雨の音が、世界のすべてだった。
 目を開く前から、その音は聞こえていた。途切れることのない、均一な、まるで呼吸のような雨音。それは優しくもなく、激しくもなく、ただ淡々と、永遠に続くかのように降り注いでいた。
 僕は目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは、灰色だった。
 空が、灰色。
 雲が、灰色。
 建物の壁が、灰色。
 石畳が、灰色。
 世界から色彩が失われたかのように、すべてが彩度を失い、水彩画の絵の具が滲んだような輪郭で、僕の前に広がっていた。
 僕は路地裏の、崩れかけた建物の軒下に横たわっていた。体は芯まで冷え切っていた。服は水を含んで重く、髪からは雫が滴り落ちて、首筋を這っていく。どれくらいここにいたのだろう。一時間か、一日か、それとも――。
 わからなかった。
 いつからここにいたのか。
 なぜここにいるのか。
 ここがどこなのか。
 何も、わからなかった。
 僕はゆっくりと上半身を起こした。体が重い。まるで全身が水に浸かっていたかのように、動かすたびに鈍い抵抗を感じる。手のひらを石畳につくと、冷たい水が指の間から溢れた。
 頭の中を探ってみる。
 名前は――。
 何も出てこなかった。
 どこから来たのか――。
 空白だった。
 家族は。友人は。仕事は。趣味は。好きな食べ物は。
 すべてが消えていた。
 頭蓋の内側は空洞のように空っぽで、過去という名の痕跡が、どこにも見当たらなかった。僕は確かにここに存在している。この手も、この足も、この体も実体を持っている。なのに、「僕」という人間を形作るはずの記憶が、何ひとつ残っていない。
 恐怖が込み上げてきた。
 自分が何者かわからないということは、こんなにも不安なことなのか。まるで、世界の中に自分だけが置き去りにされたような、底知れない孤独感。
 でも――。
 ひとつだけ。
 たったひとつだけ、確かなものがあった。
 ――――ねぇ
 雨音の向こうから、誰かが僕を呼んだ。
 それは声というより、感覚だった。言葉としての明瞭さはない。音として聞こえたわけでもない。でも、確かに「呼ばれた」という事実だけが、心の奥底に、石のように沈んでいる。
 男なのか、女なのか。
 若いのか、老いているのか。
 優しい声なのか、悲しい声なのか。
 それすらもわからない。ただ、その声――いや、その「呼びかけ」は、間違いなく僕に向けられていた。僕という存在を知っていて、僕を探していて、僕の名を――今は思い出せないその名を――確かに呼んだ。
 その残響だけが、空虚な記憶の海の中で、唯一の浮き木のように、僕を支えていた。
 僕は立ち上がった。
 足がふらつく。壁に手をついて、体重を支える。冷たい石壁から、雨水が手のひらに染み込んでくる。
 歩かなければ。
 その声の主を、探さなければ。
 それだけが、今の僕を動かす理由だった。自分が何者かを知るため。この空虚を埋めるため。そして何より――あの声が、僕を待っているような気がしたから。
 僕は、雨の中へ踏み出した。

 路地を抜けると、少し開けた場所に出た。
 広場、と呼ぶには狭すぎる空間。建物と建物の間に生まれた、不定形の空き地。そこに、人がいた。
 十人ほどだろうか。男も女も、老人も若者も、等しく雨に打たれながら、ただそこに立っていた。誰も動かない。誰も喋らない。傘を差している者はひとりもいない。
 皆、うつむいていた。
 顔を上げる者はいない。まるで、何かを待っているかのように、あるいは何かを諦めているかのように、ただ静かに、雨に身を委ねていた。
「あの」
 僕は、近くにいた男に声をかけた。
 返事はなかった。
 男は三十代くらいだろうか。痩せていて、頬がこけている。髪は濡れて額に張り付き、目は虚ろに地面を見つめていた。
「すみません」
 もう一度、声をかける。
 男がゆっくりと顔を上げた。
 その目を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
 焦点が、合っていなかった。
 瞳孔は開いているのに、何も映していない。まるで、世界そのものが見えていないかのような、空虚な眼差し。
「……ぁ」
 男の唇が動いた。
「わから、ない」
 掠れた声だった。
「何も……わからない。僕は……誰だっけ」
 男の輪郭が、滲んでいた。
 いや、滲んでいる、というのは正確ではない。溶けている、と言った方が正しいかもしれない。雨に濡れた水彩画のように、その存在の境界が曖昧になっていく。肩の線が、腕の線が、指先が、少しずつ、周囲の灰色の景色と区別がつかなくなっていく。
「ここは……どこだっけ。僕は……」
 男の声が、遠のいていく。
「僕は……誰……」
 そして。
 消えた。
 音もなく。
 光もなく。
 ただ、そこにいたはずの人間が、雨に溶けるようにして、跡形もなく消失した。
 僕は声も出せずに、その場に立ち尽くした。
 男がいた場所には、何も残っていなかった。服も、靴も、何もかもが一緒に消えていた。まるで最初から誰もいなかったかのように。ただ雨だけが、変わらず降り続けている。
 周囲を見回すと、他の人々も同じだった。
 ひとり、またひとりと、静かに輪郭を失っていく。老婆が消える。若い女が消える。子どもが消える。誰も助けを求めない。誰も叫ばない。ただ、受け入れるように、諦めるように、雨の中で薄れていく。
 これは、何なんだ。
 恐怖が、背筋を這い上がってきた。
 この世界では、人が消える。雨に溶けるようにして、存在ごと失われていく。
 ならば、僕も――?
