「……嘘だろ。あの女、マジで頭がおかしいんじゃないのか」

頭の中で考えたことが思わず、口をついて出た。

横から姫宮アンナがすごい目で睨みつけて来る。尊敬する上司の悪口は許せないってことか。

社会人経験がないからよくわからないけれど、今はこのねーちゃんに構っている場合じゃないので無視しておく。

僕、塚森コウは深夜の神社の境内にいた。
より正確に言えば手水舎の影で、車椅子に座って。

塚森家の人間の常として――生まれてこの方十八年、怪異やら呪詛やら祟りやら、この世にはびこるおぞましいものは一通り見て来たと思う。

だけど、そんな僕でさえ、目の前の光景はとてもじゃないけど、理解できなかった。……いや、理解できないと言うのは違う。何が起きているのか把握していない訳じゃない。

ただ僕はこんな事実として受け入れたくないんだと、自分の脳みそが理解することを拒否してるんだと気がつく。

片や、目を見開き口角を大きく吊り上げた、所謂神楽笑いという凄まじい表情の男の顔が刻まれた巨大な岩、笑ひ岩。

片や、背中からロボットアームのような触手を生え伸ばし、両腕で大きく膨らんだ己の腹を抱えている女、柴崎ゼナ。

両者は境内の中心で激しい戦闘を繰り広げていた。

野太い声で雄叫びをあげ、足元の砂利を蹴散らしながら華奢な女の身体を押し潰そうと体当たりを仕掛ける笑ひ岩。

先端を広げて地面につけ脚がわりにした触手を素早く動かしてゼナ博士はそれをかわし、残った触手で、そのムカデのような牙を表皮に突き立てる。

そして、岩そのものの肉体を齧りとろうとする。

文字通り、人外同士の殺し合いだった。
怪獣映画も真っ青なド迫力の。

あぁ、もういい加減にしてくれ。
こんなの悪夢以外のなにものでもない。

祈祷所でゼナ博士がグッタリとしたキミカを囮に怪異をおびき寄せ仕留めると言い出した時、僕は頭に血が昇った。

あんたは人の従姉妹を何だと思ってんだ、と詰め寄った。
リョウちゃんが止めてくれなきゃ、ゼナ博士の胸ぐらを掴み上げるぐらいには激高していたと思う。

そして、怒鳴った。
怪異を討つためにどうしても囮役が必要だって言うならキミカじゃなくアンタがやればいいだろ、と。

今思えば我ながらなかなか最低なセリフだ。
売り言葉に買い言葉。まるでアンガーマネジメントができないガキだ。

せめて、囮役になるなら僕がやる、とでも言っておけばまだ恰好もついたのだろうが。

だけど、それでもまさか。
妊婦が、いくら怪異化した胎児と感応し合って常人離れた
戦闘力を持っているからって。あんな化け物を相手に自分から真っ向から勝負を挑むなんて。突き出た腹を庇いながら戦うなんて。

あり得ないだろ、普通。

「す、すごいですよねゼナ博士って……」

隣で姫宮が抑えつつも、どこか弾んだ声でつぶやく。姫宮はうっとりとした表情で戦い続けるゼナを見つめていた。
まるで恋する乙女が憧れの人を見つめるような眼差しで。

「お腹に赤ちゃんがいるのにあんなふうにカッコ良く戦えるなんて……。いつか私もあんな風になりたいなぁ……」

は? 言ってんだお前?
こんな生きるか死ぬかの戦いを目の当たりにして、どうしてそんな言葉が出て来るんだ?

危うく僕はしゃがれた声でそうツッコミそうになる。

この姫宮アンナとか言う女は、ゼナ博士の秘書だそうだ。
普通っぽい見た目と少しふんわりした雰囲気だったから少しばかり気を許していたが、所詮は組織の一員だ。

いざとなれば自分の命を投げ出してでも、誰かを守れるならばそれでよしとする。そして、それで万事解決だと思ってる。
残された側の気持ちなど知ったことじゃないのだ。

お前らそんなにお偉いのかよ、って思う。

「あの、塚森コウさん。ひょっとしたら、ですけど……」

黙り込む僕に姫宮が呼びかけてくる。

「このままゼナ博士が一人で怪異をやっつけちゃう、何て流れには」

「ならないね」

言葉短く、僕は断ずる。それだけではさすがに身もふたもないので、その理由を手短に説明してやることにする。

「よく見てみな姫宮さん。……ゼナ博士の攻撃は派手だし、手数も多いけど大してダメージが通ってない。生物由来の怪異ならもっと効果はありそうだけど、所詮相手は岩だからね。苦痛を感じているかどうかさえ、怪しいだろ」

