休憩中ぼーっとスマホを眺めていると、イケメンや可愛い女の子がやっている保育士インフルエンサーのショート動画が流れてきた。
保育士あるあるへの共感コメントや、容姿の美しさにいいねが集まる。
その脚光を浴びる煌びやかな光景は、まるで異世界に思えた。
自分もそんな転生をしてみたいとSNSのアカウントだけ作ってみる。
でもよく考えたら、そもそも俺はインフルエンサーのようなイケメンでもないし。
あるある動画を作ってアカウントを伸ばす根性もない。
だから、そっとスマホを閉じ。
現実世界の土臭い保育士へと戻るのだった。
まぁ、べつにいっか。
いいねは集まらないけど、目の前で困ってる人に。
手を差し伸べることはできるのだから。
「みんなきらいだ!みんな、おれになんていなくなってほしいんだろ…」
そう言って、涙をこぼす子どもがいた。
彼は人の嫌なことをして。
迷惑をかけ。
みんなを困らせ。
陰で問題児と呼ばれている。
友達や保護者から嫌われたって。
ある程度は仕方がない。
俺は、そう思っていた。
だって、みんなをこんなにも困らせているんだもの。
しかし、ちがった。
ある日、先輩保育士である猫本晴から問われた。
『みんなの中で、いちばん困ってるの誰かわかる?』
その言葉の意味がわかったとき。
見えている世界ががらりと変わる。
困ってる子どもを助けれるのは。
たしかな保育士の技術だけだ。
保育士はその技術を。
どれだけ研鑽し、高みに登り詰めても。
誰からも褒められ、賞賛などされない。
給料も増えない。処遇も良くならない。
それでも。
人を助けることをやめない。
俺は彼女から、保育士としての真髄を教えてもらった。
俺の名前は犬塚悠。
こでまり保育園で勤務する保育士。
気づいたら年も三十の半ば…。保育歴ばかりを重ねてしまった。
俺は本当に不器用で、今も昔も変わらず保育しかできない。
そんな俺を、晴はいつもいたずらな顔をして笑ってくれた。
結婚してからは、ぽんこつすぎる俺の家事やだらしのない性格に、彼女はよくぶちギレていたけど…。
俺たちはどんなときも一緒にいた。
それがなによりも幸せだった。大好きだった。
そんな彼女とも死別してしまい、そろそろ五年が経とうとしている。
バチン!!
鉄の弦が切れる大きな音が職員室中に響く。
「あー、また悠さんやった〜。もう、それ何回目なんですか?」
そう言って呆れているのは、小柄で黒髪にピンクのワンポイントが可愛い新人保育士の桜井小町ちゃん。
彼女はメイクも中身も、ちょっぴり地雷系女子。
「げ〜。まったやっちゃったよ。もったいないことした〜」
ぼーっと考え事をしながら、チューニングでペグを回し過ぎ。
いつもこうやってギターの弦を切ってしまうのだ。
「もー。これから誕生日会なんだから頼みますよ!」
「わかってるって。すぐに予備の弦に張り替える。小町ちゃんこそ、この前みたいに緊張して司会のセリフすっ飛ばさないでよ」
「心配いりません!さすがに二回目だし!今日はカンペ用意しましたから!」
小町ちゃんは少し照れながらそう言った。
こでまり保育園では、各クラスの子どもたちが園内ホールに集まって、月末はみんなで誕生日会を楽しむ。
今日の誕生日会担当は、小町ちゃんが司会。
俺は出し物でギターをすることになっている。
もともとギターが上手だったのは晴だけど。
生前、彼女に教えてもらって、俺は保育中によく弾き語りをするようになった。
このアコースティックギターも晴の形見だ。
出し物の内容は、一、二歳児たちが好きな童謡や、三、四、五歳児たちが好きなアニメやJ-POPの曲を鼻歌で弾き語りして、なんの曲かを子どもたちに当ててもらうという簡単なクイズ形式のレクリエーション。
なにか新しい出し物を考えなくても、制作物を用意しなくてもいい。
持ち運びもらくで場所を選ばないし、なにをやっても不器用な俺はだいぶギターに助けられている。
なにかイベントがあるたび毎回出し物でギターをしていたら、いつの間にかめちゃくちゃ上達してしまった。
こんな俺を晴が見たら、きっとバカのひとつ覚えと笑うのだろう。
そんなことを考えていたら。
唐突に、思い詰めた表情の小町ちゃんに相談される。
「ねぇ…。悠さん…」
「ん?どうした?」
「わたし…。保育士向いてないなって、最近本当に悩んでて…」
小町ちゃんは学生時代、生徒会長をするくらい真面目なタイプ。
根はいい子なのだけど、ちょっと臨機応変が苦手なところがある。
そんな彼女は最近、保護者への対応で失敗してしまい。ショックを受けることがあった。
ある保護者の方に緊急で土曜保育をお願いされたとき、相手の事情をちゃんと考えないまま「できません」とはっきり断った。
そしたら、そのひとことが原因で、重大な問題を抱えていたその保護者の方が保育園に来れなくなってしまったのだ。
自分の性格の変えられない部分。保育士という仕事の本質。
それがわかってきて悩んでいるのだろう。
「俺も自分のこと保育士向いてるって思ったことないけどなぁ。忘れっぽいし。いろいろ不器用だし。あと男性保育士って、赤ちゃんには最初泣かれちゃうんだよ〜。あれも地味にきついんだよなぁ〜」
彼女を追い詰めないよう、あえて軽い雰囲気でそう返してみた。
「はぁ…。悠さんって、そうやっていつも飄々としてて悩みとかなさそうで本当羨ましい」
俺って、そんなふうに思われてるのか…。
まぁ、いいけど。
次に小町ちゃんから飛んできた質問が、保育士をしていたら誰しもが一度は考えることなので。
ものすごく共感をしてしまう。
「悠さんは、保育士をなんでつづけてるんですか?この仕事って給料は安い。なのに責任は重くてクレームを言われることなんてしょっちゅうだし…。残業しても終わらない仕事量だし…。人間関係も大変だし…。給料やタイパで見たら絶対にもっといい仕事ってたくさんあるじゃないですか。ぶっちゃけ、保育士じゃなきゃいけない理由ってなくないですか?」
「ぜんぜん、ないなぁー!」
本当にその通りすぎて、思わず吹き出しながら答えてしまった。
「もー!こっちは本気で悩んでるんだから笑わないでくださいよ!」
「ごめんごめん。その通りすぎてなんか笑えてきちゃった。人間ってそういうことあるじゃん!」
「で!悠さんはなんで保育士をつづけてるんですか?」
保育士をつづけてる理由か…。
ちょっと考えてるうちに、ふと昔を思い出す。
今から十五年前。
これは俺がまだ新人保育士のときの話。
「ねぇ!悠ってば!どうして頼んどいた誕生日会のメッセージカードを、こんな個性的なふうに切っちゃうわけ?ちゃんと四角に切れないの?」
職員室で週安を書いてる俺に、そう文句をつけてきたのは猫本晴。
金髪の髪に白い肌、猫顔の可愛らしい彼女は、こでまり保育園で働く俺よりふたつ年上の先輩保育士。
とある出来事がきっかけで、お互いを呼び捨てにするほど仲良くなった。
その出来事については、またいつか機会があれば話せたらと思う。
「俺なりに四角に切ったつもりなんだけど」
「もー、やることが雑なんだよ!あ、週安もそんなバカでかい字で書いて埋めようとしないの!悠のめんどくさがりっ!」
この通り出来の悪い俺は、すっかり彼女がめんどう係になってしまっている。
みんなに気遣いができて優しい晴。
だけど、俺にだけはなぜかいつもきびしい。
「もしかして、俺のこときらいなの?」と質問をしたら、「そういう天然でバカなところがムカつく!」と頬を膨らませ不機嫌になってしまった。
でも、すぐに「あ、そろそろ時間!悠も行くよー!」と腕を引っ張られる。
「はいはい。これだけ書いてから行くから晴は先に行っててー」
「そうやって目の前のことに集中しすぎて、いつも時間を忘れるんでしょ!悠は遅刻魔なんだから、たまには時間を守りなさい!」
説教めんどくさと思いながら、彼女の機嫌を損ねるので口には出さず、俺はしぶしぶ立ち上がった。
ふたりで職員室を出てから、保育室に向かうまでの廊下。
彼女の目の色は、さっきまでとはもう別人。
保育士の目になっている。
ちょっとおせっかいなところがある。二十代前半、年相応な普通の女の子。
しかし、保育士としてスイッチの入った彼女は本当にすごい。
俺と晴が担当していたのは人数が二十五名、発達障害児一名の五歳児クラス。
乳児にはよく泣かれてしまう俺だけど、幼児たちからはけっこう人気者で、クラスの五歳児たちも慕ってくれている。
「悠先生ー!今日も鬼ごっこやろー!」
「えー!たたかいごっこやるって約束したじゃん!」
保育室に入った途端、ふたりの男の子から声をかけられる。
「わかった!なら、どっちもやろう!夕方はみんなで屋上に行こうね!」と、俺は約束をした。
体を動かすあそびが得意で、自然と活発な男の子たちとあそぶことが多かった。
おままごとなどのつもりあそびはちょっと苦手だけど、持ち前の元気と面白い冗談でけっこう女の子たちも楽しませることができる。
しかし、そんな俺にはクラスにひとりだけ。
苦手な子がいた。
俺だけというより…。
クラスの子どもたちも、保護者の親たちも、みんなその子が苦手だった。
名前は北山蓮くん。
蓮くんは、軽度のADHDと診断を受けている。
また、お母さんだけのシングル家庭で保育時間が長く、家庭環境的とADHDという本人の特徴が重なり。
心が揺れやすく突発的な衝動で他害をしてしまう。
そのためクラス内で、問題児と陰で、みんなから煙たがられてしまっていた。
ADHDとは本人の特徴である不注意、多動性、衝動性が社会生活に支障をきたしてしまう発達障害。
健常児と障害児の統合保育をする場合。
お互いが無理なく共存し、生活できる保育を目指さなければならない。
自分とはまったくちがう個性を持つ人がいることに気づき、差別せず歩み寄って思いやること。
それは人として大切にしなければならない学びや。
