瑞稀(みずき)先輩、それ半分、俺やりますよ」

生徒会室で、なかなか減らない書類と格闘する放課後。
ぶっきらぼうな言い方で、サッと手を差し伸べてくれるのは、少し前に生徒会に入った一年書記の神楽賢人(かぐらけんと)くんだ。

「賢人くん、もう終わったの!?」

「俺の方が少なかったでしょ」

「そ、そうだけど……自分の分終わったなら、帰っても大丈夫だよ!ほら、明日、一年生は模試あるだろうし」

ね?と笑いかけると、賢人くんはニコリとするどころか、不機嫌そうに眉間に皺を寄せてしまった。

「このまま帰っても、勉強に集中できません」

「え、ぁ、そ、そっか……」

確かに、まだ仕事をしている人を残して帰るのも、気分がいいものではないのかもしれない。
俺の方が先輩だし、そこまで気を遣わなくていいのだけれど……賢人くんはこういうとき、いつも引いてくれない。

「……じゃあ、半分、お願いしてもいいかな?」

「……!はい、やります」

あ、今、少し表情が柔らかくなった。
多分、ちょっと……喜んでる気がする。

賢人くんは超がつくほどのイケメンだけど、超がつくほど無愛想なため、最初は俺も戸惑った。
彼は首席で入学し、最初のテストも当然のように学年一位を取ったらしく、その噂はよく耳にしていたけれど……。
六月頭に賢人くんが生徒会に入って初めて話したとき、全然表情が変わらない彼を実際に見て、さすがに驚いたし、既に嫌われているのではないかと不安になった。

でも、そんな賢人くんだけど、一緒に過ごすうちに、少しずつその表情の変化に気づけるようになったんだ。
嬉しいときはほっぺたが緩んで、目がきらきら光る。
怒っているときは眉間が寄って、口にぎゅっと力が入る。
一度読み取れるようになると、結構分かりやすいと思うのだけど、やっぱり周りからはいまだに怖がられているみたいだ。

「……先輩?どうかしました?」

「っ!な、なんでもないよ」

賢人くんに不思議そうに尋ねられ、慌てて手元のアンケート用紙に視線を戻した。
最初に距離を感じた分、今では賢人くんの表情を観察するのが楽しくて、ついつい見つめてしまうことがある。
俺の仕事が遅くて手伝ってもらっているのに、こんな理由で手が止まっていたなんて恥ずかしい……。

気を取り直してアンケート用紙の回答を記録していくけれど……俺が一枚確認し終える間に、賢人くんは三枚捌いている。
彼は本当に仕事が早くて丁寧なのだ。
俺の方が年上なのに効率が悪くて、情けなくなるばかり。

「……賢人くんはすごいなぁ。俺より全然早くて」

感嘆の声を漏らすと、賢人くんの顔がほんのり赤らみ、視線が少し泳ぐ。
ほらね、意外と照れてるところも分かりやすいんだよ。

「……すごくないですよ。瑞稀先輩みたいに、一人一人に優しく寄り添えてないだけです」

「えっ?」

「先輩は自由記述欄、全てきちんと読まれてますよね。質問への回答も丁寧だし。俺には無理です。見てくださいこれとか。なんですか?この汚い字。テキトーすぎます」

賢人くんは誰かのミミズみたいな文字を指差して、ギロリと睨む。

「あと、たまにギャグとかふざけたこと書くやつもいるでしょ。マジで破ってやろうかと思いますもん」

ゴゴゴ……と背後にメラメラ炎をゆらめかせている賢人くんが、なんだかおかしくて、クスッと笑みが溢れてしまう。

「ふふ、俺だって、ふざけたやつは無視するよ」

「いえ、先輩のいい加減=普通の人の丁寧です。それは認めてください」

「は、はい……?」

「だから、その……作業に時間がかかったとしても、それは、悪いことじゃないです」

「……!」

賢人くんにまっすぐ見つめられると、身体が思うように動かなくなる。
深くて静かな黒い瞳に魔法をかけられたみたいに。

「……ふふ、賢人くんは優しいね」

「っ!そんなこと……」

「そんなこと、あるよ。いつもこうやって手伝ってくれるし、困ってるときはすぐに駆けつけてくれるし。周りをよく見てるんだね」

「……それは……先輩が……」

「ん?」

「っ!と、とりあえず、これ、終わらせましょ」

あ、耳まで赤くなってる。
もしかすると、過去最高に照れているかもしれない。
みんなには無愛想王子、なんて呼ばれてるけどさ……本当は、すごく可愛い子だって気づいてるよ。







