夜明けとともに、璃霞と燐は霧の都・蒼花を後にした。
その背に、まだ完全には癒えぬ街の鼓動が揺れていたが、誰もが確かに“変化”を感じ取っていた。
璃霞の背には、双刃の剣⋯⋯黄泉霞の双刃が背負われていた。
蒼と黒、そして霞と灰の記憶が織りなすその刀は、まるで選ばれた者の証そのものだった。
「次はどこへ向かうの?」
璃霞が歩きながら尋ねる。
「北東。神座の断章が眠るとされる廃都。久遠郷だ。そこには、千年前に神々と人間と妖が最後に交わった約定の記録が残っている」
「……神座の、断章?」
燐は頷く。
「神座は理の記憶を宿す場所だが、すべてが繋がっているわけじゃない。断片化されたその一部は、選ばれた者だけが辿ることを許される」
「わたしが……その選ばれた者、ってこと?」
「そう。黄泉霞の双刃を受け取った今、お前は理の継承者となった。だがそれは、新たな争いの引き金にもなる」
璃霞の背筋がすっと冷えた。
「他にも……扉の使い手が?」
燐は答えなかった。
それがすでに答えだった。
璃霞は拳を握る。
(進む道は、決して平穏ではない。それでも⋯⋯)
「行こう。久遠郷へ」
そして旅は始まった。
数日後、彼らは天笹の峡谷へと差し掛かっていた。
久遠郷へ向かう唯一の道であり、封印された神代の痕跡が眠る場所。
その峡谷の底。湿った空気の中に、古の祠が口を開けていた。
「……ここだ。第一の記録が眠る場所」
燐がつぶやく。
だが祠に近づくと、霧とは異なる気配があった。
「これは……瘴気?」
「いいや、これは……還り霧だ」
燐が低く言った。
「神座の断章に触れた者が、神に還ることを拒んだとき、その記憶は還り霧として残る。誰かがここで、抗ったんだ⋯⋯神の理に」
璃霞は思わず足を止めた。
その霧の奥から、足音が聞こえた。
カツ、カツ⋯⋯。
現れたのは、一人の男だった。
漆黒の衣。顔の半分を仮面で覆い、片目だけが見える。
その目は、琥珀のような深い金。
「久しいな、燐」
「……やはり来たか。黄泉霞の裏系譜⋯⋯幽(かすか)。」
男は微笑むように唇の端を吊り上げた。
「選ばれたな、霞姫。今代の扉」
璃霞は双刃に手をかける。
「あなたは……何者?」
「我は、かつて神に抗い、神の理を拒絶した失われた扉。黄泉霞の裏系譜にして、神座に近づきすぎた記録の破損者」
燐が低く言った。
「幽は、神座の情報を盗み、自ら断章を喰らった。彼はもう、理の外にある存在。だがまだ選びたがっている」
「選びたがっている……?」
幽の目が、璃霞に突き刺さる。
「そう。お前はまだ正道にいる。だが、いずれ知る。愛だけでは守れないものがあることを。優しさだけでは断ち切れない運命があることを」
そして彼は、指を鳴らした。
次の瞬間、峡谷全体が震えた。
大地が裂け、封印されていた石像が動き出す。
それは、神々のかつての影を模した、神影だった。
「試してやろう。お前が扉であるというなら、どのくらいの理を背負えるのか⋯⋯」
璃霞は剣を抜いた。
「来なさい。わたしはもう、逃げない」
そして、再び戦いが始まった。
天笹の峡谷にて、神影の咆哮が轟いた。
地を揺るがし、風を裂くその巨影は、まさしく古の神を象ったもの。
かつて神座に仕え、人の願いを叶えながら、自らの意志を持ち始めて“断たれた神”の残骸。
名を、タギツヒメの神影。
三本の腕、竜のように長い尾、顔を覆う鏡の面。
「これは……記録の再現……」
燐が呟いた。
璃霞の双刃が蒼く光り、神影の殺気に応えるように震える。
「燐様、援護を!」
「いや……これは、お前が向き合うべきだ。扉に試練はつきものだ。俺は⋯⋯見届けよう」
そう言って、燐はその場に残った。
彼の目は険しく、けれどどこか信頼にも似た色が浮かんでいた。
璃霞は息を整え、足を踏み出す。
神影が、動いた。
第一撃⋯⋯天を裂く尾の一閃。
璃霞は跳んだ。
双刃で尾を受け止め、軸をずらして弾き返す。
腕に痛みが走ったが、退かない。
(これは……記憶の重さそのもの……!)
神影の体から立ち上る瘴気は、記憶そのものだった。
祈り、願い、裏切り、失望、憎悪⋯⋯人々が神に託し、そして捨てたあらゆる感情が濃縮されていた。
「なら……切り拓く!」
璃霞が地を蹴る。
第二撃⋯⋯霞刃「氷霞ノ舞」。
双刃の霞が空中に舞い、神影の腕を切り裂く。
だが、その傷はすぐに霧のように再生していく。
「再生……?!」
幽の声が霧の中から響いた。
「そうだ。タギツヒメは祈りの神。人の想いがある限り、再生し続ける。お前にそれを断ち切れるか?」
璃霞は剣を構え直す。
「……想いを、斬り捨てたりしない!わたしは、その願いと向き合う!」
神影が、もう一度吼える。
そして、第三撃⋯⋯天より降る記憶の雨。
それは無数の声だった。
「お願い……助けて……」
「もう嫌だ……」
「誰か……見て……」
「救えなかったの……私が弱かったから……」
その一つひとつが、璃霞の心に刺さる。
まるで、彼女自身の過去。
(お母さん……私が、もっと強ければ……)
(あの子を……置いていかなければ……)
「璃霞!」
燐の声が届いた。
「お前は、過去を断ち切るためにここに来たんじゃない。受け入れて、生きるためだ!」
璃霞は、目を開けた。
涙がこぼれた。
「そうだね……私は……もう、逃げない」
両の手に力を込める。
「霞刃奥義・蒼環ノ結界!!」
刃を交差し、体内の扉の力を開放する。
蒼い環が空間に浮かび、すべての記憶の雨を受け止めた。
祈りも悲しみも、拒絶するのではなく⋯⋯受け止めて、還す。
神影の再生が止まる。
「……っ!」
幽の声が揺れる。
璃霞は、踏み込む。
そして、叫ぶ。
「あなたの祈り、届いてるよ!だから、もう……眠っていい!!」
双刃が蒼く光り、神影の中心、願いの核を貫いた。
爆ぜるように、光が広がる。
神影は、霧とともに崩れ落ちた。
ただ、最後にひとつ、誰かの声が囁いたように響いた。
「ありがとう、霞姫……」
璃霞は、静かに膝をついた。
空には、晴れ間が広がっていた。
幽は、何も言わず、その場から霧のように消えていった。
だが最後に残した言葉があった。
「次は、黄泉霞の記録本体のある場所で会おう。月喰の遺跡でな」
燐が呻くように言った。
「……あそこは、原初の契りが断たれた場所。黄泉霞の始まりにして、すべてが壊れた最初の扉……」
璃霞は、ゆっくりと立ち上がる。
「わたしは、行くよ。そこに、すべての答えがあるなら」
