あっと言う間の出来事だった。

時間に換算すればほんの数十秒、どんなに長く見積もっても五分以上は掛からなかっただろう。

だけど、経験上俺は知っていた。
この世に地獄が顕現するためには、まばたきするほどの時間があれば十分だということを。

けひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃ。

ガラスを掻きむしるような耳障りな声でキミカが笑っている。部屋の真ん中で。両耳を手で押さえ、口を大きく開いて。

見開かれた瞳から赤く粘りけのある液体をドロリと垂らしながら、キミカが笑っていた。……いや、ひょっとしたら泣いているのかもしれない。

その足元には背中を赤く染めたレイジと白眼を剥き、口から泡を吹きこぼした長谷川ユカリが倒れ伏してた。二人とも、ピクリとも動かなかった。

そして、この場にいた者は誰も、声一つ、身じろぎ一つとることができないでいた。もちろん、俺も含めて。

――またしくじったな、リキマル。

頭の中で誰かが俺を嘲る声が聞こえた。
リキマル。それは昔の俺の名前だ。明治の平民も苗字を使用することが義務付けられ鳥羽リョウと名乗る以前の名。

――大恩ある主君が地獄に沈む様を見過ごしただけでなく、今度は我が子のように思っていた娘が怪異のオモチャにされることを許すのか?

――いっそ、お前自身が地獄に落ちてしまえ負け犬め。

だが、それでも俺はその場から動かなかった。
動くができなかった。

豹変し狂ったように笑い、そして泣き叫ぶキミカの姿に視線を釘付けにしながら、その間、俺ができたことと言えばただその場で立ち上がっただけだ。

ガバッとその場でキミカが両手両膝を床に着き、いきり立った猫のような唸り声をあげる。素早くこちらに向き直り、明らかに敵意を宿した視線を叩きつけて来る。

「リョウちゃん! キミカを捕まえろ! ユカリって娘から怪異をうつされてんだ! もし逃がしたら――今度こそ殺されちまう!」

叫ぶ声が聞こえた。
コウだった。

「キミカのそんな姿、僕ら以外に晒しちゃダメだ! そいつはガキだけど――それでも女の子だ! 頼むから恥をかかせるな!」

叫び続けるコウの怒鳴り声はまるで慟哭だった。

……コウ、やっぱりお前はいい子だよ。
最初から分かっていたことだが。

と、頭の中で俺を罵り続ける声が止んだ。

次の瞬間、俺は床を蹴って飛び出し――出入り口からキミカが飛び出す寸前、背中でドアを締めていた。

目の前で立ち塞がれ、低い姿勢のまま警戒を露わにキミカが低く唸り、睨め上げてくる。

まるで獰猛な目つきだった。滾るような怒りと苛立ち、敵意と怯えがないまぜになったその目つきに俺は見覚えがあった。

六年前、レイジに連れられてここにやって来たばかりのキミカはまるで草子絵の餓鬼のように痩せて骨と皮ばかり、目だけをギラつかせた子供でろくに言葉も話せず、いつも怯え、殺気だっていた。

一度、俺はキミカの頭を撫でてやろうと不用意に手を伸ばし、指を一本食い千切られたことがあった。まるで、その頃に戻ってしまったかのようだった。

けひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃ。

キミカの口からまた叫び声のような笑い声。
いや、泣き声なのかもしれない。

シャアッと風を切るような息を吐き、キミカが飛び付いて来る。霊毒の影響か長谷川ユカリと同じく、異様に長く尖った爪が目を狙ってくる。

その攻撃を素早くかわして、俺はキミカの背後に回り込み、か細い胴に両腕を回して大きく上に持ち上げていた。

軽い。
まだ十三歳の子供と言うことを差し引いてもキミカは軽かった。

それで、ここからどうする?
どうすればいい?

取っ組み合いのセオリーに従えば、ここから投げ技につなげるのが妥当だが――、相手はキミカだ。

そんなことをしたらレイジを始めとする塚森家の外法使い達が総出で殺しに来るだろう。正確に言えば俺を殺すことは不可能だが、生きたままバラバラにした後、肥溜めに投げ捨てるぐらいのことはやる連中だ。

と言うか、万が一、キミカに傷を負わせるようなことになったら俺は自分で肥溜めに飛び込むだろう。

と、左の二の腕に抉るような痛みが走った。俺に捕まったまま、キミカが歯を思いっきり、突き立てた。噛みつかれたのだ。

いつものキミカの――と言うか、人間の咬合力じゃなかった。

見る見るうちに白いシャツが赤く滲んでゆき、ボタボタ土地が床にこぼれ落ちる。

ベリッと嫌な音を立てて、俺の前腕部――手首近くの肉がゴッソリと食い千切られ神経や骨が見えかけていた。

込み上げる痛みに全身から冷や汗があふれ、吐き気に力が抜けそうになる。

ダメだ。このままじゃ取り逃がす。
もしそうなったら二度とキミカと会えなくなるような気がした。

クソッ、もういい加減にしてくれ。
内心、俺は激しく毒づいていた。

そもそも、こんな事態は最初から俺の手に余る。
千年前、成り行きで俺は怪異の肉を喰らい不死者となり果てたが、少し人より腕力があるだけの凡人だ。

なのに、俺はどうしてこんな……?