この社会の在り方にも繋がる。
保育という仕事は健常児はもちろん。
発達にさまざまなおうとつがある、子どもたちの特徴も理解してなければ上手くはできない。
しかし当時、未熟だった俺は。
そんなこと、なにも知らなかった。
夕方。
約束をしていたので、子どもたちを屋上に連れていった。
今度お祭りごっこをすることになっているので、チケットを作りたいという子どもが数人いて、晴とその子たちは保育室に残ることになった。
屋上は、一般的な小中学校の教室二個ぶんくらいの面積。
なにも置いていない広い空間で、運動あそびの用途として使うことが多い。
夏場は仮設プールを組み立てて水あそびなども行う。
屋上に来てさっそく、子どもたちが鬼ごっこを始めた。
しばらく楽しくあそんでいたのだが、蓮くんをタッチしたクラスメイトの奏くんが次の瞬間。
思いっきり、蓮くんに押し倒された。
びっくりしたのと床で後頭部を打った痛みで泣き出す奏くん。
屋上全体にはクッション性のあるシートが一応ひいてあるけど、それでもこれは痛い。
「ねぇ!急に押すのやめて!奏くん泣いてるよ!」
俺は大泣きする奏くんに怪我がないかを確認したあと、そう怒った。
「ちがう!奏にタッチされたから、タッチし返しただけ!」
「奏くんにタッチされて、いやだったから押し倒したんでしょ!」
「ちがう!」
「ちがわない!」
「ちがう!」
俺と蓮くんは平行線。
保育士として指導をしなければならなのに、蓮くんのペースにはまるとこの通り。
ただの口論になってしまう。
「もう、いい!鬼ごっこなんてやめるわ!つまらん!」
そう言って蓮くんは鬼ごっこを抜けていった。
しかし、次は隅っこでシャボン玉をやっていた、杏奈ちゃんと寧々ちゃんからシャボン玉セットを奪い取る。
「やめて!蓮くん!返してよ!」
「なんで無理やりとるの?蓮くんのこときらい!いじわる!」
ふたりが怒ると、「うるさい!」と奇声にも近い大声をあげる蓮くん。
俺はやっていた鬼ごっこを中断し、すぐ仲裁に駆けつける。
「蓮くん!シャボン玉やりたかったからって、友達から無理やり取るのやめて!」
「…」
「杏奈ちゃんと寧々ちゃん困ってるよ!急に取られた友達の気持ち考えてみて!」
「悠先生、きらい!みんなも、きらい!」
このように、怒っても蓮くんにはいつもこっちの話がまるで入っていかない。
おまけにトラブルを、次から次へと起こしてしまう。
それを見ているクラスメイトの子どもたちが小声でささやく。
「蓮くんって、いつもみんなが困ることするよね」
「一緒にあそびたくないよね。いじわるだし」
蓮くんがなにかトラブルを起こす。
ろくに解決もできず、蓮くんもみんなも怒るだけ。
すると、周りの子どもたちが蓮くんを嫌う。
もやもやした蓮くんは、またトラブルを繰り返す。
家で自分の子からを蓮くんの話を聞いた保護者たちも、蓮くんをそういう目で見るようになった。
負の連鎖がつづいてしまっている。
このままじゃいけない。
そう思っていても、俺はどうすることもできずにいた。
正直、蓮くんに対してどう接したらいいかわからない。
こっちまでイライラしてくるし。
みんなに陰口をささやかれてしまっても、そりゃそうなる。
自業自得だと思ってしまう。
だって、みんなをこんなにも困らせているのだから。
そのとき。
保育室に残っていた子どもたちがお迎えが来て帰ったので、晴が屋上にあがってきた。
すぐ晴の足にくっつく蓮くん。
蓮くんは、いつもたくさん甘えさせてくれる晴のことが大好き。
「重た〜!でっかいくっつきむしいる〜!」
そう言ったあと彼女は、しゃがんで蓮くんと目線を合わせる。
「大丈夫?なんかいやなことがあったって顔に書いてある」
少し間が空いたあと。
「奏とケンカした…。杏奈と寧々ともケンカになっちゃった…。みんなからきらいって言われて悲しかった」
そう小さく答えると、蓮くんはぽろぽろと涙を流す。
「そっか。それはつらかったね。よしよし。なんでケンカになっちゃったのかな?」
晴は蓮くんを抱きしめ、頭を撫でながら優しい口調でそう訊ねた。
「わからない…」
そうぽつりと蓮くんが答える。
わからないわけがない。
だってさっき、あんなにもみんなをさんざん怒らせたのだから。
そう思えてしまう。
それとも、自分を守りたくてそう答えたのか。
でも晴は、そんなこといちいち咎めずこう言った。
「じゃあ、なんでみんなが怒ってるか。晴先生と聞きに行こっか」
「いやだよ…。だって、みんなおれのこときらいだもん」
うつむいたまま首を横に振る蓮くん。
「でも、このままみんなとケンカしたままでいいの?きらいって思われたままでいいの?」
「よくない…」
「じゃあ、なんで怒ってるかみんなの気持ちを聞きに行こ!それで蓮くんの気持ちもちゃんと伝えよう。大丈夫!うまく話せなかったら、わたしが手伝ってあげる!絶対に助けてあげるから!」
「うん…」
そしてふたりは、怒っている友達に理由を聞きにいった。
「鬼ごっこでタッチしたら、蓮くんが僕のこと押し倒したんだもん!それをタッチしただけって、うそまでついた!」
「いきなりシャボン玉を取られたの!」
「わたしも、杏奈ちゃんと同じ!」
晴は怒ってる三人の頭を、順番に優しく撫でてこう言った。
「いやな気持ちになって怒ってるのに、ちゃんと教えてくれて本当にありがとう。よくわかったよ」
そのあと。
「みんなの気持ちわかった?」と晴が確認をすると、「うん」とうなずく蓮くん。
次に晴は怒るわけでもなく。
嫌味もなく。
厳しく指導をするわけでもなく。
簡潔にこう伝える。
『鬼ごっこはタッチをされてもいいルールのあそび。せっかくみんなと楽しいことしてるのに、それで怒ってたらつまらないでしょ。相手にタッチしたつもりだったら、もっと優しくタッチしなきゃね』
『シャボン玉をやりたかったのなら、かしてって最初に言おうね』
すると蓮くんは、「みんな、間違えちゃってごめん。おれ、本当はみんなと仲良くしたい」と呟く。
「うん、いいよ。次は気をつけてね」
「わたしも、さっきはいやなことって言ってごめん」
「うん。わたしも、もう怒ってない」
奏くんも杏奈ちゃんと寧々ちゃんも、そう言って蓮くんを許してくれた。
子どもはすごい。
相手が大人だったらこう簡単にはいかない。
子どもは相手を許す力を持っている。
その力は、人がみんなの中で助け合って心地良く生きていくヒントに繋がると、俺は保育歴を重ねるたびに思う。
「じゃあ、仲直りしたし。みんなで鬼ごっこでもやりますか!」
パチンと手を合わせて、晴が笑顔でそう言った。
「えー!晴先生、足遅いじゃん!」
「いつも走るとすぐ苦しいって息上がるじゃん!」
「でもわたし、晴先生と鬼ごっこやりたい!」
そう言って笑顔が花のようにぱっと咲く子どもたち。
それから鬼ごっこは、日が沈むまで盛り上がった。
ひとりぼっちだった蓮くんも、仲間に入って一緒にあそぶことができた。
笑顔がはじける子どもたち。
そんな子どもたちを見て目を細める晴。
その光景を目の前に俺は、こう思わずにはいられない。
自分も彼女みたいに保育が上手にできたらいいのに。
俺が解決できないトラブルを、晴はいつもみんなが納得するカタチで解決してしまう。
この差は、いったいなんなのだろう。
俺と彼女とで、なにがそんなにもちがうのだろう。
閉園時間である七時を過ぎて、誰もいない静かな職員室。
そこでひとり保育計画を立てている晴に声をかけた。
「最近、残業してばっかじゃん。あんま無理しないでよ。はい。コーヒー」
となりの席に腰を下ろし、自販機で買ってきた缶コーヒーを彼女の前に置いた。
「お、ありがとう!でも、これは好きでやってるんだ!だって楽しいじゃん!保育計画立てて準備するの!」
「でも残業が好きな人っていないよ。晴はちょっと変わり者だと思う。なにしたらいいかな?俺にも手伝わせてよ」
「じゃあ、そこのダンボールでチケット入れと屋台の看板を作っといてもらおうかな」
「わかった」
「雑に作らないでよ!」
「わかってるって」
晴は今、お祭りごっこの細かい保育計画を立てている。
「夏にママと行ったお祭りがすごく楽しかったんだ。みんなでお祭りができたらいいのになぁ。絶対楽しそうだよね!」
先週、蓮くんがそう言っていて。
じゃあ、みんなで本当に祭りを開いちゃおう!
晴がそう言い出したのだ。
彼女の発想はおもしろくて、とても大胆。
お祭りごっこ当日に、クラスのみんなで、お昼ご飯の焼きそばをクッキングでたくさん作って。
他クラスの子どもたちにはお客さんになってもらい、うちのクラスで開く屋台に買いに来てもらう。
他にも本物のゼリーすくいをしたり、盆踊りも踊っちゃおうと計画しているのだ。
もちろん。
屋台を運営するのはうちのクラスの子どもたちと晴。俺はそのサポート役。
蓮くんの、みんなでお祭りができたらいいのにという願いからスタートし。
クラスどころか保育園全体を巻き込んだ、大きな保育計画を立てている。
蓮くんとみんなが楽しく繋がってほしいという。
彼女の願いが、この計画から垣間見える。
当日は、きっとみんなの笑顔があふれる。
素敵なお祭りごっこになるだろう。
「晴はやっぱすごい…」
ハサミでダンボールを切りながら気づいたら、口から本音がこぼれていた。
「べつに普通だけど」
彼女は明日までに提出しなければならない計画書とにらめっこしながらさらっと言った。
「屋上での仲裁といい。お祭りごっこの保育計画といい。なんで晴はそういうことがぱっとできるの?」
「みんなの願いを叶える保育をしたいから」
「俺にも、いつかできるかな」
次に彼女から思わぬ質問が飛んでくる。
「じゃあ、いつもみんなの中で、いちばん困ってるの誰かわかる?たとえば今日の屋上で」
頭の中で考えてみる。
蓮くんに押し倒された奏くん?
