2-3 離れた先輩
「待たせたな。桜良」
椿先輩の声が聞こえ、わくわくした気持ちで振り向いた
「全然です!せんぱ……」
言葉が続くことなく消えた
「先輩!なんで……!」
「……気が向いただけだ」
目の前の先輩は紺色の浴衣で身を包み、いつも下ろしている前髪を七三分けくらいでかき上げ、普段より大人っぽい雰囲気だ。心の中は、待って……やばいめっちゃかっこいい……と既にお祭り騒ぎ状態だ
「似合わないか」
俺が何も言わなかったからか、少し自信なさげな声色に俺は反射的に先輩の手を取る
「めっっっちゃかっこいいっす!バチバチにイケてます!」
「褒めすぎだ」
「先輩を褒めるのに過剰なことなんて何一つありません!」
「うるさい」
ぷいっと先輩は顔を逸らすが、耳がいつもより少し赤いように感じて、先輩の照れた姿に俺は
「先輩!俺のことも見てくださいよ!俺だって浴衣着たんですから!」
と拗ねたように言う。すると先輩はこちらを見なかったがそっぽを向いたまま
「よく似合ってる……と思う。髪もいつもと違うから印象が変わるな」
そう呟いた。軽くウェーブにセットした髪も褒められて苦戦したあの時間が報われた気がした
「早速屋台を回りましょう!先輩!」
「走るな。転ぶぞ」
小さな子どものようにはしゃぐ桜良に苦笑いしながら着いていく。せっかくの久々の祭り、桜良とこうして出かけるのは始めて。微かに速く鼓動を打つ心を落ち着けながら慣れない下駄で歩いていった
「先輩も焼きそば食べます?」
「いや、ベビーカステラでも買おうかと」
甘いものは好きだ。ほどよく甘いベビーカステラは家でも時々食べるくらいには好きだった
「先輩、甘いもの好きですよね、弁当と一緒にコンビニのプリンとかティラミスとか時々食べてますし」
「まぁな」
「俺にもひとつください!」
「俺のお供になるならな」
「きびだんごじゃないっすかそれ!俺犬っぽいとは言われますけど犬じゃないですからね!」
でも、先輩といられるならそれもありか……なんて言い始めた桜良。置いていくぞ
「……あ!先輩ちょっと待ってください!」
「どうした」
桜良が立ち止まった。視線の先には人混みの中しゃがんで泣いている小さな子ども
「迷子っすかね……。迷子センター連れていきましょう!」
桜良は子どもに近づいて話しかけた。小さな双子のきょうだいがいるとか言ってたから、こういう迷子とかを見過ごせないのだろうな
「先輩〜!どうしましょう……」
不安でいっぱいなのか、子どもは泣き止む様子もなく桜良に抱っこをせがんでいる。しかし食べ終わった焼きそばの容器で片手が塞がっていた
「俺それどこかで捨ててくるからお前はこの子ども連れてってやれ」
「え、でも……」
「まだ祭りは終わってねぇだろ。時間はあるんだ。目の前の子どもを助けてやれ」
その言葉に桜良は迷いながらも頷いて容器を俺に渡し子どもを抱き上げた。俺はそれを確認してごみ捨て場を探し始めた
案外早くごみ箱を見つけ、容器を捨てて俺も迷子センターへ向かおうと足を進めようとした
その時だった
「快斗」
今となっては不快でしかないその声。甘くて優しい雰囲気のある声。反射的に振り向いた
「っ……あざ、み……」
莇生玲宇。中学が同じで、中学二年の終わりがけから三年の半ばまで付き合っていた元カレ。もう会いたくもない人間
「何の用だ」
冷静さを取り戻そうとするが震えた身体は言うことを聞かない
「久しぶり〜元気にしてた?さっきのは快斗の番犬くんかな」
俺の心臓が身体中に響くほど強く脈打っていることがわかる。別れた今だからわかる。俺はこいつの中で、たくさんいるカノジョのたった一人でしかなくて、俺は恐ろしいほどに盲目だった。今だって俺を捨てたことすらなんでもないように人の良い笑みを浮かべ近づいてくる。その笑みに……騙され続けてきたんだ
「お前に関係ないだろ……」
