夜叉様と霞姫の契り

夜明けの霧が薄れ、日が昇るにつれ、璃霞たちは深山の谷へと差しかかっていた。

道なき道。足元は湿り、細い根が地面を縫い、獣道のような細い通路が続く。
だが、ここはもう、人の住む領域ではなかった。

燐が進みながら、低く囁いた。
「この先が霊脈の狭間⋯⋯月喰ノ遺跡の最深部に続く入口だ」

璃霞は頷き、少し息を整えた。

後ろには、残響として現れた影霞の少女。
無名の彼女は、まるで道標のように無言で歩を合わせていた。

「霊脈の狭間……本当に存在していたんだね」

璃霞が小さく呟くと、燐は微かに笑う。

「俺たち夜叉の間では、伝承のひとつとして語られていた。だが、そこが霞姫の眠る核であることは、今まで誰も知らなかった」

森の空気が変わる。急に冷たい。温度が、肌で分かるほどに一段階落ちた。
木々の葉が震え、周囲の音が消える。鳥の声すら、届かない。

その瞬間だった。

「……おい、止まれ」

燐が前方に手を伸ばした。

見上げると、そこにはまるで空間が歪んだような裂け目があった。
木々の間に走る亀裂。光が吸い込まれ、空気が捻じれる。

「これが……霊脈の門?」

璃霞は剣に手をかけながら、前へと踏み出す。
だがその瞬間、強烈な気が襲いかかってきた。

空気が裂けた。

「来たか……!」

森の奥から、巨大な気配が現れる。
黒い仮面を被った男⋯⋯いや、妖か。

仮面の中央には、砕けた月の紋章。
両肩に羽のような布をたなびかせ、両手には、炎と霜の刃を握っていた。

「扉の姫……霊脈に踏み入る覚悟はあるか?」

仮面の男の声は重く、空気を押し潰すような圧力があった。

燐が前に出る。
「縛ノ者か……。やはり、神鎖が動いたな」

「……縛ノ者?」

璃霞は燐を見た。

「神鎖の使い。霞姫の血を試す存在……遺跡の守り人だ。だが、本質は違う。選別者だ」
「選別……」

仮面の男は一歩、地を踏みしめた。大地が鳴る。
「霞姫は、千年に一度、黄泉と現世を繋ぐ存在。その器としての価値を試す。それが我が使命」

璃霞は剣を抜き、構える。
「試すなら、真正面から。わたしはもう、逃げない」

仮面の男が動いた。
瞬間、風が爆ぜ、木が裂け、雷が走る。
璃霞は気を集め、霞の刃を振るい応じた。

一撃。
火と氷が交わり、空間が捩れる。

「く……っ!!」

燐が援護に入る。夜叉の双刃が青光を放ち、仮面の男の斬撃を弾く。
「璃霞、集中を。霊脈の気と調和しろ!」

「うん……!」

璃霞は目を閉じ、一瞬の静寂に身を沈める。

⋯⋯聞こえた。
風の音。葉の震え。遠くから響く誰かの声。
⋯⋯それは、影霞の囁き。かつて失った記憶の反響。

「わたしを忘れないで……」

「あなたの中で生きてる……」

次の瞬間、璃霞の周囲に蒼白い光が集まった。
彼女の髪がふわりと宙に舞い、瞳に光が宿る。

「霊脈……が、応えてる……」

霞が実体を帯び、刃を超えて“扉のかたち”を成す。
その姿に、仮面の男が一瞬息を呑む。

「……扉が、目覚める……!」

璃霞の刃が閃いた。
風が旋回し、霞が形を成し、霊脈の気を纏って仮面の男へと突き刺さる。

⋯⋯斬撃。

刃は仮面を砕き、男の胸を裂いた。
仮面の奥から現れたのは、かつて“夜叉と霞姫”に仕えていた者の顔だった。

「あなたは……!」

璃霞が声を上げる。

「……わたしは、霞姫を守る役目だけを残された者。名も、肉体も、魂も捧げて、この地に封じられた」

仮面の男は血を吐き、膝をつく。

「……だが、見届けた。おまえは、本物の扉だ。進め、黄泉霞。おまえの道を」

彼の身体が霧となり、風へと溶けた。
その瞬間、霊脈の裂け目が音を立てて開いた。

白い光が地面から立ち昇り、空間に扉が現れる。
そこには、古の文字が淡く刻まれていた。

『契りの扉、此処に開かれる』

