童ノ宮奇談

コウの放った外法――、蠢き波打ち伸縮し続ける人毛のかたまりが放物線を描いて宙を飛んだ。

それから轟音を立てて地面を転がっていた怪異の岩そのものの身体に湿った音を立てて絡み付いてゆく。そして、それ自体がまるで意思を持っているかのようにその体積を広げてゆき、自らと岩の怪異を地面に粘り付けるようにして固定させる。

完全に動きを封じられ、岩の怪異、笑ひ岩が怒りと困惑が入り混じった低い唸り声をあげる。

サヤカ、お前は本当にすごい子だよ。
死んだ後も、そんな姿になってまで息子を守ってるんだからな。

それにひきかえ、俺は自分が情けない。
不死身の肉体を持っているくせに――、痛い目に遭うのが怖くて身体の震えが止まらないんだからな。

大きく息を吐いて俺は精神を鎮め、恐怖心を頭の隅に押しやる。

今、考えるべきことはただ一つ。
キミカだ。泣いてたあの子のことだけを想え。
それ以外は全部、後回しでいい。

覚悟を決めて俺は本殿の階段を駆け下り、笑ひ岩がのたうち回る境内の真ん中に向かって走り出していた。

「ありがとな、柴崎さん。後は俺に任せてくれ」

異形としか形容しようがない六本の触手に身体を支えられたまま、意識を朦朧とさせている女に俺はそう声をかけ――、そのかたわらを駆け抜ける。

ベルトに吊り下げたツールケースから一本の金槌を取り出す。頭の片側が爪状のネイルハンマーだ。その辺のホームセンターでも購入できそうな日用品だが、よく見れば赤黒いシミのようなものがあちこちにこびり付いているのがわかる。

「――こいつは鬼玄翁。とある大量殺人事件で使用された、まあただの凶器だが犯人は少なくともこの事件で三十人は殺害している。……呪物としての立て付けは完璧だろ?」

数時間前。
柴崎ゼナは俺に自慢の呪物コレクションを手渡し、説明を続けた。

「警察の科捜研に回収されていたんだが、あまりにも障りが酷いと言うことで白虎機関が引き取ったんだよ」

無言のまま、俺は女が鬼玄翁と呼んだ金槌の柄をにぎりしめる。
途端に激しい眩暈に襲われ、足元をよろめかせる。一瞬、目の前が暗くなり、頭の中で声が満ち、溢れそうになる。

――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
――止めて止めて止めて殴らないで辛い赦してください。
――お願いだから苦しい助けて助けてお願い助けて。
――お前も殺してやろうかぁああああああ……。

「あぁ、クッソッ……」

頭を振って声を追い払い、俺は毒づいていた。

なるほど、これが障りか。確かに対処法を知らず、事前に心構えができていない状態で触れたらかなりヤバいことになりそうだ。

「緊急事態とは言え、こんな危険物を持ち出すなんてどうかしてるぞ」

思わず俺はしかめっ面になる。

「柴崎さん、あんた、姫宮って子にこいつを運ばせたんだろ? 大丈夫なのか?」

「失敬だな。私が何の安全対策も取らせずに部下を動かすとでも? 鬼玄翁は霊毒を防ぐ強力な護符に包んで運ばせたし、事態が一段落したら、あの子にはカウンセリングやメンタルケア、清めの儀式も受けさせるから大丈夫だよ」

つまらないことを聞くな、と言うように眉間に皺を寄せる柴崎。

「そんなことより、ここからが本題だよ。……正直言って笑ひ岩は手強い。何しろあの稚児天狗でさえ活動停止に追い込んだだけで完全に滅ぼすことはできない相手だ。私のセンチビードや塚森家の外法はもちろん、青龍機関の実戦部隊でも手に余るだろう」

そこでだ、と柴崎は言葉を続ける。

「だから、鳥羽リョウ。――あなたがこの鬼玄翁で怪異を粉々になるまで砕いて欲しい。私と塚森コウで何とか敵の足止めをしている間にね。作戦と呼べるほどの作戦じゃないが、神様でもない私に提案できるプランはこんなものだね」

