怪異の襲撃に遭った、その翌日。

朝一番でうちは童ノ宮に戻った。
白虎機関の上級研究員である柴崎ゼナ博士とその秘書の姫宮さん、それに従兄弟のコウも一緒に。

もっともコウは怪異に負わされた傷が思った以上にひどく、ゼナ博士にお医者さんとしてそのまま病院に残り治療に専念するよう言われたのだけど、頑としてそれを聞き入れなかった。
不意打ちされたうえに、相手がまったく未知の怪異だったとはいえ、ただ単にボコボコにされただけで引き下がってちゃ塚森の外法使いの沽券にかかわるとか言うて。

そして、今うちがいるここは童ノ宮。その境内の片隅に立つ、一階建てで三十畳ほどの広さの社殿、御祈祷所。

一般の参拝者が神様に感謝や願いを祈るための社殿を拝殿と呼ぶのに対し、こちらは神職や僧侶が神様に加護を貰うための施設だ。

東向きの壁にはお神酒や季節の旬などが供えられた立派な祭壇が設えられ、その最上には御神体である天狗の面が飾られている。

そして、その天狗面が見おろした位置にうちの親友、長谷川ユカリが椅子に座っていた。いや、座らせられていた。

ユカリは白虎機関のスタッフの手によってフォーマルな黒いワンピースに着替えさせてもらっていたが、その顔には相変わらず生気がなくボンヤリとしていて、その視線は微動だにせず、宙を見つめていた。

膝の上に置かれたユカリの両の手首を結ぶのは、黒く短い戒めの縄。
戒め、といってもあくまでそれは儀式のための小道具でユカリの肌に跡が残るほど強く縛っているわけではないが――。

それでも、一番仲の良い友達が戒められていると思うと胸が痛む。
本当に戒められているのはユカリではなく、ユカリのなかにいる悪いやつだと頭の中で理解はしていても。

うちの隣に横一列に並んで座っている中年の女性、小学校中学年ぐらいの女の子二人と幼稚園年長組と思しき男の子――ユカリの家族も同じだった。

四人ともずっと泣きじゃくっていた。

特にお母さんの取り乱し方はひどくて、準備に忙しいお父さんに代わって事情を説明し、「これからユカリのお祓いを執り行いますから」と説明したうちの目の前で身を投げ出すようにして土下座。どうかユカリを助けてください、と懇願するほどだった。

見兼ねたリョウがやって来て何とかユカリのお母さんを落ち着かせ、席に着かせてくれた。ゼナ博士には「君も大変だな」と声をかけられたが――、こればかりは仕方がない事だと思う。
明るく優しい長女のあんな風に変わり果てた姿を目の当たりにすれば、家族が動揺するのは当たり前だ。

どっちかと言えば、うち的にはユカリの父親の姿がこの場にない事の方が違和感だったけれど。

それにもう一つ、うちには大きな気がかりがあった。
お父さんが千年以上続いている神社の神職を務めている関係上、こういう場面に何度も立ち会ってきたのだけど、特に忘れられないのが、うちが小学校の四年生ぐらいだった頃の出来事だ。

ある人が怪異に倒れ、急遽お父さんのお祓いを受けるため、童ノ宮に担ぎ込まれた。
その人はテレビタレントなんかもしている、いわゆる名物社長のおじさんだった。お父さんとは古い友達で、何度か家に遊びに来て、うちも直接話をしたことがあった。

その人は親から受け継いだ小さな不動産事務所を、日本では知らない者がいないぐらいの大企業に育てあげ、元々稼業であった不動産はもちろん、食品会社や観光業、果ては芸能事務所までと手広く商売を手掛ける敏腕経営者。

だけど、それは世間に向けたあくまでも表向きのイメージ。

裏ではヤクザ顔負けの強引な手段でライバル企業などへの脅しや罠にはめるための裏工作は当たり前。
自分のところで働いてくれる社員に対しても、大声で怒鳴る、罵る、そして手を出すの三拍子。
これで自分は他人から感謝こそされていても恨まれてなどいない、と本気で信じていたんだから、おめでたいを通り越して、むしろ恐ろしいレベルだ。

もちろん、そのまま無事で駆け抜けられるほど人生は甘くない。

恨みは降り積もって呪いとなり、呪いはこの世ならざるナニカと結合し怪異となる。
怪異は生者に憑き、その人の心と命を壊し尽くそうとする。

そして、結論を言うと――怪異にとり殺されてしまった。
その日の遅く、お父さんは疲れ切った顔で帰って来て、リビングルームのソファーに座り込んだきり、長い時間、一言も喋ろうとはしなかった。

