童ノ宮奇談

「――ほなね、お父さん。うち、学校行ってくるから……」

「うん。お見舞いに来てくれた先生や友達にお礼を言うのを忘れずにね」

そう言って、玄関からお父さんがうちに向かって手を振る。
まだ顔色が良くないけれど、一人で家の中を動き回れるぐらいには回復したみたいで、うちは少し安心している。

今回、お世話になった白虎機関の医療チームの人達にはいくら感謝しても足りない。肉体的な怪我だけじゃなく、体内に入り込んだ霊毒を消すため尽力してくれた。

そんなことを考えながら――。
透き通るぐらい綺麗な水をたたえた田んぼ沿いの歩道をトボトボ歩きながら、うちは学校を目指す。

正面から吹きつけて来る朝の風はカラッとしていて心地良く、水田に植えられたばかりと思しき瑞々しい稲達の穂を揺らしていた。

ふと、空に視線を転じるとそこに広がるのは目が覚めるような蒼。絵葉書に描かれたかのような美しく澄んだ夏空。雲は白く、何もかもが光り輝いている。

ボンヤリと空を見上げたまま、うちはノロノロと考える。

今回ばかりは絶対に死んだ、と思った。だけど、うちはまだ生きている。
お父さん、リョウ、コウ、ゼナ博士、そして姫宮さんを含めた組織の人達。大勢の大人が命がけで笑ひ岩と戦ってくれたおかげで。

一方、うちはと言うと――、今回、何の役にも立っていない。
ただ動揺し、右往左往していただけ。

祈祷所で不用意に動いたせいでユカリから笑ひ岩の分身を移されて意識を失い、気がついた時は病院のベッドの上だった。

「――ほら見ろ言わんこっちゃない。って、これを言わせるの何回目だよ?」

見舞いにやって来たコウは、うちが口を開くよりも先に言った。唸るような声だった。

「約束だったよな? もし、お祓いの最中、もし何か異変が発生したら、お前は一人でも迷わず外に出て青龍の連中に保護っしてもらうって。何でそうしなかった?」

「だって……」

乾いた唇を少しなめて濡らし、かすれた声でうちは続けた。

「お父さんが大怪我して、ユカリがエライことになってたし、ユカリの家族もおったし……。うちだけ逃げれるわけないやんか」

「言い訳するな、嘘つき。最初から守る気なんて毛頭なかったんだろお前」

「…………」

「あのな。これも何度も言ってるけど、怪異とやり合うってのは、人喰いの獣だの殺人鬼だのと殺し合うのと同じなんだよ。……で? お前は、何かと殺し合えるようなタフガイか?」

「それは……。だから、うちは外法で神様を――」

「へぇ、自分の血肉を代償に殺し合いの肩代わりを神様に押しつけようって? まるで餌付けだな。お前、ひょっとして稚児天狗を自分の手駒にでもする気か?」

「ち、違うよ! うち、そんなこと思ってへん! うちはただ自分だって誰かを救えるんやって思いたくて――」

「だから、それが思い上がりなんだよ。大体、誰がお前なんかに救って欲しいって言った?」

「もういい。二人とも、やめろ」

重い声でそう言ったのは、うちとコウのやり取りを黙って聞いていたリョウだった。

「リョウちゃん。言わせてもらうけどね、こいつが勘違いしているのはあんたのせいもあるからね? あんたとレイジ叔父さんがこいつを甘やかせるから――」

「やめろと言ってるんだ」

切って捨てるように言い、リョウはギロリとコウを睨みつける。

「甘えている、という意味ならお前だってキミカのことは言えないぞ。外法頭なんて呪物、いつまで使い続ける気なんだ?」

「……は?」

コウが表情を強張らせ――、蹴りつけるようにして椅子から立ち上がる。椅子は派手な音を立てて床に倒れ、うちはその激しさに思わず身をすくませてしまう。

「何だよ、それ。……僕が自分の母親の遺骨でしか外法が生成できない、低能マザコン野郎って言いたいの? だから早く死んだ方がいいって?」

「そこまでは言ってないだろう。前から言おうと思っていたが、コウは被害妄想が過ぎるぞ」

「……あぁ?」

コウもリョウも沈黙し、火花を散らすような睨み合いを続けていた。

身を切り裂くような空気に嫌な汗が滲むのを何も言えなくなり、ただ息を飲むしかできなかった。今にも殴り合いが始まるような雰囲気にうちは凍り付いているしかなかった。

「……あーあ。やってらんねー」

忌々し気に鼻を鳴らし、先に身を引いたのはコウだった。

「悪いけど、子供のヒーローごっこを見せつけられるのはもうウンザリなんだよねぇ。後はあんた達だけで好きにやってくれ」

早口にそう告げ、荒々しくドアを開け病室を出てゆく。

「僕は塚森を抜ける。――レイジ叔父さんにもそう伝えといて」

そう言ったコウの口調には、強がりや冗談を言っている様子は全くなかった。

「ちょ、ちょっと待ってよコウちゃん……。塚森を抜けるってどう言う意味なん? 本気ちゃうやんな……?」

立ち去ってゆくコウの背中を目で追いかけながら、うちは震える声でそう呼びかけたが返事はなかった。

冷や汗が滝のように背中を流れていた。呼吸が浅く、早くなって息が苦しい。胸がギュッと締め付けられて、痛い。ボロボロ、ボロボロと涙があふれて止まらなくなる。

またコウを怒らせてしまった。
似たような展開はこれまで何度もあったけれど、今回は本気で怒らせてしまった。

確かにうちは馬鹿だし、コウやリョウみたいに捨て身になって戦えるタイプじゃない。いや、はっきり言って弱い。

だけど、それでも……。
自分にとって大事な人の役に立ちたい、守りたいって思う権利すらうちにはないん?

