「え、ええっと……。ごめん、ユカリ。最後の方、よく聞こえんかってんけど……」
「うん。だからね、あの女の人死んじゃったんだ。可哀そうだよね。頭からつま先までペッシャンコなんだもん」
「……ペッシャンコ?」
「そう、ペッシャンコ。……ほら。時々、田んぼ沿いの道路なんかで車にひかれた蛙とかいるでしょ。タイヤの跡がくっきりついて、口から内臓がデロデロでたりするやつ。あんな感じ」
「そう、なんや……」
キミカとユカリのかみ合わない会話を聞きながら――僕、塚森コウは頭の中で警報音が狂ったように鳴り響いているのを感じていた。
ここは夕陽に満たされた、一人部屋にしては広い病室。
ほんの数分前と病室は明らかに雰囲気が違っていた。
それも霊感がどうのこうのって話じゃない。
もし、ここにいれば――猫なら毛を逆立て唸り声をあげ、犬なら吠え散らかして庭をグルグル走り回るだろうと思えるレベルだ。
天井の蛍光灯は激しく明滅して夕闇の濃さを際立たせていたし、窓は締め切られていたにもかかわらずカーテンは空気をふくんで大きく巻き上げられている。
窓ガラスと言う窓ガラスからは大勢の人間が一斉に爪を立て、書きむしっているような嫌な音が聞こえていた。
これは予兆。あるいは前触れと呼ばれる現象だ。
キミカのような体質、あるいは僕みたいなこの世の裏側に深くかかわる稼業にとっては馴染みの現象だ。
馴染みと言っても、決して慣れているわけじゃないけれど。
何の前触れかと言われると、それはもちろん――。
僕は頭を振った。さっきから耳鳴りと頭痛が酷い。
だがそんなことにかまけている場合じゃないのは明白だ。
額の真ん中に親指を強く押し当てられたかのような痛みと不快感に耐えながら、僕は右肩に提げていたショルダーバックを手元に手繰り寄せる。
素早くジッパーを開いて取り出したのは――、正方形の箱。
組み合わせた木材に特殊な塗料で黒く塗られ、全ての面に金色の筆で呪術的な文様が描かれていた。
塚森家と関わりのある、一族専属の職人に依頼して特別にこしらえてもらった箱だ。
箱の用途は一つ。
その中に物を――呪物を収容し、持ち歩くためだ。
……悪いね、母さん。
箱の中身に向かって僕は呼びかける。
またあんたの力を借りることになりそうだよ。
だけど、本望だろ?
あんたの大好きな塚森家の役に立てるんだ。
「……だ、だけどユカリ、それちょっとおかしない?」
「うん? おかしい? ……キミちゃん、どこが?」
「うちらここ十日以上、夢ノ宮の繁華街にも何回も足を運んどるけど――、そんな話、一回も聞いてないで?」
と、次の瞬間、プッとユカリが耐えかねたように噴き出していた。
そして、ベッドの上で――、上半身をそり返し、まるで痙攣するかのように甲高く耳障りな笑い声をたてる。
けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ……。
その間、僕もキミカも身動き一つできなかった。
ひょっとしたら呼吸もできていなかったかもしれない。
だから。
ほんの一瞬、多分数字にすれば0.0001秒ぐらい。
頭では分かっていたのに警告を発するのが遅れてしまった。
「逃げろ、キミカ! 上だ!」
「えっ?」
涙で濡れた瞳で振り返ったキミカの頭上、天井がミシリと嫌な音を立てて軋み――、へこんだ。
もはやあれこれ考えている余裕はなかった。
跳ね上がるようにして僕は立ち上がり、両腕を広げてキミカとユカリに向かって飛びかかっていた。
「ひゃあ!?」
悲鳴を無視して、僕はキミカとユカリの頭を胸に抱きかかえたまま二人をベッドの向こうに側に押し倒し、その勢いで自分も床に倒れ込む。
けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ……!
