夜は更け、空には鏡のような満月が静かに輝いていた。
その冷たい光を浴びながら空中高く浮き上がり、ヘプターのように静かにホバリングしているのは、大きな岩のごとき怪異だった。
その怪異は、かつて人間だった。
しかし、この世ならざる者と化し、千年以上の月日が経過しているせいか、その頃の記憶はほぼ失っていたが。
漠然とではあるが、怪異は理解していた。
この世はケとケガレ、生と死、祝いと呪いが絶え間なく喰らい合う戦場であることを。
そこに善悪は介在しない。
否、善悪と言う概念そのものが虚構なのだ。
だから、と怪異はほくそ笑む。
今夜、ここで行われることは決して悪行ではない。
人であった頃も、怪異と化してからも――ただ己の内側に込み上げてくる衝動に従っているだけだ。
男は殺し、女は犯す。
子供はその柔らかい肉を喰らう。
食い物であれ、宝であれ、生命であれ、それが他人の物を奪うのは生きるためでは決してない。
誰かを傷つけ踏みにじり奪うこと。
それ自体を好んで行う怪異は神仏など一切信じない。
だが、自覚もないまま、奉ずる存在があった。
気分が高揚した時、その存在を称える詞が自然と口をついて出る。
オン・マーラヤ・パーピーヤス・ソワカ。
オン・カーマダーヤ・マハーラジャ・ソワカ。
オン・パーピマ・マーヤヴァンス・ソワカ。
怪異はこの詞の意味を知らない。ただ唱えるだけで己の何もかもが肯定された気分になる。それだけで十分だった。
ふと、怪異はギョロリと目玉を蠢かし眼下を見下ろす。
そこは、閑静な住宅街の片隅にひっそりとたたずむ神社。
入り口の鳥居には「童ノ宮」と書かれた神額が掲げられ、境内には落ち葉一つなく、社殿は建立されたばかりのように手入れされていた。
怪異の注意を引いたのは拝殿の前に盛られた土俵だった。
土俵の周囲には、注連縄が張られ白い布で覆われた円状の舞台が設えられている。
その上に寝かされているのは小柄でやせっぽっちな人間。両手両足を紐で縛られ、声を出せぬよう布を口に押し込められていたのは子供だった。しかも、女だ。
と、ふわりと仄かな香りが漂ってくる。み
ずみずしい果実と甘く濃厚な血と肉を混じり合わせたかのような香り。それは小娘の身体から立ち上ってくる香りだった。
それが自然界に存在するものではない、と怪異は気がつく。
邪術の類によって練り合わされた霊毒の香りだ。
霊毒とはその名の通り、霊的な毒をいい大抵の場合、致死性の猛毒だ。しかし、猛毒は時として妙薬にもなりうる。取り込んだ者を強める、不老不死の果実にも。
その味に思いを馳せ、口の中で生唾が溜まってゆくのを覚えながら、怪異は思考する。
恐らくあの小娘の中にはそれが埋め込まれ、溶け込んだ血液が全身を巡っているのだろうな……。
つまり、あの小娘は怪異を引き寄せ喰わせるための生贄というわけだ。
そもそも怪異がこの場に訪れたのは、その身を削って産み出した分身を回収するためだ。威力偵察のつもりで二体送り込んだのだが、そのうち一体は滅ぼされ、もう一体も人間の体内に入り込んだままだ。
本体たる自分と感覚の共有が遮断され、怪異は怪訝に思っていたのだが、実際に標的である小娘を前にして何となくその理由が理解できた。
小娘の体内は想定外に居心地がよく、その快楽を貪ることに無我夢中になり、連絡を取ることを忘れてしまったのだろう。
気がかりなのは小娘をここに置いていった人間どもにどんな思惑があるか、だ。
分身が人間どもに討たれたのは意外だったが、所詮はは分身。
本体たる怪異とでは、その強さに雲泥の違いがある。人間どもも馬鹿ではないので、それに気がついたのだろう。
その上で恭順の意を示しているのかもしれない。
あいつらは最初こそ歯向かおうとするが、敵わないと理解した途端、手のひらを返して女子供を捧げるのと引き換えに命乞いをする。
そう、やつらはこの俺を恐れているんだ。
そして、この小娘は俺のものだ。血の香りから察するにこの年齢ですでに生娘ではないようだが、そこは大した問題ではない。
再び、甘く漂ってきた霊毒の香りに怪異は、心の臓がドクンと高鳴り全身に血が熱く巡る感覚にとらわれる。
けひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃ。
笑いながら怪異は急降下をかける。数百メートル下の地上――、丸い舞台の上で力なく横たわる小娘に向かって。
一撃で小娘を楽にするつもりは、毛頭ない。
まず両手両足をへし折ってやる。次は腹を押し潰して、中身を全て吐き出させてやる。最後はその可愛い顔の皮を全部引き裂いて、歯を全部へし折り、頭蓋を派手に砕いてやる。
あふれ出した血や肉、骨片は小娘の苦悶や恨みとともに強くこの地に染み込むことになる。そして、この世に新たな地獄道との通路を生じさせるだろう。
おぞましい妄念をとりとめもなく垂れ流しながら、怪異はか細い小娘の身体の上に押し乗ろうとした。
と、その時だった。
行燈の火が吹き消されるようにして――、怯え切っていた小娘が無表情となり、その瞳から光が失せる。
あッ、と思う間もなかった。
落下の勢いが止められなかったそれの身体は無残にも小娘の足を砕き折っていた。
しかし、飛び散ったのは血や肉ではなかった。
無機質なプラスチックの破片だった。
思わずそれは小娘を二度見する。
小娘は息をしていなかった。さては死体だったか、と怪異は気色ばんだが、いや、そうではないと思い直す。
小娘は人間でもなければ、その遺体でもなかった。
小娘は作り物だった。
千年以上昔にこの世ならざる者へと化した怪異の知るところではなかったが――、それは人間どもが衣服を購入する店などに置かれているマネキン人形だった。
なんだこれは? 一体、どういうことだ?