「なぁ、キミカ。お前にもいろいろと言いたいことはあるが――、取りあえず肩の力を抜け」

いつの間にか、うちの座っているベッドの真横にリョウが立っていた。そっと左腕をうちの背中に回し、肩の僧帽筋の辺りに優しく触れてくる。そして、そのまま親指と人差し指を使ってグリグリと揉みくだし始める。

「ちょっ、リョウ!? 痛いって! ちょ、ちょっと気持ちええけど――でも痛いって!」

「お前、まだ若いのにガチガチだな」

「そ、それはコウちゃんが大きな声でまくし立てるから、怖くて……。つい身体が強張ってしもて……」

「肩凝りを甘く見るなよ、キミカ。酷くなれば頭痛を引き起こすし、古今東西、あらゆる病魔は憑依した人間をまず頭痛にするからな」

「え、ウソやろ。ひょっとしてうちにも何か憑いてたりする?」

さっきとは別の意味でうちは泣きそうになる。
一拍間を置いて、リョウがポソリと言った。

「コウの言ったこと、確かに言い方は酷いが――俺も大体、同じ気持ちだ。多分、レイジも」

思わずその言葉にハッとなってうちはリョウを振り仰いだ。真っ直ぐにリョウはうちを見返していた。

「だけど、お前の言い分もよく分かる。お前はちょっと生前の稚児天狗、カガヒコに似ているのかもな。いろいろあって俺はあいつに直接仕えていたが、とにかく自分のことより他人のことだったよ。……まだほんの子供だったけどな」

リョウの声色が少し濁る。
目を伏せたリョウは唇を強く噛みしめていた。

「だけど、まあ――コウの言うことだって間違っちゃいない。あいつは、お前が傷つくのが怖いんだよ。サヤカの……母親が辿った末路を考えたら、あのきつい言動も理解できなくはないだろ?」

「そ、それは……」

リョウの指摘にうちは何も言えなくなる。

コウの母親――、塚森サヤカさん。
お父さんの妹で、塚森家の長女だった人。うちにとっては叔母さんに当たる人だ。

やっぱり組織関連の仕事を請け負っていた人で、コウを連れてとある怪異を鎮めようとして事故に遭い、命を落としたのだ。

うちがサヤカさんと直接会ったのは、ほんの数回だったけど、とても明るくて天真爛漫、笑顔の綺麗な女の人だったと思う。

「一つ質問だが――、キミカは別に痛いのが好きって訳じゃないよな? だったら、全然話は変わってくるんだが」

真顔で変なことを聞いて来るリョウに思わず、うちは絶句していた。

「あ、あんた、いたいけな女子中学生に何聞いてんの?」

「違うのか?」

「違うに決まってるやろ! うちかて、別に痛い想いなんかしたくないわ!せやけど、背に腹は代えられへん状態ならどうしようもないやんか」

「だよな。だけど、発想を変えて――術者であるキミカの身体的、精神的ストレスを極限まで和らげることができたら、どうだ?」

「どうだって……。うち頭悪いから、ようわからへん」

そうだよな、と頷くリョウにうちはちょっとムカつく。
だけど、当の本人は口の中で何やらブツブツ呟きながら、天井を見上げたり、逆にジッと足元を凝視したりしていた。

リョウが何かを考え事をしている時の癖だった。

「ホンマ、一体なんなん……」

「いや、誰にとってももっと幸せなやり方が見つかるかもしれないって思ってな。……手伝ってくれそうなやつに心当たりもできたし」

「……心当たり?」

誰なんそれ? と尋ねようとした時――、そっとリョウがうちの頭を柔らかく抱き寄せてくる。それは思った以上に優しく、暖かで。

まるで、小さい子供みたいな扱われ方だった。気恥ずかしくて、うちは顔から火が吹き出しそうになる。

「ま、どっちにしろ今日明日でどうにかなる話じゃない。その間、コウも頭を冷やせばいいさ」

それからコウは静かに目を瞑り、囁くような声でこう付け加える。

「しばらくは心身を整えることだけに集中だ。できるだけゆっくりな。その間、お前のことは俺が――、いや、俺だけじゃなくて大勢のやつが見守ってるからな」

「……うん」

うちは素直に頷いていた。
すると心の奥底から強張りが解けて――、静かだけど背の高い津波のような睡魔がうちに襲いかかって来た。

「――キミちゃん!」

明るく弾んだ声とともに背中をポンッと叩かれ、その場でうちは小さく飛び上がる。心臓をバクバクさせ、涙目になりながら振り返ると――

「あっ、ごめん。そこまで驚くとは思わなくて……」

「ユ、ユカリ……! あんた、もう動き回って大丈夫なん?」

思わず声がうわずった。

手を前に出したまま、気まずそうな表情を浮かべているのはうちと同じ制服姿長谷川ユカリだった。

本当なら飛び付いて抱きしめ、大声で泣きだしたかったけど何とか思いとどまる。

「今日からキミちゃんも学校? 今回はお互い、本当に酷い目に遭ったよねぇ」

同級生とは思えないほど大人びて綺麗な笑顔を見せるユカリ。

ユカリは自分が怪異に肉体を乗っ取られ、傀儡と化していたことを覚えていない。彼女の家族も同様だ。それどころか、ユカリ捜索に協力してくれたクラスメイトや教員、その他の関係者も事件については一切の記憶を失っている。

