3-3 励ます友人
熱気に満たされ、シューズやボールの音が響く体育館。三年生が引退し、二年生が率いるバスケ部の練習は一層熱を帯びていた
新学期が始まって一週間経つが、桜良の心は一向に晴れないまま、重い足取りでコートを走っていた。まだ、学校が始まって一度も、二年生のフロアに足を運べないままでいる
「おい、桜良!パスが雑だぞ!」
部長の声が飛ぶ。桜良は慌てて「すみません!」と謝り、もう一度集中しようと努めるが、どうにも力が入らない
スマホには、数日前に椿から届いた、たった一言のメッセージが残っている
『ごめん』
あの夏祭りの夜、椿に手を叩き落とされて逃げられた後の、初めての連絡。そのシンプルな謝罪の言葉に、桜良は何度も返信を打ち込もうとしたが、指が震えて送信ボタンを押せなかった
(何を返せばいいんだ。何を言われたいんだ、先輩は)
「大丈夫ですよ」「気にしないでください」なんて、軽々しく言えるわけがない。先輩があんなに取り乱すほど、過去のトラウマは深い
何を伝えれば椿がまた自分に笑顔を向けてくれるのか、全く分からなかった
結局、メッセージは既読無視のまま放置されている。
「桜良、ちょっと休憩だ」
休憩の合図で壁際に座り込んだ桜良の隣に、紫苑が座ってきた
「最近、お前、全然元気ねぇじゃん。どうした?何かあった?」
「なんでもないよ、紫苑」
「嘘つくな。にゃんこ先輩に何かあったのか?お前、夏休みの前までは『先輩のクラスに行けなくて寂しい!』ってうるさかったのに、新学期になっても椿先輩に会わなくていいとか言い出すし、変だぞ」
図星を突かれ、桜良は思わず俯いた
「……先輩はなんともないよ。俺が、ちょっと、失敗しただけ」
「失敗?告白でもしたのか?」
「違う。ちょっと、踏み込んじゃいけないところに、踏み込んじゃって」
祭りでの出来事を話す気にはなれなかった。椿のトラウマを軽々しく話すことはしたくなかったから
「ふーん。で、先輩の機嫌を損ねたと。あの先輩、マジで猫みてぇだからな。懐かせたと思ったら、急に爪立ててくる」
紫苑の言葉に、桜良は苦笑する。まさにその通りだ
「そんなとこが……好きなんだけどな」
そう本音を漏らすと、紫苑は桜良の方を向いて笑った
「だったら、ちゃんと伝えなきゃ、気まぐれにゃんこは振り向いてくれないぞ」
「……そうだよな」
新学期が始まった二年文系クラス。窓から差し込む日差しはまだ夏の名残があるが、教室の空気は妙に重かった。その原因は、クラスの端、窓際の席に座る椿の異様な静けさだった
椿は、相変わらず無駄口を叩かず、授業の準備以外席を立つこともない。その様子は一見すると「いつもの椿」なのだが、どこか決定的に違っていた
「椿くん、なんだか魂が抜けたみたいになってない?」
教室の前方で固まっていた女子生徒たちが、ひそひそと囁く
「うん。いつもは猫みたいに気まぐれだけど、今は置物みたい。あと、毎日昼休みになると来てた後輩くん、全然来てないよね」
「まさか、椿くんに振られて傷心とか?」
「ありえるかもね。あんなに可愛かったのに」
教室には、椿を巡る小さな噂が流れ始めていた
昼休み。弁当を広げた竜胆は、箸を動かそうとしない椿を見て、大きなため息をついた
「おい、椿。弁当食えよ。腹減らねぇのか」
「……食欲ない」
椿は視線も上げずにそう答える。その目元には、クマがうっすらとできていた。この一週間、まともに眠れていないことは明らかだった
「食欲ない。じゃねぇだろ。お前、この一週間、まともに食ってないだろ。顔色悪すぎだぞ」
竜胆は顔を上げない椿を見つめ続ける
「お前、あいつに『ごめん』って送ったんだろ。俺も連絡したけど、あいつ、お前を怖がらせたって、自分を責めてるぞ」