聞こえて来た笑い声は、ユカリのものじゃない。
野太く下品な男の声。
歯を食いしばりながら振り返った僕が目にしたのは大きく丸い物体が自分の足の上に落下する、正にその瞬間。
それはサッカーボールほどの大きさの石の塊。
ゴツゴツとした、その表面には人間と思しき顔が深く掘り込まれている。
それは下卑た顔つきの中年男だった。
大きく目を見開き口角を釣りあげた、いわゆる神楽笑いの表情。
一目で怪異だと分かる。
と言うか、隠すつもりもなさそうだ。
次の瞬間。
僕の右の足首に信じられないような重圧が加えられ、ボキッという渇いた嫌な音が響いた。
やられた。皮膚と肉を裂かれ――、ついでに骨も砕かれた。
そう自覚した後、頭がおかしくなるほどの激痛に見舞われ、僕は悶絶する。
男の顔をした石は汚い笑い声を響かせ、大きく天井に跳ね上がる。
「――コウちゃん!?」
飛び付いて来たのは泣き顔のままキミカ。
声も出せない僕に縋りつき、弱々しい力で揺さぶってくる。
「一体、何されたん!? コウちゃん、大丈夫!?」
「大丈夫に見えるのか、この馬鹿!」
思わず僕は声を荒げていた。
まだ十三歳の子供相手にありえない態度だとは自分でも思うが、怪異を前にして足手まといに優しくしてやれる余裕は僕には、ない。
「呆けている暇があったらあっちに行って、頭を低くしてろ! 友達も一緒に!」
乱暴に僕はキミカの背中を突き飛ばしていた。
出来れば二人とも病室の外に追い出したいところだが――正直、今は難しい。
上へ下へ、右へ左へと。
人の顔をしたナゾ物体にピンボールのように部屋中を跳ね回られては。
下手に動けば僕の右足の二の舞となるのは明らかだ。
「クソッ。怪異ってのは本当に面倒なやつばっかりだな……!」
悪態をつきながら僕は箱から中身を取り出す。
それは外法頭。皮を剥ぎ、肉を削いで、塚森家伝来の秘薬を塗り込んで焼き上げて縮め、儀式を施した人間の頭部。あらゆる外法の媒介となる呪物だ。
外法頭は生前、もっとも親しい人間に受け継がれる。
そして、元をただせばこの外法頭は僕の母親、塚森サヤカ。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
外法頭を片手に掲げて低く真言を唱える。
グパッと頭蓋骨の顎が大きく開きその中から洪水のように黒々とした大量の人毛によく似た霊的物質――妖ノ髪が吐き出され、溢れ出てくる。
それはシュルシュルと伸び、僕の砕けた足首にしっかりと絡みつく。
付け焼き刃だが、添え木代わりにはなるだろう。
大きく息を吐き、改めて跳ね回る敵に意識を集中。
僕に傷を負わせ、すぐに畳みかけてこなかったのは、こっちを警戒しているわけじゃないだろう。
怪異ってやつは大抵の場合、病的なまでにサディスティックで一度、標的として見定めた者はどんなことがあろうと殺すまで諦めない。
さっきの初撃で傷を負ったのは僕だがあれは巻き込み事故のようなもの。
この場であの怪異が一番、殺意を向ける対象は――。
妖ノ髪をたぐり寄せ、その束を人差し指と親指でつかみ取る。
そして。
「シュッ……!」
短く息を吐きながら、僕は投げつけていた。
ユカリを強気抱きしめたまま、部屋の隅でうずくまっているキミカに向かって。
鎌首をもたげる蛇のような動きで妖ノ髪は宙を飛び――。
その先端をグルリと回転させて人面石に絡みつかせ、動きを封じる。
危うくキミカの頭を砕かれる寸前だった。
「いきなり現れて……! 何なんだお前は……!」
石を絡め取ったまま、僕は腰をひねり大きく妖ノ髪を後ろに引く。
ギュウウウウウンッ……!
耳が痛くなるような音。
ぷすぷすと煙りをあげながら――、糸のように細くなった人毛が石に食い込んでゆく。
妖ノ髪・裂糸。外法頭から派生する外法の一つだ。
並の怪異なら、一撃で文字通り一刀両断できる。
だけど、ダメだ。
こいつは固すぎる。それに分厚い。
僕の攻撃は怪異の石そのものの表面にうっすらと傷をつけただけ。
やっぱり、糸鋸で石を切ろうとするのは無理があったか。
と、石に刻まれた男の顔の――その瞳がギョロリと蠢き、僕の目があった。そして、嗤う。
けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ……!