ゼナ博士の主導で、白虎機関、朱雀機関の職員たちが協力し合い、彼らの記憶の改竄を行ったからだ。

つまり、失踪したユカリが笑ひ岩に取り込まれていたという事実は伏せられ、「キミカと家族ぐるみで山キャンプに行き、手違いで二人が遭難した」という事故として処理されたと言うわけ。

こんな強引で、下手をすれば暴力的とも受け取られない処理が秘密裡に行われたのは、その方が組織の今後の活動にとって都合がいい、というだけじゃない。

少しでも怪異と関わった記憶は、たとえ本人がそれと自覚できていなくても、別の怪異との縁を生じさせる可能性がある。怪異の記憶など、本当は誰もが忘れ去った方がいいのだ。

だけど、そうだとすれば――

「だけど、キミちゃんがいてくれて助かったよ。あの時、一人だったら私絶対泣いてたもん」

「…………」

「ん? どうしたの、キミちゃん? 黙り込んじゃって」

「あ、あんなユカリ……、うちな……」

うちはもう、ユカリと一緒にいない方がいいのかもしれへん。

だって、うちは鬼味果やから。
鬼に味あわせるための果実だから。

これまで遭遇してきた怪異達も、きっとうちが無自覚のうちにまき散らした霊毒が呼び水になっているのだとしたら。

誰かを救うどころか、うちこそが――。

「げげっ、やばーい!」

と、ユカリが腕時計をを確認し甲高い声をあげた。その素っ頓狂さにうちもハッと我に返る。

「キミちゃん、歩きながら話そ!あんまり、ここでゆっくりしてたら遅刻しちゃう!」

「え……」

うちが返事をする間もなく、ユカリが手を取ってくる。そして、そのまま通学路を歩き始める。

あぁ、いつものユカリだ。笑ひ岩はどこにもいない。
うちの右の手首をしっかりと、だけで優しくつかみ、ズンズン前へ前へと進んでゆく。

ここでうちは心底ゾッとするような事実に気がつく。

今回、リョウたちのお陰で笑ひ岩を撃退できたかもしれないけれど、いつ、新たな怪異が浮き上がってくるかはわからない。

来年かもしれない。三か月後かもしれない。
ひょっとしたら明日かも、三十分後かも知れない。

だったら、うちは一人でどこかに閉じこもっているべきだろう。
誰かを巻き込んで、怪我人や死人が出る前に。

頭ではそう理解していた。
だけど、どうしてもうちはユカリの手を振りほどくことができなかった。

やがて校門が見えてきて――

「やっぱり、ギリギリだったね。田舎って、どうしてこう移動に時間かかるのかな。路線バスの数、増やせばいいのに……」

キミちゃんもそう思わない? とユカリが苦笑しながら振り返る。

「え? どうしたの? 手、強く引っ張り過ぎた? ……キミちゃん、泣いてる?」

ユカリに顔を覗き込まれ、慌ててうちは首を振った。

「う、ううん。大丈夫」

ユカリを心配させるのが嫌で、うちは笑おうとした。
だけど、上手くいかなかった。

「うちはいつもこんな感じやから……」

二十日ぶりに顔を出した学校は、何だか違う世界に見えた。
先生やクラスメイト達はみんな優しくて――、グループの違う、普段はあまり話をしない子達も気を遣ってくれて、何か辛いことがあるならすぐに言いなよ、と声までかけてくれた。

最初は緊張していて、何かある度に――ほんの些細なことでも、ずっと冷や汗が出ていた。けれど、時間が経つうちにだんだんと慣れてゆき、昼休みになった頃にはみんなと冗談を言い合えるようになっていた。

そして、放課後――。

「ごめん、キミちゃん。今日は先に帰ってて。私、家のことで先生と話さなきゃいけないことあって……。ウチの親ね、多分、離婚するから」

「えっ。そ、それって――」

「多分、今の家は出ることになると思うけど――、田舎あるあるで親戚が童ノ宮にはたくさんいるんだよね。そっちでお世話になるから引越しとかはなさそう。少なくとも高校受験までは」

「そ、そうなんや。で、でも……」

「うん。そういうことだからあんまり心配しないでね。――じゃ、また明日」

屈託のないユカリの笑顔にうちは学校から追い出されていた。

そして今、通学路を一人トボトボと歩いている。
日差しがきつく、影は短かった。

足元がふわふわして、何だか現実味がない。
久しぶりに登校して、いろいろ情報や刺激が多くて頭の中の情報処理が追い付いていないんだと思う。

早く帰ろう。早く帰って休みたい。
そう思って、少し歩調を速くしようとした時だった。

プッ、とクラクションの鳴る音が聞こえた。

驚いて振り返ったうちの視界に飛び込んできたのは、一台のみ知らぬ車。それは黒いアルファードだった。窓はスモークで処理されており、中を窺い知ることはできない。

うちを追い越し――、行く手を阻むように車体を歩道に乗り上げさせてくる。

「えっえっ、何?」

うちは狼狽していた。記憶を他取ってみても、あんな厳めしい車に乗っている知り合いはいない。

ま、まさか、誘拐犯とか……?
物騒な想像が頭の中を駆け巡り、思わず後退った時だった。

アルファードのスライドドアが開き、厳めしい車体とは不釣り合いな、柔和でまだ若い、大学を卒業したくらいのお姉さんが出てくる。

「――お久しぶりです、塚森キミカちゃん」

うちと目が合い、お姉さんが微笑みかけてくる。

「今、学校から帰るところですか? いいなぁ、私、学校って小学校しか行ったことがないから制服って憧れ強くて……。あ、ごめんなさい。私、姫宮です。姫宮アンナ。――キミカちゃん、覚えててくれてました?」

