この街には、夜空へ手紙を流す文化がある。
 名前は「星郵便」。ポストは星形の口をしていて、切手には穴があいている。投函すると、紙は光を吸ってふくらみ、夜風に乗って小さくなる。翌朝、宛名の星に届くという。
 説明書には、ていねいな字でこうあった。
 〈生者から死者へ――片方向〉。
 片方向と書く時点で、世の中には回らない歯車がたくさんあるのだとわかる。

 灯(あかり)は、毎夜ポストへ通った。
 宛先は、事故で亡くなった親友・湊。便箋は薄く、線は淡く、手は、慣れでよく動いた。

 きょうは体育で転んだ。笑ってくれる君がいないから、痛みは静かだ。
 帰りにラーメン屋の前を通った。メンマを一本だけ君の分、頼みそうになった。
 あしたの天気は、どうでもいい。
 それでも、君に知らせておく。
 ――灯

 切手は「星一等・私信用」。店で買うと、店員は必ず「ご愁傷さまです」と言うが、顔は明るい。文化は、明るくないと続かない。

 灯は一度も、返事をもらったことがない。そもそも片方向なのだ。だが、人は片道切符を持っていても、改札の先でふり返る。ふり返る先に誰もいないと、もう一度ふり返る。
 ふり返る回数は、だれも数えない。

     *

 ある朝、家のポストに一通の封筒が入っていた。白くて、薄い。宛名は、灯。差出人は、湊。
 灯は、封を切る前から手が震えた。紙が鳴った。

 灯へ。
 この手紙が届くころ、君は相変わらず“メンマを一本落とすふり”をしているだろう。拾う人がいないのは、君が落とすのが上手だからだ。
 体操服の膝の砂は、なかなか落ちない。水で流すと余計に目立つ。
 君の「どうでもいい」を、僕はどうでもよくない。
 続けて書いてくれ。読むのに少し時間がかかるけれど、読めばたしかに「君」がいる。
 ――湊

 灯は笑って、次に泣いた。
 返事は来ないはずだ。説明書にはそうある。星郵便は、生者から死者へ――片方向。
 灯は封筒をひっくり返した。裏には、星郵便局の赤いスタンプが押されている。
 〈返照便(へんしょうびん)〉
 見慣れない字だ。
 灯は制服のポケットから定期券を取り出し、急いで駅に向かった。電車の中で、誰も彼女の肩にぶつからない。これは偶然だ。偶然は、丁寧に並ぶと、ルールに見える。

 星郵便総合窓口は、市役所の隣にある。ガラス張りの広いロビーに、夜の星座の写真が並ぶ。番号札を取ると、三秒で呼ばれた。
 窓口の職員は、星の形のネクタイピンをしている。笑うのが上手い。

「返事が、届いたんです」
 灯は封筒を置いた。職員は、封筒を電子台に載せた。
「確認いたします」
 画面に、線と点が現れた。脈拍のような光が、横に流れた。職員は、明るい声で言った。
「返照便ですね」
「返照便?」
「はい。生者から死者への私信に、反射で返る一回限りの便です。星の側で、条件がそろうと開通します」
「……返ってくるのですか。片方向なのに」
「はい。片方向の、向こう側からの光の返りです」
 灯は、首をかしげた。
「私が、書いたから?」
「書いたからです。そして、届いていたからです」

 職員は、画面のテキストを指さした。透明な字だった。

 受取人:灯
 差出人:湊(生者)
 配送経路:地上→星籍→地上(返照)
 注意:返照便は受取人が死者の場合にのみ開通します。

 灯は、笑い方を忘れた。
「差出人が、湊。生者」
「はい」
「受取人が、私。死者」
「システムは、そのように認識しています。星籍の登録が未完了のため、地上の住所にも配送されました」
 職員は、ごく自然な調子で書類を差し出した。
「亡くなられた方の利用案内です。仮登録を本登録に切り替える手続きがございます。お名前と、ご逝去日を」
「待ってください。私は、生きています」
「生きていらっしゃると感じているのですね」
 職員は、声を変えなかった。
「星郵便は、感じではなく、登録で動きます」

 窓口の奥では、星の写真が静かに光っている。
 灯は、椅子に座った。座ってから、立っていたことに気づく。
「事故の日……」
「はい」
「あの交差点で、私は、渡った」
「渡られました」
「車が来て、止まって、運転手が青い顔をして、誰かが救急車を呼んで、私は――」
 その先の文は、口の中にあって、外に出てこない。
 職員は、文の続きを持っているみたいだったが、言わなかった。
「星籍にお名前は入っております。未確定のままですが」
「だから、手紙が届く」
「届きます。生者から死者へは片方向。死者から生者へは原則不可。ただし、いまお手元にある返照便は、『受け取れる側がだれか』を示す、と解釈されています」

