぁ、先輩」
一ノ瀬はそう言うと、俺の机に腰を下ろす。まるで自分の部屋にいるみたいに自然な仕草で、俺のノートをパラパラとめくり始める。細い指が、教科書の端を軽く撫でる動きに、なぜか目が吸い寄せられる。やばい。こいつのペースに飲まれる。冬の光が教室の窓から差し込み、机の表面に淡い影を落とす。外では、風が枯れ葉を巻き上げ、カサカサと小さな音を立てていた。
「一緒に帰りましょうよ。いいでしょ?」
「はぁ…」
一ノ瀬はそんな俺の反応を面白がるように、ニヤリと笑う。窓の外で、遠くの校庭の木々が風に揺れ、まるで冬を待つように静かに佇んでいる。
「そう、デート。クリスマスのイルミネーション、見たことあります?駅前の公園、めっちゃ綺麗らしいですよ」
「イルミネーション?」
心臓が、ドクンと跳ねる。まさか。いや、待て。イルミネーションなんてカップルしか居ないんじゃないか。頭の中で警報が鳴り響くけど、一ノ瀬の視線に捕らわれて、言葉が喉に詰まる。イルミネーションの光を想像すると、なぜか一ノ瀬の瞳と重なる。あの、俺の心の奥を覗き込むような、キラキラした瞳。
「な、なんで俺と…」
「先輩と一緒に見たいからですよ。ダメですか?」
一ノ瀬の声が、急に低くなる。言葉が深く、柔らかく、俺の心に直接流れ込む。ダメ、じゃないけど。いや、ダメだろ。こんなの、怖い。でも、一ノ瀬の笑顔が、俺の心の鍵を一つずつ開けていく。怖いのに、どこか温かい。窓の外で、風が一瞬強く吹き、窓ガラスを小さく震わせる。
「……別に、ダメじゃないけど」
ポロッと本音が零れる。何がしたいんだろうと思うけど、一ノ瀬の顔がパッと明るくなる。まるで夏の空に花火が咲いたみたいに、満面の笑みを浮かべる。陽光が彼の黒髪に当たり、柔らかな光の輪を作る。まるで、彼を中心に世界が夜明けを迎えたみたいだ。
「じゃあ、決まりですね。来週、駅前で待ち合わせで。絶対来てくださいね、先輩!」
「えっ?」
「楽しみにしてますね!じゃあまた後で」
一ノ瀬はそう言うと、俺の肩をポンと叩き、軽やかな足取りで教室を出ていく。その背中を見ながら、俺は呆然と立ち尽くす。イルミネーション。デート。頭の中がぐちゃぐちゃだ。カバンの中の封筒、「先輩のことが知りたい」というあの言葉が、また頭をよぎる。やばい。完全に、こいつのペースだ。窓の外では、夜の訪れを知らせるように冬の陽がゆっくりと沈み、薄いオレンジ色の光が校庭を染めていた。
翌週、約束の時間。駅前の広場は、クリスマスのイルミネーションで幻想的に彩られていた。色とりどりの光が、まるで星が地上に降り注いだようにきらめき、冬の冷たい空気を温かく包み込む。赤、青、金色の光が交錯し、巨大なクリスマスツリーが広場の中心で輝いている。ツリーの頂上には、星形のライトがきらきらと瞬いていた。人の波がざわめき、カップルの笑い声や子供たちの歓声が響き合う中、俺はコートの襟を立て、そわそわしながら一ノ瀬を待っていた。吐く息が白く、冷たい空気に溶ける。なんでこんなことになったんだ。心臓がうるさい。逃げ出したいのに、足が動かない。イルミネーションの光が、俺の影を長く伸ばし、心の揺れを映し出すようだ。広場の地面には、光の反射が揺れ、まるで星の海を歩いているみたいだった。
「先輩」
その声に、振り返る。そこには一ノ瀬がいた。黒いコートに青いマフラー、息を切らしながら走ってくる姿は、冬の夜に咲く花のようだ。イルミネーションの光が彼の黒髪に反射し、頬をほのかに赤く染める。息が白く、冷たい空気に溶けていく。曙光が暗闇を裂く瞬間のような、鮮やかな存在感。
