4-2 深まる想い

 想いを伝え合った次の日、葵は迷いなく快斗のクラスのドアをくぐった
 緊張はしていたが、胸を満たしていたのは、拒絶への恐れではなく、快斗と両思いになれた幸福感と、溢れんばかりの愛おしさだった
「快斗先輩ー!」
 元気いっぱいの声が、教室に響き渡る。クラスメイトたちは一斉にドアの方を見た。この一週間、クラスを覆っていた妙な静寂が、一瞬にして打ち破られた
 椿は、窓際の席で顔を上げて桜良を見た。彼の表情には、もうあの時の恐怖や嫌悪の色はない。代わりに、少しだけ戸惑いと、隠しきれない安堵が浮かんでいた
 竜胆は、口元に手を当てて笑いを堪えている。クラスの女子生徒たちは、噂の可愛い後輩の復活に目を輝かせると同時に呼び方の変化が次のひそひそ話の題になっているようだ
 葵は、まっすぐ快斗の席まで駆け寄ると、いつものように前の席の女子生徒に声をかけた
「先輩!椅子、借りてもいいですか!」
「どうぞ、どうぞ!」
 葵はすぐに椅子を引き寄せ、快斗の机にぴったりとくっつけた。そして、躊躇なく自分の弁当箱を開き、中身を快斗に見せつける
「見てください先輩!昨日の夜、気合い入れて作ったんです!今日は俺の彼女になってくれた記念の弁当っす!」
「誰が彼女だ」
 椿は即座に訂正する。顔は少し赤くなっていた
「そもそも、俺らに彼氏彼女の概念あるのかよ」
「えー?俺、先輩をリードしていきたいんで彼氏っすよ!んで先輩は俺にリードされてほしいんで彼女!」
 そんな他愛のない、いつもの騒がしい攻防が、再び二人の間に戻ってきた。しかし、交わされる言葉の裏には、以前にはなかった確かな信頼と親愛が流れている
「昼、食うぞ」
 椿は、以前のように「一人で食え」とは言わなかった。どこか猫のように気まぐれだが、もう桜良を拒絶しない、温かい瞳でそう答えた
「はいっ!」
 桜良は最高の笑顔で返事をした


 昼休みが終わり、午後の授業が流れ、放課後のチャイムが鳴った
 快斗は、教室で鞄に教科書を詰めていると、すぐに扉の向こうから声が聞こえてきた
「快斗先輩!」
 葵が満面の笑顔で入ってくる。急いできたのか絶妙に開いたリュックのファスナーから筆箱が落ちかかっている
「葵、早いな。筆箱落とすぞ」
 快斗がそう言うと、葵は快斗の机の端に腰掛けた
「筆箱……?って、あっぶな!落とすところだった。先輩ありがとうございます!」
 葵はリュックを一度おろし荷物を整えながら
「だって早く先輩と一緒に帰りたいですもん。今日は部活もないんで」
 なんて当たり前のように言ってくるから
「そうかよ」
 と快斗は照れ隠しに、そっけなく答える。そこへ竜胆がニヤニヤしながら口を挟んだ
「おやおや、呼び方が快斗先輩、葵ですか。随分進展したな。猫系男子、ついに犬に絆されやがったか」
「うるさい、竜胆。さっさと帰れ」
 快斗は竜胆を睨む
「はいはい。じゃあな、二人とも。楽しめよ」
 竜胆は肩をすくめて教室を出て行った。葵は快斗の隣に立ち、リュックを背負い直した
「よし、快斗先輩、帰りましょう」
「ああ」
 昇降口で靴を履き替え、校門を出る。並んで歩くこの日常が、快斗にとっては新鮮で、少しばかり居心地が良かった
 人通りの少ない住宅街に入ったところで、葵は少し立ち止まった。いつものお調子者な雰囲気から一転、真剣な顔になる
「快斗」
「葵……?」
「あのね、俺が中学二年生の時。バスケ部の部活終わりに、居残って練習してたんだ。その日、少し体調が悪かったのに無理しちゃって、体育館の裏で倒れちゃったんだ」
 快斗の足が、ピタリと止まった。その出来事に、心当たりがあったからだ
「途中で気持ち悪くなって、フラフラになって、人もほとんど帰ってたし部員も残ってなかったから、もうダメだって思った」
「その時、そこに通りかかったのが、快斗だったんだ」
「……!」
 快斗は目を見開いた
「意識が朦朧としてて、声も上手く出せなかった。でも、快斗が、急いで先生に電話してくれたり、背中をさすってくれたり、『大丈夫だ、しっかりしろ』って、意識がなくなりかけた俺に、ずっと声をかけ続けてくれたこと、覚えてる」
 葵の顔は、懐かしさと、感謝の気持ちでいっぱいだった
「俺にとっては、あれが運命だった。自分を助けてくれた、あの優しい先輩が、俺の恩人であり、なるべくしてなった好きな人なんだって。それが、俺の初恋」
 快斗は、驚きのあまり声が出なかった。
 確かに、あの時のことは覚えている。中学三年生の冬、莇生とは既に別れていた頃だった。受験特有のピリピリとした空気に追撃するような裏切りと孤独で心が荒んでいた快斗は、誰とも関わろうとしていなかった時期
 快斗は、ふと、あの時の自分の感情を思い返した
 誰も信用できず、孤独だった自分が、意識を失いかけて倒れている後輩を見て、無意識に、誰にも頼れなくなった自分自身と重ねていたのかもしれない。目の前の後輩を助けることが、当時の自分を救う唯一の行動のように感じていた
「だから俺、あの時、意識が戻ったら快斗に直接お礼を言いたかった。でも、快斗は、すごく冷たいオーラを纏っていて……」
 快斗は何も言えなかった
「俺、本当に初めて恋したんだ。快斗の、あの優しい声と、助けてくれた手がきっかけで。それからずっと、快斗みたいになりたい、快斗のそばにいたいって思って、志望校をレベルアップさせて死ぬ気で頑張ってこの高校を受験した。そして再会した快斗に告白したんだ」
 本当なら先に感謝伝えるべきだったよねと続ける葵の話は、快斗が抱えていた「なぜこんなに執着されるのか」という疑問への、完璧な答えだった
 そして、それは、快斗が完全に閉ざしてしまった心の扉に、葵が最初に触れた瞬間でもあったことを示していた
 快斗は、葵の真っ直ぐな瞳を、ただ見つめ返す
「そうか……そうだったのか、葵」
 快斗の口から漏れたその声音は、優しく、そして深い感慨を帯びていた
「俺は、後輩を助けたことも、その時の出来事も覚えてた。でも、それがお前だったとは、知らなかった」
「うん、俺だってわかっていたら例えどれだけ警戒心強くても『誰だお前』『名前すら知らない』なんて快斗は言わないもんね」
 葵は、いつもの調子に戻り、悪戯っぽく笑う
「その頃からずっと一途に想い続けてきた。だから俺を信用して!とは言わない。でも、長い年月をかけてまで快斗のこと諦めてこなかった俺の、わがまま聞いてくれる?」
「なんだ?」
「俺と一緒に、幸せになってほしいってわがまま。俺にこの先の快斗の未来を幸せにする役目をちょうだいってわがまま!」
 一緒に幸せになる。そんな言葉、今まで言われたことがなかった。そっか、俺も……幸せになっていいんだ。こいつと幸せになれる権利があるんだ
「……幸せにするのはお互い様だ、葵」
 快斗はそう呟くとそっと、この日初めて、自分から葵の手を握った
 その手は、以前叩き落とした時の冷たさではなく、互いの過去と未来を繋ぐ、温かい手のひらの感触だった