2:音楽誌『■■■■■■』202■年10月号特集ページ 『ザ・キャットテイル 日比谷野外大音楽堂公演の舞台裏に密着』より一部抜粋
重たい雲に覆われた日比谷の空を見上げた春原佳久(Gt/Cho)は、私の存在に気づくと少年のような相貌に苦笑いを浮かべ、「雨……ですね」と溜息をつくように言った。本番まであと3時間。困りましたね、と返すと、彼も困りましたね、と繰り返す。しかし、潜めていた眉を空元気を出すように、ぐい、と上げ、お馴染みのリムレス眼鏡を押し上げて言った。
「でも多分止みますよ。うち、晴れバンドなんで」
言いながらエフェクターボードの設置に戻る彼の後ろから、紺野ヒロミ(Dr)が顔を出す。さっきまでの私たちの話を聞いていたのか、随分と長くなった金髪の前髪を気にしながら、「ていうか、フロントマンがねえ」と相変わらずの天真爛漫な笑顔を見せる。春原も作業の手を止めることはないものの、彼の言葉に思わず破顔して「そうね、フフ」と笑う。
「すっごい晴れ男だからねえ」「驚異的な(笑)」
彼らが口々にそう讃えるフロントマンは、彼らにとっては幼少からの幼馴染だ。きっとこれまで、バンドメンバーとしての人生が始まる前からずっと、彼の“驚異的な”晴れ男ぶりを目にしてきたのだろう。
そんな晴れ男の“伝説”を教えてくれたのは、バンドにとって最後の合流者である、最年少のベーシスト・九條ジュンだった。
「夜には上がるって聞きましたけど、あんまり雨足が強くなるとお客さんたちの帰りの電車とかに影響するので。ちょっと心配だよねって、今ジュンと話してて」
セッティングを終え、スマートフォンで天気を確認しながらインタビューに応じてくれたのは、キーボード担当のギャツビー石川だ。トレードマークのサングラスを既にしっかりと身につけているが、その柔らかな物腰からは観客の帰りの足まで気を配る繊細な気遣いの心が現れている。
隣に座り込んでギャツビーのスマホを覗いていた九條は、重い前髪の奥の大きな目を輝かせて、「でもほら、うちにはジルさんがいるじゃないですか」と続けた。
「すごいんですよ、ジルさんって。僕が加入する前のヨーロッパツアーのとき、でしたっけ? イギリスで一度も雨に降られなかったっていう」嬉々としてジル猫実の“伝説”を語る九條。インディーズデビュー時からのキャットテイルのファンだったという彼は、追加加入メンバーながら誰よりもバンド愛が、ひいては先輩に当たるメンバーへの愛がとても強い。
「あと、僕が入ってからもアメリカの……フォークスでしたっけ?」
ギャツビーが穏やかな口調で、「そう。雨と霧の街」と返すと、九條は深く頷いて、思い出のページを捲るように話を続けた。
「フォークスであった野外フェスに呼ばれて、あのとき、当日まですごい霧だったんですけど。ジルさんが舞台に出て、ちょっと歌ったら晴れてきたんですよ。なので、きっと大丈夫です」
九條の無邪気な期待は当たらなかったのか、その日は開演まで霧雨が降り止むことはなかった。台風の名残を残した雨雲には、さすがの驚異的な晴れ男も敵わなかったかと思われたが、開演前、衣装のブラックスーツに身を包んだジル猫実(Vo)は、ゆったりとした会釈の後、雨ですね、という社交辞令のような時候の挨拶を口にし、しかし晴れやかな笑顔を浮かべて堂々と言った。
「でも機材の心配とかは必要ないと思いますって、スタッフさんたちにももう伝えてあります。多分もうすぐ、降り止むので」
客席には満員のオーディエンス。更に機材席を急遽解放し、当日券の販売も行われ、ソールドアウトを果たした会場は野外とは思えないほど熱気に満ちていた。彼らの野音公演は約7年ぶり。本来的には4年前に再演が企画されていたが、疫病禍の影響で立ち消えになってしまったのだという。会場に満ちていた胸が詰まるほどの期待は、疫病の蔓延によるライブシーンの低迷をも乗り越えた彼らに向けられた、至上の賛辞だと言って良いだろう。
