人と違うことが、必ずしも不幸というわけではない。
むしろ、誰一人として同じ人間はいない筈なのに、人と違うことにどこか劣等感を感じるのは何故なのだろうか。
集団に入れないことを不便と感じるし、それに集団の中で上手くやれない自分に嫌気が差す部分もある。
こうして月を見上げていると思う。
「……どこかに私の求めている世界があればいいのに」
冗談めかして言った言葉の筈だったそれに、自分だけわかってしまうような切実さが意図せず込められていることに気づいて、苦笑する。
ふらりと立ち寄った公園には誰もおらず、噴水の水が落ちる音と、時折吹く風に針葉樹が葉をざわめかせる音のみがあった。
「……鏡、水面、あと」
腰掛けた縁から、噴水の水面を覗き込む。
絶え間なく落ちる水で揺らぐ水面には、歪んで満月が映っている。
「……覗いてみれば、他の世界へ引き摺り込まれてしまうかも」
いつしか読んだ本に書かれていたことをなんとなく思い出して言った。
そんなことは欠片も期待していなかった。
期待した分裏切りは重くなり、夢に浸った分目覚めは絶望を生む。
もう、現実を見なければいけない年だ。
けれどきっと、子供の頃に抱いた夢とは形を変えて、今自分が持つ夢はなんともつまらないものだろう。
歪んだ満月。
自分は満月より三日月や半月の方が好きだと、噴水から目を離した。
そうすればくらりと体が傾いて、空に煌々と光るまんまるの寒々とした満月が見えた。
(……あぁ)
噴水に頭から落ちるとか最悪すぎる。
早く起き上がって風邪をひかないように、すぐに家に帰って着替えねばと思ったのに、視界の隅がじわじわと黒く滲んできて星まで飛び始めて、これはやばいなと思った。
思っていた星とは違い、まるで液体に砂糖が溶けた時に見えるようなモヤが、ぎゅっと濃縮されてできたような点が、ゆっくり移動するのだ。
(気持ち悪い……)
それは透明に見えるのに、黒な気もする。
目を閉じて瞼の裏の色を熱心に眺めるような、そんな感じだ。

ぱちんと瞬きをした後、全く見知らぬ場所にいた。
正直瞬きをした記憶なんかないのだけれど、いつの間にか目の前の光景が変わっていたのだから、その継ぎ目の間を瞬きと認識したのだろうか。
(……青い)
ひたすらに青いと、そう思った。
そこは森だった。
宝石のようなガラスのような透明で白い針葉樹林が生え、視線を下げれば足元に積もるのは雪のようなもの。逆に視線を上げれば木々の枝々の間から三日月が見えた。青白い三日月は明るく、けれど今いるこの森は月の光に照らされて明るいのではなく、森自身が光を宿しているように思えた。
星は見えないけれど、烟るような雲が、まるで星雲のような小さい星たちの集合体のよう。
少し歩みを進めた。
何か明確な理由があった訳ではない。
けれど、何かに引っ張られるように自然と足が動いていた。
ぱきり、と音がした。
足元から聴こえたようで見てみれば、雪だと思ったものが踏まれたところから透明になって、柱状の結晶が育っていた。クラスターと言えばいいのだろうか。不思議な輝きで、中に細かな光の粒がたくさん入っていて下の方に沈んでいるから、下半分は半透明なようにも見える。
ぱきりぱきりと鉱石の足跡を残しながら歩く。
ずっと変わらない同じような景色だけど不思議と飽きることはなく、ずっと歩いていたいと思ってしまうような魅力的な森だ。
空も森も暗くない。
すっかり夜だと言うのに、黒ではなく青なのだ。森自体は青白いと言ったほうがいいような気もする。
途中で鹿のような動物も見た。
この世界には白い生き物しかいないのか、その鹿は白い靄が凝ったような見た目だった。
立派な角には、水晶が先についた糸をいっぱい引っ掛けたように、両頭水晶が揺れて澄んだ綺麗な音を立てていた。
じっと見つめると、深く澄んだ青すぎて黒に見えてしまうような両の瞳で見つめ返してきて、少し経つと満足したのか優雅に駆けてどこかに行ってしまった。
そんなことを思い出していると、少し先の地面に何かが落ちているのに気がついた。
近づいてみると、落ちているというよりは置いてあるという佇まいで、美しい装丁の本だと言うことがわかった。
文庫本というサイズではなく、大きめな小説といった大きさ。
これまた青の、まるで深い深い水を覗き込むような瑠璃色だった。
夜空のようで湖のよう。けれど海ではないと思わせる。
宝石のようにどこか透明感があって、本当に鉱石でできているのかもしれないと思ってしまうようなひんやりとして冷たさ。
金とも銀ともつかない色で細やかに模様が描き込まれ、タイトルをまるで絵画の額縁のように囲っていた。タイトルは優美な筆記体の英語のようだったけれどまた違うようで、読めはしなかった。