「……覚悟はできてるんだな」
「怖くても、迷っても、わたしはもう、逃げないって決めた。
燐様、一緒に来てくれる?」
燐の唇が、微かに笑んだ。
「当然だ。俺の契りは、お前にある」
そして、二人は歩き出す。
忘れられた神々の記録が眠る、月喰の遺跡へ。
璃霞が真の霞姫へと目覚める、その扉が待つ場所へ。
蒼の夜空に、月が半ば隠れている。
その薄明かりのもと、璃霞と燐は長い旅路を歩んでいた。
彼らの背後には、蒼花、久遠郷、天笹峡谷など、幾重にも越えてきた章の影がある。
「ねえ、燐様」
璃霞がふと思い出すように問いかける。
「月喰ノ遺跡って、何で月を喰らうっていうの?」
燐は少し考え、答えた。
「伝承によれば、月喰は夜を支配し、月の光を喰らう者という。月は夜の光であり、燐夜が夜の理を司る者として、その遺跡は彼の系譜と深く結び付く」
「つまり……この遺跡は、夜叉の力、でもあるんだね」
燐は頷く。
「お前の力も、その夜叉の理と交わる霞の理だからこそ、月喰の遺跡は最も危険で最も真実を語る場所となる」
霧が濃くなる。二人は森を抜け、小高い丘を越えた。目の前に忽然と立ち現れたのは、古い石造りの門。
その上に刻まれた紋様は、月と刀と霞の三つ巴。
月喰ノ遺跡の正門だ。
「この門をくぐった瞬間、世界の理が揺れるだろう」
燐が呟いた。
璃霞は剣を背に立て、深呼吸する。
「行こう」
門をくぐると、視界が歪んだ。
闇と光が入り混じり、風が逆流するような錯覚。
足元の大理石の床には、古の符号が刻まれている。
その中で、一つの紋様が淡く輝いた。
契りの紋章。
燐は足を止め、その紋章を見つめる。
「ここが、原初……始まりの場所」
「始まり……って?契りの始まり?」
璃霞の声が小さく震える。
彼女は記憶よりずっと前へ導かれている気がした。
その紋章に触れた瞬間、世界が揺れた。
視界が波打ち、過去の幻影が現れる。
灰色の世界。薄闇。
そこには、白銀の髪の女人が佇んでいた。
その女人は、月を背にし、剣を携えていた。
まさに原初の霞その人。
彼女はゆっくりと、振り向いた。
透き通るような蒼い瞳で、璃霞を見た。
その視線は、懐かしさと痛みと諦念を混ぜたものだった。
「お前は……誰?」
璃霞が声を震わせて問いかける。
女人は微笑み、淡い声で応えた。
「私は、あなたの始まり。そして、あなたが見るべき結末」
その声が鼓膜を揺らし、世界を引き裂いた。
光が爆ぜ、符号が断裂し、門が崩れそうになる。
驚く璃霞と燐の前に、一人の影が立った。
幽だった。
「想像以上に早かったな」
幽は淡い笑みを浮かべ、闇の霧をまといながら現れた。
「契りの場に来るとは、勇気があるというより……無謀だ」
燐が前に出る。
「幽、いつからここに……?」
幽は肩をすくめた。
「ずっと。だが、あなたが遅れてきただけだ」
「璃霞、お前は覚悟してるな?」
燐が囁く。
璃霞は顔を上げ、剣を握りしめる。
「覚悟は……いつだって抱えてきた」
幽の瞳が鋭く光る。
「ならば、この場で契りの本質を知るがいい」
彼が紋章に手をかざす。
古の符号が再び輝き始め、空気が震える。
「月喰の遺跡は、契りを封じる結界だ。だがその封印は弱まり、今こそ契り本来の理が解き放たれる」
幽が腕を伸ばすと、紋章から無数の光線が湧き出し、璃霞と燐を包む。
その光線は、ただの魔力の束ではない。
光と闇と霞の理が渦巻き、意志と記憶が一体になる。
璃霞は頭の奥が痛むほどの情報の奔流に襲われた。
剣を構えていても、身体が震える。
そのとき燐の声が聞こえた。
「……受け止めろ、璃霞。俺たちの契りが、光となる」
璃霞は目を閉じ、力を込めた。
剣先から蒼と闇と霞が混ざった光が放たれ、光線を弾き返す。
その輝きは遺跡の内部へ奥へとねじれながら突き進む。
幽の呟きが闇から聞こえる。
「お前は、真実を知るだろう……だがその先にあるものを、選ぶことができるか」
遺跡が崩れ始める。石材が割れ、壁面が剥がれ落ち、光が亀裂から溢れる。
璃霞は燐の背に飛び乗る。
燐は剣を高く掲げた。
「これで終わる!」
その声とともに、二人の契りの光が遺跡全体を貫き、爆発のように拡散した。
粉塵の中、璃霞は気を失った。
彼女の頭には。
「願いよ、ここに在れ」
という、かすかな言葉だけが残っていた。
そして遺跡の中核が静まり返る。
幽の姿は、影のように消えた。
燐が彼女を抱き寄せている。
その胸には、光の紋章が刻まれていた。
「璃霞……無事か?」
璃霞は、ゆっくりと目を開けた。
涙がこぼれそうになる。
けれど、確かな輝きをその瞳には宿していた。
「燐様……わたし、見た……原初の霞姫も、幽も、そして、この遺跡の理を。
何かが、始まった」
燐は頷き、優しく彼女を抱きしめた。
「これが、扉の先だ。だが、お前がこれを取った以上、運命はもう戻らない。けれど恐れるな。俺は、いつでもお前のそばにある」
璃霞は、零れ落ちそうな涙を拭い、微笑んだ。
「ありがとう、燐様。これから、もっと強くなるから。わたしは……誰かのためになる扉になるから」
夜空が明け、月は半分まで戻っていた。
その月の光が、遺跡の内部から漏れ出す。
霞のような光の道が、天へと伸びていた。
それは⋯⋯黄泉霞の真なる扉。
その先に何があるのか、誰にもまだ知らない。
でも、璃霞も燐も、今はただ、静かに、その光を見上げていた。
霧が晴れた夜明け前。蒼い空の端が僅かに白みを帯びている。
璃霞はまだ月喰ノ遺跡の中心、光の通路の中にいた。
その通路は狭く、両側に薄く輝く文様が列をなしており、まるで世界の静脈を覗き込むような場所だ。
燐は双刃を背にして、慎重に彼女の後を歩く。
彼の目には、警戒と誇り、そして思慕の光が交錯していた。
「ここが……始まりの場所かもしれない」
璃霞は囁いた。
声は通路の壁に反響し、淡い残響を残した。
歩を進めるほどに、文様の光は強まり、彼らを導くように道を示す。
途中、古代の文字が淡く浮かび上がり、霞のように滲んだ。
その文字を読むたびに、璃霞の胸に何かが響く。
(これは……霞姫の血の記録……神々の記憶……)
通路の奥、ひときわ強い光を放つ部屋にたどり着いた。
そこには円形の祭壇。中央に窪みがあり、光の柱が天へ向かって伸びている。
その柱の先端は、遺跡の天井を貫き、空の裂け目へと繋がっているようにも見えた。
「これは……」
燐が足を止め、祭壇の縁に刻まれた深い紋様を指でなぞった。