璃霞は剣を収め、ゆっくりと扉の前に立つ。
後ろから、燐が歩み寄る。
無言で手を差し出し、彼女の手を握った。

「ここからが、核心だ」

「うん……でも、わたしは、もう揺るがない」

璃霞は静かに答えた。

「影霞の残響」
が一歩、二人の背後から歩み出た。
その瞳に、淡く宿る光。

「私は、この場所を知っている……ここが、本当の始まりの地」

璃霞は扉の中心へ、足を進める。
扉の向こうに待つもの⋯⋯それは、真の霞姫と初代の契り、そして、愛と自由、どちらかを選ばねばならぬ最後の試練。

黄泉霞としての宿命が、いま完全に目覚めようとしていた。

霊脈の扉を越えた先は、まるで異界だった。
風はもう空気の流れではなく、魂のさざめきのように揺らぎ、空間は光と影の織りなす幾何学模様となっていた。

璃霞の青い瞳が、白銀の髪が光を受けて輝く。
燐は横に控えながらも緊張感を隠せず、時折後ろを振り返る。

「ここから先は、夜叉の王である私も踏み入れたことがない場所だ」

彼の言葉に、璃霞は小さく息を吐いた。

影霞が、薄い霧のように彼女の周囲を漂いながら語る。

「ここは神々の結界……神鎖が張り巡らされた世界の核。かつて夜叉と霞姫の間に結ばれた最古の契りが眠る地だ」

璃霞は立ち止まり、目を閉じた。
最古の契りとは何か。なぜ今まで誰もそれに触れられなかったのか。

彼女の胸の内に、確かな疑問とともに新たな使命感が芽生えた。

「ここで、真実に向き合う覚悟はあるか?」

燐の問いに、璃霞は強く頷く。

扉の先は、巨大な円環の空間だった。
床も壁も、宙に浮かぶ無数の鎖が絡み合い、まるで生きているかのようにうねっている。

その中心に鎮座するのは、一対の巨大な輪⋯⋯神鎖の輪であった。

輪はゆっくりと回転しながら、微かに光を放つ。
その中心には、小さな光の玉が浮かび、霞のように揺らめいていた。

「これが……契りの核……」

璃霞は息をのむ。

燐が言葉を続ける。

「この核に手を触れ、契りの真髄を受け入れなければ、おまえは霞姫として目覚めきれない」

璃霞は手を伸ばし、光の玉に触れた。
触れた瞬間、世界が激しく揺れ、彼女の意識は霧のように宙を舞った。

視界が歪み、過去と未来が同時に押し寄せる。
初代霞姫の姿、夜叉たちの戦い、愛と裏切りの断片。

彼女の心は大きな痛みに襲われ、涙が溢れた。

「なぜ……私は、こんなにも苦しいの……?」

影霞の囁きが耳元に響く。
「それは、契りの代償だ。自由と愛を掴むために、全ての痛みと向き合わねばならない」

璃霞は心を決める。
「わたしは……逃げない。真実を知り、受け入れてみせる」

光の玉が爆ぜ、眩い光が空間を満たした。
その中で、彼女の身体は淡く輝き、魂が何層にも重なってゆくのを感じた。

やがて、意識は戻り、璃霞は膝をついた。

「これが、契りの力……」

燐が静かに微笑み、彼女の肩に手を置く。
「もう、霞姫としての力は誰にも止められない」

だが、その時。空間の奥から、重々しい気配が近づいてきた。
大地が震え、天が唸りをあげる。

「見届けよ、契りの真実を……」

黒衣をまとった神官の集団が姿を現した。
彼らは神々の代理人。神鎖の守護者たちであり、契りに異を唱える者たち。

「霞姫の血を汚す者に未来はない」
「夜叉の王とともに、契りを断つ」

戦いは避けられなかった。

璃霞は立ち上がり、剣を握りしめる。
燐が夜叉の双刃を抜き、影霞は霞の刃を顕現させた。

三人が一体となり、神官たちとの戦いに挑む。

空間は戦闘の渦に巻き込まれ、鎖がうねり、光と闇が交錯した。
璃霞の剣技は研ぎ澄まされ、霊脈の力を纏った一撃一撃が敵を打ち倒す。

だが、数は多い。神官たちの儀式的な攻撃も苛烈だ。
燐の体が次第に疲弊し、影霞も消耗していく。

その時、璃霞の中で何かが覚醒した。