怪異の困惑はすぐさま怒りへと転換される。
それを叩きつけるべき相手を求めて、怪異が血走った眼を蠢かせた時だった。
「――賭けは私の勝ちだな」
凛とした声が境内に響く。
巨体を軋ませ振り返った怪異の視界に飛び込んできたのは、社殿の影から現れた一人の女だった。
「こんな作戦絶対失敗すると言った塚森コウはさぞ悔しがるだろうね。しかも、こちらの予測と百パーセント一致した行動。……お陰で組織内の私の評価がまた高まる。まったく、怪異さまさまってやつだね」
医者のような白い上着、短く切りそろえた髪がよく似合う小顔の美人。
月明りを受け、眼鏡のガラスを白く反射させながらゆっくりとこちらに向かって近づいて来る。その歩みに恐れや躊躇いは一切感じられない。
怪異は困惑を禁じ得なかった。
普通の女なら――否、男でも――俺の姿を一目見れば恐慌状態に陥り、最悪正気を失ってもおかしくないというのに。
どうして、こいつはこんなに堂々としていられる?
「どうした、わー99? 伝承に従い、笑ひ岩と呼ぼうか? ひょっとして、私のことが分からないのか?」
あぁ、そうか。と怪異は思い出す。
この女、一昨日、俺の分身を滅ぼした異形の女か――。
「寂しいやつだなぁ。……ま、所詮は岩だし。物覚えが悪いのも当然か」
女はフッと皮肉な笑い声をもらし、
「何だ? 怒ったのか? 実際、あの子を痛めつけたくて、欲望のまま蹂躙したくて、暴虐の限りを味わい尽くしたくてノコノコ降りて来たんだろ? そう言うのを間抜けって言うんだ。馬鹿丸出しって言うんだよ」
女の声は美しく耳障りが良かったが――。
だからこそ辛辣な物言いが際立ち、吐きかけられた怪異を余計に苛立たさせる。
と、女は左手――シリコン製の義手の人差し指を立て、怪異の下で無残に破壊されたマネキン人形を指し、言う。
「お前が潰したのはキミカちゃんじゃない。姫宮に頼んで研究室から運ばせた形代だよ。元々は呪いを振りまく、ただの害悪生きマネキンだったけどね。いろいろと改造し、身代わり人形にしたんだ。本物のキミカちゃんはお友達と一緒に安全な場所で三十人を超える警備員に保護されてるさ」
キミカ? ……なるほど。鬼味実というわけか。
と言うことは、怪異に喰わせるため特別に育てられた人間、と言うことになる。通りで上手そうな血の香りがするわけだ。
だが、この女は何だ? 奇妙な力で分身を滅されたことからも、真っ当な人間ではないことは分かるが……。
「私のことが気になるのか? ……じゃ、教えてやる」
怪異の思考を読んだのか、女が少し肩をすくめて言う。
「私は柴崎ゼナ。ただの女だよ。お前のご同類に何もかも食い荒らされた。この、身体だけじゃない。世界一大切で大好きだったあの人も、将来の夢やキャリアも全部だ」
柴崎ゼナと名乗った女の口角が次第に吊り上がってゆく。
その表情はあまりにも陰惨で――女は嗤っているようにも泣いているようにも見えた。
「そして今度はお前がお前に同僚を大勢殺された。……知ってるか? あの人達はな、それぞれ事情は違ってもこの社会のため命を懸けて働いている人ばかりだった。善人ばかりだったんだよ」
ジッと眼鏡の奥から女が濁った瞳で見すえてくる。
それはいかなる感情も読み取れない、生きながらにして心を失った者の眼差しだった。
「こんな私を惨めだと思うか? ……そうだな。認めるよ。自分でも笑ってしまうぐらい惨めだよ私は。死んだ方が楽になれるだろうさ」
自嘲するように鼻を鳴らした女の手がつっと動き――、下腹部に触れる。まるく突き出た自らの胎に。
「こんな私でも母親なんだよ。この子を何としてでも産んで育てあげる。今、私が生きてる理由はそれだけだ」
まさかこの女、子を孕んでいるのか?