「この紋は、契りの原初を象るもの。古の霞姫と夜叉王の誓約が、ここに結ばれていた証」
そのとき、空気が揺れた。通路の入口が揺らぎ、闇と光の混合した影が立ち上る。
幽が、そこに姿を現した。
霧を纏い、全てを飲み込むように立つその姿は、不穏だ。
「よくぞ来た、霞姫。そして夜叉王」
幽の声が、通路の壁に響いた。
「ここに来るのは覚悟の証。だが、真実を受け取る覚悟がお前にあるのか?」
璃霞は剣を引き、瞳をまっすぐ幽へ向けた。
「受け取る。わたしの運命なら、受け止めるべきなら受け止める」
幽は一歩、祭壇の前へと進んだ。
「なら示そう。ここに封じられし原初の誓いと、断たれた契約の真実を」
幽の掌が祭壇の窪みに触れると、光の柱が震え、壁一面に映像が映し出された。
映像には、古の夜叉と霞姫の姿。
手を取り、誓い、そして嘘と裏切り、断絶。
涙と叫びと炎の記憶が、空間を満たす。
⋯⋯若き夜叉王は、世界を変えようとした。
霞姫は、それを信じて契りを交わした。
だが、人と妖の隔たり、嫉妬と恐れ、そして神々の介入がその誓いを裂いた。
契りは分断され、誓約は封印され、残されたのがこの遺跡と断片記憶。
幽の声。
「契りとは、ただの絆ではない。世界を動かす呪縛であり、代償であり、可能性だ。お前が選んだ道は、再びその輪廻の中心に立つということだ」
その言葉を聞き、璃霞の胸に痛みが走った。
「代償……」
燐は横で顎を引きながら瞳を細めた。
「だが、それを恐れていては何も始まらない」
映像が終わると、祭壇が崩れ始めた。
石が砕け、光の渦が渦巻き、空間が歪む。
幽は後方へ下がる。
「逃げてもいいのだ、まだ止めることはできる。選ぶのも、断つのも、お前だ」
だが璃霞はその場に立ち尽くした。
剣をしっかり握り、決意を込めた声で言った。
「逃げない。たとえ代償が重くても、わたしは自分で扉を選ぶ」
その言葉とともに、双刃が光を帯び、祭壇の中心へと飛び込む。
燐も追随し、二人の契りが輝きを増す。
空間がひび割れ、遺跡の壁が崩れ落ち、光が天へと昇る。
そして、訪れた静寂。
幽はその間隙をぬって、消え去った。
残されたのは、破壊された祭壇、蒼白の光、そして、璃霞と燐。
璃霞は腰をつき、呼吸を整える。
燐がそっと彼女の手を握った。
「やったのか……?」
璃霞はゆっくり頷く。
「やった。真実を見た。苦しみを見た。けど、選べた」
月の光が遺跡に差し込み、二人を淡く包んだ。
その光は、かつての契りを、そして新たな誓いを祝福するように優しかった。
「これで、第五章は終わらせよう」
燐が低く言った。
璃霞は顔を上げ、月喰ノ遺跡の崩れゆく門を見つめた。
そこに残された紋様は、消えゆく光とともに、新しい印として刻まれていた。
「次は、第六章……黄泉霞の覚醒だ」
璃霞は小さく息を吸い、歩き出した。
月喰ノ遺跡を後にして、二人は静かな夜道を歩いていた。
崩れゆく遺跡の残響、光の消えゆく気配が後ろにちらりと残る。
だが、前を見れば道は続き、夜空には星がきらめいていた。
燐がぽつりと口を開く。
「璃霞、先ほどの真実は重かったな」
「うん……想像以上だった。あの契りの内実と代償を目の当たりにして、胸が苦しくなった」
璃霞の声には揺れがあった。
彼女の手はわずかに震えていたが、双刃はしっかりと握られていた。
「だが、それでもおまえが選んだ道を、俺は誇りに思う」
燐は、月明かりに映る彼女の横顔をゆっくり見つめた。
「これから先、どんな闇があっても、俺はおまえの盾となろう」
その言葉が、璃霞の胸に静かな決意の灯をともした。
彼女は小さく微笑み、頷いた。
「ありがとう、燐様。わたしも、あなたを支える扉になります」
その夜、二人は宿を取った。小さな山里の宿屋。
古びた木造の屋根、軒先に垂れるつる草、風鈴のかすかな音。
燐は洗い場へ行き、璃霞を部屋に残した。
部屋の障子が揺れ、月明かりが透けて入る。
璃霞は暗がりの中、双刃を膝にのせ、心を整理するように息をついた。
昨日見た幻影、映し出された契りの記録、幽の言葉、影霞の消失……。
すべてが重なって、魂の芯を揺らす。
扉とは何か。選択とは何か。
支えるとは、守るとは、共に歩むとは⋯⋯。
涙がこぼれそうになる。
けれど彼女は、それを堪えて、己の意志を整えた。
「わたしは進む。過去を、記憶を、運命を抱えてでも」
そう呟いて、自らを鼓舞する。
そのとき、部屋の戸がそっと開いた。
燐が入ってきて、火灯りの行灯を手にしていた。
「まだ起きていたか」
「うん。眠れなかった」
燐は柔らかく微笑んで、部屋の隅に火を灯す。
「こういう時間も、ずっと欲しかった」
璃霞はその言葉を受け止め、目を伏せた。
「……あなたといる時間を、大事にしたい」
燐は席をつめ、彼女の手をとる。
静かに、しかし確かな重みをもって伝える。
「扉を開いた者にしか見えぬ道もある。だが、迷うなら、俺の手をいつでも握れ。共に進むために」
それは告白にも、誓いにも聞こえた。
璃霞は、胸の奥がふるえるのを感じながら、静かにうなずいた。
夜が更け、月が高く登る。
二人はその夜、言葉少なに、しかし確かに距離を縮めて眠りについた。
翌朝。
山里は淡い霧に包まれていた。
鳥の囀り、雫の音、風の匂い。自然の声が、彼らを目覚めへと誘う。
璃霞が目を覚ますと、燐はすでに起きていた。窓の外を見ている。
淡い光が山裾を染め、空が薄桃色に変わりつつある。
「おはよう、璃霞」
燐が囁く。優しい声音。
璃霞はゆっくり体を起こし、伸びをひとつ。
「おはよう、燐様」
二人は短く朝の挨拶を交わし、朝食へと向かう。
宿屋の囲炉裏の前で、湯気立つ飯と味噌汁。簡素だが温かい。
食事の間、燐が話し始める。
「これから久遠郷、そして月喰ノ遺跡の奥へ向かう道は険しい。幽も、古の継承者も動いているはずだ」
璃霞は箸を静かに置き、見つめるように答えた。
「わたし、怖いんだけど。未知が多すぎて」
その時、宿屋の戸が急に開き、一人の女が駆け込んで来た。
黒い旅装束、乱れた髪、そして慌てた顔。
「姫様!久遠郷の方から、使者が来ています!朱華の騎士団が、我らを襲おうと動いているとの報です!」
その言葉に、燐の顔色が変わった。
「朱華の騎士団……それは人間の騎士団。妖と人との間を取り持つ存在だが、いまは動きが怪しい。おそらく、我らを試す意味もあるだろう」
璃霞の心臓が跳ねた。
「向かうべきか……でも、体調も万全じゃない」