「俺が、謝りたかっただけだ。叩き落としたことを」
椿は蚊の鳴くような声だった
「それ以上、何を言えばいいか分からなかった。桜良は、あんなに真っ直ぐなのに、俺は……」
竜胆は、椿の抱えるジレンマを理解していた。トラウマのせいで、椿は桜良の純粋な好意さえも裏切りの予兆としてしか捉えられない。踏み出せば、また傷つく
このままでは、桜良を永遠に拒絶することになる
「椿。お前が謝りたいなら、ちゃんと会って、話せ。たった一言の『ごめん』じゃ、何も伝わらねぇよ。特に、桜良みたいな奴にはな」
「無理だ……」
椿は力なく首を振った
「会ったら、また桜良の顔があいつと重なるかもしれない。桜良の言葉を信じられなくなるかもしれない。俺は、これ以上桜良を傷つけたくない」
その瞬間、椿の視線は、教室のドアに向けられた
いつもなら昼休み、桜良がいるはずの、誰もいないドア
「俺は、静かになれば、元に戻れると思ってた。あいつが来なくなれば、また一人になれるって。でも……」
椿は震える手で、自分の心臓のあたりを強く握りしめた
「静かすぎんだよ。あいつの声が聞こえないのが……苦しい」
竜胆は、静かに椿の背中を叩いた
「ほらみろ。もう知らないふりなんかできねぇんだ。とっとと行動しろ」
椿は竜胆の言葉を聞きながらも、ただただ、どうすればいいのか分からないまま、結局何も食べずに昼休みを終えた
椿は授業が終わるとすぐに図書室に籠った。静かな空間だけが、心のざわめきをわずかに鎮めてくれた
しかし、読書や自習に集中できるわけではない。頭の中は常に、あの夏祭りの夜の出来事と、桜良のことでいっぱいだった
(桜良は、まだ俺のメッセージを既読無視したままだ……でも、俺が拒絶したんだから、当然だよな)
誰にも会いたくなかった椿は、図書室が閉まる時間ギリギリまで粘った。人がいなくなったのを見計らい、重い足取りで帰路につく。教室棟から昇降口へ向かう途中、ふと体育館に目をやった
部活動の練習はとっくに終わっているはずの時間。しかし、体育館の明かりがまだ灯っていた
椿は、吸い寄せられるように体育館の窓に近づいた
広いフロアで、たった一人、バスケットボールの音が響いていた
「…桜良」
そこにいたのは、体操服姿で黙々とシュート練習を繰り返す桜良だった
その真剣な横顔は、昼休みにクラスに押しかけてきていた時とは違い、どこか張り詰めた孤独を帯びていた
桜良が放ったシュートは、リングに弾かれて外れる。桜良は、そのボールを取りにコートの隅まで駆けていった
その瞬間、顔を上げた桜良の視線が、体育館の外に立っている椿を捉えた
二人の目が合った一瞬の静寂
桜良の瞳に宿っていたのは、一瞬の驚きと、すぐに訪れる深い戸惑いと、怯えだった。桜良はすぐにボールに視線を落とし、椿から顔を逸らした。まるで、そこに椿がいないかのように振る舞った
その小さな拒絶に、椿の胸は恐ろしいほど激しく傷ついた
(……ああ、そうか)
椿は息を呑んだ。この小さな拒絶で、これほどまでに心が抉られるように傷つく感覚
これがあの時、自分のすべてをかけてくれた桜良を手を叩き落とし、逃げた自分が、桜良に与えた痛みだったのだ
どれほど純粋な好意を踏みにじり、どれほど深く傷つけたのか。この一週間の自分の苦しみなど、桜良のそれに比べれば取るに足らない
(俺は、逃げられない。このまま、また逃げたら、あいつは本当に俺から離れていく)
もう、傷つくことを恐れるよりも、桜良がいない未来の方がずっと恐ろしい
竜胆の言葉が蘇る
『もう知らないふりなんかできねぇんだ。とっとと行動しろ』
体育館の扉を勢いよく開け、強くボールの弾む音をかき消すように、椿はその名を呼んだ
