封筒のメッセージが、頭の中で何度も反芻される。「先輩のことが知りたい」。たったそれだけの言葉なのに。小さな石が湖面に投げ込まれたみたいに、俺の心に波紋が広がり続けていた。
翌日の図書館。昼休み、静かな空間に本のページをめくる音だけが響く。俺はいつものように窓際の席で数学の参考書を広げていた。集中しようとすればするほど、昨日のことが頭をよぎる。一ノ瀬の声、視線、封筒。あの甘い香り。あいつの言葉が、まるで呪いみたいに俺の頭にこびりついている。
「初瀬先輩、勉強熱心ですね」
突然の声に、ペンが手から滑り落ちる。顔を上げると、そこにはやっぱり一ノ瀬がいた。制服のシャツの袖をまくり、右手にスクールバッグ、左手に文庫本を持っている。笑顔は昨日と同じ、どこか意地悪で、でもどこか優しい。
「…お前、なんでここに?」
声が少し震えた。隠したかったのに。一ノ瀬はまるでそれを見透かしたように、くすっと笑って隣の席に腰を下ろす。近い。やっぱり近い。
「偶然ですよ?」
「嘘つけ」
思わず口をついて出た言葉に、一ノ瀬は目を細めて笑う。その笑顔が眩しい。俺は慌てて視線を参考書に戻したが文字が頭に入ってこない。
「で、封筒、どうしました?」
一ノ瀬の声が、まるで囁くように低くなる。俺の手がピクリと動く。封筒は今、鞄の底にしまってある。開けた瞬間から、何かが変わりそうな気がして、昨夜は結局一睡もできなかった。
「…別に。捨てた」
嘘だ。自分でもバレバレだとわかってる。一ノ瀬はそんな俺をじっと見つめて、ゆっくり首をかしげる。
「ふーん。捨てた、か。もったいない」
その言葉に、俺の心臓がまた跳ねる。もったいない、って何だよ。まさか、本当にあいつが…?
「じゃあ今度は百通書いておきますね」
「え?」
眩しすぎて目を細めてしまう程の満面の笑み。
「靴箱入るかな…ロッカーの方がいいか?」
一人ブツブツと呟く姿は不審極まりない。
「じゃあ俺勉強するから…」
「なら俺も隣でやります」
床に置かれていたスクールバッグの中から教科書、問題集、ノート、筆箱を手早く取り出す。
「いや、でも、」
「駄目ですか?」
一ノ瀬の真っ直ぐな瞳が、俺の胸を突き刺す。澄んだ空を映したような、透き通ったその目は、逃げ場を許さない。図書館の静寂の中で、彼の声はまるで小さな波のように俺の心に広がる。甘く、柔らかく、でもどこか危険な響きを持っている。
「…別に、駄目じゃないけど…」
俺の声は、思った以上に小さく、かすれてしまう。自分でも情けないと思うけど、一ノ瀬の視線に捕らわれたら、言葉なんてまともに紡げない。彼はそんな俺の反応を面白がるように、くすっと笑うと、椅子を少しだけ俺の方に寄せてくる。距離がまた縮まる。ほんの数センチの差なのに、空気が濃密になったみたいだ。窓から差し込む秋の陽光が、彼の黒髪に柔らかい光の輪を作り、その横顔を一層際立たせる。まるで絵画の中にいるみたいだ、なんてバカみたいなことを考えてしまう。
「先輩、顔、めっちゃ赤いですよ」
一ノ瀬が囁くように言う。声は低く、まるで秘密を共有するような甘さを含んでいる。俺は慌てて頬に手をやるけど、熱くてどうしようもない。やばい、こいつのペースに完全に飲まれてる。
「う、うるさいって。暑いだけだから」
嘘だ。図書館の空調はバッチリ効いてるし、窓から入る風だって涼しい。一ノ瀬はそんな俺の言い訳を、まるで子猫がじゃれるのを見るような目で見つめ返す。やめてくれ、その目は反則だ。
「ほんとですか?」