燐は彼女を見つめ、目には鋭さが宿る。
「だが、今こそ判断を試される時だ。姫として、扉として、我が主として。俺は付き従う。行くぞ」
女が慌てて出してきた懐中の巻物を燐が受け取る。
尻紙には朱華騎士団の紋と、「至急迎えを要す」と書かれていた。
彼らはすぐに宿を出る準備をした。
璃霞は懐を調え、剣を背に差し、心を引き締める。
夜叉の剣が、霞の刃が、闇と光の交差点でまた振るわれる準備をしている。
門の前で、二人は顔を見合わせた。
燐はわずかに笑み、璃霞の手を取る。
「共に行こう。どこまでも」
璃霞は静かに頷き、夜明けの光の中へと足を踏み出した。
彼らの影が朝日に伸び、長く引かれていった。
旅は再び動き出す。
次の出会い、次の戦い、次の選択が、扉をひらく鍵となる。
薄明の朝、空には雲と光の隙間が交錯し、世界はまるで息をつく瞬間を迎えようとしていた。
璃霞と燐は道を進む。山道、川の渡り、谷を越え、石橋を渡る。
その間、風が霞を運び、草木の囁きが彼らを導くようだった。
やがて、朱華騎士団の前線の監視塔が視界に入る。
高地に築かれた古い見張り所。白亜の石と紅の瓦。
その影には、人びとの営みと、戦の緊張が入り混じっていた。
「ここが……前線か」
璃霞が息をのむ。
燐は剣を一度引き抜いて鞘に戻すと、静かに答える。
「そうだ。騎士団はこの辺りを守りながら、我々の進路を監視しているだろう。
だが、目的は我々を試すことと情報を得ることだ」
遠く、甲高いホラガイの音が鳴る。
朱華騎士団の警戒の合図だ。
「準備を」
燐が呟き、璃霞の肩に手を置く。
その手の温かさが、彼女の緊張を少しだけ和らげた。
斜面を降り、森を抜けると、騎士たちの配置が現れる。
重装鎧を纏った騎士、長槍を構える者、弓を持つ影。
彼らは、朱と白の紋様のマントを羽織り、威容を誇るように立っている。
騎士長が前に出た。銀甲の鎧に紅い縁取り。
長い白銀の髪を風にたなびかせ、瞳は氷を思わせる蒼。
「おや、霧の姫と夜叉の王か。見せてもらおう、扉というものを」
その声音は礼儀正しい響きを帯びていた。
璃霞は剣先を地に軽くつけて応じる。
「わたしは扉だ。開く者、繋ぐ者、誓う者だ。通してもらおう」
騎士長は眉をひそめたが、挨拶を返す。
「ならば、この地でその証を見せてもらおう。騎士団の役目は、守護と調停。だが、いまは試す時。この道を進ませる価値があるか、見定めさせてもらう」
合図と共に、騎士団が動く。
槍が突き出され、弓矢が放たれ、剣が震う。
数十の刃が、一瞬にして戦場を切り裂く。
燐は影のように動いた。
漆黒の闇を纏う剣が槍を弾き返し、盾を裂き、甲冑を穿つ。
その動きは正確かつ静謐で、まるで夜そのものが戦っているようだった。
璃霞は霞の刃を振るった。
青い気が刃となり、風を切って複数の敵を吹き飛ばす。
その刃の先には、ただ守る意思があった。
「もう、不安に飲まれない」
彼女は心に誓いながら戦う。
騎士たちも必死だった。
だが、朱華騎士団には内部に亀裂があった。
彼らの中には、妖と協調を求める声もあったし、扉を恐れる声もあった。
その亀裂が今、戦いの中で露呈する。
ひとりの若い騎士が、剣を振るうふりをして止まり、目を逸らす。
その隙を燐が突いた。剣先が甲冑を貫く。
もう戦う意思をなくした兵士たちが、剣を投げ捨てて膝をついた。
騎士長は鋭い刃で飛び退いた。
「無様だが、見事な意志だ」
彼はゆっくりと剣を収め、その身を低くして告げた。
「通れ。ただし、我らの情報はすべてお伝えする。だが我らも借りを作る」
璃霞は剣を収め、深く頭を下げた。
燐もまた、無言で頷く。
騎士長は視線を二人に移す。
「月喰ノ遺跡、その先に待つ扉。私たちはその道を見届ける。だが、ひと言忠告しておこう。扉の先は理と呪いの交差点。油断すれば、魂を奪われるかもしれない」
璃霞は言葉を探したが、ただ一つ確かなものを呟いた。
「でも、わたしは、自分の扉を、生きたい」
その言葉に騎士長は軽く目を細め、剣を振る。
「では、安全を祈ろう。扉の使い手よ。行け」
こうして、朱華騎士団の小競り合いを乗り越え、二人は再び道を進む。
その夜、焚き火の光だけが闇を切り裂く。
休息を取るため、二人は小さな野営を設けていた。
燐が、焚き火を見つめながら、静かに口を開いた。
「今日の戦い……見事だった。お前の意思と力が調和していた」
璃霞は火の光を見つめ返した。
「でも、わたしの体が……思うように動かせなくて」
燐は立ち上がり、彼女の肩を優しく撫でた。
「焦るな。扉が目覚めたばかりだ。調律がまだ不安定で当然だ」
炎が揺れ、二人の影をゆらめかせる。
そのとき、不意に森の奥から囁き声が聞こえた。
「……霞姫……」
かすれた声。
璃霞と燐は同時に身を起こす。
斜めから、草むらの闇に白い影。
それは一人の少女だった。黒髪、細身、目は虚ろ。
だが、その姿にどこか見覚えがある。
少女はふらりと歩き出す。
「わたしは……影霞の残響。忘れられた記憶の欠片……」
その声は風のように響いた。
璃霞は息を飲む。
「残響……なの?」
少女は頷いた。
「灰には還れなかった魂の一部。あなたの影霞が消滅したあとに、散らばった記憶。わたしは、そのひとつ。あなたとあなたの扉を求めて、ここへ来た」
燐が前に出る。
「何の用だ?この道は険しい。無用な危険を招くな」
少女は一歩、燐と璃霞に近づく。
「私は、あなたに伝えたい。影霞の未完の想いを。そして、この先、欠片として共に在りたいと」
その言葉に、璃霞の胸が締めつけられた。
影霞の想い。犠牲。
それが、完全に消えずに残っているということ。
「……でも、扉とは何かを決めた後に、残響は消えるものじゃないの?」
少女は小さく笑った。
「いいえ。消すものじゃない。共に在るもの。あなたの扉が開かれるために、欠片は受け入れられるべきだ」
璃霞は目を閉じた。
扉を開くという選択とは、切り捨てることではなく、包含することだったのかもしれない。
燐が言葉を紡ぐ。
「なら、共に来い。この道は、孤独な扉じゃない」
少女の目に、はじめて光が宿る。
「ありがとう……霞姫」
こうして、少女は二人の影に加わる。
名前もない残響は、新たな記憶として道を歩む。
夜空には星が瞬き、風が彼らを包む。
璃霞の心には、新たな希望の種が揺れていた。
次は……月喰ノ遺跡深部。
原初の誓いを抱える扉の核に向かって、さらに進む旅。