「は、はい。もちろん……」

首を何度も縦に振りながらうちは答える。
声は裏返っていた。

「ひ、姫宮アンナさんですよね? その節は大変お世話に――」

「わー、覚えててくれたー! 嬉しー!」

目をグルグルさせながらこれ以上ないテンプレな回答するうちとは対照的に、姫宮さんのテンションは高かった。明るく朗らかな笑顔でパチパチ手を叩いている。

……お世話になった人だし、好意を示してくれるのは嬉しいんだけど、成人女性にしてはちょっと天真爛漫過ぎるような気がする。

「あの、それで今日はうちに何か……?」

「あ、そうでしたね!私ったら一人ではしゃいじゃってごめんなさい」

ズイ、と顔を寄せ姫宮さんはうちの耳元でヒソヒソ囁きかけてくる。
まるで他の誰かに聞かれでもしたら一大事とでも言うように。

「――実はですね、今日はキミカちゃん是非見せてあげたいものはありまして。ここからそう遠くないところに私達、白虎機関の研究施設があるんですよ。ゼナ博士もいらっしゃいますし、私と一緒に行きましょう」

「……見せたいもの?」

「はい! ちょっとしたイベントと言いますか、セレモニーがありまして――。何が見れるかは着いてからのお楽しみ! です!」

何を言うてるんやろ、この人……?
ますます困惑して、うちは姫宮さんの顔を凝視してしまう。

相変わらず姫宮さんはニコニコしていた。とても綺麗で、年上の人に使うのも変だけど――可愛くて、無垢な笑顔だった。

「え、ええっと……。お誘いは嬉しいんやけど……」

言葉を選びながら言った。

「今日はうち、久しぶりの登校日やったから……早く帰っておいでって言われてて……」

「あ、大丈夫ですよ。お父様には私から連絡しました。終わったらちゃんとご自宅までお送りしますし。後で叱られたりしませんから」

お父さんにも通達済みってこと?
なんで、そこまで?

「あの、こんな事を言ったら失礼かもしれないんですけど――、初めてキミカちゃんと病院で会った時からすごくかわいい女の子だなぁって思ってたんですよね」

と、姫宮さんの手が伸びて二の腕をつかむ。

「だから、もしよければ私、キミカちゃんと仲良くしたいなあって」

その手つきは柔らかく優しかったけれど――、思いのほか、しっかりつかんでいて絶対に逃がさないという意思を感じさせた。

正直、気は進まないけど知らない人達じゃないし、何よりうちにとって命の恩人だし。あまり感じの悪いことはしたくない。

内心、ため息をつきながらうちは頷いていた。

「わかりました。そこまで言うてくれるんやったら――、行きます」

それから三十分ぐらいかけて――。

うちは姫宮さんのアルファードに乗って、県境の山中深くに建つ大きな廃墟に辿り着いていた。

一見するとその施設は、廃棄されたゴミ処理場のようだった。
だけど、よく見れば内部から明かりが漏れていたし、ところどころに青い制服を着た人達が立っていた。

青龍機関「警備員」の人達だ。
うちも何度かお世話になっているけれど、一か所にこんな大勢いるのを見たのは初めてかも知れない。

「――はい。これがキミカちゃんのIDカードです。ここにいる間は常に携帯してくださいね」

「ええっ? こ、こんなんいつの間に作ったんですか?」

思わず声が震えた。
姫宮さんに自分の顔写真の入ったカードを手渡されて。

「――じゃあ、行きましょうか。……内部は複雑な構造になっていて危険物もあるから、絶対、私から離れたりなかにある物に触れたりしないで下さいね」

返事を待たず、うちの手を取り、そのまま姫宮さんは廃墟の入り口へと向かって歩き始める。

施設の中はヒンヤリと冷たく湿った空気で満ち溢れていた。
天井に等間隔に接された白い蛍光灯の光が照らしつける廊下は狭く曲がりくねっており、まるで複雑に入り組んだ迷路のようだった。

そこを姫川さんに手を引かれながら歩く。
厳重な警備が置かれているらしく、至る所に監視カメラが設置されていた。

「ここは怪異の封印及び終結方法の研究に特化した白虎機関傘下の特殊施設≪忌み地≫です。通称、AG。Accursed Groundの略ですね」

何も質問していないのに解説を始めてくれる姫宮さんは、やっぱり嬉しそうだった。

「同じ機能を持った施設は日本全国にあって、ええっとここは――」

そこまで言いかけて姫宮さんは急に困った表情になる。
しばらく、黙り込み、天井を見上げていたが、

「そ、そうだ。37番だ。ここはAG-37です。……私、昔から数字や暗号を覚えるの子供の頃から苦手なんですよねぇ」

そう言って照れ臭そうに姫宮さんは肩をすくめて見せる。

数字や暗号が苦手って……この人、一応秘密組織の人やろ?
そんなんで大丈夫なん?