鳥肌が立ち、僕は髪ノ糸から意識を解除。
瞬時にそれを腕に移動させ――、ぐるぐると巻き付けてゆく。
それに一秒か、二秒、ほんの少し遅れて。
人毛を引き千切り、笑い声をあげながら怪異が予想通り、正面から突っ込んで来る。
その勢いのまま顔面に激突されたら死ぬので、妖ノ髪でこしらえた即席のプロテクターをまとった腕でしっかりとガードする。しかし、怪異の攻撃による衝撃は予想の遙か上だった。ゴキッと言う骨折を知らせる音がまた聞こえた。
一日に二カ所も骨折するなんて、今日は骨折デーか?
そんな全く笑えないことを考えながら――僕は吹っ飛ばされていた。
病室のドアに叩きつけられそれをぶっ壊し派手に建材をまき散らしながら、冷たい廊下に転ばされる。
世界がグルグルと回転し、壁に激突して僕の身体はようやく止まる。
もはや満身創痍だった。何とか起き上りたいが、全身の力が抜け指一本動かせそうにない。
ああ、これは詰んだな。
敵に先制攻撃を取られたのが決定的にまずかった。
しかし、これで僕は終わりか。
やっぱり人生なんてあっけないもんだな……。
「――コウちゃん!」
ぼやけた意識の中、小柄な人影が駆け寄って来る。
それが誰か、考えるまでもない。
「嫌や! コウちゃん! 嫌やで! お願いやから死なんといて!」
……あぁ、うるさいなぁ。
これだから子どもは嫌いだ。こっちの気持ちなどお構いなしで感情の赴くまま、自分が正しいと思ったことをギャギャー喚き散らかしやがる。
お前が嫌でも、これが僕の思い描いた通りの結末なんだよ。
まあ、思ったよりも早く来た感はあるが、塚森家としてはまあまあ長生きした方だろう。
ふと、間が開いて――僕は薄目を開けてみる。
目の前にキミカの背中があった。
まだ中学一年生の女の子と言うことを差し引いても小さすぎる背中。
病室から追いかけてきた怪異が周囲を激しく跳ね回り、そいつが発する威嚇の笑い声に明らかに怯えながらも、瀕死の僕の姿を悪意に満ちた視線から庇うようにその両手を大きく広げていた。
そして、ほとんど聞き取れないような低く小さな声で、歌うように何か呟き続けている。
南無 大天狗小天狗十二天狗有摩那。
南無 秋葉大権現。南無 三尺坊大権現。
南無 火之加具土神。
童ノ宮の由縁を申し上げる。
その昔、湯山の里に天の遣わした御子あり。
燃え盛る御姿でご慈愛を与え給う。
ふるふると震ふ亡者。
荒ぶる神。
隔てるたゆたう水面。
くるくると独楽のごとくに回りしは人の心と世のことわりの物語。
諸々の禍事・罪・穢・物の怪有らむをば焼き祓い給え。
燃やし清め給えとかしこみかしこみ申す。
それは――童ノ宮心経だった。
塚森家の人間なら例外なく子供の頃、耳にたこができるほど聞かされ、唱えさせられるであろう祈りの詞だ。
キミカが何をしようとしているのかすぐに理解し、先程とは違う理由でまた気が遠くなる。
「やめろ馬鹿。お前の飛び散った肉片をまた、僕に拾い集めさせるつもりか?」
そう怒鳴りつけてやりたかったが喉で血が絡まり、かすれ声ですら発することができなかった。
キミカに怪異と戦う力はない。
害虫に毛が生えた程度のごく弱い怪異を追い払う、初歩的な外法でさえ使うことができない。
また、童ノ宮心経と同じく、塚森家に先祖代々伝わる天狗流外法杖術という護身術がある。
自分の身は自分で守れるようになりたいという、キミカ本人たっての願いで僕が稽古を見る事になったのだが……お察しの通り、結果は散々だった。
外法にしろ武術にしろ、戦うことに関してキミカは圧倒的にセンスがない。向いていない。