開いてみた。
明るいようで暗いこの森で、本などまともに読めるのだろうかと少し不安になったが、穢れのないような美しい白は、浮かび上がるように夜の森にあった。
「……あなたが、この森を気に入りますように……?」
早速一枚目を開くと、そう書いてあった。
なぜか読めるな、と少し疑問に思ったが、それよりもその言葉の方が気になった。
けれどその言葉が誰宛なのかもわからないので、とりあえず一度置いておいて、次のページに進むことにした。
「……何も書かれてない」
期待に胸を踊らせてドキドキしながら開けたので、少し拍子抜けというか期待はずれだった。
素敵な白さだと思ったが、何も書かれていない白紙ということでの白は全然素敵ではない。ぱらぱらと捲って全てのページが白いことを確認すると、今回はご縁がなかったということで、と地面に戻した。
美しい装丁なので、中身次第では落ちていて所有者不明なので貰ってもいいだろうかと考えてしまったが、何も書いていないならば、誰の物かもわからないそれを盗んだことになるリスクを冒してまで手に入れようとはならなかった。
「……あなたがこの森を気に入りますように、か……」
もし自分宛だったとしたら、自分はこの森を気に入っているのだろうか。
そう考えてみると、気に入っているとはどこか違うような気がした。
(……そう)
簡単に言うと、自分は来訪者なのだ。それも特に意図したところではない。
だから、自分が気にいる気に入らないの感想を抱くような立場ではないと感じるのだ。
むしろ、たまたま受けさせていただいた幸運の中、ほんの少しの間その奇跡に触れさせてもらっているにすぎないのだから、自分ごとにするのはお門違いだと思う。それは、素敵な店ですねと言うようなものだ。気に入りました、はどこか玄人感がある台詞なので、自分の感想という点を押さえ、あくまで私はそう思いますというスタンスを崩さず、けれど自己中心的ではなく、誘ってくれた相手やお店の方もいい気分にさせる、素敵なお店ですね、はとても便利な言葉だ。
「気に入る気に入らないは別として、とても素敵な場所だと思います」
そう言葉を投げてみたのだが、当然返事はなかった。
それに返事が欲しかった訳ではないので、気にすることなく歩みを進める。
「……これは、」
(私を窃盗犯にしたいか、本当に私宛かの二択……)
結局、その美しい本には顔を背けて、先に進むことにした。
もはや何のために進んでいるのかもわからないが、進む理由も止まる理由もないのだから、歩く方が建設的というものだ。
「……、」
少し歩くと、また本が置いてある。
ぱっと後ろを振り返って先ほどの本がまだ見えたりしてないだろうかと確認してみたのだが、木の幹に遮られたか本当に移動したかで、その姿はなかった。
「……私宛ですか?」
なんとなくその本に問いかけてみた。ここが本当に異世界のような不思議規則のはたらく場所だったなら、本も返事をするものなのかもしれないと思ったのだが、特にそんなことはなかった。
ならいいかと立ち上がって、また本は置いていくことにした。
また、歩く。そして、立ち止まる。
「……これは、三度目の正直と言うべきでしょうか」
そこには、また本が置いてあった。
少し、本に対して頑固なやつめと思って、屈んで持ち上げる。
「……本当に私宛なのでしょうか。私を犯罪者にしてやろうという策略だったら、恨みますよ」
それでもすん、と澄ましている本を半眼で見て、脇に抱えて歩き出した。
すると、蝶がどこからともなくひらりひらりと飛んできた。
ガラス細工のような繊細な美しい蝶だ。けれど本物の蝶らしい動きの柔らかさもある。
最初の一匹を皮切りに何匹もの蝶が現れた。最初に飛来した蝶は透明だったのだけれど、次に見た蝶は赤かった。まるで、ガラスペンに赤いインクを浸したようで、ガラスそのものが赤という訳ではない。
どこか自分に群がったような蝶の群れが過ぎ去って、その最後の一匹を見送ると、不意に視界が揺れた。実際に体が傾きふらついて、踏ん張る。
(……?)
気持ち悪いような気持ちいいような、不思議な感覚で平衡感覚がおかしくなったような、おかしな心地がした。けれどそれは少しの間だけで、すぐに消えた。
「……はっ、」
呼吸も乱れていたようで、短く息を吐く。
貧血だろうか、と考える。もう終わってはいるが、ほんの昨日一昨日まで血を失う日だったので、その影響かもしれない。
「……そういえば、植物が増えてきましたね」
今まではほぼ木のみであったのに対し、今は膝くらいまでの、全体の殆どを大きな葉が占めるような植物が、木の根元に生えていたりとちらほらと見えるようになってきた。