その闇は円く切り取られていた。
それは『御穴』と呼ばれる、深さ八百メートルもの巨大な縦穴の入り口。
気が遠くなるほど長い螺旋階段へと続き、等間隔に置かれた何百基もの鳥居をくぐり、下へ下へとくだってゆく。

どれぐらいの時間がかかっただろうか?
暗闇の中、何度も足を滑らせそうになりながらも、うちらはようやく『御穴』の底へと辿り着いていた。

幾つもの篝火がたかれ、周囲を厳めしく黒々とした岩の壁に囲まれたそこはひんやりとした冷気に満ちた広大な空間だった。見た感じだと学校のグランドと同じぐらいの広さだと思う。

『御穴』の真ん中には、巨大な石の塊が置かれていた。

それは八角形に平たく削り出された石舞台。その周りには太くて黒い注連縄が張り巡らされ、八角形の角かどごとに設置された支柱に結びつけられている。

そして、その石舞台の上には小さな人影がたたずんでいた。

……人影? こんな真っ暗闇の地底で、人?

遥か地上からうっすらと挿し込む月明りを頼りにうちは目を凝らしていた。

石舞台の上でうちに背を向けて立っていたのは、子どもだった。
背中を向けているから男の子か女の子か判断できなかったけれど、背丈はうちよりずっと小さくて小学校の低学年ぐらいだと思う。

子供の黒々とした髪は濡れているように艶やかで背中まで伸びていて、その小さな頭には闇の中、鈍く輝く奇妙な物が載せられている。

それは冠だった。
思わず見惚れてしまうほど美しく精密な金細工の。

その冠は三層構造になっていて――最下層は台座。子供の顎と紫色の紐で結び付けられている。下から二段目には左右に広げられた二枚の翼の彫刻。
そして、そのさらに上には独楽が一個、静かに回転しているのが見えた。
その真上にゆらゆらと小さな炎を揺らめかせて。

と、子供がゆっくりとふり返った。純白の上衣の長い袖をたなびかせ、紺色の袴の下に履いた高下駄の歯を打ち鳴らして。

中性的というのだろうか?
振り返ったのは、やっぱり男の子か女の子かよくわからない顔。

だけど、とても綺麗な顔だった。
抜けるように肌が白くて、お人形みたいに整いすぎるほど整った顔。
綺麗すぎて、ちょっと怖くなるぐらい。

だけど、それよりも気になったのはその子の右目の辺りをグルグルと覆った包帯のようなものだった。うちのいる所からはよく見えなかったけれど、その包帯の布地には赤く滲んだ文字がびっしと書き込まれていた。

それに引き込まれ思わずうちが一歩、石舞台に近づいた時だった。
ゆっくりと――柔らかく瞑られていた、もう片方の瞳が開いた。

思わずうちは声にならない声をあげていた。

石舞台の上でたたずむその子の瞳は深海の静寂を思わせるような漆黒で、一点の光もなかった。それに見すえられ、うちは足元が浮き上がり宙に吸い込まれるような浮遊感を覚える。

続いてグラリと地面が揺れるような眩暈に襲われ、あっと後ろによろめく。

「――おっと。大丈夫かい?」

転倒する前にそっとうちは両肩を抱きとめられていた。
肩越しに顔をのぞかせたのは、お父さんだった。
お父さんも石舞台の上にいる男の子と同じような格好をしている。
もっとも、お父さんは大人だから稚児じゃなく神職だけど。