それともシャボン玉をやってたのに急に奪い取られた杏奈ちゃん?寧々ちゃん?
でも押し倒されたほうが痛いし、やっぱり奏くんかな…。
でも、ただの質問じゃなさそうだし、その意図も不明。
「ごめん。わからない」
結局どっちつかずにそう答えると、「みんなの中でいちばん困ってるのが誰かわからなきゃ無理!」
きっぱりそう言われてしまった。
そして、彼女に一冊の本を渡された。
タイトルには『発達障害の子どもを支える保育』と書いてある。
「悠はまだまだ知識がたらない。本を読むのとか苦手そうだけど、とりあえずそれ読んできて!知ってると知らないで保育っていうのは見える世界がぜんぜんちがうから!」
「わかった」
残業にきりをつけて家に帰ると、さっそく彼女から借りた本を開く。
パラパラとページをめくると、それぞれの発達障害の特徴や、その手立てがわかりやすく書かれている。
本を読むのは苦手なので、とりあえずADHDのところにしぼって重点的に読むことにした。
多動性、落ち着きがなくじっとしていられない。
衝動性、とっさの気持ちのコントロールが難しい。だから、ぱっと手が出て友達に他害をしてしまいやすい。
視覚優位、聞いたことより目で見えた情報を優先する。だから言葉で、なかなか伝わりづらい。絵や写真を使って伝えていく手立てもある。
注意欠如、不用意なミスが多く何度も同じ失敗をしてしまう。
他にも、同じ生活ルーティンが大切とか。保育室の環境設定、あそび、声かけの手立てなどが書かれていた。
次の文章に、俺ははっとさせられる。
ADHDの子どもの特徴はすべて、本人が望んで生まれ持ったものではない。
それなのに友達の中で、自分が望んでもない行動をしてしまい。
心を深く傷つけ困ってしまうことがたくさんある。
とくにADHDは、見た目ではわからない。
知能も低くない。
それが周りの人から、つい必要以上に責められ。
集団保育の中では、不利な状況に追い込まれてしまいやすい。
俺は文字を読み進めるたび、胸がぎゅっとしめつけられていく。
なぜなら、この本に書かれている失敗は全部。
自分が蓮くんにやってしまっていることなのだから…。
いつも問題行動ばかりをして、みんなを困らす蓮くんが苦手だ。
怒っても、伝わらないし。
この子が悪いとしか思えなかった。
でも、本当はちがった。
自分が生まれ持った特徴に、蓮くんは苦しみつづけている。
望んでもないのに、みんなに嫌われることばかりをしてしまい。
わかっていても自分を止められず。
怒られ、責められ、否定され。
ひとりで、いつもどうにもならない苦しみに。
心が傷ついていた…。
『悠先生、きらい。みんなも、きらい』
屋上で蓮くんが叫ぶようにそう言っていた場面を思い出す。
みんなに自分を理解してもらえなくて、つらくてたまらなかったのだ。
『本当はみんなと仲良くしたい』
次にその言葉を思い出し、涙が勝手に頬をつたう。
蓮くんの言葉は真実だった。
たとえうそをつくことがあっても、自分ではどうすることもできない。そんな自分を守るためのうそ。
晴の質問の答えが今ならわかる。
あの場でいちばん困っていたのは、みんなを困らせていた蓮くん本人だった。
それなのに…。
そんなことにすら気がつけない俺はバカだ。
力がなさすぎる。
自分の保育スキルが低ければ、目の前で困っている子どもを支えられない。助けられない。
それどころか。
困っていることにすら、気がつけもしないのだ。
本を読み進めるとこう書いてあった。
ひとことに気をつけよう。
否定でなく、なるべく肯定を。指導をするのなら、わかりやすく簡潔に伝える。
「やめて」「なんでそういうことするの?」「ちがう」「きらい」「いじわる」
俺やクラスメイトの子どもたちが、さんざん蓮くんに浴びせてしまっている言葉。
反対に晴は、全部この本に書いてある通り。
「大丈夫?」「どうした?」「困ったときは助けるよ」「いいよ」
いつも子どもを思いやる言葉や肯定ばかり。
指導をするときも、わかりやすく簡潔で嫌味なんていっさいない。
保育士として力量の差が歴然すぎる。
次の日から。
少しでも晴に追いつきたくて、徹底的に彼女の保育を見て盗むことにした。
保育中。
観察をすればするほど、彼女のレベルの高さをあらためて痛感する。
子どもが公園に行く前手繋ぎで揉めた場面、給食のおかわりの順番で揉めた場面、トランプをやっていて好きな友達のとなりをめぐって揉めた場面。
どの場面でも本に書かれていた保育技術を、晴は息を吐くようにばんばんと使う。
それに俺はあることにも気づく。
彼女は蓮くんに限らず、他の子にもまったく否定語を使わない。
同じく指導も簡潔でわかりやすい。
なんと晴は、発達障害児の本に書かれていた保育技術を、他の子どもにも応用して使っていたのだ。
でも、考えてみればすごく理にかなっている。
発達障害とは、誰しもが持っている特徴のおうとつ。
それが極端すぎて、生活に支障が出てしまうというもの。
だから発達障害の子どもたちにとって、わかりやすくて優しい保育は。
他の子どもたちにとっても同じだし、とても丁寧な保育だと言える。
気づくと俺は。
保育の中で見える景色ががらりと変わっていた。
ある日。
蓮くんが、奏くんの使っているミニカーをぱっと取ってしまった。
「あ、取った!いつも勝手に取るのやめてって言ってるじゃん!何回言ってもわかんないよね!本当にきらい!蓮くんなんていなくなっちゃえ!」
「うるさい!」
蓮くんは目を閉じて耳を手で塞ぎ、周りをシャットアウトするように叫ぶ。
いつもなら。
やめて!友達の使ってるもの勝手に取らないで!
と、すぐそうやって否定を口にしてしまう。
俺は落ち着いて状況を分析する。
奏くんが使っていたのは、新品のまだ保育園にひとつしかないミニカー。
蓮くんの視覚優位が先行した。
欲しいと思ったとき、取ってはだめとわかっているけど衝動が抑えられなかった。
次に友達から否定をされてしまい。
どうしていいかわからず、うるさいと叫ぶしか選択肢が見つからず周りをシャットアウト。
勝手におもちゃを取ったら友達から嫌われてしまうとわかっているのに、同じことを繰り返してしまう注意欠如。
ここは蓮くんを否定せず、友達の使ってるものを勝手に取らないよう指導をしなければならない場面だと判断。
「どうした?もしかして、奏くんの使ってるミニカー。いいなって思ったから欲しかったの?」
いつもはなんて言ったらいいかもわからないのに、驚くほどわかる気がする。
「うん…」
うつむいて蓮くんは、ぽつりと答える。
きっと、いつもの否定的な声かけなら、聞く耳すら持ってもらえなかっただろう。
視覚優位だからこそ、友達の気持ちをわかりやすく伝えるため。
俺はいつも晴が使っている声かけを真似する。
「そっか。蓮くんも欲しかったんだね。でも奏くんの顔見てみて。どんな顔してる?」
「怒ってて、悲しい顔してる」
「そう。蓮くんはそれでいいの?」
「よくない…」
「じゃあ、どうすればいいかわかる?」
「奏。ごめん。ミニカーかえす。あとで、かしてほしい…」
すると謝ってもらったことで気持ちが落ち着いた奏くんは、「わかった。あとでね」と言ってくれた。
しばらくすると奏くんのほうから。
「このミニカー、一緒に使お!ここにブロックで駐車場作ろうよ!」と、誘ってくれてふたりがあそび始めた。
俺が今までしていた保育と、結果がぜんぜんちがう。
今までは友達と蓮くんがケンカをしたら、ちゃんと話し合いすらできず、気持ちがすれ違ったまま終わり。
蓮くんはモヤモヤが残って、また新しいトラブルを起こしてしまう。
でも、今回はちゃんと話し合うことができて。
気落ちがすっきりしたうえに、友達と楽しく繋がって終わった。
初めて自分の保育に、たしかな手応えを感じた瞬間だった。
晴のように一日のうちに何回もはできないけど、少しずつ俺も納得のいく保育ができるようになってきた。
今日は、お祭りごっこ当日。
午前中の主活動で、なんとか大量の焼きそばを給食室のサポートもあって作り終えた、晴と子どもたち。
いよいよ、これから他クラスのみんながチケットと焼きそばを交換しにやってくる。
うちのクラスの子どもたちは法被を着て、チケットの受付、焼きそば、ゼリーすくい、盆踊りコーナーと役割が決まっていて持ち場で待機をする。
保育室の入り口には【ねんちょうクラスまつり!やきそば!ゼリーすくい!ぼんおどり!あるよ!】と書かれた、俺と子どもたちで作った看板もでかでかと貼ってある。
待機している子どもたちは、みんなワクワクとドキドキが入り混じり落ち着かない様子。
蓮くんは、とくにだ。
今も「みんな、本当に買いに来てくれるのかなぁ。楽しんでくれるかなぁ」と呟いて保育室内をうろうろしている。
自分がやりたいと言い出したお祭りだというのもあるし。
いつもと同じ生活ルーティンではない非日常が苦手なのだ。
でも、晴はそこも想定済み。
晴が蓮くんと一緒に焼きそばの売り子役をすることによって、手助けをする作戦になっている。
彼女がとなりにいること。
それが蓮くんにとって、なによりも心の安定剤になるのだ。
俺は屋台全体のサポート役を任されている。
そして時間になると、さっそく他クラスのみんながやってきた。
お祭りごっこは大盛況。
焼きそばを配る子どもたち、お客さんの子どもたち、ゼリーすくいも盆踊りも、いろんな場所でみんなの笑顔が咲き誇る。
蓮くんのみんなでお祭りをやりたいという願いは、晴の力によって見事実現された。
しかし、こんな楽しいときでさえ。
どれだけ保育士が予測を立てて、綿密な計画をしていたとしても。
トラブルというものは起こってしまう。
それも保育だ。
晴とどうしても盆踊りをしたいう女の子たちがいて。
その子たちの願いを叶えるため。
晴が、蓮くんのとなりを離れた。
俺はすぐに売り子のサポートに回る。
しかし、一瞬の出来事だった。
焼きそばの列で順番を守らなかった他クラスの男の子がいて、蓮くんがその子を突き飛ばしてしまったのだ。
男の子は床に倒れ、背中を強く打って泣きだす。
幸い怪我はなかったが、運の悪いことにその場面を忘れ物を届けにきた奏くんのお母さんに目撃されてしまう。
奏くんのお母さんは、以前から蓮くんのことをよく思っていない。
連絡ノートでも【いつもうちの子が蓮くんに怪我をさせられて、あの子が一緒だと不安です】と意見をいただいたことがある。
保育士は、子どものせいにはしない。
トラブルで怪我があったとき、それは保育の未熟さが原因なのだ。
しかし、蓮くんのせいじゃありませんと保育士が過剰に庇うと、それはそれで奏くんのお母さんの勘にさわる。
でも蓮くんを悪者にしてしまうなんて、あってはならない。
トラブルのときの親対応は、子ども以上に難しい。
全国どこの保育園も、それで頭を抱えている。
俺が泣いている男の子の背中をさすっていると、うしろで誰かがこうささやく。
「また蓮くんがやった」
「蓮くんっていつもいじわるだよね」
「いなくなっちゃえばいいのに」