彼女の瞳が深い青から、金色へと変わった。

「これが……真の霞姫の力」

体内からあふれる力は、まるで風の神そのもの。
璃霞は剣を空に掲げると、周囲に激しい風の渦を生み出した。

神官たちは一瞬たじろぎ、やがて散り散りに逃げ去った。

戦いは終わったが、疲労は全身に重くのしかかる。

燐が璃霞を支えながら言った。
「おまえはただの霞姫ではない。神々さえも恐れる黄泉霞の契りを宿す存在だ」

璃霞は静かに頷く。
「これからが、本当の戦いの始まり……」

黄泉の世界と現世が揺れ動き、運命が彼女を新たな試練へと誘っていた。


空間に響いた神官たちの声が消え、静寂が戻ると、璃霞はふと気づいた。
神鎖の輪の中心に残された光の玉が、微かに脈打っているように見えた。

その光は、まるで彼女の心臓の鼓動と呼応するかのように、ゆっくりと膨らみ、そして収縮を繰り返していた。

「これが……わたしの中にあるもの?」璃霞は呟く。

燐が静かに近づき、その視線を光の玉に落とした。
「そうだ。おまえの魂の核がここに宿っている」

影霞は霧のように揺れながら璃霞の耳元で囁いた。
「“魂の核”は、霞姫の力の源。これが壊れれば、おまえの存在も危うくなる」

璃霞は自分の胸に手を当てる。
確かにそこには、温かくも強い“何か”が宿っている気配があった。

「この力を守り抜かなければ……」

そう決意したそのとき、再び空間が震えた。
だが今回は、怒りや戦いの気配ではなかった。

優しくも冷たい風が吹き、神鎖の輪がゆっくりと開き始めた。
開いた先には、一筋の光の道が続いている。

「これが……神鎖の扉の先か」

璃霞は目を見開いた。

燐は言った。

「ここを越えれば、最古の契りの真実が待つ。だが、覚悟しておけ。そこは愛と自由、両方をかけた最後の試練の地だ」

璃霞は剣を握り直し、静かに頷く。

「わたしは、もう迷わない。どんな試練でも乗り越えてみせる」

影霞が微笑んだ。

「なら、進もう。あなたの魂が輝く道へ」

三人は光の道へと足を踏み入れた。

道は続き、やがて広大な庭園へと辿り着いた。
そこは、異界とは思えないほどに美しく、桜の花びらが舞い散っていた。

「ここは……」

璃霞は息を呑む。

燐が答えた。

「契りの庭。霞姫と夜叉が初めて結ばれた場所。ここで、契りの起源を知ることになる」

庭園の中央には古びた石碑が立ち、そこには古の文字が刻まれていた。

璃霞が文字を読み上げる。

「愛は自由の誓い、束縛ではなく光なり」

その言葉が胸に響く。

突然、庭園の空気が変わり、まばゆい光の中から一人の女性が現れた。
その女性はまさに霞のように儚く、美しく輝いていた。

「私は初代霞姫、あなたの前に現れしもの」

璃霞は目を見開き、言葉を探した。

「あなたが……?」

女性は微笑みながら頷いた。

「私は霞姫の真実と契りの秘密を伝えるためにここにいる」

続く言葉は重く、璃霞の心に深く突き刺さった。

「契りとは、決して一方的なものではない。夜叉と霞姫が互いに選び合い、支え合い、魂を繋ぐことだ」

璃霞は胸の中で燐の顔を思い浮かべる。

「それが、わたしたちの運命……?」

「そうだ」

女性は優しく答えた。
「だが、真の試練はまだ終わっていない。愛と自由を選び、未来を切り拓く勇気が必要だ」

璃霞は強く息を吐き、決意を新たにした。

「わたしは……愛も自由も、どちらも掴む」

女性の姿はゆっくりと消え、庭園には穏やかな風が吹き抜けた。

燐が微笑み、璃霞の手を握った。

「おまえの旅は、ここからが本当の始まりだ」


霞が静かに舞う庭園の奥で、璃霞たちは石碑の言葉を胸に、しばしの沈黙に包まれていた。
燐の指先が、そっと璃霞の手の甲をなぞる。彼の目は静かで、それでいて何かを隠しているように見えた。