「ここは足元が悪いからね。滑らないように気をつけないと――」

「あ、うん……。ごめん……」

「それにあの御方を前にしたら、気持ちをしっかり持たないとダメだよ」

声を引くしてお父さんは言った。

「見た目は小さな子供でも、あの御方は神様だからね。……たとえ悪気がなくても、まっすぐ見つめ合えば、それだけでこちら側からあちら側に引っ張られてしまう」

「あちら側……」

思わず、うちはお父さんの言葉を繰り返していた。

「だけど、大丈夫。……塚森家は先祖代々、神様と上手に付き合うためのノウハウを何百年もかけて積み上げてきたからね」

にっこり笑ってお父さんは続ける。

「だから心配しなくても、キミカだって神様と心を通わせることができるようになるよ」
チラッとうちは横目で石舞台のほうを見遣る。

もう、あの子はこちらを向いていなかった。
ただボンヤリとした表情で頭上から降りそそぐ幽かな月の光を眺めていた。

「もし、神様と心を通わせれるようになったら――うちはホンマの塚森の子になれるん?」

考えなしに出てきた一言だったけれど、すぐに後悔した。ほんの少しの間だっただけれど、はっと息を飲んだお父さんが表情を曇らせたからだ。

「バカだなぁ、キミカは。……できようと、できまいととっくにキミカは塚森の子だよ」

少し間を置いて、お父さんがうちの頭を撫でる。
『御穴』の底は暗くて、表情まではよくわからなかったけれど、その声は笑っているようにも、少し泣いているようにもうちには感じられた。

「だけど――これはこれ。それはそれだ。これからのキミカの人生において、ここで神様と縁を結ぶことは必要不可欠だ。理由は……言わなくてもわかるね?」

うちは頷いていた。
実際、お父さんの言う「理由」は毎日のように起こっている。

例えば、今日は学校の帰り道に水たまりが出来ていたから避けて歩こうとしたところ、中から女の人の手が出てきて足をつかまれた。

一昨日は学校のトイレでネズミの顔をした小人の群れに取り囲まれた。

その十日ぐらい前には、友達と遊びに出かけた映画館でスクリーンいっぱいに見知らぬおっさんの顔が浮き出てきて目当ての映画は結局一分も見ることができなかった。

他にもいろいろある。
ありすぎて、どんな感じだったかいちいち思い出せないくらい。

「……じゃあ、早速神様に話しかけてみようか」

お父さんがまた、うちに言った。

「宿題にしていた唱え事、ちゃんと暗記してる?」

「えっと……」

今度はうちが言葉に詰まる番だった。
人間が口を使って話す言葉は、基本的に神様には聞こえない。
神様と話をしたい時は心を使って話をする必要がある。
その時、余計なことを考えたり、思ったりするとそれは雑音になり、神様にとってはすごく耳障りになるらしい。最悪、拗ねたり、怒りだしたりするそうだ……。

お父さんから教えてもらった唱え事をうちは一生懸命覚えた。
『御穴』ではメモとかを持ち込めないって言われたから、ノートに何度も書いて必死で。だけど、いざ、実際に唱える段になると綺麗さっぱり忘れていた。

「……あー、ド忘れしちゃったか。……まあ、こういう緊張を伴う場面ではよくあることだから気にしなくていいよ」

うちがモジモジしていると、事情を察してくれたお父さんが苦笑交じりに言う。

「それにこう言っちゃなんだけど唱え事って言うのは、文言を一字一句、正確につむぐよりもそれを唱えることで心を落ち着かせ、一つのことに集中するほうが重要だ。唱え事に呼吸を乗せ、雑念を払い思考や感情を一方向に向ける。……分かるかな?」

「……あんまり。……ごめん」

お父さんに申し訳ない、と思いつつもうちは素直に答えるしかない。

「まあ、実践を重ねて慣れるしかないね。御祈祷に限らず何事も」

と、肩をすくめるお父さん。

「お父さんが先に真言を奏上するから、キミカは後から追いかけてみて?」
大きく息を吸い込み――、ゆっくりと時間をかけて吐き出してゆくお父さん。

それに合わせている内に自然とうちの呼吸も整えられてゆく。

すっとお父さんは目の前で両手を重ね合わせ――、掌のなかで左右の指を交叉させてゆき、その状態で人差し指を立てて合わせ、親指で薬指の付け根を押さえつける。不動根本印と呼ばれる印相だ。それから低く振動するような声でお父さんが唱え事を唱え始めた。

オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。