彼はわざとらしく首をかしげ、俺の手元に置かれた参考書に視線を落とす。そしていきなり、俺の持っていたペンをスッと取り上げ、指の間でくるくると回し始めた。細い指が、まるでダンスでもするように軽やかに動く。その動きに、つい目が吸い寄せられる。
「先輩、これ数学ですよね。俺、数学得意なんで、教えてあげましょうか?」
「いや、いい。自分でできるから」
即答したけど、心臓はまだドクドクしてる。一ノ瀬はそんな俺の拒絶を全く気にしてないみたいに、ニヤリと笑って、参考書を覗き込むように顔を近づけてくる。近い、近いって! 彼の髪が少しだけ俺の頬をかすめて、ふわっとあの香りが漂う。いや、こいつのシャンプーか何かか? 頭がクラクラする。
「ほんと頑固ですよね、先輩。でも、そういうとこ嫌いじゃないです」
彼の言葉に、俺の心が一瞬止まる。嫌いじゃない、って何だよ。さらっとそんなこと言うなよ。俺は慌てて参考書に目を落とすけど、文字が全部踊ってるみたいで頭に入ってこない。一ノ瀬はそんな俺をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばしてくる。時間がスローモーションになったみたいに、彼の指が俺の手の甲に触れる。冷たくて、でもどこか温かい感触。ゾクッと背筋が震える。
「先輩。俺のこと、嫌い?」
急に真剣な声。さっきまでの遊び心が消えて、彼の瞳が俺をまっすぐ捉える。その目は、まるで俺の心の奥底まで見透かすみたいだ。嫌い? そんなわけない。嫌いじゃないけど、でも、怖いんだ。こんな風に誰かに近づかれるのが、こんな風に心が揺さぶられるのが。だって、また失うかもしれないから。
「…嫌いじゃない」
ポロッと本音が零れる。しまった、と思うけど、もう遅い。一ノ瀬の顔がパッと明るくなる。まるで真っ暗な闇に花火が咲いたみたいに、満面の笑みを浮かべる。そして、突然、俺の手をぎゅっと握ってくる。
「え、ちょ、待っ」
「よかった! じゃあ、これからもこうやって一緒に勉強してもいいですよね?」
彼の笑顔は、まるで子供みたいに無邪気で、でもどこか計算ずくの狡猾さも感じる。握られた手の熱が、俺の全身に広がっていく。ドキドキが止まらない。図書館の静かな空気が、まるで二人だけの世界を包み込むように濃密になる。窓の外では、秋の風が金木犀の枝を揺らし、甘い香りがそっと漂ってくる。その瞬間、図書館の入り口で誰かの視線を感じた。振り返ると、そこには神内亮太が立っていた。俺の古い友人で、元恋人。鋭い目で俺と一ノ瀬を見つめるその表情は、まるで氷のように冷たかった。亮太の視線は、一ノ瀬の手と俺の手が繋がれているところに釘付けになっている。胸がチクリと痛む。あいつ、なんでそんな目で。
「怜」
亮太の声が、低く響く。柔らかな俺達の雰囲氣を切り裂くような、硬い声。一ノ瀬は亮太の方をチラリと見るけど、俺の手を離さない。むしろ、ちょっとだけ強く握ってくる。その仕草に、俺の心がまた揺れる。
「亮太…」
俺が名前を呼ぶと、亮太は一瞬目を細め、唇をきつく結ぶ。そして、まるで何かを堪えるように視線を逸らし、図書館の奥へと消えていく。その背中が、いつもより遠く感じた。
「先輩、誰ですか? あの人」
一ノ瀬の声が、俺の耳元で囁く。さっきまでの無邪気さが少し薄れて、どこか探るような響きがある。俺は一ノ瀬の手をそっと振りほどき、参考書を閉じる。「…ただの、友達」
嘘じゃないけど、全部でもない。一ノ瀬は俺の顔をじっと見つめ、軽く首をかしげるけど、それ以上は追及してこなかった。ただ、微笑んだまま、こう呟いた。「…友達、ね」