「燐……」

璃霞は言葉を探すように、彼の顔を見つめる。

「さっき、あなたがここからが本当の始まりだって言った。その意味、ちゃんと教えてほしい」

燐はしばらく答えなかった。
やがて彼は視線を逸らし、遠くの霞の向こうにある小さな社を見つめる。

「俺には、まだおまえに話していないことがある。話すべき時が来るまで、黙っていた。それは……俺自身の契りのことだ」

璃霞の眉がわずかに動いた。

「あなたにも、契りが……?」

燐はゆっくりと頷く。

「夜叉の王に課せられる封鎖の契り。それは、霞姫の血に触れた者が二度と人の世に戻れないように、霊脈と魂を縛り合う誓いだ」

彼の目が、璃霞の瞳と重なる。

「つまり、俺が本当におまえと契りを交わせば、俺の存在はこの世界の境界に囚われる。おまえを守る代償として、俺は……二度と時の流れを共にできなくなる」

言葉が重く、璃霞の胸に沈んだ。
これまで幾度となく命を賭けて守ってくれた燐が、自らもまた契りに縛られていたという事実。

「……そんなの、ずるいよ」

璃霞の声が震える。

「わたしは、やっとあなたと並んで歩けるようになったのに……今度は、あなたが犠牲になるなんて……」

燐は微かに微笑んだ。

「おまえを選んだ時から、俺はもう、自由じゃなかった。だけど、それでもいいと思った。いや、思えてしまったんだ。おまえに会った瞬間に」

璃霞はその言葉に答えず、そっと彼の手を握った。
その手は、いつもより少しだけ冷たかった。

だが、次の瞬間⋯⋯空気が急変した。

庭園の地が震え、光の道が黒く染まる。
影霞が霧の中で身を震わせた。

「来る……神鎖の守護、契りの審判者」

地の裂け目から現れたのは、白装束を纏った異形の存在。
顔は仮面に覆われ、六つの腕を持ち、それぞれに光と闇の刃を握っていた。

「汝ら、禁忌の契りを交わさんとする者よ。試練の扉を越える覚悟はあるか」

その声は人のものではなかった。低く、震える音のような概念が直接脳に響く。

燐が前に出ようとするが、璃霞が彼の腕を掴んで止めた。

「これは、わたしの戦い。わたし自身が、契りと向き合う」

影霞がそっと彼女の背中に手を添え、力を流し込む。

「契りの審判者は、霞姫の心の奥に眠る真の願いを暴く。決して嘘はつけない。偽りがあれば、即座に命を断たれる」

璃霞は剣を抜き、まっすぐに六腕の異形へと歩み出る。

「私は璃霞。霞姫の血を引く者として、すべての運命を受け入れる」

空が割れ、剣が舞う。
六つの刃が一斉に璃霞へと降り注ぎ、空間そのものが砕けるかのような衝撃が走った。

だが璃霞は、恐れなかった。

風が舞い、霞が渦を巻き、彼女の剣にすべての想いが宿る。
愛も、痛みも、願いも⋯⋯そのすべてを剣に乗せて、斬る。

「契りは、束縛なんかじゃない。これは……わたしの意志!」

⋯⋯一閃。

六つの腕のうち、二本が吹き飛び、仮面に亀裂が走る。
審判者は呻き声をあげながら後退し、やがて消え去った。

静けさが戻る。
ただし、それはただの終わりではなかった。

庭園の奥、石碑の裏から新たな光の道が開かれる。
その道の先にあるのは、最終試練⋯⋯「魂結びの間」。

燐が、璃霞の横に並ぶ。

「ここが……最後の扉だ」

璃霞は彼を見つめ、静かに頷いた。

「一緒に、最後まで行こう。あなたとなら、どこへでも」

そして、彼女たちは歩き出す。
神々すらも恐れる契りの真実へと、まっすぐに。


空に浮かぶ霞がゆっくりと割れ、神鎖の庭園の奥から現れた光の門が開かれる。


その奥からは、静寂すらも凍るような空気が流れ出していた。
燐が璃霞の手を取る。彼の瞳は、どこまでも深く澄んでいた。