 灯は、封筒を持った。手は新しい紙の匂いがした。
「死んだ君が、まだ私を励ましてくる」
 昨日までの自分の言葉が、耳の奥で砕けた。
「死んでいたのは、私」
「そう受け取られる方が、多いです」
 職員は、鉛筆で案内の一行をなぞった。
「返照便は一度だけ。死者側から生者へ短い返事が送れます。字数は、星の明るさ次第で、五十字以内」

「五十字」
「はい。句読点は字数に含みません。顔文字は、星の都合で正しく表示されないことがあります」
 細かい。細かさは、世界の綻びを見えなくする。だが、今は、その細かさがありがたかった。
「送ります」
「承知しました。便箋はこちら。返照切手は光沢銀です。貼ったあと、息を一度吹きかけてください。温度が必要です」

 灯は、机に向かった。便箋に、光沢がさざめく。
 ペン先は、意外に落ち着いていた。五十字。
 たくさん書くのは簡単だ。少しだけ書くのは、むずかしい。
 灯は、二行でやめた。

 大丈夫。
 きょうも、行ってらっしゃい。

 封をして、切手に息を吹きかけた。銀が淡く曇り、すぐに消えた。
 職員は封筒を受け取って、目を細めた。
「いい文です。よく届きます」
「どうしてわかるんですか」
「五十字の文は、重心でわかります」
 職員は、投函口の小さな星へ封筒を差し込んだ。光が、ほんの、ひと呼吸ぶん、強くなった。

「手続きについては、どうされますか」
「何の」
「星籍の本登録です。こちらで、仮から本へ。星郵便の受け取りは安定し、地上配達は停止します」
 灯は、考えた。
「停止したら、湊からの手紙は、家のポストには届かない」
「はい。星のほうで受け取られます。確認は星閲覧室で可能です。予約制です」
「予約……」
 灯は、封筒の匂いを嗅いだ。紙の匂いは、生きていても死んでいても同じだ。
「もう少しだけ、家で受け取りたい。湊の字が、廊下に光るのを見たい」
「承知しました。猶予期間を設定します。二週間。二週間の間は、地上配達を続け、それ以後に星配達へ切り替えます。よろしいですか」
「はい」

 職員は、端末を操作した。
「二週間後に、メールでお知らせします。地上メールにしますか、星メールにしますか」
「地上で」
「承知しました」
 職員は、最後に二枚の紙を差し出した。
「亡くなられた方の手帖と、残された方への手帖です。後者は、宛先が湊様になっています。お渡しされますか」
「渡せますか」
「地上にいるかぎり、どなたでも」
「では、渡します」

     *

 駅からの帰り道、灯は、歩道橋の上で立ち止まった。
 見下ろすと、交差点がある。横断歩道は、白い帯が少し擦り切れている。
 信号が青になり、人が渡る。灯も渡る。
 車が来る。止まる。運転手は、緊張した顔だ。
 渡りきる。
 当たり前の一連の動作に、自分が含まれていないように見える瞬間がある。
 それでも、足は動く。
 文化は、足で続く。

 家に戻ると、ポストに二通の手紙が入っていた。
 一通は、市役所から。もう一通は、湊から。
 湊の字は、ふだんの湊の字より、少し整っている。たぶん、何度も書き直している。手紙は、相手に届く前に、書いた人を整える。

 灯へ。
 返事が来た。五十字ぴったり。
 「大丈夫。きょうも、行ってらっしゃい。」
 これで二十四時間は、僕は大丈夫だ。
 この一行の重さで、通勤電車に立てる。
 何回も読み返す。行ってきます。
 ――湊

 灯は、手紙を廊下の光に透かした。光は言葉を薄くし、意味を濃くする。
 封筒に手を伸ばしながら、ふと思った。
 私が書き続けていた手紙は、だれが読んでいたのだろう。
 湊からすれば、反対側だ。彼は、生者。私は、死者。
 星郵便は片方向。灯の片道は、反対に向いていた。
 それでも、毎夜書いていた紙は、ポストへ消えていった。
 星は、両側にある。
 どちらの側にも、紙の匂いはある。

 台所の戸棚を開けると、書きかけの便箋の山があった。薄い紙が、薄く息をしている。
 灯は、便箋を一枚抜いた。
 今夜も書く。
 片方向に向けて。
 片道は、帰り道のことまで含んでいる。

 湊へ。
 星郵便に行った。返照便の仕組みを教わった。
 君が書いた返事を、私は受け取れる側だった。
 変だと思うかもしれないが、私は、落ち着いている。
 君の「行ってきます」が、毎日届く。
 私はここで「行ってらっしゃい」を書く。
 ――灯

