
山の中は天気が変わりやすい。
ほんの数時間前までよく晴れた日で気持ちがいいと思っていたのに今では頭の上には灰色の分厚い雲が広がり、遠くで雷が鳴っている。
心なしか、お腹の子もご機嫌ななめだ。
後でお気に入りのオルゴールでも一緒に聞いてあげよう。
自分が妊娠するまでは「胎教」について懐疑的だったが、いざ試してみたらそう馬鹿にしたものではなく実際ストレス発散の役には立っていると思う。所謂プラシーボ効果の範疇なのかもしれないが、結果的に胎児によい影響があるのなら有益といっていいだろう。
そんなことを考えながら――柴崎ゼナは長い石の階段を登ってゆく。
長年、世間から忘れられ、うち捨てられていた神社の苔むした階段だ。
先月、専属秘書として配属されたばかりの若い娘が気を遣い、手を貸そうとしてくれたがゼナは軽く笑ってこれを拒む。
全身の義手や義足はミシミシと音を立てて軋んでいたが、組織が提供してくれた特殊な素材はこの程度の負荷でそうカンタンに壊れはしない。
そもそも別に妊婦は病人と言うわけでもない。
研究者というポジション上、典型的なインドアと思われているかもしれないが、こう見えて学生時代は亡き夫ともどもワンダーフォーゲル部に所属していたからそこそこ鍛えているという自負はある。
この程度の勾配なら目を瞑っていて目を瞑っていても登っていける……。
そんなことを考えているうちに山門の前へと到着した。
元々はかなり立派な建造物だったのだろうが、何百年もの間、管理する者もなく、今にも朽ちてしまいそうなたたずまいだ。
それもまた風情があって美しいとさえ思えたが――、その左右で控えていた二人の男の姿には景色として違和感があった。
青い制服に青いキャップ帽。
鍔の部分には「青龍警備保障」の文字とロゴ。
「――あ、お姉さん達! ちょっと待って!」
ゼナが会釈するよりも早く二人組のうち、若い方が声をかけて来た。
「あの、ダメですよ。今、ここには入れません。その、改修工事の真っ最中なもんで……」
「改修工事?」
思わずゼナは小さく笑ってしまう。
「まあ、別に君の責任ではないだろうが、もう少しシナリオ選びには気を使った方がいい。こんな不便な――道路も繋がっていないような神社にどうやって作業員や資材を運んでいるのかな?」
「はっ?」
思いもよらない反応だったらしく、若い警備員が目を丸くする。
「あんた一体……?」
「あっ。し、柴崎ゼナ博士、でありますか」
もう一人の警備員、年かさの男がハッとしたように敬礼。少々、声を裏返しながらもビシッと決めて見せる。とっさにそう言った仕草と言葉遣いをすると言うことは、この人は元自衛官か警察官なのかもしれないな、とゼナは思った。
「話は聞いております。――どうぞお通りください」
「ありがとう。通らせてもらうね」
にこやかに微笑み、少し頭を下げてゼナは門の奥へと足を踏み入れた。少し遅れて小走り状態になった秘書が追いかけて来る。
「あぁ、あの人が噂の……。全然、普通の女の人に見えますね……」
「馬鹿、無駄口を叩くな。聞こえても知らんぞ」
警備員二人が小声で囁き合うのが聞こえた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
境内でゼナと秘書を出迎えたのは、どこにでもいそうな中年男性だった。
本人には申し訳ないがとても日本で最古の秘密結社のメンバーには見えない。凄みも貫禄もなく、正に普通のおじさんという感じ。
「本当に、本当に申し訳ありませんでしたぁ!」
叫ぶように言って男性は、撥ねるようにしてその場に土下座していた。
禿げあがった額を地面にこすりつけ、しかも泣きじゃくっていた。
ひょっとして私のことを怖がっているのだろうか、とゼナは思ったがどうやらそういうわけでもないらしい。
「まさか、こんな人的被害が出る羽目になるなんて……! 全ては現場責任者の私の失態です! どうか、いかようにも処分してください!」
「んーっ……」
人差し指を形の良い唇に当て、しばらくの間、ゼナは曇った空を見上げていた。
それからおもむろに男性に尋ねる。
「ええっと竹山サイチさん、だったよね? 身分は確か――、監督官だっけ?」
「は、はい……」
土下座したまま答える男性――竹山監督官の声は消え入るように小さかった。
そんな竹山にゼナは笑顔で、まるで悪さをしでかした小学生に相対した教師のような笑顔でこう問い質す。
「あなたは毎日のレギュレーションをきちんと厳守していたなだよね? そして、それを証明するための記録はあるのかな?」