その言葉に、また心がざわつく。まるで一ノ瀬の声が、俺の心の鍵を一つずつ開けていくみたいだ。怖いのに、どこか期待してしまう自分がいる。秋の陽光が、図書館の窓から差し込み、俺たちの間に柔らかな光の帯を作る。一ノ瀬の瞳が、キラキラと輝く。
「次はもっと近くで話したいな、先輩」
彼の甘い声が、俺の心にそっと忍び込む。まるで金木犀の香りが、秋の風に乗って永遠に漂うように。
放課後、俺は一人で屋上の踊り場に座っていた。手に持っているのは、あの封筒。開けた後、捨てられずにカバンの底にしまっていたもの。
「先輩のことが知りたい」。シンプルな言葉が、俺の心にまだ波紋を広げ続けている。一ノ瀬の声、視線、笑顔。あいつの存在が、俺の日常を少しずつ変えていく。怖いのに、どこか温かい。
「怜」
低い声に、ハッと顔を上げる。そこには神内亮太が立っていた。夕陽が彼の背に差し込み、逆光で表情がよく見えない。反射的に封筒をカバンに押し込む。
「…亮太。どうしたんだよ」
亮太は一瞬黙り、隣に腰を下ろす。いつもなら軽口を叩いたり、昔話で笑ったりする仲なのに、今日は空気が重い。亮太の視線が、俺の手元に落ちる。鞄のファスナーが半分開いたままだ。封筒の白い角がわずかに覗いている。
「さっきの一年生。何?」
その声は、まるで氷のように冷たい。一瞬言葉に詰まる。一ノ瀬のことをどう説明すればいい? ただの後輩? 言葉を選ぶ間、亮太の視線が俺を突き刺す。
「…ただの後輩だよ。なんか、絡んできてさ」
嘘じゃないけど、全部じゃない。亮太はそんな俺の言葉に、軽く鼻で笑う。
「絡んでくる?何言ってんだよ、怜」
「亮太、なんでそんな、」
「お前さ」
亮太の言葉が俺の言葉を遮る。夕陽に照らされる彼の目は心の奥を見ようとするように鋭い。
「また、傷つくようなことすんなよ。もう十分だろ」
その言葉に胸が締め付けられる。亮太の声には、怒りと、どこか心配するような響きがあった。俺の過去を知る亮太だからこその言葉。でも、その言葉が心をさらに重くする。一ノ瀬の笑顔が頭をよぎる。あいつのまっすぐな瞳が、俺の閉ざされた心をこじ開けようとしている。それが、怖いのに、どこか嬉しい。そんな気持ちは忘れなきゃいけない。
「…わかってるよ」
小さく答える。亮太はそれ以上何も言わず、立ち上がって校舎の奥に消えていく。その背中を見ながら、俺は封筒を握りしめた。何かが変わる。そんな予感が、心を強く揺さぶる。秋の風が校舎の木々の香りを運んでくる。まるで一ノ瀬の存在そのものが、風に乗って俺の心に忍び込んでくるようだった。
翌日、体育の授業。朝の慌ただしさで体操服を忘れてしまった。まずい。学年全体での授業だから、他クラスの友達に借りることもできない。ロッカールームで一人焦っていると、聞き慣れた声が響く。
「先輩、どうしたんですか?」
振り返ると、一ノ瀬が立っていた。教科書を片手に持ち微笑む姿に一瞬ドキリとする。
「…お前、なんでここに」
「化学の実験ですよ。体操服、忘れたんですか?」
一ノ瀬の目が、まるで宝物を見つけるようにキラキラと輝く。ため息をつき、観念したように頷く。
「…うん。やらかした」
「じゃあ、俺の貸しますよ」
「え?いや、いいよ、他のやつに借りるし…」
はは、苦笑いを浮かべる。すると一ノ瀬はまるで何かが気に食わないとでもいうように軽く顔をしかめた。その表情が、妙に子供っぽくて、でもどこか愛らしい。そんな事を考える自分に驚いた。
「いいから、ほら」
一ノ瀬はそう言うと、俺に手を差し出した。彼の意図が分からず首を傾げていると、やれやれと言わんばかりに一ノ瀬が首を振る。
「俺の教室、行きますよ」
