童ノ宮奇談

オン・マーラヤ・パーピーヤス・ソワカ。
オン・カーマダーヤ・マハーラジャ・ソワカ。
オン・パーピマ・マーヤヴァンス・ソワカ。

男か女か、大人か子供かもよく分からない声が聞こえている。
誰かがどこかで唱え事をしているみたい。

うちがお父さんから教わった真言、童ノ宮心経とは違う。
お父さんの一つしたの弟で、お坊さんのライシンおじさんが唱えるお経とも違う。

基本、真言の構文って神仏の名前を称え、助力を請うのがデフォルト。だけどこれは……

マーラヤ? 
カーマダーヤ? 
マーヤヴァンス?

多分同一の神格を呼び変えているのだと思うけど、うちの乏しい知識じゃどの神様を指すのか分からない。

なんかすごい嫌な感じやな、とうちは思った。
冷たくねっとりとした響きが耳の中で長く反響し、すごく気持ちが悪い。

それにどこかで聞いたことがあるような気がする。

そう思った次の瞬間、自然とうちは目を見開いていた。

頬に固く冷たい床の感触。
うちは広い社殿――、祈祷所の真ん中でうつ伏せになって倒れていた。

ゆっくり、うちはその場で身体を起こす。

乱れた髪を片手で直しながら、部屋を見回すが誰の姿もない。お父さんもリョウもコウも、他の人も誰もいない。

「……えっと。……何やったっけ?」

ほんの数分前のことが思い出せず、うちは首を傾げる。

祈祷所にいると言うことは、儀式を手伝っていたのかもしれない。だけど、もしそうならうちが一人でここで寝ている理由がますますわからない。

何かあったのだとは思うけど、頭の中にモヤがかかったように思い出せない。

突然記憶が飛んでしまうのはうちにとって日常茶飯事だけど、丸一日何をしていたのか覚えていないというのも珍しい。

ため息交じりにうちはつぶやく。

「……ま、えっか。……それより」

お腹が空いた。
さっきから胃の辺りからキュルキュルと切ない音が鳴っている。

誰もいないのに、ここに続けても仕方がない。
家に帰ろう。

お父さんが帰っていれば何か作ってくれるだろうし、そうでなくても何か買い置きがあるかも知れない。

それにレトルトのカレーぐらいなら自分で料理できる。カップラーメンだって。……あれはまあ、料理とは言えないか。

そんなことを考えながら、うちは出入り口のドアノブへと手を伸ばす。

すりガラスになったはめ殺し窓の向こうから昼下がりの陽光が気だるげに差し込んでいた。

ドアを開け一歩足を外に踏み出した時、どこかで物音が聞こえた。パチンと言う、スイッチを切るような渇いた音が。

次の瞬間、よく見慣れた童ノ宮の境内が溶けるようにして消え去り――。

半紙に墨汁をぶちまけ、そのまま塗りつぶしたかのような漆黒の空間にうちは包み込まれていた。冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、ツンと鼻の奥に差し込んで来るのは濃厚な黴の臭いだ。

「えっ、何ッ……!?」

思わず身をすくませ後退ったうちの背中にはゴツゴツとした岩肌の感触が当たる。上からチョロチョロと水の流れ落ちる音が聞こえ――。

たった今、出て来たばかりの祈祷所の入り口は闇に飲み込まれていた。

と、その時だっった。

ジャラジャラと金属がこすり合い、うち鳴る音が聞こえた。
岩壁に背をついたうちの首筋に氷のように冷たくて硬いロープ状のものが絡み付いて来る。

それは鎖だった。
表面を黒く焼き上げ、触れただけで肌を傷つけられるようささくれ立たせた長い鉄の鎖。

うちはそれをよく覚えていた。
と言うか、忘れたくても忘れられるはずがない。

塚森家に引き取られるまでずっと、うちはこの鎖に繋がれていたんだから。まるで動物みたいに。

頭の中が真っ白になり、全身の水分が蒸発して行く感覚に身の毛のよだつ。

「い、嫌ッ! 嫌やぁああ!」

かすれた悲鳴をあげながらうちは喉に食い込んで来る黒鎖を外そうと両手を伸ばしていた。だけど、ささくれに傷つけられ、てのひらが血まみれになるばかりで鎖をつかむことすらままならない。