そして、真の黄泉霞との邂逅が待つだろう。
その背に、まだ完全には癒えぬ街の鼓動が揺れていたが、誰もが確かに“変化”を感じ取っていた。
璃霞の背には、双刃の剣⋯⋯黄泉霞の双刃が背負われていた。
蒼と黒、そして霞と灰の記憶が織りなすその刀は、まるで選ばれた者の証そのものだった。
「次はどこへ向かうの?」
璃霞が歩きながら尋ねる。
「北東。神座の断章が眠るとされる廃都。久遠郷だ。そこには、千年前に神々と人間と妖が最後に交わった約定の記録が残っている」
「……神座の、断章?」
燐は頷く。
「神座は理の記憶を宿す場所だが、すべてが繋がっているわけじゃない。断片化されたその一部は、選ばれた者だけが辿ることを許される」
「わたしが……その選ばれた者、ってこと?」
「そう。黄泉霞の双刃を受け取った今、お前は理の継承者となった。だがそれは、新たな争いの引き金にもなる」
璃霞の背筋がすっと冷えた。
「他にも……扉の使い手が?」
燐は答えなかった。
それがすでに答えだった。
璃霞は拳を握る。
(進む道は、決して平穏ではない。それでも⋯⋯)
「行こう。久遠郷へ」
そして旅は始まった。
数日後、彼らは天笹の峡谷へと差し掛かっていた。
久遠郷へ向かう唯一の道であり、封印された神代の痕跡が眠る場所。
その峡谷の底。湿った空気の中に、古の祠が口を開けていた。
「……ここだ。第一の記録が眠る場所」
燐がつぶやく。
だが祠に近づくと、霧とは異なる気配があった。
「これは……瘴気?」
「いいや、これは……還り霧だ」
燐が低く言った。
「神座の断章に触れた者が、神に還ることを拒んだとき、その記憶は還り霧として残る。誰かがここで、抗ったんだ⋯⋯神の理に」
璃霞は思わず足を止めた。
その霧の奥から、足音が聞こえた。
カツ、カツ⋯⋯。
現れたのは、一人の男だった。
漆黒の衣。顔の半分を仮面で覆い、片目だけが見える。
その目は、琥珀のような深い金。
「久しいな、燐」
「……やはり来たか。黄泉霞の裏系譜⋯⋯幽(かすか)。」
男は微笑むように唇の端を吊り上げた。
「選ばれたな、霞姫。今代の扉」
璃霞は双刃に手をかける。
「あなたは……何者?」
「我は、かつて神に抗い、神の理を拒絶した失われた扉。黄泉霞の裏系譜にして、神座に近づきすぎた記録の破損者」
燐が低く言った。
「幽は、神座の情報を盗み、自ら断章を喰らった。彼はもう、理の外にある存在。だがまだ選びたがっている」
「選びたがっている……?」
幽の目が、璃霞に突き刺さる。
「そう。お前はまだ正道にいる。だが、いずれ知る。愛だけでは守れないものがあることを。優しさだけでは断ち切れない運命があることを」
そして彼は、指を鳴らした。
次の瞬間、峡谷全体が震えた。
大地が裂け、封印されていた石像が動き出す。
それは、神々のかつての影を模した、神影だった。
「試してやろう。お前が扉であるというなら、どのくらいの理を背負えるのか⋯⋯」
璃霞は剣を抜いた。
「来なさい。わたしはもう、逃げない」
そして、再び戦いが始まった。
天笹の峡谷にて、神影の咆哮が轟いた。
地を揺るがし、風を裂くその巨影は、まさしく古の神を象ったもの。
かつて神座に仕え、人の願いを叶えながら、自らの意志を持ち始めて“断たれた神”の残骸。
名を、タギツヒメの神影。
三本の腕、竜のように長い尾、顔を覆う鏡の面。
「これは……記録の再現……」
燐が呟いた。
璃霞の双刃が蒼く光り、神影の殺気に応えるように震える。
「燐様、援護を!」
「いや……これは、お前が向き合うべきだ。扉に試練はつきものだ。俺は⋯⋯見届けよう」
そう言って、燐はその場に残った。
彼の目は険しく、けれどどこか信頼にも似た色が浮かんでいた。
璃霞は息を整え、足を踏み出す。
神影が、動いた。
第一撃⋯⋯天を裂く尾の一閃。
璃霞は跳んだ。
双刃で尾を受け止め、軸をずらして弾き返す。
腕に痛みが走ったが、退かない。
(これは……記憶の重さそのもの……!)
神影の体から立ち上る瘴気は、記憶そのものだった。
祈り、願い、裏切り、失望、憎悪⋯⋯人々が神に託し、そして捨てたあらゆる感情が濃縮されていた。
「なら……切り拓く!」
璃霞が地を蹴る。
第二撃⋯⋯霞刃「氷霞ノ舞」。
双刃の霞が空中に舞い、神影の腕を切り裂く。
だが、その傷はすぐに霧のように再生していく。
「再生……?!」
幽の声が霧の中から響いた。
「そうだ。タギツヒメは祈りの神。人の想いがある限り、再生し続ける。お前にそれを断ち切れるか?」
璃霞は剣を構え直す。
「……想いを、斬り捨てたりしない!わたしは、その願いと向き合う!」
神影が、もう一度吼える。
そして、第三撃⋯⋯天より降る記憶の雨。
それは無数の声だった。
「お願い……助けて……」
「もう嫌だ……」
「誰か……見て……」
「救えなかったの……私が弱かったから……」
その一つひとつが、璃霞の心に刺さる。
まるで、彼女自身の過去。
(お母さん……私が、もっと強ければ……)
(あの子を……置いていかなければ……)
「璃霞!」
燐の声が届いた。
「お前は、過去を断ち切るためにここに来たんじゃない。受け入れて、生きるためだ!」
璃霞は、目を開けた。
涙がこぼれた。
「そうだね……私は……もう、逃げない」
両の手に力を込める。
「霞刃奥義・蒼環ノ結界!!」
刃を交差し、体内の扉の力を開放する。
蒼い環が空間に浮かび、すべての記憶の雨を受け止めた。
祈りも悲しみも、拒絶するのではなく⋯⋯受け止めて、還す。
神影の再生が止まる。
「……っ!」
幽の声が揺れる。
璃霞は、踏み込む。
そして、叫ぶ。
「あなたの祈り、届いてるよ!だから、もう……眠っていい!!」
双刃が蒼く光り、神影の中心、願いの核を貫いた。
爆ぜるように、光が広がる。
神影は、霧とともに崩れ落ちた。
ただ、最後にひとつ、誰かの声が囁いたように響いた。
「ありがとう、霞姫……」
璃霞は、静かに膝をついた。
空には、晴れ間が広がっていた。
幽は、何も言わず、その場から霧のように消えていった。
だが最後に残した言葉があった。
「次は、黄泉霞の記録本体のある場所で会おう。月喰の遺跡でな」
燐が呻くように言った。
「……あそこは、原初の契りが断たれた場所。黄泉霞の始まりにして、すべてが壊れた最初の扉……」
璃霞は、ゆっくりと立ち上がる。
「わたしは、行くよ。そこに、すべての答えがあるなら」
「……覚悟はできてるんだな」
