夜叉様と霞姫の契り

夜明けは、あまりにも静かだった。
霞の参道に漂っていた霧は晴れ、風がひとすじ吹き抜けたあと、空には淡い橙が滲み始めていた。

璃霞はゆっくりと振り返った。
凛花が崩れ落ちた場所には、灰と紙符の欠片しか残っていない。だが、そこには確かにひとつの意志が刻まれていた。彼女の痛み、怒り、絶望、そして、最後に見せた安らぎ。

「……風が、止んだね」

璃霞の声はかすれていた。戦いの疲労がようやく筋肉に降りてきたのか、全身が痛み始めていた。それでも、心は穏やかだった。

「風が答えたんだ。お前の選択に」

燐がそう言って、璃霞の肩に手を置いた。その手は確かに温かく、璃霞の鼓動を落ち着かせる。

二人は参道を離れ、里へ戻る道を歩き出す。
その道すがら、燐が口を開いた。

「凛花は、かつて俺の父に仕えていた夜叉だった。だが、ある日、人間と恋に落ち禁を破って逃げた。そして……すべてを失った」

璃霞は立ち止まり、振り返る。

「その人間……裏切ったの?」

「いいや。守り抜いた。だが、周囲が許さなかった。どちらの世界からも拒絶されて、最後には……その男は、自ら命を絶った」

燐の目には悔しさと怒りが混ざっていた。

「凛花はそのとき、自分を救えなかった世界を、憎むようになった。愛なんて幻想だと、自分に言い聞かせるようにな……」

璃霞は目を伏せた。胸に重いものが広がる。
凛花が敵となった理由は、決して悪ではなかった。ただ、救われなかっただけだ。

「……でも、彼女は最後に、わたしたちの愛を、少しだけ信じた気がする」

璃霞の声は小さかったが、確かだった。

「信じたからこそ、お前に殺される道を選んだのかもしれないな」

燐の言葉には、悲しみの中に、微かな敬意が混じっていた。

ふたりは、黙って歩き続けた。
霊界と現世の狭間に生きる者として、背負うものは多い。だが、愛も痛みも、すべて含めて前に進むと決めた。


里に戻ると、長老たちが静かに待っていた。
その表情は硬い。だが、非難でも怒りでもない。

「璃霞様……凛花の気配が、完全に消えました」

長老のひとりが言う。

璃霞は頷く。

「わたしが、終わらせました」

しばらく沈黙が続いた。やがて、別の長老が前に出た。

「凛花は、かつてこの里を守った者でした……ですが、もう迷いません。あなたが選び取ったものこそ、わたしたちの誇りとなりましょう」

その言葉に、里の者たちが次々と頭を下げる。
璃霞は思わず息を呑んだ。心に突き刺さっていた異端としての孤独が、少しだけ溶けていくのを感じた。

燐が彼女の手をそっと握った。
璃霞は、小さく笑った。

夜。

璃霞は一人、あの参道に戻っていた。
風は柔らかく、霞は月明かりに淡く揺れていた。

「……凛花さん。あなたの痛みも、選択も、わたしは否定しない。けど、だからこそ、わたしは進みます。もう、迷わない」

そう呟いて、璃霞は手に持っていた一枚の符を風に乗せた。

それは、凛花が最後まで握りしめていた未使用の符。術の残滓も、呪いもなかった。ただ、彼女の名だけが刻まれていた。

空に舞い上がった符は、ひとすじの光となって風に乗り、空へと溶けていった。

璃霞の目に涙はなかった。ただ、確かな想いだけが残っていた。

次へ、進もう。
この命に刻まれた契りを、真実の光へと導くために。


璃霞は、薄暗い霧の中に佇んでいた。

目の前に揺らめく蒼い光の輪⋯⋯それが、彼女を現実世界へ繋ぐ門だった。

「戻らなきゃ……」

璃霞の声は震えていた。心の奥底で、どうしても避けられない運命が彼女を呼んでいたのだ。

隣には燐が立っている。彼の瞳は深い闇を映していた。

「璃霞、俺は行けない⋯⋯」

燐の言葉は静かだが、そこに決意と痛みが滲んでいた。

璃霞は振り向き、必死に訴えた。

「一緒に行こう?ね、お願い……」

燐は何も言わずにゆっくりと彼女を押し戻した。

その力は強く、璃霞は門の前で動けなくなった。

「すまない……」

燐の声が震える。

「お前には普通の女の子の人生を歩んでほしい。俺の世界じゃない場所で。だから、俺はここで……」

彼の目から一粒の涙がこぼれ落ちる。
璃霞もその涙を見て、声を震わせた。

「嫌だ!嫌だよ燐!やめて!!」

璃霞は泣き叫びながら手を伸ばしたが、燐の姿は少しずつぼやけていく。

「一緒に……」

彼女の声は届かず、燐はただ静かに横に首を振った。

「……さよなら、璃霞⋯⋯また会おう⋯⋯」

その言葉が風に乗って消えていく。

璃霞の視界が揺れ、霧が晴れると、そこは見慣れた現実の街並みだった。
冷たい空気と、遠くに響く人の声。

彼女は膝をつき、深く息を吸い込んだ。
胸の奥でまだ燐の温もりが残っている。けれど、彼はもうここにはいない。

涙が止まらず、璃霞は空に向かって叫んだ。

「燐!!」

けれど答えはない。

それでも璃霞は知っていた。
燐が望んだのは、彼女の幸せ⋯⋯自由な未来。

そして、璃霞は強く決意した。
どんなに遠くても、彼との契りを胸に抱いて生きていく。
その道はまだ続くのだと。


璃霞が現実世界に戻ってからの日々は、想像以上に静かで、しかしどこか物足りなさを感じさせるものだった。

街の喧騒に紛れ、誰も彼女の過去や秘密を知らない。
普通の女の子としての生活が始まったけれど、心の奥底に燐との契りが刻まれているから、毎晩の夢に彼の姿が現れては、消えていく。

