夜明けは君の隣で。





 もう、二度と人を愛さない。そう誓った筈だった。

 秋の空気が、まるで薄絹のヴェールをまとったように柔らかく肌を撫でる。金木犀の香りが、どこからともなく漂う。鼻腔をくすぐるその甘さは、まるで初恋の記憶をそっと呼び覚ますかのようだ。あの時、電話越しに耳元で囁かれた言葉がまだ胸に刺さっている。
 
 九月の半ば、二学期の始まり。夏の喧騒が遠のき、校庭のざわめきもどこか落ち着いた響きに変わるこの季節は、いつも俺の心に淡い憂鬱を投げかける。
新しい教科書、擦り切れかけた上履き、そして変わらない教室の風景。朝の通学路を歩きながら、俺は深呼吸した。さっぱりとした朝の空気が肺の奥まで染み渡り、一瞬だけ心が軽くなる。

校門をくぐると、いつものように生徒たちの笑い声や、部活の朝練に励む運動部の叫び声が耳に飛び込んでくる。だが、俺の足取りはどこか重い。古びた木製の靴箱は、まるで学校の歴史そのものを背負っているかのように、ところどころ塗装が剥げ、年季の入った匂いを放っている。
自分の靴箱の前に立ち、錆びついた取っ手を引く。いつもなら、ただ上履きを取り出して終わるはずの単純な動作。だが、今日、靴箱の底に何か白いものが落ちているのが目に入った。一瞬、ゴミかと思った。だが、よく見るとそれは丁寧に折り畳まれた封筒だった。白い紙の表面は、まるで朝露に濡れた花びらのように清潔で、どこか儚げだ。封筒の表には何も書かれていない。差出人の名前も、宛名も、ただの空白。俺の心臓が、まるで小さな鈴を鳴らすように、軽く震えた。
「何、これ……?」
呟きながら、封筒を手に取る。指先がわずかに震え、紙の感触が妙に生々しく感じられる。封筒の裏を返すと、そこには小さなシーリングスタンプが押されていた。春の訪れを表すような淡い桃色だった。俺の胸が、急に熱を持つ。いや、まさか。ラブレターなんて、少女漫画のワンシーンだ。そんなものが、俺の靴箱に紛れ込むはずがない。だが、封筒を手に持ったまま、俺は動けなかった。封筒を開けるべきか、開けないべきか。心の中で天秤が揺れる。
その時、背後でかすかな衣擦れの音がした。まるで風が木の葉をそっと揺らすような、柔らかく、しかし確かな音。俺は振り返る。そこには、彼が立っていた。一ノ瀬櫂人。学校中の女子がざわめく、まるで彫刻のような美貌を持つ一年生の後輩。噂に疎い俺でも知っている。彼の涼やかな瞳と髪は黒曜石のように艶やかで、陽光に照らされ静かな輝きを放つ。制服のネクタイは少し緩められ、襟元から覗く白い首筋は、まるで大理石のように滑らかだ。彼がそこに立つだけで、周囲の空気が一変する。まるで時間が彼を中心にゆっくりと流れ、空間そのものが彼の存在に跪くかのようだ。
「どうも」
彼の声は、秋風のように涼やかで、どこか甘い余韻を残す。三日月型に細められた目は掴みどころがない。
「おはよう。ここ二年生の靴箱だけど誰かに用?」
話した事無いけど、俺…。少し躊躇しつつも笑顔を作って話しかけることができた。彼は軽く笑い、片方の眉を上げる。その仕草は、まるで舞台の上の役者が観客を挑発するように、計算された美しさがあった。
「たまたま通りかかっただけです」
彼はそう言うが、その瞳は俺のことをまっすぐに見つめていた。俺の心の奥底を覗き込むような、鋭く、しかしどこか優しい視線。俺は思わず封筒を背中に隠した。だが、その動きを彼の目は見逃さない。
「何ですか、それ?」
彼の視線が、俺手元に落ちる。まるでレーザーのように鋭く、しかしどこか遊び心を含んだその視線に、俺は言葉を失った。
「あー、多分、人違い。名前書いてないし…」
嘘が下手すぎる自分に内心で舌打ちする。だが、彼はそんな俺の拙い嘘を、まるで愛らしい子犬の仕草を見るような目で見つめ返す。
「人違い、ですか」
彼は一歩近づく。靴の底が床を叩く音が、まるで俺の心臓の鼓動と共鳴するかのようだ。秋の香りが、彼の動きとともに一瞬強く漂い、頭をくらくらさせる。彼の匂いなのか、木の匂いなのか、わからない。だが、その香りは俺の理性を溶かすように甘く、危険だということは分かった。
「初瀬先輩、顔赤いですよ」
彼の言葉に、俺は慌てて頬に手をやる。熱い。
「なんで名前、」
言い終わる前に彼はにっこりと微笑んだ。
「初瀬怜先輩、ですよね?」
彼はくすりと笑い、さらにもう一歩近づく。距離が縮まるたびに、俺の心はまるで暴れ馬のように制御不能になる。封筒を握る手に汗が滲んだ。
「初瀬先輩」
彼の声が、急に低くなる。まるで夜の海の底から響くような、深く、柔らかい声。俺の名前を呼ぶその音色は、まるで蜜のように甘く、しかしどこか危険な刃物を隠しているかのようだ。
「その封筒、もし俺からだったらどうします?」
空気が止まる。俺の心臓も、まるで時計の針が止まったかのように一瞬動きを止める。甘い、溶けそうな空気がまるで彼の言葉を包み込むように濃密に漂う。靴箱の前で、俺と彼だけが世界に存在しているかのような錯覚に陥る。
「え……?」
俺の声は、まるで風に飛ばされた木の葉のように頼りない。彼は微笑む。その笑顔は、秋の陽光が水面に反射するように、眩しく、しかしどこか儚い。
「開けてみたらどうですか?」
彼の言葉は、まるで俺の心に小さな火を灯すようだった。封筒を握る手に力が入る。開けるべきか、開けないべきか。だが、彼の視線に捕らわれた俺は、まるで蝶が蜘蛛の巣に絡め取られたように、動くことも逃げることもできない。 秋の風が、そっと俺の髪を揺らす。
「あ、いや、多分俺宛てじゃないから…」
苦笑いを浮かべてそれとなく逃げようとすると彼の微笑みに一瞬の影がよぎった。何事だろう、と思う間もなく彼が近づいてくる。あと一歩で唇と唇が触れ合う、というところで彼は止まった。
「開けてください」
イケメンは至近距離で見てもイケメンだな…なんてことを思っていると彼の瞳は俺の驚いた顔を映していた。
「ちょ、近いって」
思わず後ずさりをしたがもう逃げられない。壁に追い詰められてしまった。少し見上げると真っ直ぐな視線が矢のように刺さった。
「早く」
じろりと彼が焦る俺を見下ろしてきた。
「俺はもう何も失いたくないから」
言ってしまった。それも初対面の相手に。慌てて口を押さえるがもう遅かった。
「失う?」
「あ、いや、ごめん!ちょっと用事あるから!」
そそくさと逃げる様にその場を駆け出した。そんな俺を彼はじっと見ていたのはまた別の話である。