「怖くても、迷っても、わたしはもう、逃げないって決めた。
燐様、一緒に来てくれる?」
燐の唇が、微かに笑んだ。
「当然だ。俺の契りは、お前にある」
そして、二人は歩き出す。
忘れられた神々の記録が眠る、月喰の遺跡へ。
璃霞が真の霞姫へと目覚める、その扉が待つ場所へ。
蒼の夜空に、月が半ば隠れている。
その薄明かりのもと、璃霞と燐は長い旅路を歩んでいた。
彼らの背後には、蒼花、久遠郷、天笹峡谷など、幾重にも越えてきた章の影がある。
「ねえ、燐様」
璃霞がふと思い出すように問いかける。
「月喰ノ遺跡って、何で月を喰らうっていうの?」
燐は少し考え、答えた。
「伝承によれば、月喰は夜を支配し、月の光を喰らう者という。月は夜の光であり、燐夜が夜の理を司る者として、その遺跡は彼の系譜と深く結び付く」
「つまり……この遺跡は、夜叉の力、でもあるんだね」
燐は頷く。
「お前の力も、その夜叉の理と交わる霞の理だからこそ、月喰の遺跡は最も危険で最も真実を語る場所となる」
霧が濃くなる。二人は森を抜け、小高い丘を越えた。目の前に忽然と立ち現れたのは、古い石造りの門。
その上に刻まれた紋様は、月と刀と霞の三つ巴。
月喰ノ遺跡の正門だ。
「この門をくぐった瞬間、世界の理が揺れるだろう」
燐が呟いた。
璃霞は剣を背に立て、深呼吸する。
「行こう」
門をくぐると、視界が歪んだ。
闇と光が入り混じり、風が逆流するような錯覚。
足元の大理石の床には、古の符号が刻まれている。
その中で、一つの紋様が淡く輝いた。
契りの紋章。
燐は足を止め、その紋章を見つめる。
「ここが、原初……始まりの場所」
「始まり……って?契りの始まり?」
璃霞の声が小さく震える。
彼女は記憶よりずっと前へ導かれている気がした。
その紋章に触れた瞬間、世界が揺れた。
視界が波打ち、過去の幻影が現れる。
灰色の世界。薄闇。
そこには、白銀の髪の女人が佇んでいた。
その女人は、月を背にし、剣を携えていた。
まさに原初の霞その人。
彼女はゆっくりと、振り向いた。
透き通るような蒼い瞳で、璃霞を見た。
その視線は、懐かしさと痛みと諦念を混ぜたものだった。
「お前は……誰?」
璃霞が声を震わせて問いかける。
女人は微笑み、淡い声で応えた。
「私は、あなたの始まり。そして、あなたが見るべき結末」
その声が鼓膜を揺らし、世界を引き裂いた。
光が爆ぜ、符号が断裂し、門が崩れそうになる。
驚く璃霞と燐の前に、一人の影が立った。
幽だった。
「想像以上に早かったな」
幽は淡い笑みを浮かべ、闇の霧をまといながら現れた。
「契りの場に来るとは、勇気があるというより……無謀だ」
燐が前に出る。
「幽、いつからここに……?」
幽は肩をすくめた。
「ずっと。だが、あなたが遅れてきただけだ」
「璃霞、お前は覚悟してるな?」
燐が囁く。
璃霞は顔を上げ、剣を握りしめる。
「覚悟は……いつだって抱えてきた」
幽の瞳が鋭く光る。
「ならば、この場で契りの本質を知るがいい」
彼が紋章に手をかざす。
古の符号が再び輝き始め、空気が震える。
「月喰の遺跡は、契りを封じる結界だ。だがその封印は弱まり、今こそ契り本来の理が解き放たれる」
幽が腕を伸ばすと、紋章から無数の光線が湧き出し、璃霞と燐を包む。
その光線は、ただの魔力の束ではない。
光と闇と霞の理が渦巻き、意志と記憶が一体になる。
璃霞は頭の奥が痛むほどの情報の奔流に襲われた。
剣を構えていても、身体が震える。
そのとき燐の声が聞こえた。
「……受け止めろ、璃霞。俺たちの契りが、光となる」
璃霞は目を閉じ、力を込めた。
剣先から蒼と闇と霞が混ざった光が放たれ、光線を弾き返す。
その輝きは遺跡の内部へ奥へとねじれながら突き進む。
幽の呟きが闇から聞こえる。
「お前は、真実を知るだろう……だがその先にあるものを、選ぶことができるか」
遺跡が崩れ始める。石材が割れ、壁面が剥がれ落ち、光が亀裂から溢れる。
璃霞は燐の背に飛び乗る。
燐は剣を高く掲げた。
「これで終わる!」
その声とともに、二人の契りの光が遺跡全体を貫き、爆発のように拡散した。
粉塵の中、璃霞は気を失った。
彼女の頭には。
「願いよ、ここに在れ」
という、かすかな言葉だけが残っていた。
そして遺跡の中核が静まり返る。
幽の姿は、影のように消えた。
燐が彼女を抱き寄せている。
その胸には、光の紋章が刻まれていた。
「璃霞……無事か?」
璃霞は、ゆっくりと目を開けた。
涙がこぼれそうになる。
けれど、確かな輝きをその瞳には宿していた。
「燐様……わたし、見た……原初の霞姫も、幽も、そして、この遺跡の理を。
何かが、始まった」
燐は頷き、優しく彼女を抱きしめた。
「これが、扉の先だ。だが、お前がこれを取った以上、運命はもう戻らない。けれど恐れるな。俺は、いつでもお前のそばにある」
璃霞は、零れ落ちそうな涙を拭い、微笑んだ。
「ありがとう、燐様。これから、もっと強くなるから。わたしは……誰かのためになる扉になるから」
夜空が明け、月は半分まで戻っていた。
その月の光が、遺跡の内部から漏れ出す。
霞のような光の道が、天へと伸びていた。
それは⋯⋯黄泉霞の真なる扉。
その先に何があるのか、誰にもまだ知らない。
でも、璃霞も燐も、今はただ、静かに、その光を見上げていた。
霧が晴れた夜明け前。蒼い空の端が僅かに白みを帯びている。
璃霞はまだ月喰ノ遺跡の中心、光の通路の中にいた。
その通路は狭く、両側に薄く輝く文様が列をなしており、まるで世界の静脈を覗き込むような場所だ。
燐は双刃を背にして、慎重に彼女の後を歩く。
彼の目には、警戒と誇り、そして思慕の光が交錯していた。
「ここが……始まりの場所かもしれない」
璃霞は囁いた。
声は通路の壁に反響し、淡い残響を残した。
歩を進めるほどに、文様の光は強まり、彼らを導くように道を示す。
途中、古代の文字が淡く浮かび上がり、霞のように滲んだ。
その文字を読むたびに、璃霞の胸に何かが響く。
(これは……霞姫の血の記録……神々の記憶……)
通路の奥、ひときわ強い光を放つ部屋にたどり着いた。
そこには円形の祭壇。中央に窪みがあり、光の柱が天へ向かって伸びている。
その柱の先端は、遺跡の天井を貫き、空の裂け目へと繋がっているようにも見えた。
「これは……」
燐が足を止め、祭壇の縁に刻まれた深い紋様を指でなぞった。