と、その時、目があった。祈祷所の片隅から真っ直ぐ黒く光る瞳と。

正確には左の目だ。
もう片方の目は黒い眼帯で覆っていた。

長い髪を艶やかに光らせ、口を固く結んで俺を見つめている。身にまとうのは稚児装束。歯の長い下駄を履いていた、まだ幼い子供……。

その姿はあの日、最後に見た姿とまるで変わらない。

御曹司。頼むよ。
頼むからキミカを、この娘を何とかしてやってくれ。
あんた、今は神様なんだろ?

隻眼の稚児の右手がスッと持ち上がり、真っ直ぐに俺を指さしていた。子供の小さな唇が動き、声にならない声で言葉を紡ぐ。

――そなたに任せる。

何だそりゃ。
任せるって……どういう意味だ?

俺は心の中で呼びかけ続けるが、稚児は一歩後ずさり、スウッと周囲の景色に溶け込むようにして――消えた。
煙のようにその姿をかき消していた。

ふざけやがって。思わず俺は奥歯を噛みしめる。
生きてた頃からそうだが、どうしてあいつはコミュニケーションは一方通行なんだ。

「――良くやった、鳥羽リョウ」

凛とした女の声に名前を呼ばれ、俺は我に返る。

目に飛び込んできたのは、白衣をまとった胎の膨らんだ女が足早に近づいて来るところだった

女の手には注射器。その先端に伸びる長く細い針を一切躊躇うことなく女はキミカの首筋に突き立てていた。

俺の腕の中でヒッと悲鳴をあげ、キミカが全身を強張らせる。

「おい、あんた……!」

「心配しなくていい」

思わず声を荒げた俺に女は平然と答える。

「この薬は鎮静剤――のようなものだ。私が開発した霊薬を調合している。これでしばらくの間、塚森キミカの中に入り込んだ怪異の分身も活動できないはずだ」

女の説明が終わらないうちにキミカが頭をガックリとうな垂れさせ、その四肢からtからが抜けてゆく。

ああ、そうか。
暴れ、もがくのを止めたキミカの身体を抱き直しながら、俺は思い出していた。

白虎機関の一員で、名前は確か柴崎ゼナ……。
医者だか研究者だかは知らないが、レイジやコウとも交流があり、二、三年前から塚森家にも出入りしている女だ。

お互い道ですれ違ったことが何度かあり、会釈をする程度の間柄で、こうして言葉を交わすのは今回が初めて。……のはずだが、相手は俺のことを把握しているらしい。

「――姫宮アンナ。……大丈夫? 動けるかい?」

「はっ、はいっ。な、何とか」

柴崎ゼナに呼ばれ、秘書と思しき娘が顔面蒼白で駆け寄ってくる。

「この状況を外で待機している警備員たちに報告。長谷川ユカリの家族を安全な場所に移し保護をするよう要請して」

「は、はい。あ、あの記憶処理は――」

「ああ、それなら必要ない」

祈祷所の真ん中、ユカリに取りすがりすすり泣いている家族たちを一瞥し、柴崎ゼナは続けた。

「彼らは思ったより強い。時間はかかっても娘の身に起きたことを受け入れられるだろう。……それよりも塚森レイジが負わされた傷の具合が気がかりだ」

「そ、そうですね。怪異の霊毒に対処できる病院を手配しないと……」

「ん。なるべく迅速に頼む」

女二人の会話に耳を傾けていると――、足を引きずるようにしてコウが近づいて来る。

キミカを見た後、コウは俺の肉を削がれた腕を見た。
コウは顔をしかめ口を開きかけたが、結局何も言わないまま目をそらしていた。

「さて、と」

姫宮アンナの背中を見送り、俺とコウの顔を見比べるようにして言う。

「現状、我々はやられっぱなしと言ったところだが、どうする?」

「どうするって……」

女の目に挑発的な光が宿っているのを感じながら俺は呻いた。

「まずはキミカ達の安全確保だ。物忌堂は手狭だがみんなを守るにはあそこしか……」

「ふむ。悪くはない。だけど、相手が巨大な岩だと言うことを考えれば心もとないな。実際、私は敵が堅牢な家屋を目にしているし、籠城すればそのうち諦めてくれるような相手でもないからね」

何と答えたらいいのかわからず、俺は腕の中のキミカを見下ろしていた。

子供らしい、かわいい寝顔だった。
こんな阿鼻叫喚の地獄絵図のような状況にあってなお、キミカの寝息は穏やかだった。

「で? 結局、何が言いたいんスか?」

苛立ちを隠そうともせず、コウが口を挟む。

「こっちは当主まで大怪我負わされて苛々してるんで。怪異の第三波がいつ始まるかもわかんねーし。いっそ、玉砕覚悟で打って出ろ、とでも?」

「わかってるじゃないか。さすが塚森コウ」

柴崎ゼナの口元に笑み。
整った女の顔がいびつに歪み、俺は背筋が冷たくなる。

「つまりはそう言うことだよ。祓いも防御も無意味な相手なら残る手立ては一つしかない。殺しにかかるんだよ、こっちから」

「……は?」

「そのためには囮が必要だ」

女の眼鏡は、窓から差し込む陽を反射して白く輝いていた。
そして、舌なめずりするような口調で柴崎ゼナが言った。

「その大役は塚森キミカ――、いや、キミカちゃんにお願いしようか」