いや、そんなことよりも――

「えっと、姫宮さん……? 今、うちには怪異の封印及び終結方法の研究に特化した施設、って聞こえたんやけど……」

「はい、そうです。ここには日本全国で捕獲された怪異や呪物の類が山ほど収容されてます」

聞き違えであって欲しいと言う、うちの希望を姫宮さんがあっさりと打ち砕く。

「あ、怖がらなくても大丈夫ですよ? 確かに中には危険な怪異もいますけど――、しっかりと練られたプロトコルに従って厳重に封印管理されていますから。余程のことがない限り事故なんて起きたりしませんから」

姫宮さんには申し訳ないけれど、ちっとも大丈夫だと思えない。
そもそも、今回、うちらを散々な目に遭わせた笑ひ岩って白虎機関の収容施設からにげたんやなかったっけ?

そんなことを考えている間に――。

うちらは長い廊下の奥へとたどり着く。そこはエレベーターホールだった。姫宮さんがかごボタンを操作して、エレベーターを呼び、その中に乗り込む。

唸るような振動音を立てながら――、エレベーターは地下深くへと降ってゆく。

正確なところは分からないけれど、下降速度や最下部に到着するまでの時間を体感的に考えると、童ノ宮の神域である「御穴」と同じか、それ以上の深さがあるように思えた。

つまり、ここは地下八百メートル異常もある縦穴の底ということ。

やがて、重々しい音を立ててドアが開きうちを出迎えたのは、これまで見たことも感じたこともない膨大な質量をもった闇の空間。

自然と足がすくむ。巨大な肉食獣が棲む洞穴の入り口に立っているかのような気持ちだった。

次の瞬間、闇の向こうからいくつもの声が聞こえてくる。
すすり泣く声や叫ぶ声。怒鳴り、何かを罵る声。

それらの声は明らかに人のものじゃない。この世のものですらない。
地獄の底から染み出した霊毒そのものだ。

「――足を進めて下さい、キミカちゃん」

寄り添うようにうちのかたわらに姫川さんが立って言う。

「私やキミカちゃんみたいな側の人間は、怖くても、危険でも、前に進み続けるしかないんです。――ゼナ博士はこの先にいらっしゃいます」

姫宮さんに抱きしめられるようにして、うちは闇の中、一歩足を踏み出していた。

この階層は他とは構造違うらしい。
靴の下にあるのは普通の床じゃない。固く頑丈だけど弾力があり、隙間のある金網のようなものを踏みしめた時のような感触があった。

「……」

お互い無言のままそこを進み続けた後、不意に姫宮さんが立ち止まった。そして闇の中、何かをまさぐる気配を立てる。

「私達はこの最下層フロアを禍殺ノ殿と呼んでいます。害悪な怪異をディスポーズ処理するための場所。――早い話が怪異の処刑場ですね」

「しょ、処刑場……」

その普段、使い慣れない言葉だった。
じゃあ、姫宮さんがうちに見せたいものって言うのは……。

と、地の底を思い何かが引きずられるような音がして――。
ゆっくりと目の前の視界が左右に開いてゆく。

そこから入り込んだ白く眩い光に瞳孔を射抜かれ、うちは呻き声をあげていた。だけど、次第にその光量に慣れ――、明らかになったその場の異様さに思わず息を飲んでしまう。

扉の向こうにあったのは、管制室のような広い部屋だった。
様々な計器やモニター、何に使うのかよくわからない機械類が山のように置かれていた。

そこには白い上着をきた十人前後の人達がいて、みんな、うちらに背を向けて立っていた。

その人たちが見つめていたのは、高さ五メートル、幅十五メートルほどの強化ガラス製と思しき巨大な窓の向こう。

そこには照明にまばゆく照り付けられた高校野球のグラウンドのような空間が広がっていた。グラウンドの中心には大きな穴が掘られており、その横には小さなピラミッドのように土が盛られている。

そして、その前には二台の重機が並んでいた。
大きなドラムを載せたコンクリートミキサー車のようなやつと車体の先端に大きなバケットを装備した油圧式タイプ。

「――おい、姫宮アンナ。姿も見せず、連絡も取れないと思ったら今頃ご登場かい? 一体、どこに――」

言ってたんだ? とぼやきながら白衣集団の一人がうちらを振り返る。
それは丸い眼鏡をかけた三十代前半と思しき女性だった。

「つ、塚森キミカ……ちゃん? どうしてここに?」

うちと目が合い、小顔美人な女の人の表情には困惑。
丸く突き出たお腹を、一目で妊娠しているとわかる下腹部をSF映画でよく見かけるサイボーグのような義手で触れている。

この人は柴崎ゼナ博士――。
組織の怪異研究を担当する白虎機関の幹部で上級研究員。
そして、今回、うちの命を怪異から守ってくれた恩人でもある。

「まさか姫宮アンナ、君が彼女を連れて来たのか? どうして……」

「あっ、違うんですよゼナ博士」

ゼナ博士に視線を戻され、慌てたように姫宮さんが手を振る。

「キミカちゃん、今回、怪異のせいでたくさん怖い目に遭ったじゃないですか。その末路をしっかりと見せて安心させてあげたくて……。それにキミカちゃんだって、もう、こっち側の人でしょ?」