「……了解だ。直々に戦えってあいつに言われたしな。異論はない」

「いや、待って。ちょっと待って」

と、それまで黙って話を聞いていたコウが慌てたように口を挟んで来る。

「二人とも、流れるように話を決めてるけどさ。……いいの? リョウちゃんって、ただ死なないだけのド素人だよ? いっつも、キミカの巻き添えで怪異に殺されてるしさ」

「おい、コウ。お前、その言い方は……」

「鳥羽リョウが素人? いやいや、それはないよ塚森コウ」

抗議しかけた俺の言葉にかぶせるようにして、柴崎が反論。

「君達塚森家のルーツがかつての大怨霊、カガヒコノミコトの祟りを鎮めた祭祀集団・塚護衆。彼はその協力者だ。自ら人魚の肉を喰い、不死者となってまで怪異討伐に貢献した、謂わば英雄じゃないか」

「……いや、英雄はさすがに言い過ぎだ」

柴崎の言葉に俺は鼻白むのを禁じ得なかった。

「あいつを正気に戻すためには肉を切らせて骨を断つしかなくて、その為には死なない身体が必要だったんだ。……お膳立ては全部、塚護衆がやってくれたしな」

「あのね、鳥羽リョウ。あなたと大体同類のよしみで言わせてもらうと、他者のために自分を異形に変えられるのはじゅうぶん英雄的な行為だと思うよ?」

「別に他者のためじゃない。自分のためだ。俺は数少ない友達を失いたくなかっただけなんだよ……」

そこから先は俺は言葉にできなかった。だけど、わかっている。
これは俺が招いた呪いだ。病だ。災いだ。

俺のせいで、あいつは稚児天狗なんかになった。
俺のエゴが、あいつを神様なんて怪異に変えたんだ。
外法の天才だの、稀代の祈祷師何て呼ばれていても本当のあいつはただの子供だったのに。
親に認められたくて、愛されたくて、泣いていただけの子供だったのに。

俺の居場所は地獄にだってきっとない。
業苦に満ちたこの世を一人、何の意味もなくただだらだらと生き続けるのがさだめなんだろう。
そうでなければやらかしたことへの帳尻が合わない。

だけど、だからこそ――、この、無駄に冷たく硬直した命とも呼べない命を何かのための捨て石にしたかった。

そんな想いだけで俺は千年以上の月日を生きて来た。
それしかない俺はもはや人間じゃなく、怪異なのかもしれない。

「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ……!」

脳裏にキミカの姿がいくつも重なって浮かび――、獣のように絶叫しながら俺は、柴崎が鬼玄翁と呼んだ金槌を大きく振り払っていた。

俺の襲撃に気がつき、岩の表面に深く刻まれた中年男の顔が、カッと両目を見開いている。

凄惨だが、どこか滑稽なその表情に思わず口もとがほころぶ。
冷笑してやったつもりだったが、意外にも俺の胸の中はジンワリと温かいものが込み上げていた。

「この目で見るまでは信じられなかったが、あんた、本当に石ころになったんだな。……全くお笑い種って言うのは、このことだよ」

ピキッと鋭い音を立てて――。
鬼玄翁の爪を叩き込むようにして突き立てた箇所、人面の眉間の辺りにかすかだが亀裂が生じる。

怪異が耳朶を震わすような大音声で吠えた。
そして全身を激しく揺さぶり、コウの外法でトリモチのように粘り付く人毛を引き千切り、その勢いで俺へと接近してくる。

その巨体に圧し潰され、挽き肉のようになった無残な自分の姿と激痛が思い浮かび、腰が引け、後退りしそうになるが――敢えて前へ進み出る。

回転する岩石のカドに肩の肉を削り取られ、鮮血をまき散らしながらも俺は身体を翻させ直撃を回避。それから、こびり付いていた人毛を片手でつかみ、ピタリと笑ひ岩に身体を取りつかせる。