「ここが、魂結びの間⋯⋯契りの最終試練が眠る場所だ」

璃霞は小さく頷いた。
彼女の中には、もう迷いはなかった。
幾度の戦いを越え、霊脈の深奥に触れ、神々の審判を受け、ようやくたどり着いたこの扉。

その先で、すべての真実と、決断が待っている。

二人が扉をくぐると、そこには時間が止まったような白の空間が広がっていた。

風もなければ音もない。だが、不思議と恐ろしさはない。

それはまるで、生まれる前の世界⋯⋯始まりの無そのもののようだった。

「……ここ、何もないの?」

璃霞が声を落とす。

影霞がゆらりと現れ、静かに答える。

「ここは、魂の記憶だけが存在できる場所。契りを交わすということは、互いの魂を紐づけ、過去も未来も共に背負うこと。誓いの重さは、命よりも深い」

燐はうなずいた。

「この地で、我々は魂結びの儀を交わす。その誓いが真であれば、互いは永遠に繋がれる」

「……偽りがあれば?」

璃霞が問いかける。

影霞は、一拍おいて言った。

「誓いは砕け、魂は消滅する。どちらか一方でも、本心を隠せば、すべてが終わる」

璃霞の喉が鳴る。
だがその瞳に宿る決意は、これまでにないほどに強かった。

「わたしは……すべてを晒す。嘘も偽りもない。燐、あなたに、全部見せる」

燐はゆっくりと手を差し出す。

「では、始めよう。魂結びの儀式を」

二人の手が触れ合った瞬間、白の空間が金色に染まり始めた。
空がゆっくりと回転し、足元に無数の記憶の霊片が浮かび上がる。
それは璃霞の過去⋯⋯そして燐の過去。

母の死、霞の里の崩壊、ひとりきりで過ごした冬の夜、
誰にも愛されず、名前を呼ばれることのなかった少女の記憶があふれ出す。

燐の記憶もまた、次々と開かれる。
王となる前の孤独、戦い、裏切り、そして。

「……あれは……」

璃霞の目に映ったのは、燐が幼い少女を抱きかかえている映像だった。

その少女の髪は⋯⋯白。瞳は⋯⋯蒼だった。

「……わたし?」

燐は静かに頷いた。

「おまえを最初に見つけたのは、俺だ。霞の里が滅びたあと、唯一生き残ったおまえを……俺が霊界へ連れ帰った」

「じゃあ、どうして……どうして今まで何も……」

「おまえを救いたかった。ただそれだけだった。だが、王の立場として霞姫として育てることは許されなかった。だから……影霞に預け、遠くから見守るしかなかったんだ」

璃霞の目に涙が滲んだ。

「わたしは……ずっと独りだと思ってた。でも、あなたはずっと……」

霊片がさらに砕け、今度は璃霞の心が映し出される。

「最初は、あなたが怖かった。何を考えてるのかわからなくて、冷たくて、怖くて……でも、心が震えるほど惹かれた」

「燐、あなたと過ごす時間のすべてが、わたしにとって初めてだったの。誰かを信じていいって、思えたのも……」

燐の目も、初めて深く濡れていた。

「俺も同じだ。おまえが微笑むだけで、生きる意味を知った」

二人の心が完全に重なったとき、空間の中心に契りの印が浮かび上がる。
光と風が渦を巻き、魂が共鳴する音が空に響いた。

影霞の声が、静かに告げた。

「魂は結ばれた。おまえたちの契りは、真なるものと認められた」

次の瞬間、空間が震える。
天が裂け、神々の気配が降りてくる。

だが、その気配に恐れはなかった。
それは祝福。誓いを果たした者に贈られる、遥かなる自由の風。

璃霞の身体から淡い光が放たれ、背中に透明な紋様が浮かび上がる。
それは風神の証霞姫が契りを交わし、真に覚醒した証だった。

燐にもまた、夜叉の刻印が新たに変化する。
それは王の鎖の解放。千年の封印が、今、彼の魂から解き放たれた。