彼は強引に俺の手を掴むと早足で歩き出した。廊下を歩く間、彼の手の温もりが俺の指先にじんわりと伝わってくる。心臓がドクドクと鳴る。こんな些細なことで、なんでこんなに意識してしまうんだ。動揺を隠せないまま俺は引きずられるように一年生のフロアへ向かった。
「はい、どうぞ」
俺のものより一回り大きい体操服からは、ほのかに一ノ瀬の匂いがする。あの甘い香り。俺はつい顔を赤らめながら渋々受け取る。
「…サンキュ」
「どういたしまして、先輩」
一ノ瀬の笑顔に、また心臓が跳ねる。窓から吹き込む優しい風が彼の前髪を揺らした。映画のワンシーンみたいだ、と馬鹿なことを考えてしまう。
「じゃ、俺はこれで。体育頑張って下さいね!」
一ノ瀬は軽やかに去っていく。取り残された俺を我に返らせたのは、一限目を告げるチャイムの音だった。
体育の授業中、一ノ瀬の体操服を着ていると、クラスメイトにからかわれる。
「初瀬、なんか体操服大きくないか?」
そんな疑問に俺は顔を真っ赤にして否定する。視界の端で、亮太がじっとこっちを見ているのに気づいた。彼の表情は、いつもより硬い。どこかモヤっとした目で俺を見つめる亮太から目を逸らし、グラウンドの土を蹴って走り出す。心の中のざわめきを、汗と一緒に流したかった。
「げ…」
その日の放課後。雨は静かに、だが執拗に降り続き、校庭の隅に小さな水たまりを刻んでいた。濡れたアスファルトから立ち上る土の匂いが、遠くの金木犀の甘さをそっと運んでくる。俺は靴箱の前で立ち尽くし、空っぽのスペースを無表情で見つめた。傘がない。こんな日に限って。いつもなら、こんなミスはしないはずなのに。
「…ちっ」
と小さく舌打ちし、カバンを肩にかけ直す。濡れてもいい。どうせ誰も気にしない。校舎の出口へ向かう足音が、廊下に冷たく響く。生徒たちのざわめきは遠ざかり、雨の単調なリズムだけが耳に残る。感情を押し殺し、淡々と歩を進める。俺はずっとそうだ。過去の傷も、胸に刺さったままの言葉も、全部鍵をかけて閉じ込めてきた。
「初瀬先輩、ずぶ濡れになるつもりですか?」
その声で、足が止まる。振り返る前から分かっていた。一ノ瀬櫂人。あの、どこか現実離れした美貌と、まるで俺の心の隙間を覗き込むような目の持ち主。壁にもたれ、黒い傘を指で軽く揺らしながら、俺を見ている。黒髪が雨に濡れてわずかに乱れ、廊下の薄暗い光を吸い込むように輝く。彼の存在は、まるでこの灰色の世界に色を塗る絵の具のようだ。眩しすぎる。
「関係ないだろ」
俺は目を逸らし、淡々と答える。声に感情を乗せないよう、いつも以上に気を付ける。彼は小さく笑い、首を傾げる。
「関係ありますよ。だって、先輩が風邪ひいたら俺が困るんで。」
その軽やかな口調に、胸の奥で何かがチクリと刺さる。冗談めいた言葉なのに、なぜか俺の心の端を引っかく。無視して歩き出そうとするが、彼が一歩先に動く。傘が開く音が、静かな廊下に小さく響く。黒い布が広がり、雨の音を柔らかく遮る。
「一緒に帰りましょう、先輩」
彼はそう言うと、俺の返事を待たず、傘を掲げて近づいてくる。その動きは自然すぎて、まるで俺に選択肢がないかのようだ。
「大丈夫」
俺は一歩下がり、距離を取る。心臓が少し速く脈打つが、それを無視する。
「俺は平気だから」
「…先輩?」
一ノ瀬は目を細め、俺をじっと見つめる。その視線は、まるで俺の仮面の裏を覗き込むようだ。鋭いのに、どこか柔らかく、俺の心を無防備にさせる。
「でも俺は平気じゃないです」