「すいません、遅刻です」
一ノ瀬は笑いながら言うけど、その目は俺をまっすぐ捉える。いつもみたいに、逃げ場を許さない視線だ。イルミネーションの光が彼の瞳に映り、まるで小さなランプが宿っているようだ。
「…全然遅くないよ。俺も今来たところだし」
嘘だ。三十分前からここで待ってた。コートのポケットに手を突っ込み、動揺を隠そうとするけど、一ノ瀬はそんな俺の嘘を見透かしたように、くすっと笑う。
「じゃ、行きましょうか」
彼はそう言うと、俺の手をさっと掴む。その温もりに、ドキッとする。冷たい指先が、俺の手を包み込む。離そうとするけど、一ノ瀬の握る力が強くて、結局そのまま引っ張られるように歩き出す。イルミネーションの光が、俺たちの周りを幻想的に照らす。ツリーの光が、まるで夜明けの空を模したように、柔らかく、力強く輝いている。遠くで、クリスマスキャロルのメロディーが流れ、夜の空気に溶け込む。
「先輩、綺麗ですね」
俺はついその笑顔に釣られて、ツリーを見上げる。確かに、綺麗だ。光の粒がキラキラと揺れ、冬の夜を温かく彩っている。でも、俺の目は、ツリーよりも一ノ瀬の横顔に吸い寄せられる。イルミネーションの光が、彼の瞳に反射して灯りが宿っているみたいだ。やばい。こんなの、反則だろ。
「…うん、綺麗だな」
小さく呟くと、一ノ瀬が振り返る。その笑顔が、俺の心をまた揺さぶる。
「俺は先輩の方が綺麗だと思いますけどね」
「は!?」
急に何だよ、そのセリフ。顔が熱くなる。コートの襟で隠そうとするけど、一ノ瀬の視線が俺を逃がさない。まるで、俺の心を全部見透かしてるみたいだ。ツリーの光が、俺たちの間に柔らかな光の帯を作る。
「先輩は…俺がなんで先輩のこと好きになったか、知りたいですか?」
一ノ瀬の声が、急に低くなる。真夜中の静寂に響く囁きのようだ。俺はドキリとして、彼の瞳を見つめる。そこには、いつもの遊び心とは違う、真剣な光があった。
「…な、なんだよ、急に」
「初めて先輩を見たとき、思ったんです。めっちゃ淋しそうって」
一ノ瀬はそう言うと、軽く首をかしげる。イルミネーションの光が、彼の黒髪に柔らかな輝きを添える。
「去年の春、入学式の日。校庭で先輩が一人で桜の木の下に立ってた。みんなが笑って騒いでる中、先輩だけ、遠い目をしてた。罪悪感…みたいな。俺はそんな先輩を放っておけなかった」
彼の言葉に、胸が締め付けられる。あの春、俺は確かに一人だった。弟のことを思い出し、亮太との別れをまだ引きずっていて、心が凍りついたままだった。一ノ瀬は、そんな俺を見てたのか。
「俺も昔、寂しかったんです。小さい頃、親が離婚して、その後再婚して。途中までは良かったんですけど弟と妹が生まれてからそっちにかかりっきり。俺はいつも一人でした。友達もあんまりいなくて、窓の外見て、誰かが来てくれるの待ってるみたいな…そんな感じ。先輩のあの顔が昔の自分みたいだった。だから、初めて見たとき思ったんです。先輩の寂しさを俺が埋めたいって」
一ノ瀬の声が、掠れる。まるで、昔の自分を思い出したように。彼の瞳が、イルミネーションの光に濡れて、キラキラと輝く。俺の心臓が、うるさいくらいに鳴る。寂しそう、だって? そんな理由で、俺に…?そんな一ノ瀬が、俺を見て、俺を…。
「それで、話しかけたかったけどタイミング逃して。先輩の名前もクラスも調べて。で、秋になって、靴箱に封筒入れたんです。緊張したけど、先輩の反応があまりにも可愛かったから、もっと知りたくなった」
一ノ瀬はくすっと笑うけど、その目は真剣だ。俺の心臓が、うるさいくらいに鳴る。そんな理由で、俺に…?
