4 蘊蓄

「――へぇ。塚森キミカが……君の従姉妹が調査中の怪異と接触ねぇ。なかなか興味深いじゃないか」

「ただの偶然ですよ」

ここは■県夢ノ宮市駅前アーケード街の一角にあるネットカフェ、その一室。

僕、塚森コウはノートPCを広げ、オンライン通信でとある人物に調査の進捗報告を行っていた。

「あいつが常人より怪異に対する親和性が高いのは事実だけど、基本どこにでもいるような普通のガキですよ。小娘だ、小娘。……それに怪異との接触は寸前で僕が阻止しましたし。何の問題もないですよ」

マイクに向かっていっきにそこまで喋り、僕は乾いた唇を舐めていた。

一瞬の沈黙の後――。

「いやいや、塚森コウ。それはないね。塚森キミカは普通とは程遠い娘だよ」

画面の中の女が小さく笑い声をあげる。
小鳥のさえずりみたいに耳障りはいいのに、それでいてとてつもないぐらい底意地の悪さを感じさせる声色で。

「彼女が普通の女の子ならば、組織が君達塚森家に任せるはずがない。いつものように適当に記憶を改竄した後は、心理カウンセラーにでも里子に出して心の傷を癒し、社会復帰させてやればいい」

「……」

「あの子――、塚森キミカにはやはりあちら側の世界と繋がるための特別な何かがある。さすがは元金儲け主義の俗悪カルト集団のお姫様と言ったところかな?」

黙れ、このクソアマ。

思わず、そう怒鳴り声を張りあげそうになるが――、右手でガッシリと太ももをにぎりしめ、必死に堪える。

通話の相手の女は柴咲ゼナ。

腹立たしいぐらいショートカットがよく似合う小顔の美人だが、瞳は暗く感情は感じさせない。頭のよさそうな眼鏡をかけ、いかにも研究者でございって感じの白衣を着ている。
お前は刑事ドラマの女医かなんかかと言ってやりたい。

女の年齢はよくわからないけれど、多分三十代になるかならないぐらいでまあ若いといっていい。

僕がしょっちゅう、アルバイトの仕事を貰っている人物で、組織を構成する四つの機関の一つ、白虎機関の幹部職員。関係者からはゼナ博士と呼ばれている。

僕はこの女――見た目はともかく――、ゼナ博士が嫌いだ。

初めて顔を合わせた時からそうだったが、いちいち勿体ぶった話し方が癪に障るというだけではなく——、こうして面と向かって会話しているだけで背中がゾクゾクとして鳥肌が立つような感覚になるからだ。

「……もういいですよ、キミカの話は」

一分一秒でも早く、この苦痛な時間を終わらせたくて僕は言った。

「今はあいつのことより、僕の知りたいことを教えてください」

「ああ……。そうだったね。犬にまつわる怪異について、基礎教養をレクチャーして欲しいんだっけ?」

ワザとらしく咳払いをするゼナ博士。

「君も知っているだろうが――、犬はこの地球上で人類と最も共生が成功した生き物の一つだ。猫もそうだが、比べて怪異譚の数は極端に少ないと言っていい。これは犬が猫と違い、基本的には喜怒哀楽などの感情が極めて読み取りやすく、生存戦略的にも人間社会への依存率が高い生き物だからかもしれないね」

「……じゃあ、犬の怪異ってのはマイナーな存在だと?」

「いや、そうでもない。例えば西日本で広く言い伝えが残る犬神なんかは有名だよね。これは平安時代、禁止令が発行されるほど重篤な被害をもたらす蠱術でね。要は犬の霊を使役する呪詛だが、その方法がなかなかえげつないんだ。……聞きたいかい?」

本音を言えば、聞きたくはない。
だけど、自分からゼナ博士に講義を依頼した手前、嫌だとも言えない。

「……お願いします」

「まず術を媒介させるため用意した犬を一頭用意する」

話を始めた女の目が爛々と輝き始める。とてもサディスティックな光。
嫌な予感しかしないが、今さら止めるわけにもいかない。

「そのワンちゃん敢えて餓死させ、その遺体を人通りの多い往来に埋めるんだ。後は何も知らない通行人たちがそこを踏み歩き、ワンちゃんの魂は恨み骨髄に徹す。増幅した怨念を他者に危害を加えることに利用する、と言うわけ。実を言うと我が白虎機関でもこの犬神を再現させようと、何度か実験を試みたんだがなかなかうまくいかなくてね」

ハハハハ、と白い喉をそらして笑い声をあげるゼナ博士。
……今の話の中で、どこに笑うポイントがあるのか理解できない。

俺は犬や猫は好きじゃないが――、別に傷つけたいとも思わない。

「犬神は犬神持ちと呼ばれる家庭の納戸やタンス、水瓶の中で生息すると言われていて、社会に差別的な問題を引き起こすこともあるとされるが――、君が知りたいのはそう言うことではないよね?」