彼の声は低く、雨の音に溶け込むように響く。俺は言葉を失い、ただその瞳を見つめる。黒曜石のような瞳が、俺の心の奥に隠したものを暴こうとする。嫌いじゃない。けど、危険だ。この距離、この空気。全部が、俺の築いた壁を揺さぶる。
「…そうか」
結局、俺はそう呟き、目を逸らして歩き出す。一ノ瀬は満足げに微笑み、俺の隣に並ぶ。傘の下、二人分のスペースは狭く、彼の肩が俺のに軽く触れる。その瞬間、胸の奥で何かが軋む。分からないけど、俺の理性を静かに侵食する。校門を出て、濡れた街を歩く。雨は銀の糸のように降り続き、街灯の光をぼんやりと反射する。俺たちは無言で歩くが、傘の縁から落ちる水滴の音と、足元の水たまりを踏む音が、妙に鮮明に耳に届く。一ノ瀬の存在が、すぐ隣であまりにも大きく感じる。肩の触れ合い、吐息の気配、かすかに揺れる黒髪。全部が、俺の心を乱す。
「先輩、俺、頼りないですか?」
彼が突然言う。声は軽いのに、どこか探るような響きがある。
「え?」
俺は顔を背けた。感情を見せないよう、いつも通りに。
「先輩の頼れる場所になりたいんです」
彼は少し笑いながら言うけど、その目は真剣だ。「俺、気になっちゃうんですよ。先輩のこと。」
その言葉に、胸が締め付けられる。カバンの中の封筒、「先輩のことが知りたい」というあの言葉が、頭の中で反響する。この距離も、視線も、全部計算ずくなのか? それとも…。考えるのをやめようと、俺は目を閉じ、雨の音に集中する。
「どうだろうね」
俺は低く呟き、歩調を速める。だが、一ノ瀬は離れない。傘を傾け、俺を雨から守るように寄り添ってくる。肩がまた触れる。心臓がうるさい。
「先輩、」
彼が囁くように言う。声が雨に溶け、まるで俺の心に直接流れ込むようだ。
「俺、諦め悪いんですよ。覚悟してくださいね」
俺は立ち止まる。雨の音が一瞬遠ざかり、彼の瞳が俺を捕らえる。そこには、からかうような軽さも、いつもの余裕もない。ただ、まっすぐな何かがある。俺の心の鍵を、静かに、だが確実にこじ開けようとする何か。怖い。けど、その視線に、俺の隠してきたものが少しずつ溶けていく。
「…どうして俺なんか、」
俺はそう呟き、視線を逸らす。声は低く、でもどこか震えている。一ノ瀬は小さく笑う。その笑顔は、雨に濡れた花びらのように、鮮やかで、儚い。
「初瀬先輩」
彼はただ微笑む。俺は答えずただ歩き出す。傘の下、二人だけの小さな世界で、雨の音と土の香りが俺たちを包む。一ノ瀬の温もりが、俺の心の壁をそっと叩き続ける。壊されるのが怖いのに、どこかでそれを望んでいる自分がいる。雨は降り続き、俺たちの足音は、秋の街に静かに響いた。
雨の帰り道から一週間後。空は高く澄み薄い雲がテーブルクロスのように地球を覆っている。始業式以来、俺の生活に一ノ瀬の存在がじわじわと染み込んできている。少しずつ、それでもどこかに追い詰められているような、そんな気がする。一ノ瀬櫂人。果たして彼の目的は何なのだろう。
一日の終了を告げるチャイムが鳴り喧騒が訪れる。疲れた。いつもなら真っ直ぐ自習室へ向かう。でも今日はあまり気が進まなかった。少しづつ生徒達の話し声が遠ざかる。窓から冷たい風が吹き込む。秋ももう終わりだ。ただ、冬の到来を静かに待っている。ギシ、ギシと廊下が軋む。綺麗に整えられた中庭。いつもなら誰も居ない場所、の筈だった。
冷たい風が頬を刺す。校舎裏の狭い通路に、落ち葉がカサカサと音を立てて転がる。夕陽が低く差し込み、地面に長く伸びた影が揺れる。俺はカバンを肩にかけ、校門に向かおうとしていたが、ふと聞こえた低い声に足を止めた。
「一ノ瀬、ちょっと話がある」