ある夜、璃霞はふと目を覚ました。窓の外には満天の星空が広がっていて、風がカーテンを揺らしている。

「燐……」

彼女は小さく呟いた。

その瞬間、ふと部屋の隅に薄く青い光が差し込んだ。彼の声が、風に乗って囁くように響く。

「璃霞、俺はここにいる」

璃霞は目を見開いたが、もう姿は見えなかった。ただ、彼の温かな想いだけが胸を満たしていた。

それから璃霞は決めた。燐との契りを胸に抱きながら、この世界で生きていくこと。二つの世界の間に揺れる運命でも、彼女の心は揺るがなかった。

璃霞は、日常の中にぽっかりと開いた空白を感じながらも、毎日を必死に生きていた。燐との別れの痛みは消えなかったが、その絆は彼女の中で静かに燃え続けていた。

ある日、学校の帰り道、ふとした風に乗ってどこか懐かしい香りがした。水の匂いと、夜叉の気配⋯⋯。まるで燐がそばにいるような錯覚に囚われた璃霞は、その場に立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

「燐……」

囁く声は風に溶けていく。

その夜、璃霞は夢を見た。夢の中で燐が微笑みながら手を差し伸べてくる。

「璃霞、俺はお前と共にいる。たとえこの世界が遠くても、俺たちの絆は切れない」

璃霞は手を伸ばし、その温もりに触れようとしたが、指先は空を切る。

目が覚めると、涙が頬を伝っていた。

それでも璃霞は、心の中で燐との契りを確かめながら、前へ進むことを決めた。

翌日、彼女は偶然にも古い神社の前を通りかかった。そこで見たのは、かつて燐と共に歩いた幻想世界の面影を残す祠だった。

「ここは……」

祠の中には小さな水の神像が祭られており、その前に一枚の紙が置かれていた。

「璃霞へ。たとえ離れていても、俺はいつもそばにいる。信じるんだ。お前の未来を」

璃霞は胸を熱くし、そっとその紙を手に取った。

「ありがとう、燐。わたしも……ずっとあなたを信じてる」

その瞬間、風がそよぎ、木々の葉が優しく揺れた。

璃霞は微笑み、祠の前で深く一礼した。


夕暮れ。空は紅に染まり、陽が静かに湖の水面へと沈もうとしていた。

璃霞はひとり、かつて燐と訪れた湖畔の神域に立っていた。
水面は風に揺れ、柔らかな光がその波間に踊る。
ここは、二人が初めて心を重ね、初めて名前を呼び合った場所。

彼がいない今でも、すべてが色濃く残っていた。
風の匂いも、水のささやきも、木々の葉音も。
まるで燐がすぐ隣に立っているような錯覚すら覚える。

璃霞は湖のほとりに膝をつき、そっと指先を水に触れた。
冷たく澄んだ水が、掌を優しく包み込む。

「燐……」

名前を呼ぶと、涙が自然とこぼれ落ちる。けれど、今のそれは哀しみではなかった。

「あの日……あなたが私を現実に戻してくれたとき、泣き叫ぶ私に、何も言わず、ただ静かに首を振ったよね……」

水面に映るのは、少し大人びた自分の顔。
この現実世界で、璃霞はたしかに生きている。

「あなたの願い、今ならわかる。私に生きてほしいって、本当にそれだけだったんだね……」

風がそよぎ、白銀の髪をなびかせる。
璃霞は立ち上がり、ゆっくりと両手を胸の前に重ねた。

「だけど、燐……私は忘れない。あなたを。あの日々を。あなたと交わした、たったひとつの契りを」

湖の中央で、水がふわりと光をまとった。
その光は細く、まるで誰かの魂の欠片のように、璃霞の方へ流れてくる。

涙が再び頬を伝う。
だけど今度は、その涙を璃霞は拭わなかった。
それは、悲しみを超えた愛の証だから。

「私、歩いていくよ。あなたの願いを抱いて。だけど……いつかまた、どこかで会えたら⋯⋯そのときは⋯⋯ね⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯」

そのとき。
風が止まり、湖の水面がふっと静まった。

そして一瞬彼女の目に、湖面に映る燐の姿があった。
笑っていた。やさしく、どこまでも穏やかに。

「……燐……?」

璃霞が声をかけた瞬間、その幻はゆっくりと風と共に溶けていった。

残されたのは、やさしい空気と、彼の面影だけ。
でもそれだけでよかった。

璃霞はまっすぐに前を向き、湖の方へ小さく頭を下げた。

「大好きだったよ……そして、今もずっと。ありがとう」

彼女の声は風に乗り、静かに空へ舞っていった。

やがて太陽は完全に沈み、湖は星を映し始める。
璃霞は振り返り、ひとつ息をついた。

「さあ……帰ろう。わたしの世界へ」

歩き出す背中は、もう迷っていなかった。

彼のいない世界でも、彼の愛は生きている。
だから、璃霞は生きていくそう、笑って、生きていく。

湖面には、もう何も映っていなかった。
それでも璃霞は微笑み、そっと目を閉じる。

誰にも見えない空の向こうで、きっと彼は⋯⋯微笑んでいる。
それだけで、もう十分だった。

「燐、ずっと……ありがとう」

涙が頬をつたう中で、璃霞はようやく、心から微笑むことができた。