「だから、俺、先輩のこと、絶対離さない。儚くて今にも消えそうだった先輩を失いたくないから」
その言葉に、目が熱くなる。怖い。こんな風に誰かに必要とされるのが、怖い。でも、一ノ瀬の瞳は夜明けの光みたいに、俺の心を照らす。イルミネーションの光が、俺たちの間に新しい関係を予感させる。
「先輩、めっちゃ赤いですよ。寒いんですか?」
一ノ瀬はそう言うと、首に巻いていたマフラーをスルリとほどき、俺の首に巻きつけてくる。その動きが自然すぎて、抵抗する間もない。マフラーには一ノ瀬の匂いが染みついていて、甘くて、どこか懐かしい。秋を思い出すような、温かい香り。頭がクラクラする。
「ちょ、待てって…!」
「あったかいですよ。ほら、風邪ひかないようにちゃんと巻いててくださいね」
一ノ瀬はにっこりと笑う。俺は言葉を失い、ただマフラーを握りしめる。心臓が、うるさいくらいに鳴ってる。広場の端にあるベンチに腰を下ろし、ホットチョコレートを手に持つ。紙カップから立ち上る湯気が、冷たい空気に白く溶ける。指先を温めながら、俺は一ノ瀬の横顔をチラリと見る。彼はイルミネーションを眺めながら、満足げに微笑んでいる。こんな穏やかな時間、いつぶりだろう。怖いのに、どこか安心する。こんな気持ち、忘れてた。
「一ノ瀬」
俺の声に、一ノ瀬が振り返る。俺の口が、勝手に動く。
「俺のこと…聞いてくれる?」
一ノ瀬の目が、キラリと光る。まるで、俺の言葉を待っていたみたいに。イルミネーションの光が、彼の黒髪に柔らかな輝きを添える。まるで、夜明けの空に浮かぶ星のようだ。
「もちろん。先輩の全てを受け止めてみせますよ」
その言葉に、胸が締め付けられる。怖い。全部話したら、一ノ瀬が離れていくかもしれない。でも、このまま閉ざしてても、何も変わらない。俺は深呼吸して、ゆっくり口を開く。イルミネーションの光が、俺の心の闇をそっと照らす。
あの日も、寒い冬だった。
淡雪が降り積もる、冷たい夜。俺には、病弱な弟がいた。幼い頃から病院が第二の家だった。点滴のチューブ、モニターの電子音、消毒液の匂い。それが、弟の日常だった。それでも弟はいつも笑顔だった。ベッドの上で絵本を読みながら。
「兄ちゃん、いつか一緒にあそびにいこうね」
俺は笑って頷いた。いつか、って約束した。弟の小さな手が、絵本のページをめくるたびに、俺の心に小さな光が灯った。大切でかけがえのない存在だった。
退院してしばらく経った。その日、弟の体調がやっと落ち着いて、両親は数年ぶりに外出していた。久しぶりに見る母の笑顔が柔らかかった。
「怜、頼んだよ」
俺は頷いた。薬の時間や体温チェックも忘れないと約束した。部屋で数学の問題集を解きながら、時々弟の部屋を覗きに行った。弟はベッドで絵本を読んでいて、俺に小さく笑いかける。
「兄ちゃん、勉強ばっかだね」
その笑顔が、俺の心を温めた。いつもそうだった。弟は、俺の光だった。
「兄ちゃんはすごいなぁ」
「凄くないよ」
「兄ちゃんはこの本に出てくるヒーローみたい」
そう言って無邪気に笑う。雪が窓の外で舞い、部屋の明かりが弟の小さな手を照らしていた。温かい光。その時、携帯が鳴った。亮太からのメール。
「今から会える?」
その頃亮太とは、付き合って半年程経っていた。喧嘩が続いて、最近はギクシャクしていた。亮太の笑顔が、昔みたいに晴れやかじゃなくなっていた。関係を修復したくて、俺は「会える」と返事をした。弟は大丈夫そうだった。
「ごめん、兄ちゃんしばらく出るからな。何かあったら電話して」
「いってらっしゃい、兄ちゃん。兄ちゃんなら大丈夫だよ」
少しだけ、なら…。その決断が甘かった。
コートを羽織り、雪が降る中、公園に向かった。雪が靴に積もり、足元が冷たくなる。街灯の光が、雪に反射してぼんやりと揺れていた。公園のベンチで待っていた亮太は、いつもと違って暗い顔をしていた。雪が彼の肩に積もり、白い息が冷たい空気に溶ける。
「別れよう」
突然の言葉に、頭が真っ白になった。理由を聞くと、親にバレて、縁を切ると脅された、と。亮太の声は震えていたけど、目は冷たかった。
「ごめん、怜。俺は親に逆らえない」
