2 珍妙との遭遇

日曜日の昼下がり。

うち――、塚森キミカは電車で隣町、夢ノ宮のアーケード街まで足を運んでいた。
好きで集めている文房具ブランドの新商品、ボールペンやマーカー、ペンケースなどの発売日だったからだ。

カラフルでかわいい、お目当てのアイテムを行きつけの書店で手に入れ、ホクホクしながら通りに出た。

休日ということもあって、アーケードは大勢の買い物客で混雑していた。
その雑踏のなかを人々の身体に当たらないよう、身をすり抜けさせながらうちは歩き始めていた。

ここから駅まで四、五分。電車に乗って、童ノ宮の駅まで十五分ぐらい。
夕方、リョウがうちの様子見に来てくれるまで少し時間がある。

今日はうちが夕飯を用意して、リョウを驚かせたろかな。
……言うて、うちにできる料理と言えば、インスタントのうどんとかラーメンぐらいやけど。

と、その時だった。

大勢の人々が行き交う、アーケードの真ん中あたり……。
そこに強烈な違和感がうちが進む方角に向かってゆっくりと近づいて来た。

陽の光を浴びてオレンジ色に輝く体毛、長く垂れ下がった耳。
楕円形を縦に起こしたような瞳はキラキラと輝いていて、前に突き出された口の端には長い舌がダランと垂れ下がっている。
そして左右の前足の先には、白い手袋のようなものがはめられている。

それは犬だった。
多分、ゴールデンレトリーバー……。

一瞬、キグルミかとも思ったけど――違う。

ごく自然に滑らかに動くその様は生物的で、とても作り物とは思えない。
だけど、あんな生き物が存在するはずない。まるで人間みたいに後ろ足で立って歩く、オマケに身長が百八十センチぐらいもあり、おまけに左右の前足に手袋をはめた犬なんているわけがない。

しかも、周りにいる人たちはその奇妙なゴールデンレトリーバーに気がつく様子もなく、誰一人、奇妙なその生き物を目で追う素振りすら見せない。

ああ、あれはああいう怪異なんやな……。

そう気がついた瞬間、うちの背中にドッと冷や汗があふれた。
ジリジリと後ずさりして、パッと身をひるがえしてそのまま来た道を駆け戻ろうとして――。

「あ、あのー、……ちょっとお尋ねしてもいいでしょうカ?」

妙に間延びした声が聞こえ、思わずうちは立ち止まる。
そして、そーっと背後を振り返っていた。

「こ、ここにアンディーのお家が……人の使う言葉や文字はアンディーには……」

思わずうちは目を丸くしてしまう。

二足歩行のゴールデンレトリーバーが、いや、怪異が道行く人々に話しかけているのだ。
何やら物悲しそうにヒン、ヒンと鼻を鳴らしながら。

だけど……。

レトリーバーの怪異の呼びかけに応える人はいなかった。

無理もない。
普通の人にはモウジャや怪異、幽霊やお化けの類を認識することはできない。

霊的な儀式や唱え事を経て自らの意識をあちら側に合わせるか、今にも死にそうな極限状態であるなら話は別だけど……。

時々、勘のよさそうな人が怪異に耳元で囁きかけられ、「?」と首を傾げていたがそれだけだった。誰一人立ち止まることなく、スタスタと足早に怪異のもとを離れてゆく。

クウーンと悲しげに一鳴きし、ガックリと両肩を落とす怪異。
それから深く項垂れながらクルリと回れ右をして、来た方向をトボトボと戻り始める。

その背中はあまりにも寂しげで——、何だかうちは胸が締め付けられるのを覚えた。

少し躊躇った後。

「ね、そこのワンちゃん。ちょっと待って……」

だんだん遠ざかってゆくオレンジ色の背中に向かってうちは手を伸ばしかけていた。

「うちは、その、塚森って言うて……」

その時だった。

いきなり後ろから襟首をガッとつかまれた。
そして、男のものと思しき手に口元を塞がれる。

悲鳴をあげる間もなく全身を強張らせたまま、うちはアーケードの隅、自動販売機の前までズルズルと引きずってゆかれ――半ば突き飛ばすようにして解放された。

あまりにも乱暴な扱いだった。
不覚にも涙目になりながら、うちは振り返っていた。

「誰か来て! ヘンタイです! 異常者です! お巡りさん、こいつです!」

と絶叫する準備をしながら。

だけど、相手の顔を見て――

「……え? ……こんな所で何してるん?」

思わず声がうわずっていた。

返って来たのは、いかにも不機嫌そうな舌打ち。
発したのは、線の細い若い男だった。

フェイクレザーのジャケットの前を開けて着こみ、頭にフードをすっぽり被せている。
ダメージジーンズをはいた足はスラリと長く、山ほど鋲が打たれた黒い革のベルトを締めていた。

うちの知り合いでこんな格好をしているのは、たった一人しかいない。

男はフードを外し、うちの顔をジロリと睨みつける。
さらりと赤味がかかった前髪が揺れ――、意外なくらい整った顔が露わになる。

かっこいい、と言うよりは綺麗ないわゆる王子様系の顔立ちだ。
病的なまでに険しい目つきと顔のあちこちに走る、刃物で斬りつけたかのような古傷がそれを台無しにしていたけど。