「君、誰かに依存しないと落ち着いていられないもんね。でも、お前の人を拒絶する癖は治ってないみたいだ。誰かに愛されるのが怖いんでしょ?だって、どうせまた裏切られるんだから」
トラウマが波となって押し寄せ、俺の身体は一瞬で硬直し呼吸が浅くなる。さっさとこいつから離れないと……
「ちょっと待てよ」
パシッと音を立てて莇生は俺の手首を掴み、莇生は後ろから俺を抱きしめた。その瞬間寒気が身体を突き抜けた
莇生も、盲目だった俺も、過ごした月日も、莇生ならと全てを委ねたあの夜も……全部、気持ち悪い
「は、放せ……!俺は、俺はもうっ、お前とは……!」
「せっかく会えたんだ。久々に遊ぼうぜ?ワンナイトなら相手してやるよ、お前が好きだった……」
思わず振り返って抱きしめられた腕から抜け出し距離をとった。莇生から逃げようとした。続きの言葉など聞きたくない。なのに俺の手首を掴んだ手は痛みを伴うほど強く握られ放してくれない。
「俺は、っ……」
「先輩ー!」
反抗にもならない反抗をしようとした瞬間、この空間を切り裂くように明るい声が響いた
「先輩!迷子、無事に親御さんと……って、誰ですか?」
「さ、くら……」
「ああ、快斗の番犬くんだね」
莇生は桜良を一瞥し、馬鹿にしたように笑う
「残念だけど、快人は愛が重いからね。君みたいな可愛い後輩には手に負えないよ」
「うるさい!俺と椿先輩の関係に口出さないでください!先輩を離せ!」
桜良は迷わず俺のもう片方の腕を掴み、莇生を睨みつける。その勢いに、莇生も舌打ちをして渋々手を離した
「番犬くんが来ちまったんなら仕方ねえ。でも……」
莇生は俺に急接近し、耳元で囁いた
「ねぇ快人。あんなに必死な子、いつまで君に尽くしてくれるかな。覚えておきなよ。お前なんか、誰も愛してくれない」
その言葉に、祭りの騒音が消え去った感覚に陥った。……誰も、愛してくれない。俺が初めて好きになったあいつも、俺を愛してなんかなかった。桜良は?桜良も……本当は、俺のことなんて……
「……い、……んぱい、先輩!椿先輩!大丈夫ですか⁉︎あいつ、先輩に何言ったんすか!」
桜良が心配そうに、俺の顔を覗き込む
「先輩、あの野郎の言うことなんか聞かなくていいっす!俺がいますから!俺は先輩を絶対に裏切りません!」
桜良は椿の手を強く握りしめ、まっすぐな瞳で訴える。いつもの無邪気な笑顔ではなく、真剣で、椿を守ろうとする強い意志に満ちた顔だった
「先輩を好きになったのは俺の勝手だし、先輩に負担かけたらごめんなさい。でも、俺は今知ってる限りの先輩の全部が、大切で、大好きなんです!」
桜良の言葉は、まるで過去の傷を癒す薬のようだった。しかし、莇生に植え付けられた毒は、それ以上に深く、俺の心を蝕んでいた
(桜良の言葉は本当か?「大切で、大好き」?莇生も最初はそう言ったじゃないか。俺はあいつの言う通り、好きになったら依存してしまう。桜良も、いつか俺の重さに嫌気がさして、あいつと同じ顔をして、俺を捨てるんじゃないか?)
俺は荒い呼吸を繰り返し、俺の視界には、桜良の顔が、嘲笑する莇生と二重に重なって見えていた
『誰も愛してくれない』
『俺の椿先輩への好きの気持ちは、まだ三割も伝えられていないんです』
そんな桜良の猛烈な好意さえも、所詮は一時的なもの、いつか飽きられて裏切られる。莇生に言われた言葉が、桜良の言葉も全て嘘だと叫んでいる
バシッ!
反射的に、桜良の手を強く叩き落とした。
「っ……触るな!」
絶叫にも似た声だった。
「お前も、どうせ……どうせ俺のこと……!」
呼吸が乱れ、その場から逃げ出したい衝動に駆られた
桜良は、叩き落とされた自分の手を見つめ、俺をもう一度視界にとらえた。いつもの明るい笑顔は完全に消え失せ、その瞳は深く傷ついていた
俺は、桜良の顔を直視できず、一目散に人混みの中へと逃げ込んだ。浴衣も、祭りも、何もかもが、愛した人に裏切られた過去の地獄へと変わってしまった