「桜良!」
熱気に満たされ、シューズやボールの音が響く体育館。三年生が引退し、二年生が率いるバスケ部の練習は一層熱を帯びていた
新学期が始まって一週間経つが、桜良の心は一向に晴れないまま、重い足取りでコートを走っていた。まだ、学校が始まって一度も、二年生のフロアに足を運べないままでいる
「おい、桜良!パスが雑だぞ!」
部長の声が飛ぶ。桜良は慌てて「すみません!」と謝り、もう一度集中しようと努めるが、どうにも力が入らない
スマホには、数日前に椿から届いた、たった一言のメッセージが残っている
『ごめん』
あの夏祭りの夜、椿に手を叩き落とされて逃げられた後の、初めての連絡。そのシンプルな謝罪の言葉に、桜良は何度も返信を打ち込もうとしたが、指が震えて送信ボタンを押せなかった
(何を返せばいいんだ。何を言われたいんだ、先輩は)
「大丈夫ですよ」「気にしないでください」なんて、軽々しく言えるわけがない。先輩があんなに取り乱すほど、過去のトラウマは深い
何を伝えれば椿がまた自分に笑顔を向けてくれるのか、全く分からなかった
結局、メッセージは既読無視のまま放置されている。
「桜良、ちょっと休憩だ」
休憩の合図で壁際に座り込んだ桜良の隣に、紫苑が座ってきた
「最近、お前、全然元気ねぇじゃん。どうした?何かあった?」
「なんでもないよ、紫苑」
「嘘つくな。にゃんこ先輩に何かあったのか?お前、夏休みの前までは『先輩のクラスに行けなくて寂しい!』ってうるさかったのに、新学期になっても椿先輩に会わなくていいとか言い出すし、変だぞ」
図星を突かれ、桜良は思わず俯いた
「……先輩はなんともないよ。俺が、ちょっと、失敗しただけ」
「失敗?告白でもしたのか?」
「違う。ちょっと、踏み込んじゃいけないところに、踏み込んじゃって」
祭りでの出来事を話す気にはなれなかった。椿のトラウマを軽々しく話すことはしたくなかったから
「ふーん。で、先輩の機嫌を損ねたと。あの先輩、マジで猫みてぇだからな。懐かせたと思ったら、急に爪立ててくる」
紫苑の言葉に、桜良は苦笑する。まさにその通りだ
「そんなとこが……好きなんだけどな」
そう本音を漏らすと、紫苑は桜良の方を向いて笑った
「だったら、ちゃんと伝えなきゃ、気まぐれにゃんこは振り向いてくれないぞ」
「……そうだよな」
新学期が始まった二年文系クラス。窓から差し込む日差しはまだ夏の名残があるが、教室の空気は妙に重かった。その原因は、クラスの端、窓際の席に座る椿の異様な静けさだった
椿は、相変わらず無駄口を叩かず、授業の準備以外席を立つこともない。その様子は一見すると「いつもの椿」なのだが、どこか決定的に違っていた
「椿くん、なんだか魂が抜けたみたいになってない?」
教室の前方で固まっていた女子生徒たちが、ひそひそと囁く
「うん。いつもは猫みたいに気まぐれだけど、今は置物みたい。あと、毎日昼休みになると来てた後輩くん、全然来てないよね」
「まさか、椿くんに振られて傷心とか?」
「ありえるかもね。あんなに可愛かったのに」
教室には、椿を巡る小さな噂が流れ始めていた
昼休み。弁当を広げた竜胆は、箸を動かそうとしない椿を見て、大きなため息をついた
「おい、椿。弁当食えよ。腹減らねぇのか」
「……食欲ない」
椿は視線も上げずにそう答える。その目元には、クマがうっすらとできていた。この一週間、まともに眠れていないことは明らかだった
「食欲ない。じゃねぇだろ。お前、この一週間、まともに食ってないだろ。顔色悪すぎだぞ」
竜胆は顔を上げない椿を見つめ続ける
「お前、あいつに『ごめん』って送ったんだろ。俺も連絡したけど、あいつ、お前を怖がらせたって、自分を責めてるぞ」