危険と遭遇したら余計なことは一切考えず、一目散に逃げるか、どこかに隠れろ。動物で言えば小鹿のくせにヒグマに立ち向かおうとか百万年早いんだよ。
そのことを本人に告げたらその場で号泣され、話を聞いた親族連中からは睨み殺されそうになったが――、今でも僕は自分が間違っているとは思わない。
手合わせする時、腰が引けてるだけならまだしも怖くて目も開けられない小娘に教える武術なんかあるわけない。
人にはそれぞれ、与えられた役割がある。少なくとも切り裂かれ血まみれになり、一生残る傷跡を負うのはキミカの役目じゃないだろう。
だから、僕は……。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
まずい、と僕は顔をしかめる。
キミカの唱え事、童ノ宮心経は既に最終シークエンスに入っている。背面からだと詳細はわからないが、キミカはトランス状態に入っているのだろう。
止めないと。この唱え事が終わったら、キミカが唯一使えるあの外法が完成してしまう。
神孕み――。長く塚森家でも受け継ぐものが現われず、半ば伝説として扱われていた禁断の外法。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
童ノ宮の神、稚児天狗ことカガヒコノミコトの御霊を異界から現世に呼び出し、自らの血肉を捧げることで神を実体化させ、その神意を振るうことを願う。
言うならばセルフ人身御供とでも言うべき外王の中の外法。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
「な、なぁ。キミカ、やめてくれ。頼むからそれだけは……」
気がつけば僕はキミカの背中に向かって懇願していた。
あんなものは二度と見たくない。
もし、そうしなければ誰かが犠牲になると言うのなら、それはそれで構わない。
可哀想だとは思うが、ユカリが死んだって構わないし、何なら僕が死んだって構わない。
だって、あの日、僕はあの子の、キミカが内側からズタズタに切り裂かれる様を目の当たりにし、まだ生温かい返り血を全身で浴びたんだから。
カウントに母さんを入れれば二度目だった。
三回も同じことが目の前で起これば――、きっと僕は気が狂う。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
あぁ、気持ちが悪い。
本当に気持ちが悪い。
塚森キミカ、お前は本当に何なんだ?
何もできないくせに。ちょっと小突けば再起不能になるただの小娘のくせに。友達と楽しそうに遊んでいるのが一番似合う、ガキのくせに。
正直に言うと僕は怪異なんかより、お前の方がはるかに怖い。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
ミシリと嫌な音を立ててキミカの身体が右肩が大きく歪む。
限界だった。それ以上はとても見ていられない。
顔を背け、僕は両目を固くつむる。
けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ、けひゃけひゃけひゃ……!
怪異が嗤っている。僕を嗤っている。
そりゃ嗤われるだろ。
僕の頭の中で冷たく笑う声が聞こえる。
だってお前は自分の命を守ろうと文字通り盾になろうとしてくれる女の子の姿とさえ、向き合えない臆病者だ。
お前の母親が死んだ時もこんな感じだよな?