奏くんのお母さんも、またこの子か、と言わんばかりに眉間に皺を寄せる。
本に書いてあったことを思い出す。
『ADHDの子は、集団保育の中で不利な状況に追い込まれてしまいやすい』
今がまさにそれだ。
周りのみんなの刺すような視線。
蓮くんを敵と判断するような冷たい空気がその場に漂う。
でも、俺は知っている。
本当は順番守らなきゃだめだよって、教えたかっただけ。
それをうまく言葉にできず咄嗟に手が出てしまった。
衝動のコントロールが苦手、注意欠如。
全部ADHDという発達障害の特徴。
本当は。
度合いがちがってもみんな同じ部分を持っている。
人は気持ちや体力がいっぱいいっぱいのとき、余計な言葉や手が出てしまい。
誰だって、それくらいの失敗はしたことがある。
蓮くんは、それが人より多いのだ。
けっして、みんなと大きくちがうわけじゃない。
人の気持ちがわからないわけじゃない。
ゆえに周りからの視線には敏感だし、大きなショックを受ける。
蓮くんは、その場で目を閉じ耳を手で塞いで声にならない声で叫ぶ。
そして目から大粒の涙を流し、絞り出すようにこう言った。
「みんなきらいだ!みんな、おれのこときらいって思ってるんだろ!しねって心の中で思ってるんだろ!おれになんていなくなってほしいんだろ…」
いちばん近くにいる俺が、指導をしなければならない場面。
しかし蓮くんの心はもう、壊れてしまいそうなほどいっぱいいっぱい。
とてもじゃないけど、適切な言葉なんてぱっと出てこない。
こんなとき、晴ならどうする。
そう思ったとき。
うしろから声が飛んでくる。
「わたしは大好きだよ!蓮くんのこと!」
まるで冷え切った心を包みこむ。あたたかい太陽のぬくもりような晴の言葉だった。
その場しのぎで言ってるわけじゃない。
本気でそう思っていると伝わってくる。
「本当は誰よりもみんなと仲良くしたいって気持ち。ちゃんと全部知ってるからね」
近くに来た晴がしゃがんで目線を合わせて微笑むと、蓮くんははっと我に返る。
次に彼女はさらっとこうつづけた。
「蓮くん。間違えちゃったときは、すぐごめんねしなきゃでしょ!」
「あ、うん…」
「なにが間違いだったかわかる?」
「本当は順番守ってねって口で言わなきゃだめだった」
「そう!ちゃんとわかってるじゃん!じゃあ、それを伝えてきて」
蓮くんはすぐに押し倒してしまった男の子の前に駆け寄って、「押しちゃってごめんね。でも、順番は守ってほしい」と呟いた。
「うん。わかった」と、男の子もうなずく。
奏くんのお母さんの表情も、さっきより柔らかくなっている。
このとき俺は。
あらためて晴の高度な保育技術に驚いた。
奏くんのお母さんの不安な気持ち。
押し倒されてしまった男の子の気持ち。
そして、みんなの敵になってしまい。どうしようもなくなってしまった蓮くんの気持ち。
三人の想いを一瞬のうちに、しかも同時に守ったのだ。
この対応を、当たり前だと思った人もいるかもしれない。
でも、その当たり前が現場でぱっとできる人など、実際はものすごく少ない。
ピンチな場面で焦りもある中、一瞬で毎回正解を叩き出せる人などそうそういないのだ。
しかし晴は、いつでもそれをさらっとやってのける。
どれほど研鑽を積んできたのか。
想像もつかないほどの高み。
彼女はまだ若い。天性の才能もあったとは思う。
優しいとか良い人だからとかではなく。
ちゃんと理屈でわかって、それをやっているから保育士はプロなのだ。
そのあとも、みんなの笑顔がたくさん咲いた最高の一日となってお祭りごっこは無事に終わった。
夜。後片付けを終えて、晴とふたりで歩く帰り道。
「今日は大成功だったね!」
となりでそう言って、ほっこりと微笑む嬉しそうな彼女を見て思う。
保育技術の高さは、ちゃんと知識を知ってる人じゃないとわからないことが多い。
カタチがあって見えるものでも、数値化できるものでもないからだ。
その技術をどれだけ研鑽し、高みに登り詰めたとしても。
保育士たちは、誰からも賞賛され褒められることはない。
給料も上がらないし。処遇だって良くはならない。
園長、主任などの幹部になってしまえば、責任がさらに重くなるだけ。
それでも晴は、いつでも目の前の困ってる子どもや親を助けて支えつづける。
きっと、そのような保育士が…。
この世の中には、たくさんいる。
そう思ったとき。
俺は彼女にふと訊ねた。
「晴ってさ。なんで保育士やってんの?」
「は?」と、彼女は首を傾げる。
「保育士って割に合わないこと多いじゃん。なんでかなって思ってさ」
すると晴は。
当たり前のように、まるで昨日の天気を話すみたいにさらっと迷いなく答えた。
「みんなを笑顔にしたいから」
その軽さが、俺の心に余計刺さる。
彼女には敵わない。
そう思った瞬間、口元が勝手に緩んだ。
「ははは、なにそれ?めちゃくちゃ優しくて良い人じゃん」
「ちがう。保育士なだけ。この仕事をつづけてれば、すぐに悠にもわかるよ」
そう言って晴はにっこりと微笑んだ。
あれから十五年。
俺はまだ保育士をやっている。
少しは彼女に追いつけただろうか。
「ねぇ!悠さんってば!」
小町ちゃんが呼ぶ声で、はっと我に返った。
「ん?なに?」
「なに?じゃないですよ!なんで、いつもぼーっとしてて人の話をちゃんと聞いてないんですか!」
「ごめんごめん」
「で!悠さんは、なんで保育士をつづけてるんですか?」
うーんと少し考えてみたけど、やっぱりこれしか思いつかなくてぱっと答えた。
「みんなを笑顔にしたいから」
すると小町ちゃんは、目を丸くして一瞬時間が止まったかのように固まる。
「なんでいちんばん、ちゃらんぽらんな悠さんがそんな真面目な理由なんですか!?」
まじか…。俺ってそんなふうに思われてるのか。
べつに、いいけど。
「じゃあ、なんで小町ちゃんは保育士やってんのさ?」
こっちも聞き返してみる。
すると普段は真面目な彼女から、意外すぎる答えが返ってきて俺は吹き出してまう。
「推しの地元がここの近くなんですけど、保育士やってるわたしを公園とかでたまたま見かけて、素敵な人だなって声かけてくれたら嬉しいなって!」
冗談か。
いや、きっと半分は夢にでもすがりたい本音なのだろう。
最近の子は本当に面白い。
明るくて前向きないい理由だ。
仕事に向かう自分を奮い立たせる理由なんて、そういうのだってあり。
「あははは。めっちゃいい!やばいよ、それ!」
「悠さんにやばい人扱いされたくないです!」
小町ちゃんは、そう言って不服そうに頬を膨らます。
「でも、それってリアコって言うんでしょ!行き過ぎたファンだってSNSで見たことあるけど、大丈夫なの?」
「失礼な!わたしは迷惑な推し活は絶対しないです!推しに誓います!同じファンのみんなにも誓います!でも目の前に推しが現れたら…。そりゃ、リアルに恋しますよ!そんなささやかな夢くらい見たっていいじゃないですか!」
「それくらいのノリで保育もやったらいいのに!きっと今より楽しいよ!」
「いやいや、責任ある仕事ですから」
「変なとこ真面目なんだからー」
ふたりでそんな会話をしているうちに、ちょうど新しい弦に張り替えることができた。
「なんか小町ちゃんと話してると、俺ってけっこうまともなのかもって思えてきた!」
どうやら、このひとことは失言だったようだ。
すぐ反応したのはとなりで連絡ノートを書いていた後輩保育士の朝陽ちゃん。
「悠さん…。それは絶対ない!勘違いです!」
「うんうん。悠さんがまともなわけないですよ!」と、小町ちゃんも白い目をして相槌を打つ。
みんなからの俺のイメージって、いったいどんなやつなんだよ…。
「あ、そろそろ時間だ!急いで、悠さん!」
小町ちゃんが職員室の時計を見て、ギリギリなことに気がついて教えてくれた。
「よし!いっちょ誕生日会してきますか!」
俺は晴のギターを持って立ち上がった。
なにをもって高い保育技術と言えるのだろう。
子どもの集団作りができて言うことを聞かせられること。
子どもを惹きつけるあそびをたくさん知っていること。
コミュニケーションが上手で、みんなに優しいこと。
発達をよく理解していること。
これらは必要なことだけど、全部表面上なことに過ぎない。
年数だけ重ねれば誰にだってできる。
答えは。
その保育士の技術が、全部なにに繋がっているか考えればすぐにわかる。
子どもや親を支えて助けることだ。
保育士にはどの瞬間も、その能力が最優先に求められる。
そこに保育の真髄があると、俺は彼女から教わった。
困っている子どもや親がひとりでもいれば、みんなが笑顔になれる保育は絶対に成立しない。
そんなこと、不可能だとしても。
誰からも認められず、賞賛などされずとも。
ひらすら分析し、試行錯誤し、研鑽し。
今日も現場に立ちつづける。
あなたを笑顔にするために。
そんな保育士たちが、世の中にはたくさんいる。
保育士あるあるへの共感コメントや、容姿の美しさにいいねが集まる。
その脚光を浴びる煌びやかな光景は、まるで異世界に思えた。
自分もそんな転生をしてみたいとSNSのアカウントだけ作ってみる。
でもよく考えたら、そもそも俺はインフルエンサーのようなイケメンでもないし。
あるある動画を作ってアカウントを伸ばす根性もない。
だから、そっとスマホを閉じ。
現実世界の土臭い保育士へと戻るのだった。
まぁ、べつにいっか。
いいねは集まらないけど、目の前で困ってる人に。
手を差し伸べることはできるのだから。
「みんなきらいだ!みんな、おれになんていなくなってほしいんだろ…」
そう言って、涙をこぼす子どもがいた。
彼は人の嫌なことをして。
迷惑をかけ。
みんなを困らせ。
陰で問題児と呼ばれている。
友達や保護者から嫌われたって。
ある程度は仕方がない。
俺は、そう思っていた。
だって、みんなをこんなにも困らせているんだもの。
しかし、ちがった。
ある日、先輩保育士である猫本晴から問われた。
『みんなの中で、いちばん困ってるの誰かわかる?』
その言葉の意味がわかったとき。
見えている世界ががらりと変わる。
困ってる子どもを助けれるのは。
たしかな保育士の技術だけだ。
保育士はその技術を。
どれだけ研鑽し、高みに登り詰めても。
誰からも褒められ、賞賛などされない。
給料も増えない。処遇も良くならない。
それでも。
人を助けることをやめない。
俺は彼女から、保育士としての真髄を教えてもらった。
俺の名前は犬塚悠。
こでまり保育園で勤務する保育士。
気づいたら年も三十の半ば…。保育歴ばかりを重ねてしまった。
俺は本当に不器用で、今も昔も変わらず保育しかできない。
そんな俺を、晴はいつもいたずらな顔をして笑ってくれた。
結婚してからは、ぽんこつすぎる俺の家事やだらしのない性格に、彼女はよくぶちギレていたけど…。
俺たちはどんなときも一緒にいた。
それがなによりも幸せだった。大好きだった。
そんな彼女とも死別してしまい、そろそろ五年が経とうとしている。
バチン!!