最初は黙っていたうちもしびれを切らし、こう尋ねた。

「……あのおじさん、なんで助けてあげなかったん?」

まだほんの子供だったとは言え、我ながら全く空気を読まない残酷な発言だった。

お父さんは驚いたような顔でうちに振り返り、赤くなった目を大きく見開いていたけれど――やがて低い声で言った。

「本当は助けてあげたかったんだけどね。……お父さん、ドン臭いからね。一発、結構きついの貰っちゃって。その隙におじさんは――」

赤黒く人の手形のような痣が浮き出た、自分の二の腕を見つめながらお父さんは言った。
その頃にはお父さんの表情はいつものように穏やかで優しいものに戻っていたが――その目は暗かった。

「あのお方も応援に現れてくれた時はひょっとしたらって思ったんだけどね。やっぱり、だめだった」

「神様が応援してくれたのにあかんかったん?」

「たとえ神様が来てくれたとしても、現世のことで頑張らなきゃいけないのは現世の人間だから。……全部、お父さんの力不足なんだ」

そうなんや、と曖昧にうちはうなづくしかなかった。
それからしばらくの間、うちもお父さんも何も言わなかったけれど――。

「あのね、キミカは修祓って言葉、知ってるよね?」

「うん。お祓いやろ?」

「そうだね。じゃあ、お祓いって具体的にどういうことか、言える?」

「えっと、それは……」

「よく誤解されるんだけど――お祓いってさ、別に怪異をやっつけることじゃないんだよね。結果的にそういうことに繋がることもあるけれど。本来、お祓いって言葉は人間を含めてあらゆるものをあるべき姿に戻すことだと思うんだ。その過程でケガレを払うことも必要なわけだけど」

「うーん。うちアホやから、ようわからんけど……」

少し考えてうちは言った。

「汚れた部屋を掃除してスッキリするようなもん?」

「……キミカは賢いなぁ。お父さんよりよっぽど頭いいよ」

そう言ってお父さんはうちの頭を何度も、何度も撫でた。
悲しそうに声を震わせて笑いながら。

「あのおじさん、荻久保って言ってね。――詳しくは言えないけど誰でもドン引きするような本当に悪いやつでね。あんなやつだったなんて、お父さんも全然知らなくてさ」

「……」

「それでも助けたかった。友達だからね。……だけど荻久保の場合、ケガレはあいつ自身の真ん中にあった。だから神様直々においでいただいても、怪異は無限に湧いてきて……」

そこで大きくため息をつき、お父さんは言葉を切る。

「キミカ」

「はい」

「ごめんね。こんな泣き言、キミカに聞かせるべきじゃないよね。……本当にごめん」

「……うん。……ええよ」

頷いてうちは歩み寄り――、爪先立ってお父さんの頭をそっと撫でた事を今も鮮明に記憶している。

なんでやろう、とうちは思った。
今朝早く、白虎機関傘下の病院で目覚めた時も童ノ宮に戻って来てからも――この時の情景がずっと頭から離れない。

こうやってお父さんが儀式の準備を終えて現れるのを待っている間も、頭の中でその時の映像が繰り返し再生されている。

落ち着け、落ち着くんや。
そう、うちは自分に言い聞かせる。

確かにお父さんも童ノ宮の神様も救える時ばかりじゃない。
だけどお父さんは本物の神職だし、神様――稚児天狗だって本物の神様や。
救えなかった人たちのその倍以上はいつも助けてる。

うちらのすぐ後ろにはゼナ博士と姫宮さん、そしてリョウがいる。
そして、祈祷所の外には二十人を超える青龍機関の「警備員」さん達が怪異が侵入してこないよう、守りを固めてくれている。

みんな、ユカリを守ろうとしてくれている。

それに、それにうちだっていざという時はうちだってユカリのために――。

「……おい、キミカ」

と、小さな声で隣から肘をつつかれた。コウだった。
コウが視線を部屋の真ん中にいるユカリに固定したまま、うちに語りかけてくる。

「な、何よ、コウちゃん……。もうすぐお父さん来るねんで? 私語は禁止やろ……」

「――お前、今、いざとなったら外法を使おうとか思ってただろ?」

単刀直入。
思わずうちは顔を引きつらせてしまう。

「……な、何言うてんの? う、うちそんなこと思ってへんよ」
「言っておくけど――、お前が唱え事を始めたら僕がお前の舌を引き千切ってでも止めるか
らな。で、その後、その肉塊を喉に押し込んでやる」