「璃霞……」

燐は彼女の手を握る。

「ようやく……本当に隣にいられる」

「うん……」

璃霞は頷き、涙を流しながら笑った。

「わたし、やっと生きてるって感じる」

二人が交わした契りは、世界を揺るがす力を持つ。
だが、それ以上に。
彼ら自身が求め合い、認め合い、結ばれたことにこそ、真の価値があった。


契りの儀が終わった瞬間、世界が静まり返った。
風も止まり、霞も消え、神鎖の庭は光を失ったように暗く沈んでいた。

「……変だわ」

璃霞が囁く。

燐も眉を寄せ、辺りを見渡す。

「空気が……違う。これは、ただの沈黙じゃない。何かが押し寄せている」

突如、地鳴りが起こる。
天空が歪み、白く輝いていた空が漆黒の闇へと反転した。

「なに……これ……」

璃霞が息を呑む。

そのとき、庭の中央、契りの光の跡地に裂け目が生まれた。
空間が破れ、どこにも属さない無が溢れ出す。

そして、そこから姿を現したのは。

影も光も持たない、形のない虚の神。

輪郭すら曖昧なその存在は、ただ在るだけで空間を食らい、存在を溶かす。
言葉はない。意志も、顔もない。ただ、虚無そのものが命を持ったかのような存在だった。

影霞が、見るも凍るような表情で声を絞り出す。

「まさか……あれは、虚神・ツクヨミ……」

燐が一歩前に出る。

「封じられしはずの、第三の神。契りの力が……封印を解いたのか」

「待って、それって……」

璃霞が振り返る。

影霞は頷く。

「神鎖は、霞姫と夜叉の契りによって霊脈を守っていた。だが、それを解放し、愛と自由を得た代わりに、虚の存在を招いてしまったのだ」

ツクヨミは音もなく浮遊しながら、空を切り裂き始める。
庭が崩れ、霞の山々が虚に呑まれていく。

璃霞は剣を抜き、燐の前に立った。

「これは、わたしが招いたこと。だから、わたしが止める」

燐が手を伸ばそうとするが、璃霞はそれを止めるように微笑んだ。

「でも、独りじゃない。あなたと結んだこの魂がある限り、わたしは折れない」

燐も微笑み返す。

「なら、共に立とう。この虚に、我らの意思を示すために」

その瞬間、二人の背後から風が立った。

風が巻き起こり、霞の精霊たちが現れる。
鳥のような羽を持つ精霊、龍のようにたゆたう水の精、そして炎の刃を纏う武士の霊。

「霞姫の覚醒を見届けし者として、我らも共にあろう」

精霊たちが璃霞の背に立ち並ぶ。

燐もまた、夜叉の眷属たちを召喚する。

青い角を持つ夜叉兵、雷を纏う弓使い、影の中から這い出る護衛たち。

「夜叉王の誓いに従い、命を賭して主を守る!」

そして戦いは、始まった。

空を裂くような衝撃音。
ツクヨミは意志もなく、それでいて圧倒的な力で霊界そのものを削り始める。

璃霞が霊剣を掲げ、空に跳んだ。

「ツクヨミ……あなたの虚に、わたしの存在を刻みつける!」

剣が振るわれる。風が応える。
風と霞と霊脈の力が剣に集い、光の波動が虚神へと放たれる。

だが、ツクヨミは揺るがなかった。

その身体は斬撃を吸収し、逆に反射するように虚の波を吐き出した。
空間そのものが歪み、璃霞は霊体を強く削られる。

「ぐっ……!」

彼女が膝をつくと、燐がすぐに駆け寄り、影霞が防壁を張った。

「虚は、存在の不確かさに反応する。迷いがあれば呑まれる。おまえの魂の芯を、もっと強く抱きしめろ!」

影霞の叫びが響く。

璃霞は自分の胸に手を当てた。
心が揺れている。
愛と自由を得たはずなのに、今、その代償を前に、恐れている。

「……違う」

璃霞は目を閉じ、深く息を吸う。