卑小な分身が相手ならまだしも、身重の身体で熊より巨大な俺の前に立ち塞がるとは――狂っているとしか思えない。
「ハハッ、私は狂人か。確かに自分でもそう思う」
おどけたように両腕を広げ、女は何度もうなづく。
怪異を見すえたままの瞳に侮蔑の色が浮かぶ。
「それで? お前は自分を何だと思ってる? まさか、神社で祀られていたからって本当に自分を神様だと思ってないよな? いくら何でもそこまで場じゃないよなぁ? どうなんだよ、なぁおい?」
次第に加速して行く女の嘲笑を聞きながら、怪異は沈黙する。
沈黙するしかなかった。
お前はなんだ、と問われたら怪異だと答えるしかない。
だが、怪異とはなんだと問われたら――、わからない。
かつて自分が人間であったことは覚えている。
しかし、どんな人間であったか具体的な記憶は一切残っていなくて。
「特別にレクチャーしてやるよ」
女の声色にほんの少し哀れみが加わる。
「ありとあらゆる怪異って存在は、浮き上がるモノだ。より正確に言えば、この世のありとあらゆる物質・思念が異界――仮にここでは地獄道と呼ぶ――から流出した、或いは何らかの儀式によって呼び出されたエネルギー的なものが結合し、生成された存在。それが怪異」
朗々と言葉を続ける柴崎ゼナの眼鏡の向こうで――、瞳孔が裂けた。ひとりでに、十文字に。たちまち赤黒い液体が涙のように女の頬を伝って流れ落ちる。
両目に炎を押しつけられたかのような激痛を受けているのは想像に難くない。にもかかわらず、女は平然と話し続ける。
「当時、妊娠中だった私がバケモノの牙にかかり――、その霊毒の影響を受けた私の子は胎児のまま怪異と化したんだ。おまけとして母胎である私をも蘇生させたのは皮肉だけどね」
ゆらりと――。
女の背中からムカデのように長く、節くれだったものが鎌首をもたげるようにして立ち上がる。
それは艶のある鉛色に輝く、六本の触手だった。その先端には、まるで肉食獣のような牙が生えそろい、まるで醜悪な花のように放射状に広がっている。
「ほら、これが私の子の能力が顕現した姿だ。私はセンチビードって呼んでる。……スーパーヒーローみたいでかっこいいだろ?」
ウットリしたように言って、女は片腕を差し出し頭上で蠢く触手に触れる。柔らかな羽根をつかむような優しい手つきで。
「この子はいい子でね。テレパシーで脅威を感知すると母胎である私をこうやって守ってくれる。だから、私達は親子一組の怪異なんだ」
そう言った女の口調は誇らしく、どこか夢を見ているようでもあり――、悲痛なほど優しかった。
一瞬の沈黙の後、
「そして、お前はただの岩だ。ケダモノ同然に好き勝手に生きて死んだ下らない殺人鬼。その生への妄執が、その残滓がこびりついただけの石コロがお前の正体だ」
血を吐くように女の喉から迸った叫びには、悪意が染み込んでいた。
「組織がお膳立てした鳥籠の中で大人しく実験動物でいれば良かったものを。私の、母親の目の前で、よくも子供を傷つけてくれたものだ」
絞り出すような声を発し、ガリガリと片手で女が頭を掻きむしる。
どう見ても正気ではない。どうやら肉体の異形化に合わせて、その精神までもが人外魔境の境地にまで歪んだようだ。
ここに来て、ようやく怪異は目の前の女に危機感を覚える。
一刻も早く押し潰し、すり潰し――、腹の中の胎児ごと殺すべきだと。
もはや笑い声などあげる余裕もない。
怒声を張りあげ、怪異はこの世ならざる者と化した女を目指し、突進を始める。
「言うまでもないが私達は童ノ宮の神様とは違う。もちろん、塚森家ともな。私達に祓い清める力はないし、あったとしてもお前などに使いはしない。畏れ多いからな」
猫のような唸り声を発しながら女は頭を大きく前に傾け、両腕でその腹を柔らかく抱きしめる。
「だから、私達は単純に粛々と――お前をディスポーズ処理する」