淡々と平坦な声で脅迫を続ける従兄弟の横顔をうちは二度見。
右の頬に走る大きな傷を除けば王子様系とでも言うべき端正な顔立ち。冗談を言ってる様子は全くない。

「い、嫌やなぁコウちゃん……。そんなんされたら、うち死んでしまうて……」

「あ? 別に平気だろ。童ノ宮の神様が治してくれるんだから」

な、なんなんこの人。めっちゃ怖いねんけど。
それに、なんでうちはここまで嫌われとるんやろ。
訳がわからへん……。

うちが戦慄し身を震わせていると――物音ひとつ立てず、お父さんが祈祷所に入って来た。
平安貴族を彷彿とさせる立烏帽子をかぶり、童ノ宮の御神紋――中央で軸を重ね合わせた三つの独楽――が入った目も鮮やかな紺色の狩衣と白い袴という出で立ちで。

屈行と呼ばれる特殊な歩き方でお父さんは祭壇とユカリの前に進み出ると、御神体である天狗面に向かって深々と一礼。それから天狗の団扇を模した大幣を両手で持ち、頭上に向かって掲げ、童ノ宮心経の奏上を始める。

南無 大天狗小天狗十二天狗有摩那。
南無 秋葉大権現。南無 三尺坊大権現。南無 火之加具土神。

童ノ宮の由縁を申し上げる。
その昔、湯山の里に天の遣わした御子あり。
燃え盛る御姿でご慈愛を与え給う。

ふるふると震ふ亡者。
荒ぶる神。
隔てるたゆたう水面。
くるくると独楽のごとくに回りしは人の心と世のことわりの物語。

諸々の禍事・罪・穢・物の怪有らむをば焼き祓い給え。
燃やし清め給えとかしこみかしこみ申す。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

……やっぱりお父さんはすごいな。
普段の話し声とは違う、朗々として響く唱え言に耳を傾けながら、うちは静かに瞑目する。

この唱え言、童ノ宮心経は日本全国の霊山に鎮座する天狗達に修祓の開始を宣言、童ノ宮の成り立ちを語り、稚児天狗こと童形の神、ガヒコノミコトに助力を願うための詞。

だったら――、ここはやっぱりうちが一番がんばらんと。
家族は別としても、この中で一番ユカリのこと理解しているのは親友であるうちに他ならないのだから。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

一定のリズムで天狗の団扇の形をした大幣を左右に振りながら、お父さんが真言を低く唱え続けている。

異界――天狗道の存在、稚児天狗がうちら向けて言葉を「お告げ」として一方的に投げかけることはできても、対話をすることは基本、不可能。

流れが激しく、大きな川の対岸に立った人同士、会話を試みようとしても上手くいかないのと同じだ。

しかし、想いに想像力という燃料で燃え上がらせれば、異界の存在達とも心を通わせることができる、かもしれない。そして、それこそが祈りの本質――。

お父さんの言葉を思い出し、うちは自らの内側にある親友への想いをかき集め、その一つ一つを燃え上がらせてゆく。

長谷川ユカリ。うちの友達。うちが童ノ宮に来て初めて出来た友達。
ううん、人生で初めての友達。
自分のことはあまり話したがらないけれど、いつもうちのことを気にかけてくれていて、同じ歳なのにまるでお姉さんみたく思っている。

もちろん、ユカリはうちだけじゃなく他の誰に対しても親切だから、みんなからも好かれてる。男の子からも好かれてる。時々、焼きもちな複雑な気持ちにもなったりするけれど、そんなユカリも含めて、うちはユカリの全部が大好き。

だから神様、お願い。
うちの、ううん、うちらのユカリを怪異から今すぐに取り戻して下さい。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