「わたしは恐れてなんかいない。もう、誰にも運命を決めさせない。これは、わたしの道」

その瞬間、霊剣が輝きを取り戻した。
剣の中に、彼女の名が刻まれる。

璃霞⋯⋯風と水をつなぐ者。霞姫としてだけではなく、璃霞という一人の魂として、今、存在を刻む。

彼女が再び立ち上がり、剣を掲げると、霊界が揺れた。

燐がその背に立つ。

「行け、璃霞。おまえの風が、世界を変える」

彼女は力強く頷き、最後の一歩を踏み出した。

「ツクヨミ。あなたを否定するためじゃない。わたしは、わたしを証明するために斬る!」

剣が振るわれる。
世界に風が吹いた。霞が舞い、光が爆ぜる。

光がすべてを包み込み、空間が白く染まる。

そして……。

……⋯⋯

……⋯⋯

静けさが戻ったとき、そこには。
璃霞と燐が、手を取り合って立っていた。

ツクヨミは消えていた。
虚は霧散し、霊界の空は、元の青さを取り戻していた。

影霞がそっと微笑む。

「おまえは……本当に変えたんだ。この世界を。自分の力で」

璃霞は涙をこぼしながら笑った。

「ありがとう、みんな……やっと、やっと終わった」

燐が彼女の肩を抱き寄せる。

「いや。これは終わりじゃない。おまえと歩く、最初の一歩だ」

二人の間に流れる風は、もう何も遮るものがなかった。

夜は深く、里の外れにある古い参道に霧が低く垂れこめていた。

月は雲に隠れ、風は冷たく、木の葉がかすかに擦れ合うだけの静けさ。だが、その静けさは虚ろな静寂で、何かが待ち受けている予感に満ちていた。

燐と璃霞は並んで歩を進めた。二人の足音だけが、白い霧の中に規則正しく吸い込まれてゆく。

燐の背には、戦の痕がまだ残るが、その目は確かで、璃霞の横顔をちらと見るたびに柔らかな光を宿していた。

「ここで待つ必要はなかったかもしれない」

燐が囁く。
「いいの。ここで⋯⋯全部、終わらせる」

璃霞は短く言った。胸の奥が静かに燃えている。扉を開き、幾度もの喪失と再生を経た彼女の決意は、もう揺らがない。

霧の向こう、黒い影が足早に現れた。凛花だ。以前の戦いで倒れたはずの彼女が、あの冷たい瞳のまま、凛々しく立っている。だがその姿には、以前にはなかった禍々しい朱の紋が刻まれていた。陰陽の印が、彼女の肌を這うように光る。

「ようやく出てきたか、璃霞」凛花の声は風のように冷たい。口元に微笑が走るが、それは嘲りにも似ていた。
「お前が……どうして……」璃霞は言葉を詰まらせた。記憶の断片が、戦いの夜を呼び戻す。

「貴女は強くなった。だが、強さとはいつだって代償を伴う」凛花は片手を掲げ、黒い紙符を数枚、宙に舞わせた。符は風に裂け、縺れるように燃え上がる。
「貴女が愛を選ぶなら、私はそれを裁く者となる。愛も自由も、結局は人の足を引っ張る鎖となるだけだ——私はそれを終わらせる」

燐が前に出る。夜叉の気配が濃くなり、周囲の影がぬらりと揺れる。
「凛花。我らはお前を許すためにここにいるわけではない。止める」

凛花は笑った。笑い声は冷えていた。
「止める? 私を止められるのは、正義でも神でもない。結局は力。貴女の手で、その“愛”がどれほどのものか試すがいい」

その瞬間、霧がうねり、風が凛と裂ける。凛花の符が炸裂し、黒い渦が空間を噛み砕く。燐が影の刃を振るい、渦を割る。璃霞が霞の剣を抜き、青白い刃で斬りこむ。だが、凛花は動じず、瘴気の術を次々と繰り出してくる。

戦いは一瞬で激化した。

凛花の術は陰陽の深奥を穿ち、見る者の心を揺さぶる。過去の傷、失った者たちの幻が璃霞の視界を乱す。幼い日の廊下、母の叫び、閉ざされた屋敷の暗がり⋯⋯痛みが波となり、刃の先にまとわりつく。