鉄の弦が切れる大きな音が職員室中に響く。
「あー、また悠さんやった〜。もう、それ何回目なんですか?」
そう言って呆れているのは、小柄で黒髪にピンクのワンポイントが可愛い新人保育士の桜井小町ちゃん。
彼女はメイクも中身も、ちょっぴり地雷系女子。
「げ〜。まったやっちゃったよ。もったいないことした〜」
ぼーっと考え事をしながら、チューニングでペグを回し過ぎ。
いつもこうやってギターの弦を切ってしまうのだ。
「もー。これから誕生日会なんだから頼みますよ!」
「わかってるって。すぐに予備の弦に張り替える。小町ちゃんこそ、この前みたいに緊張して司会のセリフすっ飛ばさないでよ」
「心配いりません!さすがに二回目だし!今日はカンペ用意しましたから!」
小町ちゃんは少し照れながらそう言った。
こでまり保育園では、各クラスの子どもたちが園内ホールに集まって、月末はみんなで誕生日会を楽しむ。
今日の誕生日会担当は、小町ちゃんが司会。
俺は出し物でギターをすることになっている。
もともとギターが上手だったのは晴だけど。
生前、彼女に教えてもらって、俺は保育中によく弾き語りをするようになった。
このアコースティックギターも晴の形見だ。
出し物の内容は、一、二歳児たちが好きな童謡や、三、四、五歳児たちが好きなアニメやJ-POPの曲を鼻歌で弾き語りして、なんの曲かを子どもたちに当ててもらうという簡単なクイズ形式のレクリエーション。
なにか新しい出し物を考えなくても、制作物を用意しなくてもいい。
持ち運びもらくで場所を選ばないし、なにをやっても不器用な俺はだいぶギターに助けられている。
なにかイベントがあるたび毎回出し物でギターをしていたら、いつの間にかめちゃくちゃ上達してしまった。
こんな俺を晴が見たら、きっとバカのひとつ覚えと笑うのだろう。
そんなことを考えていたら。
唐突に、思い詰めた表情の小町ちゃんに相談される。
「ねぇ…。悠さん…」
「ん?どうした?」
「わたし…。保育士向いてないなって、最近本当に悩んでて…」
小町ちゃんは学生時代、生徒会長をするくらい真面目なタイプ。
根はいい子なのだけど、ちょっと臨機応変が苦手なところがある。
そんな彼女は最近、保護者への対応で失敗してしまい。ショックを受けることがあった。
ある保護者の方に緊急で土曜保育をお願いされたとき、相手の事情をちゃんと考えないまま「できません」とはっきり断った。
そしたら、そのひとことが原因で、重大な問題を抱えていたその保護者の方が保育園に来れなくなってしまったのだ。
自分の性格の変えられない部分。保育士という仕事の本質。
それがわかってきて悩んでいるのだろう。
「俺も自分のこと保育士向いてるって思ったことないけどなぁ。忘れっぽいし。いろいろ不器用だし。あと男性保育士って、赤ちゃんには最初泣かれちゃうんだよ〜。あれも地味にきついんだよなぁ〜」
彼女を追い詰めないよう、あえて軽い雰囲気でそう返してみた。
「はぁ…。悠さんって、そうやっていつも飄々としてて悩みとかなさそうで本当羨ましい」
俺って、そんなふうに思われてるのか…。
まぁ、いいけど。
次に小町ちゃんから飛んできた質問が、保育士をしていたら誰しもが一度は考えることなので。
ものすごく共感をしてしまう。
「悠さんは、保育士をなんでつづけてるんですか?この仕事って給料は安い。なのに責任は重くてクレームを言われることなんてしょっちゅうだし…。残業しても終わらない仕事量だし…。人間関係も大変だし…。給料やタイパで見たら絶対にもっといい仕事ってたくさんあるじゃないですか。ぶっちゃけ、保育士じゃなきゃいけない理由ってなくないですか?」
「ぜんぜん、ないなぁー!」
本当にその通りすぎて、思わず吹き出しながら答えてしまった。
「もー!こっちは本気で悩んでるんだから笑わないでくださいよ!」
「ごめんごめん。その通りすぎてなんか笑えてきちゃった。人間ってそういうことあるじゃん!」
「で!悠さんはなんで保育士をつづけてるんですか?」
保育士をつづけてる理由か…。
ちょっと考えてるうちに、ふと昔を思い出す。
今から十五年前。
これは俺がまだ新人保育士のときの話。
「ねぇ!悠ってば!どうして頼んどいた誕生日会のメッセージカードを、こんな個性的なふうに切っちゃうわけ?ちゃんと四角に切れないの?」
職員室で週安を書いてる俺に、そう文句をつけてきたのは猫本晴。
金髪の髪に白い肌、猫顔の可愛らしい彼女は、こでまり保育園で働く俺よりふたつ年上の先輩保育士。
とある出来事がきっかけで、お互いを呼び捨てにするほど仲良くなった。
その出来事については、またいつか機会があれば話せたらと思う。
「俺なりに四角に切ったつもりなんだけど」
「もー、やることが雑なんだよ!あ、週安もそんなバカでかい字で書いて埋めようとしないの!悠のめんどくさがりっ!」
この通り出来の悪い俺は、すっかり彼女がめんどう係になってしまっている。
みんなに気遣いができて優しい晴。
だけど、俺にだけはなぜかいつもきびしい。
「もしかして、俺のこときらいなの?」と質問をしたら、「そういう天然でバカなところがムカつく!」と頬を膨らませ不機嫌になってしまった。
でも、すぐに「あ、そろそろ時間!悠も行くよー!」と腕を引っ張られる。
「はいはい。これだけ書いてから行くから晴は先に行っててー」
「そうやって目の前のことに集中しすぎて、いつも時間を忘れるんでしょ!悠は遅刻魔なんだから、たまには時間を守りなさい!」
説教めんどくさと思いながら、彼女の機嫌を損ねるので口には出さず、俺はしぶしぶ立ち上がった。
ふたりで職員室を出てから、保育室に向かうまでの廊下。
彼女の目の色は、さっきまでとはもう別人。
保育士の目になっている。
ちょっとおせっかいなところがある。二十代前半、年相応な普通の女の子。
しかし、保育士としてスイッチの入った彼女は本当にすごい。
俺と晴が担当していたのは人数が二十五名、発達障害児一名の五歳児クラス。
乳児にはよく泣かれてしまう俺だけど、幼児たちからはけっこう人気者で、クラスの五歳児たちも慕ってくれている。
「悠先生ー!今日も鬼ごっこやろー!」
「えー!たたかいごっこやるって約束したじゃん!」
保育室に入った途端、ふたりの男の子から声をかけられる。
「わかった!なら、どっちもやろう!夕方はみんなで屋上に行こうね!」と、俺は約束をした。
体を動かすあそびが得意で、自然と活発な男の子たちとあそぶことが多かった。
おままごとなどのつもりあそびはちょっと苦手だけど、持ち前の元気と面白い冗談でけっこう女の子たちも楽しませることができる。
しかし、そんな俺にはクラスにひとりだけ。
苦手な子がいた。
俺だけというより…。
クラスの子どもたちも、保護者の親たちも、みんなその子が苦手だった。
名前は北山蓮くん。
蓮くんは、軽度のADHDと診断を受けている。
また、お母さんだけのシングル家庭で保育時間が長く、家庭環境的とADHDという本人の特徴が重なり。
心が揺れやすく突発的な衝動で他害をしてしまう。
そのためクラス内で、問題児と陰で、みんなから煙たがられてしまっていた。
ADHDとは本人の特徴である不注意、多動性、衝動性が社会生活に支障をきたしてしまう発達障害。
健常児と障害児の統合保育をする場合。
お互いが無理なく共存し、生活できる保育を目指さなければならない。
自分とはまったくちがう個性を持つ人がいることに気づき、差別せず歩み寄って思いやること。
それは人として大切にしなければならない学びや。
この社会の在り方にも繋がる。
保育という仕事は健常児はもちろん。
発達にさまざまなおうとつがある、子どもたちの特徴も理解してなければ上手くはできない。
しかし当時、未熟だった俺は。
そんなこと、なにも知らなかった。
夕方。
約束をしていたので、子どもたちを屋上に連れていった。
今度お祭りごっこをすることになっているので、チケットを作りたいという子どもが数人いて、晴とその子たちは保育室に残ることになった。
屋上は、一般的な小中学校の教室二個ぶんくらいの面積。
なにも置いていない広い空間で、運動あそびの用途として使うことが多い。
夏場は仮設プールを組み立てて水あそびなども行う。
屋上に来てさっそく、子どもたちが鬼ごっこを始めた。
しばらく楽しくあそんでいたのだが、蓮くんをタッチしたクラスメイトの奏くんが次の瞬間。
思いっきり、蓮くんに押し倒された。
びっくりしたのと床で後頭部を打った痛みで泣き出す奏くん。
屋上全体にはクッション性のあるシートが一応ひいてあるけど、それでもこれは痛い。
「ねぇ!急に押すのやめて!奏くん泣いてるよ!」