校舎の裏、誰もいない階段の踊り場まで逃げ込んだ。心臓がまだ暴れ馬のままだ。ドクドクと脈打つ音が耳の奥で響き、頬に手を当てるとまだ熱い。一ノ瀬櫂人。なんなんだ、あの距離感。あの視線。あの声。まるで俺の心を一瞬で剥き出しにしたみたいな感覚が、頭の中をぐるぐる駆け巡る。手に握り潰しそうなほど強く持った封筒を、ようやくまじまじと見つめた。純白の封筒が、陽光に透けてキラキラ光る。まるで一ノ瀬の瞳みたいだ、なんて思った瞬間、また顔が熱くなる。落ち着け、俺。こんなの、ただの偶然だ。人違いだ。きっとそうだ。でも、もし。あいつが言ったみたいに、これが本当に一ノ瀬からの封筒だったら?
「もし俺からだったらどうします?」
あの甘い声がまだ耳に残ってる。冗談、だよな。あの視線は、まるで俺の心の奥底を覗き込むみたいで、逃げ場がなかった。
「はぁ…」
ため息をつきながら、階段に腰を下ろす。封筒を膝の上で弄びながら、開ける勇気がまだ出ない。開けたら、何かが変わる。そんな予感が胸の内を駆け巡る。その時、階段の下から軽い足音が聞こえてきた。ゆっくり、でも確実に近づいてくる。心臓がまた跳ねる。まさか…。顔を上げると、そこにはやっぱり一ノ瀬が立っていた。制服の袖を軽くまくり上げ、片手で階段の手すりを掴みながら、俺を見下ろす。秋の光が彼の黒髪に差し込んで、まるで星屑が散ったみたいに輝く。
「逃げるの、早いですね、初瀬先輩」
その声はさっきより少し低くて、どこか意地悪な響きがある。まだ彼はうっすらと笑みを浮かべている。
「…別に、逃げてない」
嘘だ。かなり逃げた。自分が一番わかってる。彼は一歩、また一歩と階段を登ってくる。距離が縮まるたびに、さっきの香りがまたふわっと漂う。あいつの匂いだ。間違いない。頭がおかしくなりそうだ。
「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか?」
一ノ瀬は俺のすぐ目の前で立ち止まり、身を屈めて視線を合わせる。近い。近いって!心の中で叫んでも、身体は動かない。まるで魔法にかけられたみたいに。
「封筒、開けてみてください。ね、先輩」
 その言葉に、俺の手が勝手に動く。震える指でシーリングスタンプを剥がし、封筒を開ける。中から出てきたのは、一枚の白い便箋。そこには、シンプルに、でも力強い筆跡で、こう書かれていた。

「先輩のことが知りたい。」