「俺が、謝りたかっただけだ。叩き落としたことを」
椿は蚊の鳴くような声だった
「それ以上、何を言えばいいか分からなかった。桜良は、あんなに真っ直ぐなのに、俺は……」
竜胆は、椿の抱えるジレンマを理解していた。トラウマのせいで、椿は桜良の純粋な好意さえも裏切りの予兆としてしか捉えられない。踏み出せば、また傷つく
このままでは、桜良を永遠に拒絶することになる
「椿。お前が謝りたいなら、ちゃんと会って、話せ。たった一言の『ごめん』じゃ、何も伝わらねぇよ。特に、桜良みたいな奴にはな」
「無理だ……」
椿は力なく首を振った
「会ったら、また桜良の顔があいつと重なるかもしれない。桜良の言葉を信じられなくなるかもしれない。俺は、これ以上桜良を傷つけたくない」
その瞬間、椿の視線は、教室のドアに向けられた
いつもなら昼休み、桜良がいるはずの、誰もいないドア
「俺は、静かになれば、元に戻れると思ってた。あいつが来なくなれば、また一人になれるって。でも……」
椿は震える手で、自分の心臓のあたりを強く握りしめた
「静かすぎんだよ。あいつの声が聞こえないのが……苦しい」
竜胆は、静かに椿の背中を叩いた
「ほらみろ。もう知らないふりなんかできねぇんだ。とっとと行動しろ」
椿は竜胆の言葉を聞きながらも、ただただ、どうすればいいのか分からないまま、結局何も食べずに昼休みを終えた
椿は授業が終わるとすぐに図書室に籠った。静かな空間だけが、心のざわめきをわずかに鎮めてくれた
しかし、読書や自習に集中できるわけではない。頭の中は常に、あの夏祭りの夜の出来事と、桜良のことでいっぱいだった
(桜良は、まだ俺のメッセージを既読無視したままだ……でも、俺が拒絶したんだから、当然だよな)
誰にも会いたくなかった椿は、図書室が閉まる時間ギリギリまで粘った。人がいなくなったのを見計らい、重い足取りで帰路につく。教室棟から昇降口へ向かう途中、ふと体育館に目をやった
部活動の練習はとっくに終わっているはずの時間。しかし、体育館の明かりがまだ灯っていた
椿は、吸い寄せられるように体育館の窓に近づいた
広いフロアで、たった一人、バスケットボールの音が響いていた
「…桜良」
そこにいたのは、体操服姿で黙々とシュート練習を繰り返す桜良だった
その真剣な横顔は、昼休みにクラスに押しかけてきていた時とは違い、どこか張り詰めた孤独を帯びていた
桜良が放ったシュートは、リングに弾かれて外れる。桜良は、そのボールを取りにコートの隅まで駆けていった
その瞬間、顔を上げた桜良の視線が、体育館の外に立っている椿を捉えた
二人の目が合った一瞬の静寂
桜良の瞳に宿っていたのは、一瞬の驚きと、すぐに訪れる深い戸惑いと、怯えだった。桜良はすぐにボールに視線を落とし、椿から顔を逸らした。まるで、そこに椿がいないかのように振る舞った
その小さな拒絶に、椿の胸は恐ろしいほど激しく傷ついた
(……ああ、そうか)
椿は息を呑んだ。この小さな拒絶で、これほどまでに心が抉られるように傷つく感覚
これがあの時、自分のすべてをかけてくれた桜良を手を叩き落とし、逃げた自分が、桜良に与えた痛みだったのだ
どれほど純粋な好意を踏みにじり、どれほど深く傷つけたのか。この一週間の自分の苦しみなど、桜良のそれに比べれば取るに足らない
(俺は、逃げられない。このまま、また逃げたら、あいつは本当に俺から離れていく)
もう、傷つくことを恐れるよりも、桜良がいない未来の方がずっと恐ろしい
竜胆の言葉が蘇る
『もう知らないふりなんかできねぇんだ。とっとと行動しろ』
体育館の扉を勢いよく開け、強くボールの弾む音をかき消すように、椿はその名を呼んだ
「桜良!」