それでも半狂乱になってもがいている間に蜘蛛の糸に絡まった羽虫みたいにうちは全身を縛りあげられていた。

この鎖は外法によって編まれた呪物で名を怨鎖と言う。
たっぷりと霊毒が塗りこまれ、それに繋がれた者は物理的・肉体的だけではなく、精神的にもその場で縛りつけ支配される。

だけど、これはお父さんが神様の力を借りて壊してくれた。
なのに、どうして今頃……。

気がつけばうちはただ一人、闇の中で身動き一つ取れなくなっていた。

自然と呼吸が早まり、浅くなる。
脳に取り込める酸素量が減少。意識が今にも消し飛んでしまいそうだ。

心臓は早鐘のように打ち鳴り、熱を帯び、暴発寸前の機関室みたいになっていた。

助けて。
お願いやから助けて。

そう叫びたかったけど、声は出ない。
助けてもらおうにもここには誰もいない。
みっともなく項垂れて泣き続けるうち以外、誰も。

オン・マーラヤ・パーピーヤス・ソワカ。
オン・カーマダーヤ・マハーラジャ・ソワカ。
オン・パーピマ・マーヤヴァンス・ソワカ。

また、あの唱え事が聞こえた。
男とも女とも子供ともつかない声。そもそも人間かどうかも疑わしい。

と、闇の中でポウッと小さな光がともる。
それはモウジャの皮膚のように青ざめた炎。血で染めたように赤い蝋燭の先端で、風もないのにゆらゆらと揺らぐそれは明らかにこの世のものじゃない。

天狗火。外法を用いて天狗道から呼び寄せられた炎の形をしたある種の精霊だ。

と、天狗火を載せた燈明がふと持ち上げられて――

「あっ……あっ……」

絞め殺されかけている小動物のような泣き声をうちは漏らしていた。

青ざめた光が照らし出したのは、目を細め口もとをほんの少し緩ませた男。身にまとっているのは純白のバスローブのような、ゆったりとした衣服。

古代のギリシャ彫刻のように整い、春の木漏れ日のように優しい雰囲気をまとった男の微笑みとは反対に、うちは全身の血液が凍りつき、腐り果ててゆくような感覚に捕らわれる。

怖い。
奥歯が震え、ガチガチと打ち鳴る音を聞きながらうちは思った。

それがダメなことなのは分かっている。
自分に怖がることを赦してしまったら心は坂道を転がり落ちるボールみたいにどこまでも加速して行き、回収できなくなる。

だけど、無理や。
うちはお父さんやコウ、リョウとは違う。
うちは怖い。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。

「――やあ、娘よ」

優しく労わるような声がして、うちは前髪を思いっきりつかみ上げられる。

「今日もお前に会いに来てやったぞ。……何か言うことがあるだろう?」

「あ、ありがとうございます……」

「んー? 何がありがとう、なんだ? ちゃんと言葉にしてごらん?」

「……きょ、今日も会いに来てくれてうれしいです。……あ、ありがとうございます」

「ダメ。二秒遅い」

スパーンと言う小気味よい音が響き、衝撃を受けてうちの頭は右に大きく揺さぶられる。直後、左の頬がまるで火をつけられたかのように熱くなる。

数秒経って、うちは自分が平手打ちをされたことに気がつく。

今日はついていたのかもしれない、とうちは思う。いつもみたいにグーパンチじゃなくて助かった。ゲンコツで頬や歯を砕かれるのはしんどいし、辛い。

「――ほら、今日の分だ」

うちの目と鼻先に突き出されたのは、お椀だった。
金箔が張り巡らされた、儀式用の立派なお椀。

「好き嫌いは許されないからな。残さず全部食べなさい」

チラッとうちは薄目でお椀の中を覗き見る。
そして、すぐにやめておけばよかった、と後悔する。

皿の上に山のように盛られていたのは――、ムカデ、ゲジ、ヘビ、カエル、トカゲ、ヒル、ゴキブリ。それに他の何だかよくわらないたくさんの毒虫がギチギチひしめき合っていた。