「見ないで⋯⋯!」

璃霞が叫ぶ。だが幻は消えない。心の襞を突く度に力を削ぐ。凛花の術は、ただ斬るだけでは届かぬ所を攻める。情なのか弱さなのか、そこを突いてくる。

燐が叫ぶ。

「璃霞、俺の影を受けろ!」

その瞬間、燐の闇が璃霞を覆い、凛花の術を一時的に遮る。

だがそれは時間稼ぎに過ぎない。凛花の瞳が紅く燃え、彼女は深く息を吸った。

「いいわね。では、あなたの愛を⋯⋯証明してもらう」

凛花の声に、冷たい決意が宿る。彼女が両手を広げると、天から黒い雨が降り注いだ。紙符、墨、そして影の欠片⋯⋯それらは刃となり、容赦なく燐と璃霞に襲いかかる。

霧の刃をかいくぐり、璃霞は前へと進む。胸の中で燐の鼓動が、確かなリズムで響いた。彼の温もり、戦いの数だけ積み重ねた日々。守られ、守り返したいという思いが彼女の中で燃える。

刹那、璃霞は叫んだ。低く、震えながらも断固として研ぎ澄まされた声で。

「覚悟しなさい!今度こそケリを付けてやる!!」

言葉が霧を裂いた。その言葉には、過去の怯えも、未来への不安も混ざっていなかった。ただ一つ、燐と交わした誓いと、己の決意だけが残っていた。

霞の剣が光り、風が呼応する。璃霞の体から放たれたのは、これまで彼女が学んだすべての流れと祝福の力⋯⋯風と水と記憶を一つに束ねた決別の一閃だった。刃は一度も迷わず、凛花に向けて跳んだ。

凛花の目が一瞬驚きに揺れた。術を解く隙。燐はその瞬間を逃さず、空間の裂け目から闇の斬撃を放った。

そして、二重の刃が凛花を穿つ。

一閃は心臓を、もう一閃は術の源たる符帯を断った。

静寂が、凛花を包む。術の炎が薄れ、彼女の足元から黒い符が燻りながら散ってゆく。凛花は血を零し、膝をついた。そこにあった冷笑は消え、代わりに透徹した哀しみが浮かぶ。

「あなたには……わからないのね」

凛花は低く呟く。

「……愛は、時に人を弱らせる。だが、同時に、人を救うのよ」

その顔に薄く微笑が戻る。最後の力で、彼女は璃霞を見た。

燐が近づき、凛花の胸元を見下ろすと、そこにまだ小さな符が残っていた。
瘴気の中に埋もれていた符。
それを指先でかき取ると、凛花の表情がゆっくりと緩む。


長い戦いの疲労と、己の選択が生んだ虚しさが静かに顔をなぞった。

凛花はゆっくりと頭を垂れた。最後に小さく、だけどはっきりとした声で言った。

「……ありがとう。貴女たちに、私の怒りと痛みを止めてもらえて……」

その瞬間、凛花の胸にあった火が、静かに消えた。彼女の身体は崩れるようにその場に沈む。符の残骸が風に舞い、灰になって消えていく。

璃霞は剣を地に突き、呼吸を整える。体の奥で血が熱を帯び、だが心には静かな凪が訪れる。勝利の歓喜でも復讐の快楽でもない。長く、厳しい旅の果てに手にした「解放」の感触。

燐が静かに言った。

「終わった。お前が決めたことは、間違ってなかった」

彼の目は濡れていたが、それを隠そうとはしない。

璃霞は俯き、凛花の頬に手を触れる。冷たい頬。かつて敵だった者の最後の表情は、どこか安息を含んでいた。

「さようなら、凛花さん」

璃霞の声は震えなかった。そこには哀しみと慈悲、そして決意が混ざっていた。

霧が尚も流れる。夜はゆっくりと息を取り戻し、遠くで鳥が鳴く。二人はしばらく立ち尽くし、その場の静けさと向き合った。
殺すという行為は簡単ではない。だが、時にはそれが、さらなる命を守るための断ち切りになる。璃霞はその重みを胸に刻み、燐の手を強く握り返した。

「もう行こう」

燐が囁く。璃霞はゆっくり頷き、剣を収めた。

二人は互いに支え合いながら、霧の参道を歩き出す。

背後に残るものは灰と静寂だが、前には新しい朝が少しずつ顔を出していた。