俺は大泣きする奏くんに怪我がないかを確認したあと、そう怒った。
「ちがう!奏にタッチされたから、タッチし返しただけ!」
「奏くんにタッチされて、いやだったから押し倒したんでしょ!」
「ちがう!」
「ちがわない!」
「ちがう!」
俺と蓮くんは平行線。
保育士として指導をしなければならなのに、蓮くんのペースにはまるとこの通り。
ただの口論になってしまう。
「もう、いい!鬼ごっこなんてやめるわ!つまらん!」
そう言って蓮くんは鬼ごっこを抜けていった。
しかし、次は隅っこでシャボン玉をやっていた、杏奈ちゃんと寧々ちゃんからシャボン玉セットを奪い取る。
「やめて!蓮くん!返してよ!」
「なんで無理やりとるの?蓮くんのこときらい!いじわる!」
ふたりが怒ると、「うるさい!」と奇声にも近い大声をあげる蓮くん。
俺はやっていた鬼ごっこを中断し、すぐ仲裁に駆けつける。
「蓮くん!シャボン玉やりたかったからって、友達から無理やり取るのやめて!」
「…」
「杏奈ちゃんと寧々ちゃん困ってるよ!急に取られた友達の気持ち考えてみて!」
「悠先生、きらい!みんなも、きらい!」
このように、怒っても蓮くんにはいつもこっちの話がまるで入っていかない。
おまけにトラブルを、次から次へと起こしてしまう。
それを見ているクラスメイトの子どもたちが小声でささやく。
「蓮くんって、いつもみんなが困ることするよね」
「一緒にあそびたくないよね。いじわるだし」
蓮くんがなにかトラブルを起こす。
ろくに解決もできず、蓮くんもみんなも怒るだけ。
すると、周りの子どもたちが蓮くんを嫌う。
もやもやした蓮くんは、またトラブルを繰り返す。
家で自分の子からを蓮くんの話を聞いた保護者たちも、蓮くんをそういう目で見るようになった。
負の連鎖がつづいてしまっている。
このままじゃいけない。
そう思っていても、俺はどうすることもできずにいた。
正直、蓮くんに対してどう接したらいいかわからない。
こっちまでイライラしてくるし。
みんなに陰口をささやかれてしまっても、そりゃそうなる。
自業自得だと思ってしまう。
だって、みんなをこんなにも困らせているのだから。
そのとき。
保育室に残っていた子どもたちがお迎えが来て帰ったので、晴が屋上にあがってきた。
すぐ晴の足にくっつく蓮くん。
蓮くんは、いつもたくさん甘えさせてくれる晴のことが大好き。
「重た〜!でっかいくっつきむしいる〜!」
そう言ったあと彼女は、しゃがんで蓮くんと目線を合わせる。
「大丈夫?なんかいやなことがあったって顔に書いてある」
少し間が空いたあと。
「奏とケンカした…。杏奈と寧々ともケンカになっちゃった…。みんなからきらいって言われて悲しかった」
そう小さく答えると、蓮くんはぽろぽろと涙を流す。
「そっか。それはつらかったね。よしよし。なんでケンカになっちゃったのかな?」
晴は蓮くんを抱きしめ、頭を撫でながら優しい口調でそう訊ねた。
「わからない…」
そうぽつりと蓮くんが答える。
わからないわけがない。
だってさっき、あんなにもみんなをさんざん怒らせたのだから。
そう思えてしまう。
それとも、自分を守りたくてそう答えたのか。
でも晴は、そんなこといちいち咎めずこう言った。
「じゃあ、なんでみんなが怒ってるか。晴先生と聞きに行こっか」
「いやだよ…。だって、みんなおれのこときらいだもん」
うつむいたまま首を横に振る蓮くん。
「でも、このままみんなとケンカしたままでいいの?きらいって思われたままでいいの?」
「よくない…」
「じゃあ、なんで怒ってるかみんなの気持ちを聞きに行こ!それで蓮くんの気持ちもちゃんと伝えよう。大丈夫!うまく話せなかったら、わたしが手伝ってあげる!絶対に助けてあげるから!」
「うん…」
そしてふたりは、怒っている友達に理由を聞きにいった。
「鬼ごっこでタッチしたら、蓮くんが僕のこと押し倒したんだもん!それをタッチしただけって、うそまでついた!」
「いきなりシャボン玉を取られたの!」
「わたしも、杏奈ちゃんと同じ!」
晴は怒ってる三人の頭を、順番に優しく撫でてこう言った。
「いやな気持ちになって怒ってるのに、ちゃんと教えてくれて本当にありがとう。よくわかったよ」
そのあと。
「みんなの気持ちわかった?」と晴が確認をすると、「うん」とうなずく蓮くん。
次に晴は怒るわけでもなく。
嫌味もなく。
厳しく指導をするわけでもなく。
簡潔にこう伝える。
『鬼ごっこはタッチをされてもいいルールのあそび。せっかくみんなと楽しいことしてるのに、それで怒ってたらつまらないでしょ。相手にタッチしたつもりだったら、もっと優しくタッチしなきゃね』
『シャボン玉をやりたかったのなら、かしてって最初に言おうね』
すると蓮くんは、「みんな、間違えちゃってごめん。おれ、本当はみんなと仲良くしたい」と呟く。
「うん、いいよ。次は気をつけてね」
「わたしも、さっきはいやなことって言ってごめん」
「うん。わたしも、もう怒ってない」
奏くんも杏奈ちゃんと寧々ちゃんも、そう言って蓮くんを許してくれた。
子どもはすごい。
相手が大人だったらこう簡単にはいかない。
子どもは相手を許す力を持っている。
その力は、人がみんなの中で助け合って心地良く生きていくヒントに繋がると、俺は保育歴を重ねるたびに思う。
「じゃあ、仲直りしたし。みんなで鬼ごっこでもやりますか!」
パチンと手を合わせて、晴が笑顔でそう言った。
「えー!晴先生、足遅いじゃん!」
「いつも走るとすぐ苦しいって息上がるじゃん!」
「でもわたし、晴先生と鬼ごっこやりたい!」
そう言って笑顔が花のようにぱっと咲く子どもたち。
それから鬼ごっこは、日が沈むまで盛り上がった。
ひとりぼっちだった蓮くんも、仲間に入って一緒にあそぶことができた。
笑顔がはじける子どもたち。
そんな子どもたちを見て目を細める晴。
その光景を目の前に俺は、こう思わずにはいられない。
自分も彼女みたいに保育が上手にできたらいいのに。
俺が解決できないトラブルを、晴はいつもみんなが納得するカタチで解決してしまう。
この差は、いったいなんなのだろう。
俺と彼女とで、なにがそんなにもちがうのだろう。
閉園時間である七時を過ぎて、誰もいない静かな職員室。
そこでひとり保育計画を立てている晴に声をかけた。
「最近、残業してばっかじゃん。あんま無理しないでよ。はい。コーヒー」
となりの席に腰を下ろし、自販機で買ってきた缶コーヒーを彼女の前に置いた。
「お、ありがとう!でも、これは好きでやってるんだ!だって楽しいじゃん!保育計画立てて準備するの!」
「でも残業が好きな人っていないよ。晴はちょっと変わり者だと思う。なにしたらいいかな?俺にも手伝わせてよ」
「じゃあ、そこのダンボールでチケット入れと屋台の看板を作っといてもらおうかな」
「わかった」
「雑に作らないでよ!」
「わかってるって」
晴は今、お祭りごっこの細かい保育計画を立てている。
「夏にママと行ったお祭りがすごく楽しかったんだ。みんなでお祭りができたらいいのになぁ。絶対楽しそうだよね!」
先週、蓮くんがそう言っていて。
じゃあ、みんなで本当に祭りを開いちゃおう!
晴がそう言い出したのだ。
彼女の発想はおもしろくて、とても大胆。
お祭りごっこ当日に、クラスのみんなで、お昼ご飯の焼きそばをクッキングでたくさん作って。
他クラスの子どもたちにはお客さんになってもらい、うちのクラスで開く屋台に買いに来てもらう。
他にも本物のゼリーすくいをしたり、盆踊りも踊っちゃおうと計画しているのだ。
もちろん。
屋台を運営するのはうちのクラスの子どもたちと晴。俺はそのサポート役。
蓮くんの、みんなでお祭りができたらいいのにという願いからスタートし。
クラスどころか保育園全体を巻き込んだ、大きな保育計画を立てている。
蓮くんとみんなが楽しく繋がってほしいという。
彼女の願いが、この計画から垣間見える。
当日は、きっとみんなの笑顔があふれる。
素敵なお祭りごっこになるだろう。
「晴はやっぱすごい…」
ハサミでダンボールを切りながら気づいたら、口から本音がこぼれていた。
「べつに普通だけど」
彼女は明日までに提出しなければならない計画書とにらめっこしながらさらっと言った。
「屋上での仲裁といい。お祭りごっこの保育計画といい。なんで晴はそういうことがぱっとできるの?」
「みんなの願いを叶える保育をしたいから」
「俺にも、いつかできるかな」
次に彼女から思わぬ質問が飛んでくる。
「じゃあ、いつもみんなの中で、いちばん困ってるの誰かわかる?たとえば今日の屋上で」
頭の中で考えてみる。
蓮くんに押し倒された奏くん?
それともシャボン玉をやってたのに急に奪い取られた杏奈ちゃん?寧々ちゃん?