翌日、土曜日。
俺は部活に入ってないし、今週は生徒会の仕事もないから、ゆっくりお休み……の、予定だったんだけど。
午前中、突然、同じ二年の生徒会役員から電話がかかってきたんだ。

『……てなわけで、今、高熱でベッドの中なんだ……』

「それは辛いな……昨日、保健室行ってたもんねぇ」

どうやら彼は、風邪をひいて寝込んでいるらしい。
確かに昨日、調子が悪そうなところを見かけたし、嘘をついているわけではないだろう。
彼は少し枯れた声で、俺に頼みがあると言う。

『来週、ほら、他校の生徒会と交流会あるじゃん?そこで使うポスターの進捗がやばくてさ……田中(もう一人の二年広報)は部活の試合だし、一年は模試があるから、無理しないでって昨日言っちゃって……』

「そっかぁ……うん。分かった!今日は暇だし、できるだけ進めてみるよ」

という会話をしたのが、約四十分前。
俺は急いで制服に着替えて、家を飛び出して……。
今、生徒会室で、進捗が絶望的なポスターを広げているというわけだ。

交流会のポスターを作るのは、本来は広報の仕事。
広報は一年と二年から二人ずつ、計四人いるから大丈夫かなと、完全に任せてしまっていたのだけれど……。

「まあ、生徒総会もあって忙しかったもんなぁ」

先週まで他にもやることがたくさんあったし、ポスターが後回しになってしまうのも頷ける。
みんなは俺と違って部活も頑張ってるもんね。
こういうときくらい、俺が役に立たないと!

「よし!」

腕まくりをしてほっぺを叩いて、ビシッと気合いを入れる。
下書きはある程度してくれてあるし、今から夕方まで集中してやって、なるべく進めて月曜の広報にバトンタッチするんだ。

マジックをぎゅっと握って、俺はポスターと睨めっこを始めた―――。







「疲れたぁ〜……」

時刻は午後三時前。
お昼も食べずに作業をしていたから、さすがに集中力が切れてきた。
行きにコンビニで買ったチョコチップメロンパンを食べるときが来たようだ……!

「いただきまーす」

はむ、と頬張れば、口いっぱいに広がる甘い幸福。
空腹が満たされ、全身にエネルギーが巡っていくのが分かる。
結構大きなメロンパンをあっという間に食べ終えて、お茶を飲んで、ふう、と一息ついて……作業再開!
したいところだったんだけど……。

「眠すぎる……」

お昼ご飯の後というのは、やはり眠くなってしまうもので。
瞼が一気にずうんと重くなってしまったから、俺は潔く仮眠を取ることにした。
十五分くらいの仮眠は、確かより良いパフォーマンスに繋がるらしいし……少しだけ……ね。

それ以上言い訳を考える暇もなく、俺の意識は夢の海に飛び込んでしまっていた。


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「……ぃ、先輩」

「ん?」

「昨日のドラマ見ました?」

「あ、うん」

あれ……ここ、は、中学校だ。
懐かしい、この玄関。この日差しの感じ。
そして……。

「瑞稀先輩の考察、的中でしたよね」

あ……やっぱり、この夢、か。

「夏くんの予想も面白かったけどな」

やだな、この続き、見たくないな、覚めて、お願い。
もう、分かったから。後悔してるから。

「あ、このポスター!もうすぐ夏祭りあるんですね」

「……夏くんは、誰かと行く?」

「っ、い、いえ……」

「あ、あのさ、もしよかったら―――」

次の日のことは、一生忘れられないし、忘れちゃいけない。
俺は、この罪を背負って生きていかなきゃ……。


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「……ぃ、先輩」

「へ……?」

ゆっくりと浮上する意識と、開く瞼。
視界がぼやけているなぁとぼんやり思っていたら、温かい手に頬を包まれていた。
ぱちりと瞬きをすると、頬に生ぬるいものが伝って、自分が泣いているのだと初めて気づく。
クリアになった視界に映ったのは―――