開演を告げるお馴染みのブザーが鳴り響くなか、メンバーが次々と姿を現す。紺野、ギャツビー、九條、春原と続き、最後にジルがセンターのスタンドマイクの前に立った。照明が落とされ、夕陽の落ちかけた舞台に並んだ、揃いのテーラーメイドのブラックジャケットを身に纏った5人の姿は、闇に紛れる怪物の群れに遭遇したような独特な威圧感を放っている。
ブザーが鳴り止み、赤い髪を生温い風に靡かせたジルが、レースの手袋を着けた右手をマイクスタンドに添えた。顔を上げ、鋭い眼差しが、固唾を飲んで待つオーディエンスをひとりひとり射るように見渡していく。
「紳士淑女その他の皆様、お待たせ致しました。天上天下唯我独尊、宇宙一のロックンロールバンド、ザ・キャットテイル。始めさせて頂きます」
決して低くはない、歯切れの良い声で宣言すると、紺野の鋭いカウントを合図に演奏が始まる。このライブ定番曲は通常ならワンマンライブのクライマックスで披露されることが多いが、この日は一曲目。今日という日を心待ちにしてきたリスナーの心を一瞬で掴むには充分すぎる演出だ。ガレージパンクをルーツとした骨太なサウンドにジル猫実の必殺技とも言えるハスキーなロングシャウトが乗る。彼の歌声は、聴き手の脳を揺るがしアドレナリンを絞り出す怪獣の雄叫びだ。踊り狂う者、拳を振り上げる者、息を詰めて聴き遂げようとする者、それぞれの方法で彼らの音楽に食らいついていこうとするオーディエンスの頭上に降り注いでいた霧雨はいつの間にやら降り止み、そして、ジル猫実の叫びと共に風が吹き、重たく澱んでいた雲は晴れ、フロアには夕陽が差し込んできた。
奇跡的に姿を現したオレンジ色の陽の光に照らされた怪獣の白く端正な横顔は、弾けるような笑みを湛えて輝いていた。
重たい雲に覆われた日比谷の空を見上げた春原佳久(Gt/Cho)は、私の存在に気づくと少年のような相貌に苦笑いを浮かべ、「雨……ですね」と溜息をつくように言った。本番まであと3時間。困りましたね、と返すと、彼も困りましたね、と繰り返す。しかし、潜めていた眉を空元気を出すように、ぐい、と上げ、お馴染みのリムレス眼鏡を押し上げて言った。
「でも多分止みますよ。うち、晴れバンドなんで」
言いながらエフェクターボードの設置に戻る彼の後ろから、紺野ヒロミ(Dr)が顔を出す。さっきまでの私たちの話を聞いていたのか、随分と長くなった金髪の前髪を気にしながら、「ていうか、フロントマンがねえ」と相変わらずの天真爛漫な笑顔を見せる。春原も作業の手を止めることはないものの、彼の言葉に思わず破顔して「そうね、フフ」と笑う。
「すっごい晴れ男だからねえ」「驚異的な(笑)」
彼らが口々にそう讃えるフロントマンは、彼らにとっては幼少からの幼馴染だ。きっとこれまで、バンドメンバーとしての人生が始まる前からずっと、彼の“驚異的な”晴れ男ぶりを目にしてきたのだろう。
そんな晴れ男の“伝説”を教えてくれたのは、バンドにとって最後の合流者である、最年少のベーシスト・九條ジュンだった。
「夜には上がるって聞きましたけど、あんまり雨足が強くなるとお客さんたちの帰りの電車とかに影響するので。ちょっと心配だよねって、今ジュンと話してて」
セッティングを終え、スマートフォンで天気を確認しながらインタビューに応じてくれたのは、キーボード担当のギャツビー石川だ。トレードマークのサングラスを既にしっかりと身につけているが、その柔らかな物腰からは観客の帰りの足まで気を配る繊細な気遣いの心が現れている。