「コ、コウちゃん? な、何であんたが夢ノ宮におるん?」

「僕がいちゃ悪いのか? ……アルバイトだよ」

そう言って小さく鼻を鳴らした男の名前は塚森コウ。
同じ苗字からわかるように、うちとは従兄弟同士の関係。お父さん――塚森レイジの一番目の妹の子でうちより六つほど年上。

今は確か、東京に住んでいて学校に通うわけでもなく、就職するわけでもなく、ただ毎日をブラブラしていると聞いていたけど……。

こうして会うのは多分、二、三年ぶりぐらいだと思う。

「お前こそ、こんな繁華街でフラフラして……。不良の真似事か?」

「ふ、不良ってそんな……。うちはただ、新商品の文房具が今日発売やったから……」

「黙れ。そんな話、僕が知りたいと思うか?」

圧の強い口調。グッとうちは言葉を詰まらせる。

コウはうちにはいつもこんな感じだ。やたら当たりが強い。
他の人――お父さんやリョウにはそうでもない。普通に話をする。

きっと、本当の血縁ではなく養女であるうちのことが目障りなんやと思う。

「そんなことより――」

と、コウが一歩うちに詰め寄り、言う。

「さっきのは一体、どういうつもりなんだい?」

「ど、どういうつもりって……何が?」

「とぼけるなよ。僕が止めなきゃ、あの怪異に話しかけていただろ? それがどれだけ危険なことか、わかってるよね? 一応、キミカだって塚森のハシクレなんだから」

吐き捨てるように言ったコウの言葉に胸が痛む。

怪異。幽霊、妖怪、お化け、魔物、精霊……。
呼び方は何だっていい。
ゴールデンレトリーバーの着ぐるみのような姿をしたあの得体の知れないものは、そう言ったこの世ならざる者の同類だ。

全ての怪異が必ずしも他者に悪意や敵意を抱いているわけじゃないけれど、剥き出しの感情の化身とも言うべき彼らと接触することは、うちら生者にとっては猛毒にも等しい影響があるのだ。

時として、それは不幸にも祟りと呼ばれる事さえある。

だけど……。

「だって、何かすごい困っているように見えたんやもん……」

感じたままのことをうちは口にしていた。

「それにあの子、うちがこれまで遭って来た連中とは違って、そこまであかん感じせんかったし……」

「あの子と来たか。参ったねこりゃ」

うちの言い訳をさえぎるように言葉をかぶせてくるコウ。

「あのね、怪異の見た目ほど信用できないものなんてないよ? あいつらは文字通り、化け物なんだからさ」

そう言われるとうちは黙り込むしかない。
それをどう受け取ったのか、コウは大げさな溜息をついていた。

「……あの怪異はね。ここ半年ほどの間、この辺りによく出没するようになったって聞いている。その見た目から、仮にシロテブクロって呼称されているけどね」

「シロテブクロ?」

「あくまでも仮称だよ、文句があるなら自分で別案を出せばいいだろ」

「……うち、何も言ってへんやん」

「それで、だ」

思わずムスッとしたうちには構わず話を続けるコウ。

「あの怪異にどんな特性や習性があるのか、調査して報告書を書いてくれって朱雀機関から依頼を受けたんだよ。ネカフェに寝泊まりしながらあいつの動向を監視するようになって今日で三週間弱。あと数日がんばればまとまったお金が手に入るって寸法なんだ」

と、コウの手が伸び――、うちの頭をつかんで髪の毛をグシャグシャにしてくる。

「つまり、僕の生活がかかっている。……ま、全部親に見てもらっているお気楽女子中学生には理解できない話だろうけどね」

うわ、ムカつく。内心、うちは思った。
年上やからって何でこないに偉そうにされなあかんの?

頭に来たうちはコウの手を乱暴に払いのけようとした。

「だからさ、キミカ。くれぐれも手出しはしないように頼むな?」

うちの頭をつかむコウの手にグッと力がこもる。
コウは猫なで声だったけれど、そのまま引っ張りあげられたら頭皮ごと髪の毛を引き抜かれてしまうのではないかと心配になるほど強い力だった。

「万が一、余計な刺激を与えて仕事を増やしたら……今度は僕、本気で怒るよ?」

そう言ったコウの口元は緩んでいたけど、目は笑っていなかった。

「……」

「わかったら返事」

「……はい」

かすれた声でうちは答えていた。

それに満足したのか、コウはにっこりとほほ笑んで――、軽くうちの肩を押す。
思わず身体をよろめかせながらも、うちは足を踏ん張り、何とかその場で姿勢を保っていた。

「……じゃあ、もう行きな。遠巻きにとは言え怪異を見たんだし、家に帰ったら塩を撒くの忘れちゃダメだよ。あ、それとおじさんによろしくって伝えといて。今度、そっちにも塚森本家にも寄らしてもらうわ」

……別れ際の挨拶にしてはなかなかの情報量やな、とうちは思った。

自分の言いたい事だけを言うと、うちの返事も待たず、コウはアーケードの雑踏へとその身を溶け込ませていった。