「だからって……。直属の上司である私に一言の相談もなく、こんな重要なことを独断で決めるのか?」

「えへへへ……。寮を出た時に思いつきましたから……。だけど、キミカちゃん本人の了承は取りましたし、問題ないですよね?」

「大アリだ。むしろ、問題しかないだろ」

ゼナ博士と姫宮さんのそんな遣り取りを耳にしながら――、吸い込まれるようにしてうちは窓へと近づいていった。

うちが気になったのはグランドに停車している油圧式車両。
より正確に言えば、そのバケットのなか。そこには大小さまざまな形をした石材の欠片のようなものがギッシリと詰め込まれていた。

よく見れば、欠片たちは身を寄せ合うようにして、小刻みに震えているようだった。

「あ、あれってまさか――」

「あっ、やっぱりわかりますか? さすがは塚森家のお嬢さん」

背後から――、顔を覗き込ませるようにして姫宮さんが言った。

「そうなんです。あそこでバラバラに砕かれたゴミクズが今回、キミカちゃんとお友達に酷いことをした怪異、笑ひ岩のなれの果てです」

「……えっ? ……ええっ?」

「捕獲作戦がうまくいったのは鳥羽さんのお陰ですよね。今回の事件解決のMVPは間違いなくあの方です。……そうですよねゼナ博士?」

姫宮さんに話を振られ、ゼナ博士がため息。

「そうだな。小細工で攻めるなら私にも多少の手はあるが……。怪異戦は結局は殴り合いだからね。ああいう力任せの戦いで相手の息の根を止める戦い方は私にはできないな」

捕獲とか、殴り合いとか、息の根を止めるとか――。

女の人同士の会話とは到底思えない、不穏当な言葉が次から次へと飛び出してくる。胸がザワザワとして喉が締め付けられるような感じがだんだんと高まって来る。

「あ、あの……!」

たまりかねて、うちは思わず二人の会話に口を挟んでいた。

「あれって――今回、うちに憑依してた怪異やんね? こ、こんなところで……あいつ、どないするつもりなん?」

「あれっ? ……私、さっき言いませんでしたっけ?」

にこやかな表情で姫宮さんは小首を傾げる。

「あいつ――、笑ひ岩はですね、分不相応にも神様としてお祀りされていたんです。下らない、臆病者の人殺しのくせに。生意気なことに神様としての待遇に不満を募らせ脱走したんです。そして、大勢の人を殺しキミカちゃん達を苦しめた……」

スッと姫宮さんの目が細められる。そこに冷たく暗い輝きが宿ったような気がした。

「だから、今回は温情的な措置は一切取りません。と言うか、最初からそうしておけば良かったんですよね」

片手を口に当てて姫宮さんがクスクス笑っている。
それを受けて、ゼナ博士がもう一度ため息をつく。苛立ちを押し殺したかのようなため息だった。

「とは言え、あいつを殺すことはできない。そもそも、ただの岩だからな。
ならばどうするか。答えは割とシンプルだ。……蘇る暇を与えなければいい」

と、ざらついたノイズ音がして――

「管制室、聞こえますか? こちら処理班。封印対象わー99の破片は全てバケットに収容済み。……まだ蠢いてる。……早く作業を開始したい」

「あ、お待たせしました!」

部屋に響いた作業員と思しき男性の声に姫宮さんが卓上のまいくに向かって明るく答える。

「ドカン、と派手にお願いします! あんなやつに無残に殺された、私達の同僚に皆さんの弔いだと思って――!」

「こら、どうして君が仕切るんだ姫宮アンナ」

呆れたように言ってゼナ博士がマイクを取り上げる。

「……こちら管制室、柴崎ゼナだ。……受信した。……霊毒の濃度上昇に注意して作業班はプロトコルB-12に従い、封印を開始」

「……了解」

ゼナ博士と作業員の機械的なやり取りの音声がグラウンド内にわんわんと反響。

それと同時に待機していた二台の重機車両が起動開始。
まず、油圧式車両が穴へと近づき、バケットの中身をガラガラと騒々しい音を立てて穴へと放り込む。

その瞬間、何百の欠片に砕かれた石の破片たちが一斉に叫び声をあげた。

ひぃいい、とか。うわぁああ、とか。ぎゃああ、とか。
その切り裂くような叫び声たちは、そのどれもがこの上なく悲惨で鼓膜が破けるかと思う程、甲高かった。

うちも目の前で人が殺されるところを見るのは二度や三度じゃないけれど、あれはきつい。

何がきついって――、断末魔だ。発するのが善人でも極悪人でも、それは耳にした者の精神の健康を確実に壊す。

過去の様々なあれやこれやが雑に切り裂かれ、うちは血の気が引くのを覚えた。指先が冷たくなり、全身の震えが止まらなくなる。

そうこうしているうちに――、油圧車両と入れ替わるようにして、ミキサー車が穴の縁までバックで近づいていった。

ミキサー車の後部にあるシュートと呼ばれる排出口から、ドラムの中で攪拌されていたコンクリートが流し込まれてゆく。

石達の甲高い叫び声は次第に息が詰まったようなくぐもったものに変わっていった。

それはあまりにも悲痛で――、思わず自分の胸を片手でかきむしってしまう。そうしなければうち自身が叫び出してしまいそうだった。

「あのコンクリートの中にはですね」

その地獄絵図を覗き込むように、身を乗り出していた姫宮さんが嬉々として言う。

「魔除けの呪符を焼き、灰にしたものを大量に混ぜてるんですよね。笑ひ岩は粉々の状態から一つに結合することもできず、呪符の力で死ぬよりも苦しい激痛に見舞われ続ける、という寸法です」