「ええ、まあ」

無感情な声で僕は答えていた。

「僕、自分のことだけで手が一杯で。社会問題とかには興味がないんで」

「素直でいいじゃないか、塚森コウ。私も選挙なんか行かない派だ」

「…・・・誰に票を入れても世の中、同じですからね」

「さっきも言った通り、猫と比べ犬の怪異譚は少ない。例えば九州地方の妖怪・送り犬は、夜道、後から追いかけて来る野犬もしくは狼の姿をした怪異で追われる人間が転べば食い殺すと言われる一方で、他の魔物から人間を守るとも言われている。怪異というよりも神様に近い存在なのかもな」

神様……。
その言葉に僕は思わず口を挟んでしまう。

「そもそも怪異や幽霊、化け物を人間が都合よく解釈したのが神様なんですよ。白虎機関の人のくせに知らないんですか?」

「おっと、怒ってるね? 気に障る言い方をしてしまったかな? つい、話に夢中になり過ぎて君の一族が大事にお守りしている方のことを忘れていたよ。塚森コウ」

……人をいちいちフルネームで呼ぶな。

「もっともこの送り犬は飢えた野生動物の行動反中でしかないし、犬神について言えば、むしろその元凶は儀式を行った人間にこそある。飼い主に虐殺された犬の霊が怨んで現れると言う昔話もあるにはあるが――、僧侶にちょっと説得されただけであっさり引き下がってしまうのがこの物語の類話のパターンだ。少しは根性見せればいいのにね」

「……嫌な言い方をしますね」

「そうかな? 怪異としては実に生ぬるいと思うけどなぁ……。つまり、犬自体が人間に対して悪意を向ける、ということは極端に少なく例も乏しいって話さ。だから犬の怪異が現われたというのなら――その存在に対する責任は、どこか別のあるんじゃないのかな?」

そう言ってゼナ博士は言葉をいったんそこで切り、

「犬の怪異について私がザッと説明できるのはこれぐらいかな。あ、守秘誓約書にサインしてくれればさっき言った犬神製造実験の結果報告書を閲覧できるよ? 」

「それはいらないです」

僕は即答していた。

「もちろん、契約通り期間終了するまでは監視調査を続けますよ。僕も一応プロなんで」

ため息交じりに僕は答え、

「・・・…で? あんたのほうは? 最近、体の具合とかどうなんですか?」

言ってから――しまった、と冷や汗が噴き出る。
ここ最近直接会っていなかったせいか、ゼナ博士にとっては禁句であろうワードを僕は口にしてしまった。

「ん、特に異変はないよ。私もこの子もね。・・・…君が私達を気遣ってくれるなんて珍しいじゃないか」

画面の中でゼナが笑っていた。
何の変哲もない、その辺の通行人みたいな普通の女の笑顔で。
愛おしそうな手つきで大きく膨らんだ下腹部をさすりながら。

その後継に耐え切れず、僕は目を逸らす。
叔父の塚森レイジの紹介でゼナ博士と初めて会ったのは三、四年前。

その時からゼナ博士の腹は膨らんだままだ。
多分、これからもずっと。

「・・・…ありがとうございました。今回はこれで失礼します」

感情が声色にでないよう、ゼナ博士の返事を待たず僕は通話を終了した。

二秒か、三秒。間を開けて――、僕は深呼吸をする。

感情を切り返ろ。誰の役にも立たない感傷に浸る前に、今、自分がやらなきゃいけない仕事を思い出せ。

そう、シロテブクロだ。
あの見るからに無害そうな怪異をどうするか、レポートをまとめ組織の連中に見解を伝えねばならないのだ。

僕は少し考えこむ。
ゼナ博士の言葉が妙に引っかかる。

存在に対する責任、と言う言葉……。

昨日、キミカにはきつめに釘を刺しておいたとは言うものの、あのシロテブクロという怪異から何ら脅威を感じなかったのも事実だ。
と言うか、悪意と言う感情を抱いたことさえないのではないか、とさえ思えた。

ちらり、と僕は机の上――パソコンの隣に置いてある箱を見る。
特殊な塗料で黒く塗られ、金色の筆文字で真言が書き込まれた手のひらサイズの箱。

できれば、街中であんたを使うのは避けたいんだけどな。
しかし、いざと言う時に備え、身を守る手立ては用意しておかなければならない。
とは言え……。

思考が出口の見えない迷路に迷い込む。
と、軽い頭痛を覚え、僕は額に手を当てた。眉間には深い皺。子どもの頃からの癖で長考状態になると僕は無意識のうちに身体のあちこちを強張らせてしまうのだ。

僕は深く息を吐き、チェアーの背もたれに大きく上半身を傾ける。

「ま、何にせよあいつが発生した背景を知る必要があるな……」

そう呟いた時、腹の鳴る音が聞こえた。

そう言えば今日はまだ、昼飯をすませてなかったっけ……。
確か、このネカフェの近くにハンバーガー屋があったはず。

もう一度大きくため息をつき、僕は椅子の背もたれにひっかけておいたデイバックをつかみ取る。そして、その中に箱を――塚森家に伝わる秘術を用いてこしらえた外法箱を突っ込んでいた。