 切手を貼って、息を吹きかける。星切手は、死者の息にも反応する。郵便は、差別しない。差別しないものは、ときどき、区別もできない。

 その夜、灯は眠れなかった。
 眠れないとき、人は、天井の亀裂に見取り図を探す。
 天井は図面ではない。
 星は図面でもあり、受付でもある。

     *

 翌朝、窓の外が明るくなった頃、玄関のチャイムが鳴った。
 出ると、星郵便の配達員が立っていた。帽子に小さな星のバッジを付けている。
「お届けものです。残された方の手帖」
 差出人は、灯。宛先は、湊。配達先は、灯の家。
「地上にお住まいの方が受け取りを希望されたため、仮配達です。お預かりして、宛先へお届けしておきますね」
「お願いします」
「サインを……あ、スタンプで結構です」
 配達員は、灯の手に、星形のスタンプを押した。インクは冷たい。
「二週間後に、配達先が星に切り替わります。その際はメールで」
「地上で」
「承知しました」

 配達員が去ると、ポストが軽くなった気がした。
 灯は、椅子に座り、湊の手紙を読み返した。
 読み返す回数は、だれも数えない。
 数えないものは、増える。

     *

 二週間は、すぐだった。
 毎夜の手紙のほかに、灯は、手帖を湊へ送った。
 残された方の手帖には、手続きのこと、健康診断のこと、短い謝罪の仕方が載っている。
 湊は、手帖を読み、返事をよこした。

 灯へ。
 「短い謝罪」の章、おもしろかった。
 会社の上司に謝るのにも使えた。
 君は、本当に、いいものを送ってくる。
 ――湊

 灯は、もう一度、返照便が欲しいと思わなかった。
 一度だけという決まりが、今回は、居心地がいい。
 決まりは、逃げ道を閉じると同時に、向かう道を残す。

 二週間が過ぎた夜、星郵便からメールが届いた。
 〈本日をもって、配達先を星に切り替えます。地上配達は停止されます〉
 灯は、玄関のポストを撫でた。
 ありがとう、と小声で言った。ポストは返事をしない。返事をしないものは、信じられる。

     *

 翌朝、湊からの手紙は、家には来なかった。
 灯は、予約していた星閲覧室へ行った。
 閲覧室は、郵便局の上にある。白い部屋に、透明な台が並び、そこに「宛名ごとの光」が沈んでいる。
 受付の人は、光を一つすくって、灯の前の台に置いた。
「湊様→灯様。昨日の便」
 光は、紙の形になり、文字が現れた。

 灯へ。
 明け方に目が覚めた。
 夢の中で、君が歩道橋を渡っていた。
 僕は地上で、その橋を見上げた。
 どちらからも、朝日が同じ角度で差していた。
 行ってきます。
 ――湊

 灯は、光の手紙を読み、静かに台に戻した。
 閲覧室には、ほかにも人がいた。光を読んで、笑う人。光に触れて、泣く人。光を撫でて、何も言わない人。
 星郵便は、誰に対しても、同じ速度で動く。
 同じ速度は、慰めでもあり、残酷でもある。

 帰りに、灯は、地上の売店に寄った。
 星切手ではなく、普通の切手を買った。
 宛先は、市役所の献血室。ただのハガキだ。
 返事のいらない宛先に、短いメッセージを書く練習がしたかった。
 練習は、うまくなるためではなく、続けるためにある。

     *

 季節は、二度、変わった。
 灯は、毎夜の手紙を続けた。
 湊の返事は、星閲覧室で読んだ。
 湊は、短く書いた。
 短い文は、長い意味を持つ。
 灯の文も、短くなっていった。

 きょうは、よく歩いた。
 傘を忘れずに。
 メンマは、落とさなくなった。
 ――灯

 ある夕方、星郵便から封書が届いた。
 宛名は、灯。差出人は、星郵便。
 開くと、厚紙が入っていた。「亡くなられた方の星籍本登録完了のお知らせ」。
 最後に、小さく一行。

 ご登録ありがとうございます。これからも片方向で。

 灯は、笑った。
 片方向で、十分だ。
 片方向であることは、裏切りでも、冷たさでもない。
 片道には、行きと書いてあって、帰りは、言葉が引き受ける。

     *

 その週末、湊から、地上宛の封書が届いた。
 灯宛ではない。宛先は、灯の家の郵便受け。差出人は、湊。
 家族宛の挨拶状で、最後に一行、灯へ宛てた文があった。

 灯へ。
 君の「行ってらっしゃい」で、僕はまだ会社に行けている。
 君の「大丈夫」で、僕はまだ大丈夫だ。
 死んだ君が、まだ僕を励ましてくる。
 ――湊

 灯は、その文を三度読んだ。
 死んだ君が、まだ私を励ましてくる――そう思っていた頃の自分に、少しだけ笑った。
 言葉は、時々、向きを変える。
 向きが変わるとき、意味は変わらない。

 夜、灯は、いつものように便箋に向かった。
 五十字ではない。
 長くても、短くても、どちらでもいい。
 星切手を貼って、息を吹きかける。
 光は、前と同じ速度で、ふくらんだ。

 湊へ。
 大丈夫。
 きょうも、行ってらっしゃい。
 ――灯

 ポストは、星の口を開いた。
 紙は、光を吸って、小さくなった。
 星は、返事をしない。
 それでも、返事を書く。

 片方向で。
 これからも。