「この紋は、契りの原初を象るもの。古の霞姫と夜叉王の誓約が、ここに結ばれていた証」
そのとき、空気が揺れた。通路の入口が揺らぎ、闇と光の混合した影が立ち上る。
幽が、そこに姿を現した。
霧を纏い、全てを飲み込むように立つその姿は、不穏だ。
「よくぞ来た、霞姫。そして夜叉王」
幽の声が、通路の壁に響いた。
「ここに来るのは覚悟の証。だが、真実を受け取る覚悟がお前にあるのか?」
璃霞は剣を引き、瞳をまっすぐ幽へ向けた。
「受け取る。わたしの運命なら、受け止めるべきなら受け止める」
幽は一歩、祭壇の前へと進んだ。
「なら示そう。ここに封じられし原初の誓いと、断たれた契約の真実を」
幽の掌が祭壇の窪みに触れると、光の柱が震え、壁一面に映像が映し出された。
映像には、古の夜叉と霞姫の姿。
手を取り、誓い、そして嘘と裏切り、断絶。
涙と叫びと炎の記憶が、空間を満たす。
⋯⋯若き夜叉王は、世界を変えようとした。
霞姫は、それを信じて契りを交わした。
だが、人と妖の隔たり、嫉妬と恐れ、そして神々の介入がその誓いを裂いた。
契りは分断され、誓約は封印され、残されたのがこの遺跡と断片記憶。
幽の声。
「契りとは、ただの絆ではない。世界を動かす呪縛であり、代償であり、可能性だ。お前が選んだ道は、再びその輪廻の中心に立つということだ」
その言葉を聞き、璃霞の胸に痛みが走った。
「代償……」
燐は横で顎を引きながら瞳を細めた。
「だが、それを恐れていては何も始まらない」
映像が終わると、祭壇が崩れ始めた。
石が砕け、光の渦が渦巻き、空間が歪む。
幽は後方へ下がる。
「逃げてもいいのだ、まだ止めることはできる。選ぶのも、断つのも、お前だ」
だが璃霞はその場に立ち尽くした。
剣をしっかり握り、決意を込めた声で言った。
「逃げない。たとえ代償が重くても、わたしは自分で扉を選ぶ」
その言葉とともに、双刃が光を帯び、祭壇の中心へと飛び込む。
燐も追随し、二人の契りが輝きを増す。
空間がひび割れ、遺跡の壁が崩れ落ち、光が天へと昇る。
そして、訪れた静寂。
幽はその間隙をぬって、消え去った。
残されたのは、破壊された祭壇、蒼白の光、そして、璃霞と燐。
璃霞は腰をつき、呼吸を整える。
燐がそっと彼女の手を握った。
「やったのか……?」
璃霞はゆっくり頷く。
「やった。真実を見た。苦しみを見た。けど、選べた」
月の光が遺跡に差し込み、二人を淡く包んだ。
その光は、かつての契りを、そして新たな誓いを祝福するように優しかった。
「これで、第五章は終わらせよう」
燐が低く言った。
璃霞は顔を上げ、月喰ノ遺跡の崩れゆく門を見つめた。
そこに残された紋様は、消えゆく光とともに、新しい印として刻まれていた。
「次は、第六章……黄泉霞の覚醒だ」
璃霞は小さく息を吸い、歩き出した。
月喰ノ遺跡を後にして、二人は静かな夜道を歩いていた。
崩れゆく遺跡の残響、光の消えゆく気配が後ろにちらりと残る。
だが、前を見れば道は続き、夜空には星がきらめいていた。
燐がぽつりと口を開く。
「璃霞、先ほどの真実は重かったな」
「うん……想像以上だった。あの契りの内実と代償を目の当たりにして、胸が苦しくなった」
璃霞の声には揺れがあった。
彼女の手はわずかに震えていたが、双刃はしっかりと握られていた。
「だが、それでもおまえが選んだ道を、俺は誇りに思う」
燐は、月明かりに映る彼女の横顔をゆっくり見つめた。
「これから先、どんな闇があっても、俺はおまえの盾となろう」
その言葉が、璃霞の胸に静かな決意の灯をともした。
彼女は小さく微笑み、頷いた。
「ありがとう、燐様。わたしも、あなたを支える扉になります」
その夜、二人は宿を取った。小さな山里の宿屋。
古びた木造の屋根、軒先に垂れるつる草、風鈴のかすかな音。
燐は洗い場へ行き、璃霞を部屋に残した。
部屋の障子が揺れ、月明かりが透けて入る。
璃霞は暗がりの中、双刃を膝にのせ、心を整理するように息をついた。
昨日見た幻影、映し出された契りの記録、幽の言葉、影霞の消失……。
すべてが重なって、魂の芯を揺らす。
扉とは何か。選択とは何か。
支えるとは、守るとは、共に歩むとは⋯⋯。
涙がこぼれそうになる。
けれど彼女は、それを堪えて、己の意志を整えた。
「わたしは進む。過去を、記憶を、運命を抱えてでも」
そう呟いて、自らを鼓舞する。
そのとき、部屋の戸がそっと開いた。
燐が入ってきて、火灯りの行灯を手にしていた。
「まだ起きていたか」
「うん。眠れなかった」
燐は柔らかく微笑んで、部屋の隅に火を灯す。
「こういう時間も、ずっと欲しかった」
璃霞はその言葉を受け止め、目を伏せた。
「……あなたといる時間を、大事にしたい」
燐は席をつめ、彼女の手をとる。
静かに、しかし確かな重みをもって伝える。
「扉を開いた者にしか見えぬ道もある。だが、迷うなら、俺の手をいつでも握れ。共に進むために」
それは告白にも、誓いにも聞こえた。
璃霞は、胸の奥がふるえるのを感じながら、静かにうなずいた。
夜が更け、月が高く登る。
二人はその夜、言葉少なに、しかし確かに距離を縮めて眠りについた。
翌朝。
山里は淡い霧に包まれていた。
鳥の囀り、雫の音、風の匂い。自然の声が、彼らを目覚めへと誘う。
璃霞が目を覚ますと、燐はすでに起きていた。窓の外を見ている。
淡い光が山裾を染め、空が薄桃色に変わりつつある。
「おはよう、璃霞」
燐が囁く。優しい声音。
璃霞はゆっくり体を起こし、伸びをひとつ。
「おはよう、燐様」
二人は短く朝の挨拶を交わし、朝食へと向かう。
宿屋の囲炉裏の前で、湯気立つ飯と味噌汁。簡素だが温かい。
食事の間、燐が話し始める。
「これから久遠郷、そして月喰ノ遺跡の奥へ向かう道は険しい。幽も、古の継承者も動いているはずだ」
璃霞は箸を静かに置き、見つめるように答えた。
「わたし、怖いんだけど。未知が多すぎて」
その時、宿屋の戸が急に開き、一人の女が駆け込んで来た。
黒い旅装束、乱れた髪、そして慌てた顔。
「姫様!久遠郷の方から、使者が来ています!朱華の騎士団が、我らを襲おうと動いているとの報です!」
その言葉に、燐の顔色が変わった。
「朱華の騎士団……それは人間の騎士団。妖と人との間を取り持つ存在だが、いまは動きが怪しい。おそらく、我らを試す意味もあるだろう」
璃霞の心臓が跳ねた。
「向かうべきか……でも、体調も万全じゃない」
燐は彼女を見つめ、目には鋭さが宿る。