男は無造作にそこから一つかみ握りとって。

「さあ、アーンしなさい」

「ま、待って。ちょ、ちょっと待って。お、お願いやから……」

「待たないよ。だって、お前はこの日のために生まれてきたんだ。……前に話しただろ。世の中には無意味に生まれ、死んでいくクズがどれだけ多いか」

「そ、そうやけど……」

「だけど、娘よ。お前の存在にはちゃんと意味がある。それがどれだけ幸せなことか、わかるかい?」

「で、でも、うち、お母ちゃんに――」

ボロボロ、ボロボロと涙をこぼれ落としながらうちは思った。

そうだ。お母ちゃんに会いたい。
今日ここで死んでしまうのなら。せめて、最後に一目お母ちゃんに。

「……ん? ……お母ちゃん?」

男は不思議そうに首を傾げ――、不意に「ああ」と大きな声をあげる。

「お前を産んだ女のことだね。あの女ならもう、この世にはいないよ。殺したからね」

「えっ」

「だって、仕方がないじゃないか。お前は私の物なのに。私からお前を盗み出して逃げようとしたんだ。そりゃあ、私だって頭に血がのぼるさ」

しょうがないよね、わかるよねキミカ。
そう言ってうなづきながら――、男はうちの口のなかに毒虫を押し込んで来た。

ブチュブチュ、グチュグチュと口のなかで嫌な音がして、うちは思いっ切り目を見開いていた。

ああ、これが地獄なんや……。

猛毒が、呪詛が、腐敗が、あらゆる病の元が喉から体内に流し込まれるのを感じながらうちは悟った。

だから、この世界は怖くて悲しいことだらけなんやって。

「――ほら、少し休みなさい。他の兄弟と違ってお前は本当に頑張っている。何て偉い子なんだろう」

血と涎がまじりあったものを激しく吐き出し、むせ返っているうちに、かすんだ視界の向こうから男が微笑んでいる。

汗ばんだうちの顔を撫でる男の手つきは柔らかく、優しかっった。

「……な、なんで?」

「ん? 何が聞きたいんだい?」

「……う、うちとお母ちゃんのこと迎えに来てくれた時、嬉しかったのに。……みんなで歓迎会で開いてくれて、うちホンマに嬉しかったのに」

深く息を吐き、うちは尋ねた。

「なのに……、なんでこんなことするんお父ちゃん?」

相変わらず笑みを浮かべたまま、男が――うちがお父ちゃんと呼んだ男が顔を目と鼻の先までグイッと近づけてくる。

男の瞳は黄金色に怪しく輝き、ジッとうちを凝視していた。まるで、うちの内側まで見透かそうとするかのように。

「なんで、だと? バァアアアアアカ!」

その口元が大きく、半月の形に歪むのを見た。

「理由などない! お前は私が作った人蟲だ! お前はただ、私のために泣き、苦しみ――、そして死ねばいい!」

げらげら、げらげらと。
まるで毒液を吐きかけられるかのように、うちは真正面から罵声を浴びせかけられていた。

と、ピタリと笑うのを止め、素面に戻った顔で男が言う。

「あぁ、そうそう。ついでだから教えておこうか。キミカ、お前の名前は鬼味果と書く。意味は、鬼が味わう果実。……お前にピッタリの名前だろ」

男にウィンクされ、うちはフヘッと変な声で応えていた。

こんなん、もう笑うしかないやんか。
だって、うちは最初から、うちがこの世に生まれたのは――。

オン・マーラヤ・パーピーヤス・ソワカ。
オン・カーマダーヤ・マハーラジャ・ソワカ。
オン・パーピマ・マーヤヴァンス・ソワカ。

また唱え事が聞こえた。
どこから聞こえてくるのか、今度ははっきりとわかった。

うちだった。その不愉快な響きの真言は、うちの口から紡ぎ出されていた。

そして。
うちは自分が砕け散るのを感じた。