「呪符の効力は半年ほどだが、定期的にコンクリートを張り直してやれば、ほぼ永久に笑ひ岩を封印することができる」

言葉を引き継ぎ、ゼナ博士が続ける。

「とりあえず、この封印プロトコルを次の定例評議会に提出しなくちゃな。すんなり通るといいんだが……」

「通りますよ!」

即答する姫宮さんは右手を力強くサムズアップ。
その声はほとんど叫び声だった。

「プロトコルじゃなくてマニュアルに格上げして申請してもよかったぐらいです! きっと満場一致で採用ですよ! ――あははは! ホントいい気味!」

明るく甲高い声で姫宮さんが笑っている。
だけど、大きく見開かれた目はちっとも笑っていない。泣きはらした後みたいに真っ赤に充血していた。

……あかん。もう限界や。

「あ、そうだ! どうせならコンクリで固めたまま、高速道路にでも埋め直しません? あの害悪怪異の真上を車がビュンビュン走り抜けるんです! どうせならそれぐらいやった方が――」

「却下。それじゃ保安面で問題があり過ぎだ」

「えええっ? 絶対にそっちの方が面白いのに。……あ、そうだ。どこかの廃村で肥溜めの跡とかにあいつを流し込んで――」

「もういい加減にしてください!」

聞くに堪えず、うちは叫んでいた。
思いのほか、大きな声が出た。

部屋にいた人達、全員の視線がうちらに集中する。
ゼナ博士の形の良い眉がピクリと動き、姫宮さんがかわいい笑顔のまま固まっていた。

管制室に水を打ったような静寂が訪れ、窓の向こうからコンクリートで固められ続ける怪異の苦悶だけが聞こえていた。

「ぜ、ゼナ博士、姫宮さん――! お願いやから困難止めてください! いくらなんでもこれは趣味が悪いです! こ、こんなん、ただの拷問やないですか!」

大人に意見するなんて怖くて膝が震えたけれど――、もう、こうなったら後には引けない。血を吐くような勢いでうちは続けた。

「危険な怪異を封印せなあかん、って言うのはわかります! せ、せやけどこれは、こんなのは身動きもできへん相手を踏みにじり続けるような真似……! たとえ、それがどんな悪い怪異が相手でも――」

うちは間違っていると思います。
本当はそう言い切りたかった。

だけど、出来なかった。喉が詰まり、胸が痛くて。
息が乱れ、頭がくらくらとしてくる。

どうして、うちはこんな怖い場所におらなあかんのやろ?
うちだけじゃなくて、ゼナ博士も姫宮さんも、ここにいる他の誰でも。

こんな場所にいなきゃいけないほど、悪いことをした人がいるとは思えなかった。それがただひたすらに――、うちは悲しかった。

数秒間の沈黙の後。

「――は? ……何、寝言言ってんの?」

心臓に突き刺さるような冷たい一言。
我に返り、うちははっと息を飲む。

声を発したのは姫宮さんだった。
姫宮さんは能面をかぶったかのような無表情だった。さっきまでの愛嬌たっぷりの笑顔は、まるで別人のように影を潜めている。

姫宮さんは目を大きく見開いたまま、うちを凝視していた。その真っ黒で一点の光も射していなかった。

「趣味が悪い? 踏みにじるな? ……ねぇ、キミカちゃん、それ、誰に言ってんの? まさか、私達に言ったんじゃないよね? どうなの?」

姫宮さんの声がささくれ立ち、重く沈んでゆく。
うちは唇を噛みしめるしかなかった。

「誰に言ったのかって聞いてんだよ!」

いきなり、姫宮さんが怒鳴り声を張りあげた。
それはビリビリと耳朶を震わせ――、うちは気圧され全身を縮み上がらせていた。

ハァ、と小さく息を吐き、ツカツカと足早に姫宮さんが詰め寄って来る。
ぶたれると思い、うちはヒエッと情けない声をあげていた。

だけど――

「ほら、キミカちゃん。ベソかいてないでよく見て?」 

咄嗟に顔をかばったうちの両肩を姫宮さんは、その見た目からは想像できないほど強い力でクルリとうちの身体を反転させる。

そして、窓の向こうの景色からうちが視線を外せないよう、ガッチリと顎をつかんで頭をロックしてくる。

「あいつは、笑ひ岩はただの怪異でただの岩なの。おじさんの顔が浮き出ていたり、飛んだり、歩き回ったりしてたの。ふざけた話だと思わない?」

ヒートアップしてゆく姫宮さんの問いかけにうちは答えられない。

「だけど、そんなふざけたやつが人を大勢殺したの。私達はそういうふざけた世界で生きてるの。踏みにじられてるのは、私達でしょ!? そうじゃないの? ねぇ、キミカちゃん! 何とか言ってよ!」

姫宮さんは激高していた。
執拗な炎のように糾弾されながら、うちは啜り泣き、目を閉ざす。

「アンナはね。こいつらに、自分のお誕生日にパパとママ、仲の良かったお友達を全員、殺されたの。全員、グチャグチャに繋ぎ合わされて外せなかったから――、全員、まとめて焼くしかなかったの」