でも押し倒されたほうが痛いし、やっぱり奏くんかな…。
でも、ただの質問じゃなさそうだし、その意図も不明。
「ごめん。わからない」
結局どっちつかずにそう答えると、「みんなの中でいちばん困ってるのが誰かわからなきゃ無理!」
きっぱりそう言われてしまった。
そして、彼女に一冊の本を渡された。
タイトルには『発達障害の子どもを支える保育』と書いてある。
「悠はまだまだ知識がたらない。本を読むのとか苦手そうだけど、とりあえずそれ読んできて!知ってると知らないで保育っていうのは見える世界がぜんぜんちがうから!」
「わかった」
残業にきりをつけて家に帰ると、さっそく彼女から借りた本を開く。
パラパラとページをめくると、それぞれの発達障害の特徴や、その手立てがわかりやすく書かれている。
本を読むのは苦手なので、とりあえずADHDのところにしぼって重点的に読むことにした。
多動性、落ち着きがなくじっとしていられない。
衝動性、とっさの気持ちのコントロールが難しい。だから、ぱっと手が出て友達に他害をしてしまいやすい。
視覚優位、聞いたことより目で見えた情報を優先する。だから言葉で、なかなか伝わりづらい。絵や写真を使って伝えていく手立てもある。
注意欠如、不用意なミスが多く何度も同じ失敗をしてしまう。
他にも、同じ生活ルーティンが大切とか。保育室の環境設定、あそび、声かけの手立てなどが書かれていた。
次の文章に、俺ははっとさせられる。
ADHDの子どもの特徴はすべて、本人が望んで生まれ持ったものではない。
それなのに友達の中で、自分が望んでもない行動をしてしまい。
心を深く傷つけ困ってしまうことがたくさんある。
とくにADHDは、見た目ではわからない。
知能も低くない。
それが周りの人から、つい必要以上に責められ。
集団保育の中では、不利な状況に追い込まれてしまいやすい。
俺は文字を読み進めるたび、胸がぎゅっとしめつけられていく。
なぜなら、この本に書かれている失敗は全部。
自分が蓮くんにやってしまっていることなのだから…。
いつも問題行動ばかりをして、みんなを困らす蓮くんが苦手だ。
怒っても、伝わらないし。
この子が悪いとしか思えなかった。
でも、本当はちがった。
自分が生まれ持った特徴に、蓮くんは苦しみつづけている。
望んでもないのに、みんなに嫌われることばかりをしてしまい。
わかっていても自分を止められず。
怒られ、責められ、否定され。
ひとりで、いつもどうにもならない苦しみに。
心が傷ついていた…。
『悠先生、きらい。みんなも、きらい』
屋上で蓮くんが叫ぶようにそう言っていた場面を思い出す。
みんなに自分を理解してもらえなくて、つらくてたまらなかったのだ。
『本当はみんなと仲良くしたい』
次にその言葉を思い出し、涙が勝手に頬をつたう。
蓮くんの言葉は真実だった。
たとえうそをつくことがあっても、自分ではどうすることもできない。そんな自分を守るためのうそ。
晴の質問の答えが今ならわかる。
あの場でいちばん困っていたのは、みんなを困らせていた蓮くん本人だった。
それなのに…。
そんなことにすら気がつけない俺はバカだ。
力がなさすぎる。
自分の保育スキルが低ければ、目の前で困っている子どもを支えられない。助けられない。
それどころか。
困っていることにすら、気がつけもしないのだ。
本を読み進めるとこう書いてあった。
ひとことに気をつけよう。
否定でなく、なるべく肯定を。指導をするのなら、わかりやすく簡潔に伝える。
「やめて」「なんでそういうことするの?」「ちがう」「きらい」「いじわる」
俺やクラスメイトの子どもたちが、さんざん蓮くんに浴びせてしまっている言葉。
反対に晴は、全部この本に書いてある通り。
「大丈夫?」「どうした?」「困ったときは助けるよ」「いいよ」
いつも子どもを思いやる言葉や肯定ばかり。
指導をするときも、わかりやすく簡潔で嫌味なんていっさいない。
保育士として力量の差が歴然すぎる。
次の日から。
少しでも晴に追いつきたくて、徹底的に彼女の保育を見て盗むことにした。
保育中。
観察をすればするほど、彼女のレベルの高さをあらためて痛感する。
子どもが公園に行く前手繋ぎで揉めた場面、給食のおかわりの順番で揉めた場面、トランプをやっていて好きな友達のとなりをめぐって揉めた場面。
どの場面でも本に書かれていた保育技術を、晴は息を吐くようにばんばんと使う。
それに俺はあることにも気づく。
彼女は蓮くんに限らず、他の子にもまったく否定語を使わない。
同じく指導も簡潔でわかりやすい。
なんと晴は、発達障害児の本に書かれていた保育技術を、他の子どもにも応用して使っていたのだ。
でも、考えてみればすごく理にかなっている。
発達障害とは、誰しもが持っている特徴のおうとつ。
それが極端すぎて、生活に支障が出てしまうというもの。
だから発達障害の子どもたちにとって、わかりやすくて優しい保育は。
他の子どもたちにとっても同じだし、とても丁寧な保育だと言える。
気づくと俺は。
保育の中で見える景色ががらりと変わっていた。
ある日。
蓮くんが、奏くんの使っているミニカーをぱっと取ってしまった。
「あ、取った!いつも勝手に取るのやめてって言ってるじゃん!何回言ってもわかんないよね!本当にきらい!蓮くんなんていなくなっちゃえ!」
「うるさい!」
蓮くんは目を閉じて耳を手で塞ぎ、周りをシャットアウトするように叫ぶ。
いつもなら。
やめて!友達の使ってるもの勝手に取らないで!
と、すぐそうやって否定を口にしてしまう。
俺は落ち着いて状況を分析する。
奏くんが使っていたのは、新品のまだ保育園にひとつしかないミニカー。
蓮くんの視覚優位が先行した。
欲しいと思ったとき、取ってはだめとわかっているけど衝動が抑えられなかった。
次に友達から否定をされてしまい。
どうしていいかわからず、うるさいと叫ぶしか選択肢が見つからず周りをシャットアウト。
勝手におもちゃを取ったら友達から嫌われてしまうとわかっているのに、同じことを繰り返してしまう注意欠如。
ここは蓮くんを否定せず、友達の使ってるものを勝手に取らないよう指導をしなければならない場面だと判断。
「どうした?もしかして、奏くんの使ってるミニカー。いいなって思ったから欲しかったの?」
いつもはなんて言ったらいいかもわからないのに、驚くほどわかる気がする。
「うん…」
うつむいて蓮くんは、ぽつりと答える。
きっと、いつもの否定的な声かけなら、聞く耳すら持ってもらえなかっただろう。
視覚優位だからこそ、友達の気持ちをわかりやすく伝えるため。
俺はいつも晴が使っている声かけを真似する。
「そっか。蓮くんも欲しかったんだね。でも奏くんの顔見てみて。どんな顔してる?」
「怒ってて、悲しい顔してる」
「そう。蓮くんはそれでいいの?」
「よくない…」
「じゃあ、どうすればいいかわかる?」
「奏。ごめん。ミニカーかえす。あとで、かしてほしい…」
すると謝ってもらったことで気持ちが落ち着いた奏くんは、「わかった。あとでね」と言ってくれた。
しばらくすると奏くんのほうから。
「このミニカー、一緒に使お!ここにブロックで駐車場作ろうよ!」と、誘ってくれてふたりがあそび始めた。
俺が今までしていた保育と、結果がぜんぜんちがう。
今までは友達と蓮くんがケンカをしたら、ちゃんと話し合いすらできず、気持ちがすれ違ったまま終わり。
蓮くんはモヤモヤが残って、また新しいトラブルを起こしてしまう。
でも、今回はちゃんと話し合うことができて。
気落ちがすっきりしたうえに、友達と楽しく繋がって終わった。
初めて自分の保育に、たしかな手応えを感じた瞬間だった。
晴のように一日のうちに何回もはできないけど、少しずつ俺も納得のいく保育ができるようになってきた。
今日は、お祭りごっこ当日。
午前中の主活動で、なんとか大量の焼きそばを給食室のサポートもあって作り終えた、晴と子どもたち。
いよいよ、これから他クラスのみんながチケットと焼きそばを交換しにやってくる。
うちのクラスの子どもたちは法被を着て、チケットの受付、焼きそば、ゼリーすくい、盆踊りコーナーと役割が決まっていて持ち場で待機をする。
保育室の入り口には【ねんちょうクラスまつり!やきそば!ゼリーすくい!ぼんおどり!あるよ!】と書かれた、俺と子どもたちで作った看板もでかでかと貼ってある。
待機している子どもたちは、みんなワクワクとドキドキが入り混じり落ち着かない様子。
蓮くんは、とくにだ。
今も「みんな、本当に買いに来てくれるのかなぁ。楽しんでくれるかなぁ」と呟いて保育室内をうろうろしている。
自分がやりたいと言い出したお祭りだというのもあるし。
いつもと同じ生活ルーティンではない非日常が苦手なのだ。
でも、晴はそこも想定済み。
晴が蓮くんと一緒に焼きそばの売り子役をすることによって、手助けをする作戦になっている。
彼女がとなりにいること。
それが蓮くんにとって、なによりも心の安定剤になるのだ。
俺は屋台全体のサポート役を任されている。
そして時間になると、さっそく他クラスのみんながやってきた。
お祭りごっこは大盛況。
焼きそばを配る子どもたち、お客さんの子どもたち、ゼリーすくいも盆踊りも、いろんな場所でみんなの笑顔が咲き誇る。
蓮くんのみんなでお祭りをやりたいという願いは、晴の力によって見事実現された。
しかし、こんな楽しいときでさえ。
どれだけ保育士が予測を立てて、綿密な計画をしていたとしても。
トラブルというものは起こってしまう。
それも保育だ。
晴とどうしても盆踊りをしたいう女の子たちがいて。
その子たちの願いを叶えるため。
晴が、蓮くんのとなりを離れた。
俺はすぐに売り子のサポートに回る。
しかし、一瞬の出来事だった。
焼きそばの列で順番を守らなかった他クラスの男の子がいて、蓮くんがその子を突き飛ばしてしまったのだ。