その声は、聞き慣れた亮太のものだった。硬く、どこか鋭い響き。俺は思わず物陰に身を隠し、息を潜める。視線の先には、神内亮太が立っていた。いつもは穏やかな彼の顔が、今はまるで氷のように冷たく、眉間に深い皺が刻まれている。その視線が向かう先には、一ノ瀬櫂人がいた。いつものように涼やかな笑みを浮かべているが、その目は鋭く、亮太を真っ直ぐに見据えている。
「何ですか、神内先輩?急に呼び出して」
一ノ瀬の声は軽やかだが、どこか挑戦的な響きがある。制服のネクタイを緩め、ポケットに手を突っ込んだまま、まるで亮太の威圧を意に介さないように立つ。夕陽が彼の黒髪に反射し、まるで星屑が散ったように輝く。俺の心臓が、ドクンと跳ねる。何だ、この空気。亮太は一瞬目を細め、唇をきつく結ぶ。風が彼の前髪を揺らし、普段は見せない硬い表情を際立たせる。
「怜のことだ。もうあいつに関わらないでくれ」
亮太の言葉は、まるで刃物のように鋭く、空気を切り裂く。一ノ瀬の笑みが一瞬薄れるが、すぐにいつもの余裕を取り戻す。首を軽く傾け、まるで亮太の言葉を吟味するようにゆっくりと答える。
「へえ、なんでですか? 神内先輩が決める事じゃないと思うんですけど」
その軽やかな口調に、俺の胸が締め付けられる。一ノ瀬のその言葉が俺の心に波紋を広げる。亮太の目が一瞬鋭くなり、拳を握りしめるのが見えた。
「…お前はあいつの過去を知ってるのか」
亮太の声は低く、どこか震えている。怒りか、悔やみか、それとも別の何かか。俺は物陰で息を殺し、動けない。亮太の言葉が、俺の胸に刺さる。俺の過去を、亮太は知っている。別れを、全部。だけど一ノ瀬は知らない。それなのに、なぜこんなに真っ直ぐに。
「知らないですよ。まだ、ね」
一ノ瀬はそう言うと、軽く肩をすくめる。その仕草はまるで子供のようで、でもその瞳は亮太を逃がさない。亮太が一歩近づき、声を低くする。
「何も知らないくせに、軽々しく近づくな。あいつは…もう充分に傷ついたんだ」
亮太の声には、怒りと共にどこか痛みを帯びた響きがあった。俺の心臓が、ぎゅっと締め付けられる。亮太、お前…。俺の過去を背負ってるつもりか? それとも、俺を傷つけた罪悪感か? 俺は唇を噛み、物陰で身を縮める。見ちゃいけない、聞いちゃいけない、と思うのに、足が動かない。一ノ瀬は亮太の言葉に、初めて笑みを消す。黒曜石のような瞳が、夕陽に照らされて一瞬鋭く光る。ゆっくりと、だが力強く、一ノ瀬が口を開く。
「神内先輩こそ、先輩の何を知ってるんですか?」
その言葉に、亮太の肩がピクリと動く。俺の胸も、まるでハンマーで叩かれたように震える。一ノ瀬は続ける。声は静かだが、まるで刃のように鋭い。
「先輩がどんな過去を抱えてても、俺には関係ない。俺は先輩の今が好きだから。傷ついてるなら、俺がそばにいる。それでいい」
一ノ瀬の言葉は、まるで俺の心の奥に直接響くようだった。好き、だって。関係ない、だって。俺の過去も、傷も、全部受け止めるって、そう言ってるのか? 俺の目が熱くなる。こんなこと初めてだ。怖いのに、胸の奥が温かくなる。どうして、こんな気持ちになるんだ。亮太は一瞬言葉を失い唇をきつく結ぶ。夕陽が彼の顔に影を落とし、表情が一層硬くなる。やがて、低く、吐き捨てるように言う。
「お前が怜を幸せにできるわけない。あいつは…立ち直れない」
その言葉に、俺の心が凍りつく。亮太、お前はまだ俺をそんな風に見てるのか? 立ち直れない、壊れたままの俺を、ただ守ろうとしてるのか? 胸が痛い。息が詰まる。一ノ瀬の視線が、亮太から一瞬逸れ、まるで俺のいる物陰を見透かすように動く。ドキリとする。まさか…気づいてる?