今や笑ひ岩は激怒していた。
鬼のような恐ろしげな表情を怒りのあまり、真っ赤に燃え上らせて。

「そんなに怒ることはないだろ。敵味方に分かれたとは言え、せっかくこうして再会できたんだ。この千年間、何をやっていたかお互い近況報告でもしようじゃないか」

自分でも意外だったが――俺はいつになく、上機嫌だった。岩肌に足を引っかけて上へとよじ登りながら、ペラペラと軽口を叩き続ける。

「ひょっとして、あんたを裏切って荘官様に売り飛ばしたこと、まだ怒ってるのか? 別に怒ってないよな? あんただって、まだガキだった俺のこと、散々蹴ったり殴ったりして胸糞の悪い畜生働きの手先にこき使ってきたんだから」

俺は再び鬼玄翁を構え、男の顔――、ヒビの入った眉間に再度、狙いを定める。

石や岩を壊す時、刃物は役に立たない。
斬撃とは表面に刃を滑らせて切ることを言う。笑ひ岩のような怪異の皮膚は固いため、弾かれてしまうのだ。

だが、打撃は違う。金槌などで一点に衝撃を叩き込めば、外側がどれだけ固くても内部から――、割れる。

交通事故に遭った時人体がどんなダメージを負うか、考えてみるといい。表面的には大して傷を負ったように見えなくとも、車に弾き飛ばされた衝撃で内出血や骨折しているリスクは高い。

つまり、打撃は表面よりも、中身により大きなダメージをもたらす。

そして鬼玄翁は、ただの金槌じゃない。
打撃と同時に呪物としての霊毒をも破壊対象の内部に流し込むことができる。つまり、追加ボーナスってやつだ。

――ガゴッ!

乾いた破裂音が境内に大きく響く。

鬼玄翁の爪が、二度目の打撃が笑ひ岩の眉間に深々とめり込み、亀裂がさらに広がってゆく。ボロボロと音を立てて、表皮が無数の欠片となって剥がれ、地面に落ちて弾ける。

岩の奥で、何かが軋む音がした。
まるで中身が悲鳴をあげているように。

「ところで、あんたは都から攫ってきた若い女のことを覚えてるか? 隠れ家の洞穴に連れ去って逃げられないよう、四肢を切断。子を孕ませた後、散々痛めつけて殺した貴族の娘だよ」

出来るだけ淡々と言葉を紡ぎながら、俺はさらにダメージを与えるべく鬼玄翁を振るい、その爪を打ち込んでゆく。

そして、もう一撃。
そして、もう一撃。
そして、もう一撃。

「生まれた子供の初めての仕事は、お姫様を、つまり自分の母親を始末することだった。気の触れた女が面倒になって、あんたがやらせたんだ。……まあ、攫われた時点であの女は死んだも同然だけどな」

そこで一旦、俺は手を止める。

笑ひ岩は既に岩の形を失っていた。内側からほとんどの体表を打ち崩され、食い荒らされ細い芯だけになったリンゴのような――無残と呼ぶにはあまりに滑稽な姿に変わり果てていた。

表皮に刻み込まれていた男の顔はいまや、ほとんど削げ落ちて原型を留めておらず、文字通り虫のような息遣いを立てているだけだった。

思わずため息が出た。

「断っておくが、別にこれは復讐のつもりじゃないぞ。確かにあんたはまがうことなきクズだが……、それでも俺に対して全く優しくなかったわけじゃない。たまに恵んでくれた握り飯や獣の肉は上手かったし、どんなに喰い詰めた時でもあんたは俺を人買いに売ろうとはしなかった」

まあただの所有欲なんだろうな。
そう口にすると、思わず苦笑いが出た。

いつの間にか夜は更け、ヒューヒューという苦しげな息遣いだけが闇に塗りたくられた境内に響いていた。

「でもな、それでもあんたがキミカを泣かせたことは見過ごせない。……それだけは許すわけにはいかないんだ、俺は。だから、親父。今日でお別れだ」

血を吐くように言って俺は鬼玄翁の柄を握りしめ直す。
それをゆっくりと頭上に持ち上げて――、ふと思い付き、最後にこう付け加えていた。

「……あんたが付けてくれたリキマルって名前、田舎臭いとは思うけど別に嫌いでもなかったよ」