「だが、今こそ判断を試される時だ。姫として、扉として、我が主として。俺は付き従う。行くぞ」
女が慌てて出してきた懐中の巻物を燐が受け取る。
尻紙には朱華騎士団の紋と、「至急迎えを要す」と書かれていた。
彼らはすぐに宿を出る準備をした。
璃霞は懐を調え、剣を背に差し、心を引き締める。
夜叉の剣が、霞の刃が、闇と光の交差点でまた振るわれる準備をしている。
門の前で、二人は顔を見合わせた。
燐はわずかに笑み、璃霞の手を取る。
「共に行こう。どこまでも」
璃霞は静かに頷き、夜明けの光の中へと足を踏み出した。
彼らの影が朝日に伸び、長く引かれていった。
旅は再び動き出す。
次の出会い、次の戦い、次の選択が、扉をひらく鍵となる。
薄明の朝、空には雲と光の隙間が交錯し、世界はまるで息をつく瞬間を迎えようとしていた。
璃霞と燐は道を進む。山道、川の渡り、谷を越え、石橋を渡る。
その間、風が霞を運び、草木の囁きが彼らを導くようだった。
やがて、朱華騎士団の前線の監視塔が視界に入る。
高地に築かれた古い見張り所。白亜の石と紅の瓦。
その影には、人びとの営みと、戦の緊張が入り混じっていた。
「ここが……前線か」
璃霞が息をのむ。
燐は剣を一度引き抜いて鞘に戻すと、静かに答える。
「そうだ。騎士団はこの辺りを守りながら、我々の進路を監視しているだろう。
だが、目的は我々を試すことと情報を得ることだ」
遠く、甲高いホラガイの音が鳴る。
朱華騎士団の警戒の合図だ。
「準備を」
燐が呟き、璃霞の肩に手を置く。
その手の温かさが、彼女の緊張を少しだけ和らげた。
斜面を降り、森を抜けると、騎士たちの配置が現れる。
重装鎧を纏った騎士、長槍を構える者、弓を持つ影。
彼らは、朱と白の紋様のマントを羽織り、威容を誇るように立っている。
騎士長が前に出た。銀甲の鎧に紅い縁取り。
長い白銀の髪を風にたなびかせ、瞳は氷を思わせる蒼。
「おや、霧の姫と夜叉の王か。見せてもらおう、扉というものを」
その声音は礼儀正しい響きを帯びていた。
璃霞は剣先を地に軽くつけて応じる。
「わたしは扉だ。開く者、繋ぐ者、誓う者だ。通してもらおう」
騎士長は眉をひそめたが、挨拶を返す。
「ならば、この地でその証を見せてもらおう。騎士団の役目は、守護と調停。だが、いまは試す時。この道を進ませる価値があるか、見定めさせてもらう」
合図と共に、騎士団が動く。
槍が突き出され、弓矢が放たれ、剣が震う。
数十の刃が、一瞬にして戦場を切り裂く。
燐は影のように動いた。
漆黒の闇を纏う剣が槍を弾き返し、盾を裂き、甲冑を穿つ。
その動きは正確かつ静謐で、まるで夜そのものが戦っているようだった。
璃霞は霞の刃を振るった。
青い気が刃となり、風を切って複数の敵を吹き飛ばす。
その刃の先には、ただ守る意思があった。
「もう、不安に飲まれない」
彼女は心に誓いながら戦う。
騎士たちも必死だった。
だが、朱華騎士団には内部に亀裂があった。
彼らの中には、妖と協調を求める声もあったし、扉を恐れる声もあった。
その亀裂が今、戦いの中で露呈する。
ひとりの若い騎士が、剣を振るうふりをして止まり、目を逸らす。
その隙を燐が突いた。剣先が甲冑を貫く。
もう戦う意思をなくした兵士たちが、剣を投げ捨てて膝をついた。
騎士長は鋭い刃で飛び退いた。
「無様だが、見事な意志だ」
彼はゆっくりと剣を収め、その身を低くして告げた。
「通れ。ただし、我らの情報はすべてお伝えする。だが我らも借りを作る」
璃霞は剣を収め、深く頭を下げた。
燐もまた、無言で頷く。
騎士長は視線を二人に移す。
「月喰ノ遺跡、その先に待つ扉。私たちはその道を見届ける。だが、ひと言忠告しておこう。扉の先は理と呪いの交差点。油断すれば、魂を奪われるかもしれない」
璃霞は言葉を探したが、ただ一つ確かなものを呟いた。
「でも、わたしは、自分の扉を、生きたい」
その言葉に騎士長は軽く目を細め、剣を振る。
「では、安全を祈ろう。扉の使い手よ。行け」
こうして、朱華騎士団の小競り合いを乗り越え、二人は再び道を進む。
その夜、焚き火の光だけが闇を切り裂く。
休息を取るため、二人は小さな野営を設けていた。
燐が、焚き火を見つめながら、静かに口を開いた。
「今日の戦い……見事だった。お前の意思と力が調和していた」
璃霞は火の光を見つめ返した。
「でも、わたしの体が……思うように動かせなくて」
燐は立ち上がり、彼女の肩を優しく撫でた。
「焦るな。扉が目覚めたばかりだ。調律がまだ不安定で当然だ」
炎が揺れ、二人の影をゆらめかせる。
そのとき、不意に森の奥から囁き声が聞こえた。
「……霞姫……」
かすれた声。
璃霞と燐は同時に身を起こす。
斜めから、草むらの闇に白い影。
それは一人の少女だった。黒髪、細身、目は虚ろ。
だが、その姿にどこか見覚えがある。
少女はふらりと歩き出す。
「わたしは……影霞の残響。忘れられた記憶の欠片……」
その声は風のように響いた。
璃霞は息を飲む。
「残響……なの?」
少女は頷いた。
「灰には還れなかった魂の一部。あなたの影霞が消滅したあとに、散らばった記憶。わたしは、そのひとつ。あなたとあなたの扉を求めて、ここへ来た」
燐が前に出る。
「何の用だ?この道は険しい。無用な危険を招くな」
少女は一歩、燐と璃霞に近づく。
「私は、あなたに伝えたい。影霞の未完の想いを。そして、この先、欠片として共に在りたいと」
その言葉に、璃霞の胸が締めつけられた。
影霞の想い。犠牲。
それが、完全に消えずに残っているということ。
「……でも、扉とは何かを決めた後に、残響は消えるものじゃないの?」
少女は小さく笑った。
「いいえ。消すものじゃない。共に在るもの。あなたの扉が開かれるために、欠片は受け入れられるべきだ」
璃霞は目を閉じた。
扉を開くという選択とは、切り捨てることではなく、包含することだったのかもしれない。
燐が言葉を紡ぐ。
「なら、共に来い。この道は、孤独な扉じゃない」
少女の目に、はじめて光が宿る。
「ありがとう……霞姫」
こうして、少女は二人の影に加わる。
名前もない残響は、新たな記憶として道を歩む。
夜空には星が瞬き、風が彼らを包む。
璃霞の心には、新たな希望の種が揺れていた。
次は……月喰ノ遺跡深部。
原初の誓いを抱える扉の核に向かって、さらに進む旅。
そして、真の黄泉霞との邂逅が待つだろう。