男の子は床に倒れ、背中を強く打って泣きだす。
幸い怪我はなかったが、運の悪いことにその場面を忘れ物を届けにきた奏くんのお母さんに目撃されてしまう。
奏くんのお母さんは、以前から蓮くんのことをよく思っていない。
連絡ノートでも【いつもうちの子が蓮くんに怪我をさせられて、あの子が一緒だと不安です】と意見をいただいたことがある。
保育士は、子どものせいにはしない。
トラブルで怪我があったとき、それは保育の未熟さが原因なのだ。
しかし、蓮くんのせいじゃありませんと保育士が過剰に庇うと、それはそれで奏くんのお母さんの勘にさわる。
でも蓮くんを悪者にしてしまうなんて、あってはならない。
トラブルのときの親対応は、子ども以上に難しい。
全国どこの保育園も、それで頭を抱えている。
俺が泣いている男の子の背中をさすっていると、うしろで誰かがこうささやく。
「また蓮くんがやった」
「蓮くんっていつもいじわるだよね」
「いなくなっちゃえばいいのに」
奏くんのお母さんも、またこの子か、と言わんばかりに眉間に皺を寄せる。
本に書いてあったことを思い出す。
『ADHDの子は、集団保育の中で不利な状況に追い込まれてしまいやすい』
今がまさにそれだ。
周りのみんなの刺すような視線。
蓮くんを敵と判断するような冷たい空気がその場に漂う。
でも、俺は知っている。
本当は順番守らなきゃだめだよって、教えたかっただけ。
それをうまく言葉にできず咄嗟に手が出てしまった。
衝動のコントロールが苦手、注意欠如。
全部ADHDという発達障害の特徴。
本当は。
度合いがちがってもみんな同じ部分を持っている。
人は気持ちや体力がいっぱいいっぱいのとき、余計な言葉や手が出てしまい。
誰だって、それくらいの失敗はしたことがある。
蓮くんは、それが人より多いのだ。
けっして、みんなと大きくちがうわけじゃない。
人の気持ちがわからないわけじゃない。
ゆえに周りからの視線には敏感だし、大きなショックを受ける。
蓮くんは、その場で目を閉じ耳を手で塞いで声にならない声で叫ぶ。
そして目から大粒の涙を流し、絞り出すようにこう言った。
「みんなきらいだ!みんな、おれのこときらいって思ってるんだろ!しねって心の中で思ってるんだろ!おれになんていなくなってほしいんだろ…」
いちばん近くにいる俺が、指導をしなければならない場面。
しかし蓮くんの心はもう、壊れてしまいそうなほどいっぱいいっぱい。
とてもじゃないけど、適切な言葉なんてぱっと出てこない。
こんなとき、晴ならどうする。
そう思ったとき。
うしろから声が飛んでくる。
「わたしは大好きだよ!蓮くんのこと!」
まるで冷え切った心を包みこむ。あたたかい太陽のぬくもりような晴の言葉だった。
その場しのぎで言ってるわけじゃない。
本気でそう思っていると伝わってくる。
「本当は誰よりもみんなと仲良くしたいって気持ち。ちゃんと全部知ってるからね」
近くに来た晴がしゃがんで目線を合わせて微笑むと、蓮くんははっと我に返る。
次に彼女はさらっとこうつづけた。
「蓮くん。間違えちゃったときは、すぐごめんねしなきゃでしょ!」
「あ、うん…」
「なにが間違いだったかわかる?」
「本当は順番守ってねって口で言わなきゃだめだった」
「そう!ちゃんとわかってるじゃん!じゃあ、それを伝えてきて」
蓮くんはすぐに押し倒してしまった男の子の前に駆け寄って、「押しちゃってごめんね。でも、順番は守ってほしい」と呟いた。
「うん。わかった」と、男の子もうなずく。
奏くんのお母さんの表情も、さっきより柔らかくなっている。
このとき俺は。
あらためて晴の高度な保育技術に驚いた。
奏くんのお母さんの不安な気持ち。
押し倒されてしまった男の子の気持ち。
そして、みんなの敵になってしまい。どうしようもなくなってしまった蓮くんの気持ち。
三人の想いを一瞬のうちに、しかも同時に守ったのだ。
この対応を、当たり前だと思った人もいるかもしれない。
でも、その当たり前が現場でぱっとできる人など、実際はものすごく少ない。
ピンチな場面で焦りもある中、一瞬で毎回正解を叩き出せる人などそうそういないのだ。
しかし晴は、いつでもそれをさらっとやってのける。
どれほど研鑽を積んできたのか。
想像もつかないほどの高み。
彼女はまだ若い。天性の才能もあったとは思う。
優しいとか良い人だからとかではなく。
ちゃんと理屈でわかって、それをやっているから保育士はプロなのだ。
そのあとも、みんなの笑顔がたくさん咲いた最高の一日となってお祭りごっこは無事に終わった。
夜。後片付けを終えて、晴とふたりで歩く帰り道。
「今日は大成功だったね!」
となりでそう言って、ほっこりと微笑む嬉しそうな彼女を見て思う。
保育技術の高さは、ちゃんと知識を知ってる人じゃないとわからないことが多い。
カタチがあって見えるものでも、数値化できるものでもないからだ。
その技術をどれだけ研鑽し、高みに登り詰めたとしても。
保育士たちは、誰からも賞賛され褒められることはない。
給料も上がらないし。処遇だって良くはならない。
園長、主任などの幹部になってしまえば、責任がさらに重くなるだけ。
それでも晴は、いつでも目の前の困ってる子どもや親を助けて支えつづける。
きっと、そのような保育士が…。
この世の中には、たくさんいる。
そう思ったとき。
俺は彼女にふと訊ねた。
「晴ってさ。なんで保育士やってんの?」
「は?」と、彼女は首を傾げる。
「保育士って割に合わないこと多いじゃん。なんでかなって思ってさ」
すると晴は。
当たり前のように、まるで昨日の天気を話すみたいにさらっと迷いなく答えた。
「みんなを笑顔にしたいから」
その軽さが、俺の心に余計刺さる。
彼女には敵わない。
そう思った瞬間、口元が勝手に緩んだ。
「ははは、なにそれ?めちゃくちゃ優しくて良い人じゃん」
「ちがう。保育士なだけ。この仕事をつづけてれば、すぐに悠にもわかるよ」
そう言って晴はにっこりと微笑んだ。
あれから十五年。
俺はまだ保育士をやっている。
少しは彼女に追いつけただろうか。
「ねぇ!悠さんってば!」
小町ちゃんが呼ぶ声で、はっと我に返った。
「ん?なに?」
「なに?じゃないですよ!なんで、いつもぼーっとしてて人の話をちゃんと聞いてないんですか!」
「ごめんごめん」
「で!悠さんは、なんで保育士をつづけてるんですか?」
うーんと少し考えてみたけど、やっぱりこれしか思いつかなくてぱっと答えた。
「みんなを笑顔にしたいから」
すると小町ちゃんは、目を丸くして一瞬時間が止まったかのように固まる。
「なんでいちんばん、ちゃらんぽらんな悠さんがそんな真面目な理由なんですか!?」
まじか…。俺ってそんなふうに思われてるのか。
べつに、いいけど。
「じゃあ、なんで小町ちゃんは保育士やってんのさ?」
こっちも聞き返してみる。
すると普段は真面目な彼女から、意外すぎる答えが返ってきて俺は吹き出してまう。
「推しの地元がここの近くなんですけど、保育士やってるわたしを公園とかでたまたま見かけて、素敵な人だなって声かけてくれたら嬉しいなって!」
冗談か。
いや、きっと半分は夢にでもすがりたい本音なのだろう。
最近の子は本当に面白い。
明るくて前向きないい理由だ。
仕事に向かう自分を奮い立たせる理由なんて、そういうのだってあり。
「あははは。めっちゃいい!やばいよ、それ!」
「悠さんにやばい人扱いされたくないです!」
小町ちゃんは、そう言って不服そうに頬を膨らます。
「でも、それってリアコって言うんでしょ!行き過ぎたファンだってSNSで見たことあるけど、大丈夫なの?」
「失礼な!わたしは迷惑な推し活は絶対しないです!推しに誓います!同じファンのみんなにも誓います!でも目の前に推しが現れたら…。そりゃ、リアルに恋しますよ!そんなささやかな夢くらい見たっていいじゃないですか!」
「それくらいのノリで保育もやったらいいのに!きっと今より楽しいよ!」
「いやいや、責任ある仕事ですから」
「変なとこ真面目なんだからー」
ふたりでそんな会話をしているうちに、ちょうど新しい弦に張り替えることができた。
「なんか小町ちゃんと話してると、俺ってけっこうまともなのかもって思えてきた!」
どうやら、このひとことは失言だったようだ。
すぐ反応したのはとなりで連絡ノートを書いていた後輩保育士の朝陽ちゃん。
「悠さん…。それは絶対ない!勘違いです!」
「うんうん。悠さんがまともなわけないですよ!」と、小町ちゃんも白い目をして相槌を打つ。
みんなからの俺のイメージって、いったいどんなやつなんだよ…。
「あ、そろそろ時間だ!急いで、悠さん!」
小町ちゃんが職員室の時計を見て、ギリギリなことに気がついて教えてくれた。
「よし!いっちょ誕生日会してきますか!」
俺は晴のギターを持って立ち上がった。
なにをもって高い保育技術と言えるのだろう。
子どもの集団作りができて言うことを聞かせられること。
子どもを惹きつけるあそびをたくさん知っていること。
コミュニケーションが上手で、みんなに優しいこと。
発達をよく理解していること。
これらは必要なことだけど、全部表面上なことに過ぎない。
年数だけ重ねれば誰にだってできる。
答えは。
その保育士の技術が、全部なにに繋がっているか考えればすぐにわかる。
子どもや親を支えて助けることだ。
保育士にはどの瞬間も、その能力が最優先に求められる。
そこに保育の真髄があると、俺は彼女から教わった。
困っている子どもや親がひとりでもいれば、みんなが笑顔になれる保育は絶対に成立しない。
そんなこと、不可能だとしても。
誰からも認められず、賞賛などされずとも。
ひらすら分析し、試行錯誤し、研鑽し。
今日も現場に立ちつづける。
あなたを笑顔にするために。
そんな保育士たちが、世の中にはたくさんいる。