「悪いけどその馬鹿笑い、止めてもらっていいかな? ここ、一応病院だし他の入院患者の迷惑だからね」
廊下に女の声が響いた。
凛とした、その明朗なその声に僕は聞き覚えがあった。
直後、何かを殴りつけるような凄まじい物音が聞こえ、耳障りな怪異の嗤い声がピタリと止む。
「……?」
何が起きているのか全く理解できないまま、僕は目を開く。
目の前に立つキミカは、いつの間にか唱え事を止めていた。
驚いているとも、呆れているとも取れる表情で前方を見つめている。
その視線の先を僕は追った。
キミカがジッと凝視していたのは、一人の女だった。一目で研究職に身を置いていることを示す上着に白衣を着こんだその女は、恐らく三十代前半。ショートカットが恐ろしくよく似合う、小顔の美人だ。
だが柔らかな表情とは対照的に眼鏡の奥にある、その瞳は暗い。怪異と関わり、人生を壊された人間特有の目だ。そして、経験上、こういう目をしたやつにろくな人間はいない。
組織での呼び名は『怪人』であり、実際女は奇怪としか言いようのない姿をしていた。
まず目につくのは女の背中から放射状に生え伸びた、六本の触手だった。
それぞれ四メートルh度の長さを持つそれらはムカデのような節足動物を彷彿とさせるフォルムを持ち、うねうねと宙で蠢くその体色はメタリックな鉛色。
一見すると最新式のロボットアームのようにも見えなくないが、節くれ立った各体節には不気味な血脈が流れているのが見えた。
触手の先端には肉食獣のように鋭く凶悪な牙が生えそろい、それで人面を持つ石の怪異に喰らいつき、しっかりとその動きを押さえこんでいた。
「し、柴崎さん。あんた……」
「礼なら不要だよ塚森コウ」
僕がかすれた声で話しかけると、人面石を冷たく見すえたまま女が軽く手を振る。
「こう見えても私はこの施設の責任者だから。ここにいる人間、全ての安全を守る義務があるんだよね。……あ、ちょっと待って。今、この石コロ殺処分するから」
まるで優しい母親のような口調で女は物騒なことを言う。
と、一本の触手が人面石から牙を外し、ゆらりと蛇のように鎌首をもたげる。次の瞬間、その口が奇妙な動きでねじれ――、先端を鋭く尖らせた錐のような形状に変化する。
柔和だった女の表情が般若のそれに豹変。そして、ただ一言。それは恐らく、世界で一番短く、明白な呪いの言葉。
「――死ね」
錐となった触手の先端から瞬間、まばゆく迸ったのは亡者の皮膚の色のような青白い閃光。それは霊子を極限まで圧縮、高速で撃ち出したものだが原理を知らない人間が見ればビーム兵器だと勘違いしただろう。
その一撃を受け、人面石は一瞬、ビクッと強張る動きを見せたが――すぐさま、煙をあげながらドロドロと溶けて行った。
「フン、弱すぎるな。やはり、こいつは伝承に登場する怪異、『笑ひ岩』とは別物だな。……その分身ってところだな」
まるで唾でも吐き捨てるような物言いだった。
人面石の残骸に向かって嫌悪感も露わにそうつぶやいた後、
「お手伝いしてくれてありがとうね。キミのおかげでお母さん今回も助かったよ」
女は自分の身体を愛おしそうに見下ろし、ねぎらいの言葉をかける。
女の下腹部には特徴的な丸い膨らみ。
そう、女は――柴崎ゼナは妊婦だった。
本当に勘弁してくれ。吐き気をこらえながら僕は思った。
母さんといい、キミカといい、このゼナ博士といい――、どうして僕の周りにいる女は頭おかしいのしかいないんだ?
「それはそうと――君も一緒に来てたんだね、塚森キミカ。……遅かれ早かれ、塚森家にはお邪魔するつもりだったから会えるとは思っていたけれど」
パンプスの靴音を響かせながらゼナ博士が静かに近づいて来る。
突然、名前を呼ばれキミカはビクッと肩を震わせる。
「えっ、えっ。あ、あの、う、うちは……」
「あ、そっか。最後に会ったのは二年も前、だもんね。――おばさんのことなんか、覚えてないよね?」
「い、いえ……。お父さんがお勤めの時、お世話になってる白虎機関の……」
人ですよね、と言いかけたキミカの頭がぐらりと揺れた。
そして、そのまま前のめりに倒れそうになり――、ゼナ博士の腕に抱きとめられる。
「キ、キミカっ……!?」
「大丈夫」
思わず声が裏返った僕をゼナ博士が声で制する。
それから腕の中でぐったりしているキミカの頭を愛おしそうに、本当に愛おしそうに優しい手つきで幾度となくなでる。
「緊張の糸が切れて力が抜けてしまっただけだよ。怖い目に遭わせたのは可哀そうだと思うが……」
チラリと僕を一瞥するゼナ博士。小さくため息をつき言う。
「塚森コウ、君の方がはるかに重症だよ。……待ってな。今、スタッフを呼んで集中治療室に連れて行ってあげよう」
そう言われた途端、あちこちに地獄のような苦痛が蘇ってくる。
ゼナ博士の言う通り、確かに僕はボロボロだった。顔の古傷だけじゃなく、全身が。
意識を失う前、僕は悪態をついていた。
……クソッたれ。
みんな、大嫌いだ。