って。俺は叫んだ。嫌だ、なんで、って。でも、亮太は折れなかった。
「またな」
それだけを残して去っていった。雪が、俺の肩にも積もる。心が、凍りつくように痛かった。絶望が、胸を締め付ける。公園の街灯が、雪に反射してぼんやり光っていた。きらりと光を反射して綺麗な雪。だけど触ってみればただ冷たいだけだ。零れ落ちる涙がコートに小さな染みを作っていた。
どれだけ時間が経ったか分からない。やっとのことで家に帰ると、弟の様子が急変していた。熱が上がり、息が荒い。慌てて救急車を呼び、両親に電話した。病院に着く頃には、弟はもう息を引き取っていた。医者は言った。
「末期だった。仕方なかった」
両親も、俺を責めなかった。でも、俺には関係なかった。俺が家にいれば、気づけたかもしれない。俺が自分のことじゃなくて弟のことを優先していれば…。弟の最後の言葉が頭から離れない。
「兄ちゃん、いつか一緒に…」
って。あの約束を、俺は守れなかった。
その後、中学は地獄だった。亮太との別れを目撃したクラスメイトが、動画を撮ってSNSにばらまいた。「初瀬怜、男にフラれたwww」って。笑いものだった。教室の視線が、冷たく刺さる。誰も近づかない。友達は消え、俺は孤立した。ずっとひとりぼっちだった。亮太は、弟が死んだ日が別れを告げた日だと知らない。俺も、言わなかった。全部、俺が背負うべきだと思った。罪悪感が、心に重くのしかかる。もう、誰も愛さない。そう誓った。雪の夜、俺の心は太陽を失った。
話してる間、俺は一ノ瀬の顔を見れなかった。視線を地面に落とし、ホットチョコレートの紙カップを握り潰しそうになる。イルミネーションの光が、広場の地面に揺れる。遠くで、クリスマスキャロルのメロディーが流れ、夜の空気に溶け込む。一ノ瀬は、黙って聞いてた。やっと顔を上げると、彼の目が、俺をまっすぐ捉える。そこには、怒りも、哀れみもなかった。ただ、静かな、強い光があった。まるで、夜明けの空に浮かぶ星のようだ。
「先輩」
一ノ瀬の声は、低くて、優しい。まるで、俺の傷をそっと包むみたいに。イルミネーションの光が、彼の黒髪に柔らかな輝きを添える。
「俺、初めて分かった。先輩が『失いたくない』って言った意味。俺も昔、似たような気持ちだったから。誰も俺のことを見てなかった時、夜が永遠に続くみたいに感じた。でも先輩の寂しさは、俺が埋める。俺が先輩の頼れる場所になりたい。先輩のことが好きだから」
その言葉に、目が熱くなる。好き、だって? こんな俺を? 一ノ瀬も淋しい過去を背負っている。それなのに、俺を…。怖い。こんな風に誰かに必要とされるのが、怖い。でも、一ノ瀬の瞳は、まるで夜明けの光みたいに、俺の心を照らす。イルミネーションの光が、俺たちの間に新しい季節を予感させる。
「ごめん」
俺の声は、震えてた。一ノ瀬の顔が、一瞬曇る。でも、俺は続ける。
「俺…まだ、怖いんだ。愛するってことが。また失うのが、怖い」
一ノ瀬は、黙って俺を見つめる。そして、ゆっくり、俺の手を強く握る。イルミネーションの光が、彼の瞳に反射して、まるで夜明けの星が瞬くようだ。
「じゃあ、俺が先輩の怖さを全部受け止める。離れないよ。絶対」
その言葉に、涙がこぼれる。イルミネーションの光が、俺の視界をぼやけさせる。一ノ瀬は、そっと俺の頬に触れる。冷たいのに、温かい。その感触に、俺の心が、初めて軽くなる気がした。ツリーの光が、まるで夜明けの空を模したように、俺たちの周りを優しく包む。
「でも、俺じゃなくて、お前には」
「どうして聞いてくれないんですか、先輩!」
一ノ瀬が語気を強める。
「俺は…先輩のことが好きなのに。なんで他の人と」
「お前はいい男だよ。俺もそう思う」
ぽたり。涙が落ちた。
「それなら俺と」
「だから駄目なんだよ」
その言葉が、広場のクリスマスの喧騒の中で、鉛のように重く響いた。一ノ瀬の顔から、一瞬にして光が消える。彼の涼やかな瞳が、冷たい冬の夜の闇を映したように深く沈んだ。握られた俺の手の力が、さらに強くなる。痛いほどの力で、まるで俺が本当に消えてしまうのを恐れているかのようだ。