「賢人くん……?なんで……」

賢人くんは、親指で俺の目の端を優しく拭いながら話す。

「さっき模試終わったところで……その、帰りに寄ってみたら、先輩、いたから」

「え、あ、そっか、もうそんな時間……」

時計を見ると、三十分は寝ていたらしい。
賢人くんに起こしてもらえなかったら、もっともっと眠っていたかもしれない。

「……瑞稀先輩」

「っ、」

賢人くんは大きな手で、俺の頭をさらりと撫でる。
座ったまま、チラ、と見上げると、彼はどこか苦しそうに顔を歪めて俺を見つめていた。

「賢人くん?っ、わ、」

頭を彼のお腹のあたりに引き寄せられて、ぎゅう、と抱きしめられる。
あまりに驚いて、一瞬息をするのを忘れた。
やっと呼吸をすれば、今度は賢人くんの優しい香りが肺いっぱいに広がって、全身がじわりと熱くなる。

「……なんで、泣いてるんですか」

「え……」

「なんで、そんなに、苦しそうな顔、してるんですか」

「そ、れは……嫌な夢、見ちゃって……」

そう話す自分の声は、情けなく震えていた。
後輩の前で泣いてる姿なんか見せて、抱きしめて慰めてもらうなんて……本当に、俺ってダメだなぁ。
そう思いながらも、こんな俺を包み込んでくれる賢人くんの温度が、ひどく優しくて温かくて、柔らかなおひさまの光みたいで、心地良くて仕方なくて……。

「っ……」

賢人くんの腰に腕を回して、縋るように抱きしめてしまった。
せっかく乾きかけていた瞳も、また潤んでしまう。
賢人くんはしばらくの間、俺の後頭部を静かに撫で続けてくれた。

「っ、ごめん、賢人くん……」

ゆっくり体を離すと、賢人くんは俺に目線を合わせるように屈んで、

「少しは落ち着きましたか?」

優しく微笑んだ。
その瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねて、きゅう、と悶えるように痛んだ。
まだ知らない賢人くんの表情が、たくさんあるのかもしれないと思うと、鼓動は容赦なく騒がしくなる。

「……ぁ、ありがとうね」

これ、ダメなやつだ。
この感覚の先にある感情を、俺は知っている。
そこに行っちゃいけないと、俺は決めている。
だけど……

「瑞稀先輩」

両手で頬を包まれて、ほんのり甘い視線に撫でられたら、不可抗力でときめいてしまうだろう。

「もう一人で泣かないで」

「ぁ……」

「また辛いことがあったら、俺を呼んでください。いつでも、どこでも。分かりましたか?」

今この瞬間だけは、どうか許してほしい。
明日も明後日もなんて言わないから、今、この胸がキュンと鳴ることだけ、許してほしい。

「……うん、ありがとう」

コクリと頷くと、賢人くんは嬉しそうに口角を上げて、ぽん、と俺の頭に手を乗せて立ち上がる。

「ていうか、先輩、なんでポスター作ってたんですか」

「ぇ、あ、ああ、広報の人たちが忙しいみたいで……」

「模試終わったんだから、一年の奴らはできるでしょ。今から呼び戻しましょうか」

「え、い、いいよ!ほら!もう完成しそうだし!」

さっきの優しい微笑みから一転して、怖い顔で生徒会室を出て行こうとする賢人くん。
慌てて背中に抱きついて、ぐい、と戻るように促した。

「せ、先輩」

「気持ちは嬉しいけど、本当にもう終わるから、ね?」

賢人くんは不満気にはぁ、とため息を吐いた後、スタスタと机の前に戻り、マジックを手に取った。

「先輩、こういうのは、頼まれても断っていいんですよ」

「ぇ、け、賢人くんも帰って大丈夫だよ?」

「嫌です、やりたいです」

「で、でも……」

「……まだ、先輩と話してたいって、言ってんですよ」

「……!」

賢人くんは下書きの文字をなぞりながら、少し拗ねたようにボソッと呟いた。
赤くなる横顔が可愛くて、自然と顔が綻んでしまう。

今思えば、このとき既に、あの夏から蓋をして閉じ込めていた感情は、すっかり息を吹き返していたんだ。
もう両足突っ込んで、戻れないところまで来ているということに気づく日は、そう遠くなかった。