いつの間にかうちは頭の中で真言を繰り返し、繰り返し、一心不乱に唱え続けていた。

そして――。

祈祷所の真ん中で、ケホッと小さく急き込む可愛らしい声が聞こえた。
うちは我に返り、目を見開いていた。そして、その焦点を部屋の真ん中に当てる。

「……え、えええっ? ここ、どこ? ……私、一体どうなってるの?」

椅子に座らされたまま、声を発したのはユカリだった。
身体は祭壇に向いたままだからその表情までは見えないけれど、その声色から困惑しているのは間違いない。

「マ、ママ? そこにいるの? ……私、動けないんだけど」

ユカリの声は震え、今にも泣きだしそうだった。

「ユカリちゃん!」

うちが立ち上がるよりも早く、駆け出したのはユカリのお母さんだった。
その見事なロケットスタートに慌てて子ども達が続く。

「良かった! 正気に返ったのね! みんな、ユカリちゃんのこと心配したのよ!」

娘の身体に抱きすがり、喜びの涙を流すお母さん。

良かった……。安堵のあまり、全身から力が抜けてゆくのを感じながら、うちは思った。

まだ怪異本体の始末が残っているけど、とりあえずはこれで一段落。
朱雀機関文書を読んだ限りではもう、ユカリが命を狙われることもなさそうだし……。

と、うちが小さく溜め息をついたときだった。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。

不意に聞こえてきた真言に、うちは「あれ?」と違和感を覚える。
お父さんの唱え言がまだ続いている。ということはまだ、お父さんはトランス状態にあるということで……。

御祈祷はまだ終わっていない、ということ?
それはつまり……。

「そう言えば――パパは? ……あの人、いないの?」

両腕の戒めをお母さんに解いてもらいながら、ユカリが尋ねていた。

正直、それはうちも気になっていた。この一大事に、言うならば娘の生きるか死ぬかの瀬戸際に父親が現れないなんて。

実の家族には恵まれていないうちだけど、いや、だからこそ、それが普通ではないと分かる。

一瞬、ユカリのお母さんは言葉を失い、

「パ、パパは、その――どうしても、今日外れられないお仕事があって……それで儀式が終わったら……」

けひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃ。

ユカリが笑った。死んだ魚のような目のまま、口元だけをつり上げた神楽笑いで。

「白々しい嘘をつくなよ。この娘もガキどももとっくに知っておるわ。うぬの夫はまた、あの水商売の若い女と遊びほうけておるのだろ?」

ゾワリ、と。
うちは全身が鳥肌立つのを感じた。

あ、これあかんヤツや。
ユカリの口を借りて、ユカリじゃない誰かがしゃべっているんや。

けたたましく嘲笑いながら、ユカリが大きく片手を振り抜き、唖然と立ち尽くしていたお母さんの頬を激しく打ち据える。

悲鳴を上げ、横倒れに倒れるお母さん。
子供達の火がついたような悲鳴が重なってゆく。

椅子に座っていたユカリが立ち上がり、祭壇に向かってまだ祈祷を続けているお父さんの背中に近づいてゆく。憑依した怪異がもたらす霊毒の影響なのか、鋭く尖った鬼のような爪を長く伸ばして。

一方、唱え言を続けるお父さんは微動だにしない。

御祈祷に全神経を集中させ、意識だけを半ば異界に飛ばしているから、現実での出来事に反応できないのだ。ひょっとしたらユカリの異変にも全く気がついていないかもしれない。

あれこれと何かを考えているような余裕は、もはやうちには残されていなかった。

わぁあああ、と自分でも悲鳴だか怒声だかわからない絶叫を張り上げ、背後からユカリの身体に体当たりをしかける。

だけど、間に合わない。異形化したユカリの爪が大きく振るわれ――お父さんの背中を、狩衣ごと深々と切り裂く。信じられないほどの量の鮮血が宙を舞い、その向こうでお父さんの身体がまるで木の葉のように舞うのが見えた。

と、振り向いたユカリに片手で喉をつかまれた。そして、そのまま大きく身体を振り上げられる。
天地が逆転し、うちは自分の爪先が天井に向かって真っすぐ伸びるのを目にしていた。

そして、そのまま思いっきり床に全身を叩きつけられる。自分の身体の内側で破裂するような音を聞いた気がした。骨が軋み、砕ける音も聞こえた。

生暖かいものが喉を逆流し、うちは自分の顔と喉元を真っ赤に濡らしていた。
頭がボウッとして気が遠くなる。

「久しぶり! 会いたかったよぉ、キミちゃん!」

けひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃけひゃ。
金属をこすり合わせたかのような不快で甲高い笑い声。

床の上であおむけに倒れたうちの身体の上にユカリが――いや、ユカリに乗り移った何者かが、膝を押し当て覆いかぶさってくる。

「キミちゃんにも――、分けてあげるね」

そう言って、そいつはあんぐりと大きく口を開いた。薄桃色の舌がまるで蛇のように妖しくのたうち、うちの顔へと近づいてくる。

その舌先に小さな石のかけらが付着していた。そこに精密に刻まれているのは、この世のものとは思えないほど下卑た笑いを浮かべた。

誰かが叫び声を上げるのが聞こえた。リョウだと思うが、ひょっとしたらコウかもしれない。ゼナ博士かもしれない。他の誰かかもしれない。

なんで……? 
うちはただ幸せに静かに生活したいだけやのに。
なんで、いつもこんなことになるん?

グチョリという湿った音がして、激痛とともに耳の奥に異物が押し込まれる感覚。
全てはスローモーションのように流れ、景色は涙に滲み見えなくなって――うちは硬く目をつむる以外、為す術がなかった。