一瞬の沈黙。
「……は、はい。日に三度、玄武機関から派遣された神職の片に礼拝をお願いして……。それも毎日、欠かさずビデオ撮影で記録を」
だけど、と竹山はちらりと視線を背ける。
ゼナもそれにつられ目を転じる。
まるで局地的な台風でも荒れ狂ったかのように――、そこには無残な光景が広がっていた。
粉々に砕かれ、あちこちに散らばる大量の木材。
元はそれなりに大きな社殿だったらしく、古びて文字は読めないが立派な神額が転がっているのが見えた。
そして、それに混じってマネキンの人形の腕や足、頭部のようなものが散らばっているのが見えた。
しかし、それらにはそれぞれ切断面のようなものがあり、黒々とした物がべっとりとこびりついている。
そしてすさまじいまでの腐臭。
それは死の臭いだ。ゼナにとっては同じみの悪臭。
これは、とゼナは思う。
また随分と派手にやってれたねぇ。本当にやりたい放題にやってくれたもんだ。
隣で秘書が口もとを押さえ、小さくめき声をあげていた・。
「こんな大事になった以上、私は責任を取らなくては……」
「それは貴方の仕事ではないよ」
事も無げに言ってゼナはまたほほ笑んだ。
「竹山さんはここの監督として厳格に規定を守り続けた。その上で問題が起きたのなら責めを負うべきはあなたじゃない。運用ルールを制定した上層部だよ。……そうは思わないかい?」
同意を求めゼナは秘書を振り返る。
秘書のほうも竹山に負けないぐらい蒼白の顔だったが、首を縦に何度も振っていた。
ゼナの意思を汲み、竹山を擁護するなら言葉にして欲しかったが無理だった。目の前で広がる破壊の光景がショック過ぎて思考が追い付かないようだ。
やれやれ、とゼナは内心肩をすくめる。
最近は若い子もおじさんもどっちも軟弱だなぁ。
どういう経緯でこんな組織に身を置いているのかはしらないが、こんなんじゃこれから先が思いやられる。
……いや、それは違うな。
ゼナは思い直す。
二人の反応は人間ならごく真っ当な反応だ。
なにしろ、今、この境内では二十人以上の人が亡くなり――、文字通りあっちこっちに散らばっているのだから。
と言うか私自身、ほんの数年前までの間違いなく卒倒していたはず。
哀しいな。
そんなことにも気がつかないぐらい頭がおかしくなってるなんて。
「じゃ、そういうことで――」
素早く気持ちを切り替え、ゼナはテキパキと言った。
「竹山さんはここから撤収準備をお願いします。と、同時に亡くなった職員たちのご遺体の回収、ご遺族へのお悔やみや保障の手続きも。大変だとは思うけど。それから――」
ゼナは秘書を見た。まだ顔が青い。見れば見るほど普通のお嬢さんだ。
いつまでもこんなものを見せつけるのは酷というものだ。
「……我々は歩きながら話そうか。今後どう動くかよく考えないと」
人差し指をくいっと動かして秘書を誘い、ゼナは境内の奥へと進んでいった。
ここは日本全国に浮かび上がる怪異を監視し対処するための組織、その一翼を担う、白虎機関が管理運営する施設――、山中深くに立つ神域だ。
記録が残っていないため、いつの時代、どこの誰がどのような経緯で勧進されたのかはわかっていないが祀られていたのは山神の類らしい。
他の怪異同様、人間にとって脅威だったものを組織は何とかして捕え、そしてここに収容したのだ。
そのまま消滅させることもできたが、組織はカテゴリー「祭儀」プロトコルを採用。
たとえ相手が怪異だとしても、まずは融和策を取ったということだ。
ゼナが所属する白虎機関に管理運営を任せ——、作法に則り日に三度の礼拝まで執り行わせて。
だから、きっと本当に自分が神だとつけあがらせてしまったんだろうな。
しかし、いくら人間側が恭しく礼を尽くしてもしょせん怪異は怪異だし、クズはクズだ。
「……タダで済むと思うな、クソが」
「はい? ゼナ博士、今何か仰いました?」
おっと、つい汚い言葉が出た。
私もそれなりの立場なんだから――部下の前では特に気をつけなきゃね。
「いや、独り言だよ」
秘書にそう答えながら、かつてはこの神社の本殿であったであろう瓦礫の山を横切り――、ゼナは足を止める。
そこにはやたらと広いスペースがあった。
半径十メートルほどの円形に切り取られた、緻密に計算設計されたと思しき空間だ。その中心には舞台、あるいは台座のようなものが置かれ、円の東西南北には小さな鳥居が置かれ、その柱は注連縄で結ばれている。
「……ねぇ、姫宮アンナ?」
今日初めてゼナは秘書の名前を呼んでいた。
「見てごらん。この空間、何だと思う?」