耳元でヒソヒソと囁き続ける姫宮さんの言葉にうちの心臓はとまりそうになる。比喩じゃない。文字通りの意味だ。

このまま姫宮さんの言葉を聞き続けたら、うちは死ぬ。
ショック死する。

だけど、それの何が悪いんやろ?
こんな目に、こんな想いをし続けるならいっそ――。

「これぐらいの仕返し、別に許されるでしょ!? お願いだから許してよ! 認めてよ! でないと、私は!」

「――そこまでだ。姫宮アンナ」

姫宮さんの身体を抱きすくめるようにしてうちから引き離したのはゼナ博士だった。

「これ以上、キミカちゃんを責め立てるな。君がよかれと思って彼女をここに連れてきたのは理解できるが、まだ早いんだよ。まだ準備が整っていないんだ」

そう言ってゼナ博士はうちの顔をジッと見つめる。
グラウンドから照明のまばゆい光が差し込み、眼鏡を妖しく反射させていた。

「まだ、タイミングじゃないんだ。だけど、その時は必ずやって来る。境界線を飛び越え、こちら側に来るかその場にとどまるか。選択を迫られるその時がね」

……タイミング? 
……境界線?
……選択を迫られる?
二人とも、一体何の話してるん?

姫宮さんから解放され、その場にヘナヘナと座り込みながらうちは思った。

「肝心なのはその時、我々が適切なサポートをキミカちゃんにできるかどうかだ。今、塚森家や稚児天狗の反感を買うような行動は今後の我々にとっても得策じゃない」

短い沈黙の後――。

「言われてみればその通りですね。さすがゼナ博士です」

また、姫宮さんの表情が変わった。いや、戻った。
すっかりと険が抜け――、うちのことをかわいいと言ってくれた、優しいお姉さんに姫宮さんは戻っていた。

「キミカちゃん。大きな声出しちゃってごめんなさいね」

両手を合わせ、心底申し訳なさそうな表情で姫宮さんがうちに話しかけてくる。

「私、きっと頭のどこかが壊れてるのね。昔からちょっとしたことで訳がわからなくなっちゃって。でも、キミカちゃんはかわいい女の子のままだし、切り刻んだりしなくて本当に良かった」

「…………」

座り込んだまま、ボンヤリとうちは屈託のない笑顔を向けてくる姫宮さんを見上げていた。うち。

――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ……。

たっぷりとコンクリートを流し込まれた穴の底から、この場所――禍殺ノ殿全体を揺るがすような絶叫が響き渡った。

それはあまりにも肉感を伴い、質量を感じさせ、たとえこの場に霊感を持たない者がいたとしてもはっきりと聞こえただろう。そう思わせるだけの存在感がそれにはあった。

助けてくれ、とその男の声は絶叫していた。
後生だから殺しておしまいにしてくれ、リキマル。
父親に神仏の慈悲を与えてくれ、と。

……え、ちょっと待って。確かリキマルって。
明治時代の苗字必称義務令に伴って変えたけど、大昔、リョウはそんな名前だったって――。

と、その時、ぷっと噴き出す声が聞こえた。
ギクリとして振り返ると――、たまりかねた様に姫宮さんが笑いだすところだった。身体を曲げ目尻に涙をためて、片手でバンバン机を叩きながら。

それに釣られるようにして――、白衣集団全体に笑いが広がってゆく。

全員、ケラケラと馬鹿笑いしていた。怪異の泣き言が面白くてたまらない、と言うように。

あかん。あかんて。

そんな冷たい笑い方は絶対にいつか、途方もなく巨大で手に負えないワザワイを呼び寄せる。

怖い。
怖い。
怖い。

うちは震えの止まらなくなった自分の膝を抱きしめる以外、なす術がなかった。

「大丈夫だ、キミカちゃん。これは悪い夢だから」

静かに歌うような声が聞こえた。

「だから、耳を塞いで目を閉じなさい。次に目を開いた時、嫌なことは据えて消え失せて――、キミカちゃんは自分の家にいる。約束する」

ゼナ博士だった。
ゼナは博士は白衣集団のなかで一人だけ、笑っていなかった。

悲壮、と言うんやろか?
悲しくて辛いのに――、いや、だからこそ凛としている。
ゼナ博士はそんな表情をしていた。

膝を折り、うちの身体にそっと覆いかぶさりながら片手で首筋に触れてくる。義手であるため体温は感じられなかったが、うちの顔や髪を撫でるその手つきは優しかった。

「今日、ここで見たモノはキミカちゃんには関係ない。少なくとも今のキミカちゃんにはね。……姫宮にはああ言ったが、できればキミカちゃんにとっては生涯、縁遠い話であるよう心の底から願うよ」

じゃあお休み。そんなゼナ博士の言葉が囁かれるのと同時、睡魔が巨大な津波のように襲いかかって来た。

それに飲み込まれながら、うちは悟る。
あぁ、これは催眠術だ。うちの精神を守るため、ゼナ博士が即席で処置を施してくれたんだろう。

だけど、ゼナ博士は?
こんな場所に身を置き続けて大丈夫なん?

それは姫宮さんや白衣集団の人達も同じだ。
誰一人、こんな地獄が染み出したような場所に取り込まれて欲しくなかった。

だから、うちは心の中で唱え事を始めた。
眠りに飲み込まれる前に。うちにできることはそれだけだった。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

(了)