3-2 見守る友人
八月が始まった最初の夜。特に予定もなくいつも通り飯を食って風呂に入って、のんびりしていたら突然スマホの着信音が鳴った。画面には椿と一文字。すぐに応答ボタンをスライドし
「もしもし?」
と声を出すと
『竜胆……どうしよう、どうしたら、どうしたらいいんだ、』
と震えた声が聞こえてきた。あの夜が再び繰り返されたような焦燥感が俺を襲った
「椿、今どこだ」
公園と返答が来て家を飛び出し目の前の公園へ行くと、まるであの頃の記憶をループしてるかのようにベンチで俯く椿がいた。あの頃と違うのは椿が浴衣を着て髪もセットしているところだろうか
「椿、どうした、何があった。顔が真っ青だぞ」
今回は何も聞かずにはいられなかった。何がどうして椿をこうさせたのか予測不可能だったからだ
「何があったか話せ。一人じゃどうにもなんねぇんだろ」
しばらくの沈黙の後、椿は堰を切ったように言葉を吐き出し始めた
「桜良と……祭りに来てた。それで……莇生に会ったんだ」
椿から莇生の名が出た瞬間、椿は震え始めた。
「は?あのクソ野郎に?」
俺は思わず立ち上がった。椿のトラウマの元凶である莇生が何故今になって……
「『お前なんか、誰も愛してくれない』って、言われたんだ……」
椿はそこで言葉に詰まり、荒い呼吸を繰り返す。俺は聞いているだけで胸糞が悪くなる
「それで、桜良が来てくれたんだ。莇生を追い返してくれた……。なのに、俺は……桜良を拒絶した」
椿は震える手で顔を覆った。
「桜良が……俺に触ろうとした時、反射的に、手を叩き落とした。桜良が、あの男と、重なって見えたんだ。俺に優しくしてくれる奴なんて、どうせいつか裏切って捨てるって……頭の中で莇生の声がして、桜良の顔が歪んで見えて……」
「……」
俺はただ黙って聞いていた。椿がここまで感情を露わにするのは、中学のあの時以来だ
「俺は、桜良を傷つけた。あいつは、俺のためにあんなに頑張ってくれたのに……俺が弱いせいで、一番大切な奴を……」
『大切』
椿が桜良のことを大切だと認めた言葉を聞き、俺は驚いた。だが、同時に納得もした。椿があんなに必死に桜良を遠ざけようとしていたのは、心の中で桜良の存在が大きくなりすぎるのを怖がっていたからだ
椿は自嘲気味に笑った。その顔はひどく歪んでいた
「結局、俺は誰も信じられない。誰にも心を開けないんだ。せっかく、桜良が頑張ってくれて、ちょっとだけ……俺らしくなってもいいかもって、思ったのに。全部、俺が壊して逃げた……俺は、最低だ」
椿の震えが少しだけ収まったのを見計らい、俺は静かに口を開いた
「最低かどうかは、俺が決めることじゃない。だが、一つだけ言っとくぞ、椿」
俺はベンチから立ち上がり、椿の目を見据えた
「お前のトラウマは、確かに莇生が作ったもんだ。だが、その莇生が作り上げた『誰も愛してくれないお前』を、桜良は全力で否定してんだ」
「……」
「お前は、桜良が頑張ってくれたのは『デートのため』だけだと思ってんのか?違うだろ。あいつが本当にしたかったのは、デートなんかじゃねぇ。お前に自分をもっと知ってもらって、少しでもお前の特別になることだ」
椿は俯いたまま、何も言わない
「莇生に言われた言葉が、お前の心に刺さったままなのはわかる。でもな、桜良は莇生じゃねぇ。あいつはあいつで、お前のことだけ見てる、ただの犬だ。お前が拒絶しても、何度も戻ってくるような、バカ正直な犬だ」
遊んで、構ってと吠えて飛びつく犬のようなあいつが……
「桜良がどれだけお前のために頑張ってきたか、知らねぇとは言わせねぇぞ。逃げるな。あいつの好意を、あいつの頑張りを、あんなクソ野郎の一言で全部ぶち壊していいのか?」
俺は椿の手を強く握り、無理やり立たせた。浴衣のままの椿は、ひどく頼りなく、普段の威勢の良さは欠片もなかった
「今日はこのまま帰れ。風呂入ってしっかり寝ろ。そんで桜良に一言でもいいから連絡入れとけ」
椿は俺の言葉に小さく頷いて、
「……ありがとう、りん、どう……」
俺に礼を言った。椿はまだ完全に落ち着いてはいなかったが、少なくとも一人で逃げ惑う状態からは抜け出していた
「お前は、俺にならなんでも話せてる。その時点でお前は既にひとりぼっちじゃねぇんだ。お前はちゃんと愛されてるよ」
椿の心の壁が、桜良の存在によって少しずつ崩れてきていたことを、俺は知っている。今回の出来事は、その壁が崩れる最も大きな衝撃だったのだろう
(早く桜良と和解しろよな、椿。桜良のバスケ、また観にいくんだろ)
心の中でそう呟きながら、俺は親友の重い足取りに寄り添って歩いた
「ったく……あのクソ野郎余計なことしやがって……」
家に入っていった椿を見届けて俺は家に帰った。俺はスマホを取り出すとメッセージアプリを開いた
『大丈夫か』
その四文字の送り先は椿ではなく、桜良だった。あれだけいい調子だったのに椿に手を叩き落とされ、逃げられたんだ。あの犬みたいな後輩が、今、どれだけ傷ついているかは想像に難くない
『竜胆先輩?どうして急に俺に?俺は大丈夫っすけど……』
『椿から話は聞いた。お前も傷ついただろ』
『全然、気にしないでください。俺が椿先輩に踏み込みすぎました。先輩、俺の顔を見たら、すごく怖がってた。俺が先輩に迷惑をかけすぎたから、先輩も限界だったんだと思います』
普段の諦めの悪い桜良からは想像もできないほどの弱さが滲みでる文を見て、無意識にスマホを持つ手に力が入る
責任を全て自分に押し付けようとする桜良の優しさが痛々しい。そして、椿の心の闇が、桜良のまっすぐな好意にまで影を落としていることが何よりももどかしかった
『そういう風に思うな。椿は今、混乱してるだけだ。あいつは別にお前を嫌いになったわけじゃない』
そう伝えたかったが、なんて言えばいいのか言葉が出てこない
(俺は、アイツらの関係に、どこまで口出ししていいんだ?)
結局、俺にできるのは、ありきたりな励ましだけだった
『お前が悪いんじゃない。とりあえず、今日はゆっくり休め』
『ありがとうございます。竜胆先輩、優しいっすね』
『そんなことねぇよ。じゃ、またな』
既読がついたのを確認して、スマホを放り投げた
椿のトラウマも、桜良の優しさも、二人を取り巻く状況も、すべてが複雑に絡み合っている。俺にできることは、そっと背中を押してやることだけ
だが、この二人が再び向き合うためには、まず椿自身が立ち上がり、桜良の元へ向かわなければならない。結局は二人次第なんだ