「そ、そんな……」

ゼナ博士の触手の先端から高密度に収束された霊的粒子がビームのように撃ち出され、怪異のゴツゴツとした岩肌を焼き焦がすが、笑ひ岩は全く動じる様子を見せない。

あの胸糞の悪くなるような笑い声をあげながら、触手を弾き飛ばしゼナ博士を押し潰そうと追いかけ回す。

笑ひ岩の巨体に触手を飛びかからせ、ヘビが獲物を締めるようにグルグル巻きに絡み付かせるが――、怪異はほんのわずか、動きを鈍らせただけで拘束力もほぼないようだった。

遠目から見ても、ゼナ博士が次第に追い詰められているのがわかった。

触手の操作に体力を奪われるのか、境内の中を逃げ回りながらゼナ博士は左右の肩を大きく上下させている。両目から溢れる血で赤く染まった顔には疲労困憊のいろ。

そう言えば怪人となった後もゼナ博士のフィジカル自体が強化するわけじゃない、と本人の口から聞いたことがある。

しかし、ほんの数年前まで霊的な修行も戦闘訓練も一切受けたこともなかった素人が松クラスの怪異と渡り合っているだけで驚嘆するべきことだ。

しかし、今は勢いに任せて好戦しているが、このままでは後、五分も持たないだろう。そうなったらゼナ博士はさっきの偽物のキミカ――、身代わりのマネキン人形と同じ運命を辿ることになる。

落ち着け。とにかく落ち着け。
僕は自分に言い聞かせる。

全身冷や汗をかいている場合じゃない。
呼吸を詰まらせて、みっともなく泣きべそをかいている場合じゃないだろ。

気を鎮めて、何のために自分がここにいるのか思い出せ。
さもないとゼナ博士が、女の人が死ぬぞ。
母さんの時みたいにまた。

僕は瞑目し、自らの精神を真っ白で広大な空間の中、どこまでもまっすぐに伸び続ける水平線として思い描く。

その遥か先にかすんで見えるのは朱塗りの鳥居。
その向こうにあるのは、生きた肉体をまとったままでは決して立ち入ることができない神域、天狗道。

そこに童ノ宮の神、稚児天狗は鎮座している。
意識しようとしまいと僕ら塚森家は、いや、童ノ宮とある程度のかかわりを持った人間はみんな、天狗道と繋がることになる。

あのいけ好かないチビめ。
いちいち勿体ぶりやがる。

こっちはいつだって生きるか死ぬかの極限状態だ。
ちまちま力を貸すぐらいならお前が直接出てきて怪異を鎮めろ。もちろん、キミカの身体を内側から突き破って顕現するくだりはナシで。

舌打ちしたいのを堪え、目を瞑ったまま僕は左手の人差し指と中指をピタリと合わせて天に向けていた。

そして、その指先でゆっくりと円を時計周りに描きながら唱え事を始める。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

僕の呼びかけに応え、外法頭から指先に転送されて来た人毛が渦を巻き蠢き寄り集まりながら、その体積を次第に膨れ上がらせてゆく。

――妖ノ髪・絡繭。
外法頭から派生する術の一種。外法の力で漁で使う網のように編み込んだ人毛に粘着性のある霊毒を染み込ませ、即席の呪物を生成する。

正直、これまで使いどころのなかった術だ。だけど、今回、いいとこなしの僕にはおあつらえ向きかもしれない。

と、その時だった。

「――ゼナ博士ッ!」

姫宮の悲痛な叫び声が聞こえた。
そのせいで集中が途切れ、舌打ちしながら僕は境内を振り返った。

そして、思わず顔を強張らせる。
僕が目にしたのは丁度、ゼナ博士の顔が天高く放り投げられたところだった。

笑ひ岩がその小さな山のような身体を激しく揺さぶり、絡み付いた触手を振り払い、投げ飛ばしたのだ。

自然と息が止まり胸が締め付けられる。なんてレベルじゃなかった。比喩ではなく、本当に僕は自分の心臓が破けるのではないか、と思った。

しかし、ゼナ博士が頭から地面に叩きつけられるよりも早く、
六本の触手の先端が開き、地面に突き立つようにして母胎の姿勢を安定させる。それで衝撃はかなり押さえられたはずだ。

だが、それでも目が回ったのかゼナ博士は動くことができず朦朧とした表情を浮かべていた。

そこを狙って横倒れになった笑ひ岩が巨大で武骨なローラーとなってゴロゴロ転がってくる。

「ほら、見ろ! 言わんこっちゃない!」

指先の外法を維持したまま、僕は立ち上がっていた。
同時にグキッという嫌な音が体内から響く。先日、怪異の分身による攻撃で重症を負ったのと同じ個所だった。

「し、しっかりしてください!」

姫宮が叫び、よろめきそうになった身体を支えてくる。

激痛のあまり、意識がどこかに吹き飛びそうになるのを僕はさらに強く地面を踏みしめることで繋ぎとめようとする。

そして、指先に集中させていた外法を手を伸ばしてつかみ取っていた。

グッチョリと身の毛のよだつような感触が掌に走る。

どうして、僕ばっかりこんな目に遭うんだ?
どうして、僕の周りには頭のおかしいやつしかいないんだ?

ゼナ博士だけじゃない。
姫宮も、レイジ叔父さんも、リョウちゃんも。
もちろん、キミカも狂ってる。

みんな、狂ってる。
だからきっと僕も、そのうち気が狂う。

「全部、あんたのせいだからな母さん……!」

思わず呪いの言葉が口をついて出る。
その気持ち悪さに自分でも鳥肌が立っていた。

僕は怪異目がけてまるでそれ自体が命を持っているかのように蠢く外法を投擲していた。