隣に座り込んでギャツビーのスマホを覗いていた九條は、重い前髪の奥の大きな目を輝かせて、「でもほら、うちにはジルさんがいるじゃないですか」と続けた。
「すごいんですよ、ジルさんって。僕が加入する前のヨーロッパツアーのとき、でしたっけ? イギリスで一度も雨に降られなかったっていう」嬉々としてジル猫実の“伝説”を語る九條。インディーズデビュー時からのキャットテイルのファンだったという彼は、追加加入メンバーながら誰よりもバンド愛が、ひいては先輩に当たるメンバーへの愛がとても強い。
「あと、僕が入ってからもアメリカの……フォークスでしたっけ?」
ギャツビーが穏やかな口調で、「そう。雨と霧の街」と返すと、九條は深く頷いて、思い出のページを捲るように話を続けた。
「フォークスであった野外フェスに呼ばれて、あのとき、当日まですごい霧だったんですけど。ジルさんが舞台に出て、ちょっと歌ったら晴れてきたんですよ。なので、きっと大丈夫です」
九條の無邪気な期待は当たらなかったのか、その日は開演まで霧雨が降り止むことはなかった。台風の名残を残した雨雲には、さすがの驚異的な晴れ男も敵わなかったかと思われたが、開演前、衣装のブラックスーツに身を包んだジル猫実(Vo)は、ゆったりとした会釈の後、雨ですね、という社交辞令のような時候の挨拶を口にし、しかし晴れやかな笑顔を浮かべて堂々と言った。
「でも機材の心配とかは必要ないと思いますって、スタッフさんたちにももう伝えてあります。多分もうすぐ、降り止むので」
客席には満員のオーディエンス。更に機材席を急遽解放し、当日券の販売も行われ、ソールドアウトを果たした会場は野外とは思えないほど熱気に満ちていた。彼らの野音公演は約7年ぶり。本来的には4年前に再演が企画されていたが、疫病禍の影響で立ち消えになってしまったのだという。会場に満ちていた胸が詰まるほどの期待は、疫病の蔓延によるライブシーンの低迷をも乗り越えた彼らに向けられた、至上の賛辞だと言って良いだろう。
開演を告げるお馴染みのブザーが鳴り響くなか、メンバーが次々と姿を現す。紺野、ギャツビー、九條、春原と続き、最後にジルがセンターのスタンドマイクの前に立った。照明が落とされ、夕陽の落ちかけた舞台に並んだ、揃いのテーラーメイドのブラックジャケットを身に纏った5人の姿は、闇に紛れる怪物の群れに遭遇したような独特な威圧感を放っている。
ブザーが鳴り止み、赤い髪を生温い風に靡かせたジルが、レースの手袋を着けた右手をマイクスタンドに添えた。顔を上げ、鋭い眼差しが、固唾を飲んで待つオーディエンスをひとりひとり射るように見渡していく。
「紳士淑女その他の皆様、お待たせ致しました。天上天下唯我独尊、宇宙一のロックンロールバンド、ザ・キャットテイル。始めさせて頂きます」
決して低くはない、歯切れの良い声で宣言すると、紺野の鋭いカウントを合図に演奏が始まる。このライブ定番曲は通常ならワンマンライブのクライマックスで披露されることが多いが、この日は一曲目。今日という日を心待ちにしてきたリスナーの心を一瞬で掴むには充分すぎる演出だ。ガレージパンクをルーツとした骨太なサウンドにジル猫実の必殺技とも言えるハスキーなロングシャウトが乗る。彼の歌声は、聴き手の脳を揺るがしアドレナリンを絞り出す怪獣の雄叫びだ。踊り狂う者、拳を振り上げる者、息を詰めて聴き遂げようとする者、それぞれの方法で彼らの音楽に食らいついていこうとするオーディエンスの頭上に降り注いでいた霧雨はいつの間にやら降り止み、そして、ジル猫実の叫びと共に風が吹き、重たく澱んでいた雲は晴れ、フロアには夕陽が差し込んできた。
奇跡的に姿を現したオレンジ色の陽の光に照らされた怪獣の白く端正な横顔は、弾けるような笑みを湛えて輝いていた。

