1-3 わんこな後輩
「はぁ、まさか本当に……」
俺は目の前で見えない尻尾をぶんぶん振って成績表を突き出す桜良に呆然とした。
「古典、先輩が教えてくれたおかげで百点取れたんすよ!しかも一年の中で一人だけらしいっす!」
確かこいつのクラスの古典担当は鬼塚……通称、はげ鬼。定年間近の厳しい教師で難しいテストを作るため鬼と呼ばれている。だからといって薄くなった頭から「はげ鬼」も言い過ぎな気がするが
「俺のおかげでもないだろ」
「先輩のおかげに決まってます!他にもコミュ英は八十点だったけど前回四十三点だったんで倍ぐらいに上がってます!あと家庭科も百点取りました!」
「そうか」
「それで、ここ見てください!順位!ギリギリでしたけど九位になれました!」
桜良のさした指の先には九という文字。本当にこいつは俺とのデートとやらのために頑張ったのか
「……頑張ったな。予定空いてる日を教えろ。俺も予定を空ける」
桜良はぽかんとした顔で俺を見る。頑張りを褒めただけでそんな顔をされるとは心外だが
「へへっ先輩に褒められるとめっちゃ嬉しいっす!」
……まぁ、今日は許してやろう
「昼休み終わるぞ」
「あっ本当だ。先輩と過ごしてると昼休みって本当に一瞬ですね」
「俺は別にそう思わないがな」
「先輩らしいです、そういうとこ」
綺麗な顔出しを崩して笑うその表情は、どこか、無性に……ずるいと感じた。
「本当に、あいつって犬みたいだな」
桜良が出ていった教室で竜胆がそう呟いた
「まぁ、世間で言う犬系男子ではあるだろうな。うるさくて、しつこい」
「お前は生粋の猫系だけどな。気まぐれで、懐かない」
猫、か。確かに、間違っても俺があいつと同じ犬系なんて考えられない。あんなにキャンキャン吠えられない
「そういえば桜良にも同じこと言われたな……」
自然と桜良のことが言葉として出てきた
「お前、なんだかんだ桜良のこと可愛がってるよな。デートの約束までしちゃって」
竜胆のその言葉に授業の準備をする手が一瞬止まった
「可愛がってない。向こうが勝手に着いてくるのを追い払うのが面倒になっただけだ」
「ふーん。本当に嫌だったら、成績なんて理由で約束もしないだろ。お前、誰かに執着されるの嫌いだったじゃん」
図星だった。もはや、自分でも何故了承したのか分からない
『それはもちろんですよ!でも、もし俺が一桁になったら……夏休みデートしてください!』
あの時の、全てを懸けるような桜良の瞳。あの熱量に、俺は簡単に動かされてしまった。俺が誰にも向けてこなかった情動を、桜良だけが引きずり出した
「……授業始まるぞ」
竜胆との会話を無理やり終わらせたが、その後の授業の内容なんて、少しも頭には入ってこなかった。ただ、脳裏には桜良の見せた九位の文字と、満面の笑みが焼き付いていた
「先輩!一緒に帰りましょう!」
「飽きないな。お前も」
「先輩が好きですから!」
時々、こいつの言葉がどこまで本気なのか分からなくなる。そしてどうしようもなく虚しくなってくる
だから嫌なんだ、この関係性や空気感が
「俺は一度、告白を断ったはずだ。それなのになんで俺に執着するんだ。俺にだって、お前が知らない過去がある。知ったら、きっとお前は失望するぞ」
その問いかけに俺の前を歩く桜良は立ち止まった。静かな夕暮れの道で、桜良は振り返り、真っ直ぐな瞳で椿を見つめた
「……俺、中学のときから先輩のこと好きなんです。たった一度フラれたくらいで諦められる恋じゃないんで。俺の椿先輩への好きの気持ちは、まだ三割も伝えられていないんです」
桜良は少し目を伏せて、微笑んだ。無邪気な笑顔とは違う、少し憂いを帯びた笑顔だった
「先輩の過去がどうだろうと、俺には関係ない。俺が今好きなのは、俺に勉強を教えてくれる、ちょっと不愛想でも時々すごく優しい、この椿先輩だけですから」
ただのわんこみたいな後輩だと思っていた。変わり者で、お調子者で、怖いもの知らずで、うるさいくらいに元気で。でも、こいつは……強い
「物好きなやつだな」
もう少し、もう少しだけ……、桜良葵という後輩と遊び遊ばれたい。彼の熱量に、触れていたい
__犬系男子。
その言葉がよく似合う男だとは思う。人に懐いた犬のように、その犬が戯れるように、おかしいほどの距離感で俺の心を侵食してくる
「……なんなんだ。あいつは」
一人きりの家でそう呟いてしまうほどには、俺はあいつに翻弄されているのだろう。だが、俺の意思は変わっていなかった
大切な存在はもう作らない。
その気持ちは揺れていなかった。大切な存在なんて作っても、良いことなんてない。避けた方が幸せだ。あいつが俺に飽きるその日まで適当にあしらい続けていればいい……
『先輩〜!』
『先輩!俺マジで椿先輩大好き!』
スマホの通知ではない。脳裏で再生される桜良の声と笑顔。そして、その笑顔の奥に見える、自分に向けられた純粋な光
チッ。と舌打ちが部屋に響き渡る。俺は一度断った。だから付きまとってきたって、自己責任だ。俺には関係ない。
『先輩!一緒に帰りましょう!』
『先輩の弁当ひと口ください!』
『へへっ先輩に褒められるとめっちゃ嬉しいっす!』
違う、俺は……あんなわんこなんかに絆されない。あんなしつこいやつ、好きにならない。それなのに、もう俺には突き放す勇気なんて……
「ないんだ……」
ふと、過去の記憶が蘇る。優しく、甘い、裏切りの声
『__俺は快人が一番大切だよ』
あの時信じた言葉。その後の地獄
「っ、やめろ……もう、俺を苦しめるなよ……」
もう平気だったのに、忘れかけていたのに、気に留めないようにしていたのに。俺の心の奥に植え付けられた記憶は簡単に消えてはくれなかった
この感情の先に、またあの地獄が待っているのではないか?その疑念は晴れることはなかった