 その思考が脳裏をよぎった瞬間、僕は走り出していた。
 広場を抜け、路地を駆け、どこへ向かうでもなく、ただ前へ、前へと。雨が顔を打つ。冷たい水滴が目に入り、視界が滲む。それでも足を止めなかった。
 消えたくない。
 消えるわけにはいかない。
 まだ、何も思い出していない。
 あの声の主に、会ってもいない。
 肺が焼けるように痛い。足が絡まって、何度も転びそうになる。それでも走り続けた。
 どれくらい走っただろう。
 やがて、体力の限界が来た。僕は建物の壁に背中を預け、荒い息を吐いた。心臓が激しく脈打っている。全身が震えている。
 雨は、止まない。
 空を見上げる。果てしなく広がる灰色の雲。どこまで続くのか、果てがあるのかすらわからない。ただ、この世界全体が雨に閉ざされているという事実だけが、重く、僕にのしかかってくる。
 ここは、どういう世界なんだ。
 僕は壁に頭を預けた。冷たい石の感触。
 そのとき。
「――新入りか」
 声がした。
 僕は弾かれたように顔を上げた。
 三メートルほど先に、人影があった。
 フードつきの外套を羽織った、背の高い人物。顔は影になって見えない。でも、その立ち姿には、明確な意思があった。さっきの広場の人々とは違う。この人は、生きている。確かに、この世界で生きている。
「驚かせたか」
 低い声だった。男性だろうか。年齢は判別できない。
「あなたは……」
「俺の名はレイン」
 男――レインと名乗った人物は、ゆっくりと近づいてきた。フードの下から、鋭い目が覗く。四十代くらいだろうか。顔には深い皺が刻まれ、瞳は疲れ切っているように見えた。
「お前、今日目覚めたばかりだろう」
「……なぜ、わかるんですか」
「目を見ればわかる。まだ混乱してる。この世界の法則を知らない目だ」
 レインは僕の隣に立ち、壁に背を預けた。
「ここがどういう場所か、説明してやろうか」
「お願いします」
 僕は頷いた。
 レインは雨を見上げた。
「この世界では、雨が記憶を奪う」
「記憶を……」
「そうだ。この雨に濡れると、人は少しずつ、過去を失っていく。最初は些細なことからだ。昨日の夕食、通った道、誰かと交わした挨拶。そういう、取るに足らない記憶から消えていく」
 レインの声は淡々としていた。
「やがて、もっと大きな記憶が失われる。仕事、住んでいた場所、友人の顔。家族の名前。自分の名前。そして最後には――」
「消える」
 僕が言うと、レインは頷いた。
「そうだ。さっき見ただろう。あれが、この世界の終わりだ。すべてを失った者は、存在の輪郭を失い、雨に溶けて消える」
 僕は唾を飲み込んだ。
「でも、どうして。なぜそんなことが」
「わからない」
 レインは首を横に振った。
「ここがどういう世界なのか、なぜこんな法則があるのか、誰も知らない。ただ、俺たちはここにいて、雨に記憶を奪われながら、消えないように生きている。それだけだ」
「じゃあ、あなたも……記憶を」
「ああ。俺もほとんど失った」
 レインは自分の手のひらを見つめた。
「俺が誰だったのか、何をしていたのか、もう思い出せない。ただひとつだけ――」
 彼は言葉を切った。
「ただひとつだけ、残っている記憶がある」
「ひとつだけ?」
「この世界では、最も強い感情を伴う記憶だけは、簡単には失われない。それが最後の砦になる。その記憶さえ守れば、完全に消えることはない」
 レインは僕を見た。
「お前にも、何か残っているはずだ。思い出してみろ」
 僕は目を閉じた。
 頭の中を探る。
 そして――あった。
 ――――ねぇ
 雨音の向こうから聞こえた、あの声。
「声です」
 僕は目を開けた。
「誰かが、僕を呼んだ声。それだけが、残っています」
「声か」
 レインは小さく頷いた。
「なら、それがお前の砦だ。その記憶を失わない限り、お前は消えない」
 僕は胸に手を当てた。
 そこに、確かにあの声の残響がある。温かいような、切ないような、不思議な感覚。
「でも」
 僕はレインを見た。
「このままでは、いつか消えてしまうんですよね。記憶を取り戻す方法は、ないんですか」
 レインは少し考えるように沈黙した。
 やがて、口を開く。
「ひとつだけ、方法がある」
「方法?」
「誰かの記憶を聞くんだ」
「誰かの記憶を……」
「この世界では、他人の強い記憶の話を聞くと、自分の中に眠っている関連する記憶が刺激されて、蘇ることがある。共鳴、とでも言うのか。人の心は繋がっているから、誰かの感情が、お前の感情を呼び覚ますことがある」
 レインは雨を見た。
「だから、旅をする者もいる。人と出会い、記憶を分かち合い、少しずつ自分を取り戻そうとする。お前も、そうするといい」
「旅を……」
「ああ。もしその声の主を探したいなら、なおさらだ。動け。人と会え。話を聞け。そうすれば、いつか道は開ける」
 レインはそう言って、僕から離れた。
「待ってください」
 僕は慌てて声をかけた。
「あなたは、どこへ」
「俺は俺の道を行く」
 レインは振り返らずに答えた。
「お前も、お前の道を行け。いつかまた会うことがあれば、そのときは互いの記憶を語り合おう」
 そして、彼は雨の中へ消えていった。
 僕はその背中を見送った。