「……意味、わかんないですよ、先輩」
一ノ瀬の声は、今度は震えていなかった。低く、しかし鋭い刃物のように俺に突き刺さる。イルミネーションの光が、ベンチの上の俺たちを鮮やかに照らしているのに、その光の届かない場所で、一ノ瀬の心が凍りついたのが分かった。
「俺は、先輩の過去を聞きました。弟さんのことも、亮太さんのことも。全部。それなのに、どうして『駄目』なんですか?俺が先輩を、その寂しさごと受け止めたいって言ってるのに!」
「そうじゃない……」
俺は顔を覆いたかった。俺を見つめる一ノ瀬の真剣な瞳が、俺の心の底にある卑屈な自己否定を炙り出す。こいつは、俺の過去を否定しなかった。哀れみも、拒絶もしなかった。ただ、受け止める、と言った。それが、俺には一番怖かった。
「お前は、俺なんかに構わなくていいんだ。俺といると、お前まで不幸になる。俺は、誰かを……愛した途端に、失う。それが怖いんじゃない。俺が失わせるんだ。弟も、亮太も……俺が間違った選択をしたせいで……」
声が掠れる。過去の罪悪感が、雪崩のように俺の心に押し寄せてくる。公園で亮太に別れを告げられた日、家に帰るのが遅れたあの数時間。あの時の雪の冷たさが、今も俺の魂にこびりついている。
「俺は、お前の優しさに甘えられない。お前はもっと真っ当な幸せを掴むべきだ。俺じゃ、ない」
俺の言葉は、一ノ瀬の決意を砕くための、最も冷酷で鋭い刃だった。もう誰も、この罪の連鎖に巻き込みたくない。それが、俺に残された最後の倫理だと思った。
しかし、一ノ瀬は俺の手を離さなかった。
「ふざけないでください」
彼は、初めて俺に怒りを見せた。その声は、広場のざわめきをも貫くほど強い。
「誰のせいで失うとか、そんなの関係ないでしょう!先輩は、自分を罰したいだけだ。自分を傷つけて、誰も近づけないように、壁を作ってる!」
一ノ瀬は立ち上がり、ベンチに座る俺を見下ろす。彼のコートの裾が、イルミネーションの光で揺れる。
「俺も一人でした。誰にも見てもらえなかった。でも、俺は先輩のことを見つけた。それは、俺の過去に似てたからじゃない。ただ、その顔が、ずっと俺の頭から離れなかったからです。俺は、その感情の理由を知っても、引いたりなんかしない」
彼は、俺の首に巻かれた自分のマフラーに触れた。温かい、彼の匂いのするマフラー。
「失うのが怖いなら、俺が絶対に離れないと証明するまで、ずっとここにいます。俺は、先輩の頼れる場所になりたいって言った。それは、先輩が背負ってるものを、俺が一緒に背負うってことです」
一ノ瀬は、再び俺の隣に腰を下ろす。そして、俺が握り潰しそうになっていた紙カップから手を離させ、俺の冷たい指を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「俺は、完璧な先輩じゃなくて、傷だらけで、自分を罰してる、今の初瀬先輩が好きなんです。先輩の寂しさを埋められるのは、俺だけだと信じている。この気持ちは、先輩の過去とか、誰かへの罪悪感なんかで、消えるほど安っぽくない」
彼の指の温もりが、冷え切った俺の指先に、そして心に、ゆっくりと染み込んでいく。イルミネーションの光が、俺のぼやけた視界を優しく照らす。
「俺の気持ちは、命令じゃない。でも、先輩に選択肢はない。だって、先輩はもう、俺のマフラー、巻いちゃったでしょう?」
一ノ瀬は意地悪く、そして優しく微笑んだ。その笑顔は、冬の夜に凍えそうだった俺の心を、強引に、しかし確実に温めていく。俺の心の壁に、ひびが入った音がした。そのひびから、温かい、そして怖い光が差し込む。
「……一ノ瀬」
俺は、絞り出すように呟いた。一ノ瀬は、返事をしなかった。ただ、俺の目をじっと見つめ、その瞳の奥で、夜明けの星がキラキラと輝いていた。
駅前のイルミネーションは、消えることなく、夜空の下で輝き続けている。二人の間に、まだ言葉による「答え」はなかった。けれど、一ノ瀬の温もりが初めて冬の長い闇から連れ出そうとしていた。それは、怖い旅の始まりであると同時に、失われた温かさを取り戻すための、最初の一歩でもあった。