「幸せになるどうかは、俺が決めることじゃない。先輩が決めることだ」
一ノ瀬の声は、静かだが揺るぎない。亮太の目が一瞬揺れ、だがすぐに鋭さを取り戻す。
「お前には分からない。怜がどれだけ…」
「分からないですよ」
一ノ瀬が亮太の言葉を遮る。初めて、声に熱がこもる。
「でも、知りたい。先輩のことを全部知りたい。先輩に何があったとしても俺は先輩のことが好きだ」
その言葉に、俺の心臓が止まりそうになる。物陰で、俺は膝を抱えてうずくまる。知りたい、だって? 俺の全部を? そんなの、怖すぎる。俺の過去を知ったら、一ノ瀬だって離れていくかもしれない。それなのに、なんでこんなに真っ直ぐな目で。なんで、こんなに胸が締め付けられるんだ。亮太は一ノ瀬を睨みつける。夕陽が彼の背に差し込み、まるで彼を孤立させるように影を濃くする。やがて、亮太は小さく吐息をつき、目を逸らす。
「好きなら、なおさら離れろ。怜をこれ以上傷つけるな」
その言葉は、まるで亮太自身の心に突き刺さるようだった。俺の目が熱くなる。亮太、お前は…俺を傷つけたことを、ずっと背負ってるのか? でも、俺だって、前に進みたい。一ノ瀬の笑顔が、頭をよぎる。あの甘い声、あの温もりが、俺の閉ざした心をこじ開けようとしている。一ノ瀬は亮太の言葉に、初めて小さく笑う。その笑顔は、どこか哀しげで、でも揺るぎない。
「神内先輩。俺、独占欲強いんですよね。先輩のこと絶対手放さない」
その言葉に、俺の心が大きく揺れる。手放さない、だって? 物陰で、俺は唇を噛み、涙がこぼれないように目を閉じる。怖い。こんな風に誰かに必要とされるのが、怖いのに、どこかでそれを望んでいる自分がいる。亮太は一ノ瀬をじっと見つめ、まるで何かを堪えるように拳を握りしめる。やがて、静かに言う。
「…後悔するぞ」
それだけを残し、亮太は踵を返し、校舎の奥へと消えていく。その背中は、いつもより小さく、どこか寂しげだった。俺は物陰で動けず、ただ一ノ瀬の背中を見つめる。彼はしばらく亮太の去った方向を見つめ、ふっと小さく息をつく。そして、まるで俺の存在を感じたかのように、物陰の方を振り返る。
「先輩?」
その声に、俺の心臓が跳ねる。気づかれた? 慌てて身を縮めるが、一ノ瀬の足音が近づいてくる。やばい、と思うけど、動けない。彼の黒い靴が、俺の視界に入る。
「先輩、そこで何してるんですか?」
彼の声は、いつものように軽やかで、そして優しい。顔を上げると、一ノ瀬が俺を見下ろしている。夕陽が彼の顔に柔らかな光を投げかけ、黒曜石のような瞳がきらりと輝く。俺は言葉を失い、ただその瞳を見つめる。
「…何でも、ない」
声が震える。嘘だ。全部聞いてしまった。一ノ瀬の「好きだ」という言葉も、亮太の「傷つけるな」という言葉も、全部。俺の心は、嵐に揺れる木の葉のようだ。一ノ瀬は俺のそばにしゃがみ込み、そっと笑う。
「隠れるの下手ですね、先輩」
その言葉に、俺の顔が熱くなる。一ノ瀬の手が、俺の頬に触れる。冷たいのに、温かい。その感触に、俺の心がまた揺れる。
「俺、本気ですから。覚悟してくださいね」
彼の声は、まるで風のように俺の心に忍び込む。怖いのに、どこか温かい。俺は目を逸らし、小さく呟く。
「…馬鹿」
一ノ瀬はくすっと笑い、俺の手をそっと取る。その温もりが、俺の心の壁をまた一つ崩していく。夕陽が落ち葉を照らし、校舎裏に静かな光を投げかける。俺と一ノ瀬の間に、まるで新しい夜明けが始まるような、そんな予感が漂っていた。