「えっ、それは――磐座じゃないですかね? その、御神体とか言って大きな岩とかがお祀りされてる……」
そこまで言って、まだ高校生のような童顔の姫宮はハッと息を飲み
「でも、ここには肝心の御神体がありませんよね? 一体、どこに……?」
「……姫宮アンナ。さては君、関連の朱雀文書まだ読んでないね?」
「あっ……それはえっと……」
バタバタしてましたからその、と小声で言い訳をしている。
「ダメだよ。青龍や朱雀と比べれば我々白虎は基本後方支援だけど、怪異を相手にしていることに違いはない。情報というのはこの上ない武器だからね。もし、それがないまま相対するようなことがあれば――」
死ぬことになる。
口にする寸前、ゼナはその言葉を飲み込む。
今、怯えさせることもないか。
それにこう言うことは本人が身をもって覚えてゆくしかかない。
「すみません」
しゅんと俯き、悲しそうな顔をする姫宮。
こんな組織に身を置いているのだから、この娘もまるっきりの素人というわけではないだろうが……こんな子供みたいな顔をされると少しばかり胸が痛む。
「まあいい。次から気をつけて」
気持ちを切り替え、ゼナはつ続ける。
「今回、我々が追わなければいけない怪異は、そのなくなってしまった御神体だよ。つまり、岩だ」
「あ、あぁ、岩……ですか」
「うん。岩なんだ」
「でも、でも……ゼナ博士」
苦しそうな顔で姫宮が言う。
「普通、岩って動きませんよね?」
「普通の岩なら動かないし、人も襲わないね。でも、ここで祀られていた岩は怪異だ」
話が一周し、そうなんですねと姫宮は顔をしかめる。
現象としてそう言ったことがあるということは理解しているのだろうが、事実としてなかなか飲み込みづらいのだろう。
「まあこういう世界なんだよ。納得できることの方が少ないさ」
「それでその岩は――、一体どこに行ったんですか?」
「あのね、姫宮アンナ? 他人に聞くのも大事だが自分で考えることも大切だと思うよ?」
「はぁ……すみません……」
「数時間前に収容所を逃亡した怪異の行先なんて、ただの人間にわかるはずないさ」
だから、とゼナは言葉を続けた。
「ちょっと――うちの子に教えてもらおうと思って、こんなところまで来たんだよ」
「えっ?お子さんに……ですか?」
目を丸くしている姫宮の返事をかえさず、ゼナは自らの膨らんだ下腹部にそっと手を当て静かに目を閉じていた。
自らの内側で穏やかに息づく生命との絆はゼナは常に感じている。その時、その時の感情も伝わってくる。
だが、ゼナは信じている。こうして外側からとは言え、手で触れる、あるいは触れようとすることは霊的な意義を帯び、さらに繋がりを強めるのだと。
恋人同士、手を繋ぐのも同じことだ。
人間としてはまだ育っていないから男の子か女の子かも判断はできないが、胎児の感覚は超自然的な物であり、一般には超能力と称されている。
もっと細かく言えば、いわゆる精神感応系。テレパシーやエンパス、サイコメトリーと呼ばれるタイプの能力。
ゼナ自身はただの人間だが母胎の特権で――ほんの少しの間、胎児の能力を共有することができた。
(さあ赤ちゃん。あいつがどこに向かったか、少し追跡してお母さんに見せてくれる?)
優しく丁寧に呼びかけた直後――。
ゼナの脳裏に炸裂したのはまるで自分がとりになったかのような、空を飛翔するイメージ。
それは一度大気上空で一度急停止し、航空写真のような視点で地上を見下ろし、そこからまた急降下する。
「――博士、危ないです!」
意識が現実に戻ってきた時、ゼナは姫宮にしっかりと抱きとめられていた。
「あ、すみません。足元をよろめかせられたから、つい」
「いや、助かった。姫宮アンナ」
微笑みかけると新人秘書は顔を赤らめ、少しはにかむ。
「……悪いね。胎内にいる我が子とは言え、他者と精神を共有する感覚はなかなか慣れないものなんだ。つい、クラッと来てしまった」
何とも言えない、複雑な表情を浮かべる姫宮。
本当にかわいい娘だな。
こんな仕事早く辞めて結婚でもすればいいのに。
まあ、余計なお世話だな。
「それで怪異がどこに向かったのか見えましたか?」
「……ああ」
ほんの少し気が重くなってゼナは空を仰いだ。
どうやら私はあの街ともなみなみならないほど深い縁があるらしい。
もとよりあそこは怪異の吹き溜まりのような場所。まじり合っている私だって引き寄せられていても不思議はないか。
「あの……、ゼナ博士?」
姫宮に先を促され、ゼナは短くその町の名前を応えた。
「――童ノ宮」



