夜叉様と霞姫の契り

霊山・白水のさらに奥、封印の谷と呼ばれる場所。
そこは地図にも載らぬ地。霞の巫女が魂を鎮めるために選んだ、現世と幽界の狭間だった。

璃霞と燐がその地へ足を踏み入れたとき、空気が一変した。

重い。

言葉にならないほど、空気が重く冷たかった。
まるで何千、何万という魂が、沈黙の中でそこに座しているかのような重圧があった。

谷は狭く、白い岩に囲まれていた。
中央に、ひとつの鏡石が立っている。
高さは人の背ほど。表面はまるで水面のように滑らかで、近づくと自分の姿が揺れて見えた。

「ここに、原初の霞姫が……?」

「否。ここは、通路だ」

燐の声が落ち着いていた。

「真に眠るのは、もっと深く。けれど、ここに立つことで、かの姫の記憶に触れることができる」

璃霞は鏡石の前に立ち、指先を伸ばす。

表面に触れた瞬間、冷たい衝撃が走った。

視界が、一瞬で切り替わる。

そこは、はるか昔の景色だった。

霞に包まれた幻想的な湖。
その湖のほとりに立つ、美しい女性。白銀の髪、青い瞳。

「……璃霞……?」

いや、違う。
その女性は、確かに璃霞に似ていたが、どこか“異質”だった。

静かで、透明で、まるでこの世界の理そのもののように、存在していた。

その傍らには、一人の男が立っていた。
鋭い眼差し、黒銀の鎧⋯⋯燐に酷似している。

いや、それも違う。

二人は、まさしくかつて契りを交わした、最初の者たちだった。

彼らの物語が、璃霞の意識に流れ込んでくる。

遥か古より、霞姫は水の理を宿す者として、人の王に仕えた。
だが、妖たちが人と争いを始めた時、姫はひとり、争いの中心に巻き込まれていく。

姫は人でもなく、妖でもない。
両者を理解しながら、どちらにもなれない境界の者だった。

ある時、姫は夜叉の王と出会う。

妖の王として、炎と闇を纏いながら、人の理を憎み、支配を拒む存在。
その王と姫は、交わるはずのない存在だった⋯⋯はずだった。

けれど、ふたりは惹かれ合う。

共に在れぬ運命を、超えようとした。

そのために選んだのが、契りだった。

力の統合。意識の融合。魂の連結。

彼らは儀を行い、世界の理を揺るがせるほどの力を手に入れた。

だが⋯⋯その代償は、永遠の“分離”だった。

契りが深まれば深まるほど、世界は彼らを恐れ、引き裂こうとした。
そしてついに、彼らの力を封じるために、霊山・白水が創られた。

契りは封印され、ふたりは時の流れに囚われた。

その記憶が、すべて璃霞に注がれる。

璃霞は、膝をついた。

胸の中に、重い熱が広がっていた。
それは悲しみでも、怒りでもなく理解だった。

「……だから、わたしと燐様は、また巡ってきたの……?」

この世界は、同じ因果を繰り返す。

契りの力。
霞と夜叉の絆。
人と妖の亀裂。

その中で、璃霞は、もうひとつの存在になろうとしている。

再び、視界が戻る。

鏡石の前で、璃霞は汗をかきながら目を開けた。
燐がすぐ隣にいた。

「見たか?」

璃霞は、静かに頷く。

「わたし……前の姫の記憶を見た。彼女もあなたと契りを結んだ。でも、世界がそれを許さなかった。その記憶が、わたしの中に流れ込んできた」

燐の瞳が細くなる。

「ならば、もう理解したはずだ。契りとは、世界への挑戦だ。
お前は選べ。契りを深めるか、切るか」

璃霞は答えられなかった。

ただ、胸の奥で何かが確実に変わっていくのを感じていた。

もはや彼女は、ただの人でも姫でもなかった。
自らの選択で、世界に何かを告げる立場になっていた。

そしてその選択が、遠く離れた場所にいるもうひとりの存在に届き始めていた。

どこかの山奥。

灰に包まれた社の中で、一人の少女が目を開けた。

その瞳は金色。
髪は薄い灰。
その表情は⋯⋯璃霞と瓜二つだった。

「……見えた。彼女が、原初に触れた」

その少女の背後には、無数の影が控えていた。

「準備を進めましょう。もうすぐ、扉が開きます」

彼女の名は⋯⋯。

影霞。

璃霞とは異なる、もうひとつの霞姫の可能性。

世界は、分岐を始めていた。

再び山を下りる道すがら、璃霞は言葉を発さなかった。
燐も何も言わず、ただ彼女の歩みに付き従った。

風の音すら聞こえない。
心に重く残った原初の記憶⋯⋯それは、霞姫の血を受け継ぐ者だけに刻まれる運命のようなものだった。

霊山を抜けた先、彼らはふたたび人の里へと戻る。

けれど、待っていたのは静寂ではなかった。

「大変です!」

彼らを出迎えたのは、焦燥をにじませた陰陽師の若者だった。

「北の都、蒼花にて霧喰いが現れました!」

「霧喰い……?」

璃霞が眉をひそめる。

「はい……見えない霧の中に、村ごと飲み込まれたと……。中から戻ってきた者はひとりもおらず、ただ、女の歌声だけが外に響いていたと……」

燐の顔が険しくなる。

「……歌……」

「はい。奇妙な旋律だったと。耳にした者は、みな膝をつき、涙を流し……やがて笑い出したと……」

璃霞は息を呑んだ。

それはまるで、正気を侵す音のようだった。
歌が命を吸い、記憶を染め、魂を喰らう。

「それは……影霞の仕業?」

燐が静かに頷いた。

「恐らく。灰の王の尖兵……いや、王そのものかもしれぬ。
この世界に生きる者の限界を見せるために、奴は哀しみを武器にする」

「……行かなきゃ」

璃霞の声に、燐は目を向けた。

「行って、止めなきゃ……わたしが。わたし自身が、もう扉なんでしょう? なら、逃げるわけにはいかない」

燐は一瞬だけ目を閉じた。そして、彼女の背に手を当てる。

「お前の決意は、もうただの姫のものではない。俺は、お前が選ぶ道を守る。だが……」

「わかってる。これは、戦いじゃない。対話なのよね。わたしと……わたし自身との」

その言葉に、燐は微かに口元を緩めた。

「ならば、行こう。北へ。蒼花の都へ。そこに、お前がもう一人いる」

同時刻、蒼花。

街は灰に沈んでいた。

本来なら紅葉の季節、蒼と赤が交差する美しい都だったが、今はただの白い牢だ。
どこまでも続く霧。音も、色も、時間すら奪われた世界。

中央の石畳の上に、少女がひとり立っていた。

影霞⋯⋯璃霞と瓜二つの顔を持つ、もうひとりの霞姫。
ただしその瞳には、温度というものが存在しなかった。

その唇から、再び歌が紡がれる。

それは、かつて璃霞が母から聴かされた子守歌だった。

けれど、旋律がどこか歪んでいる。
懐かしさの奥に、悲しみと怒りと、そして哀れみが染み込んでいた。

子供たちがひとり、またひとりとその歌に引き寄せられ、瞳を濁らせていく。

「みんな、楽になっていいのよ……」

影霞は呟いた。

「戦う必要も、泣く必要も、憎しみも、恋しさも……もう、何もいらない。灰になれば、全部、終わる。全部、静かになる」

その声は、まるで慈母の声だった。

だが、それは優しさの仮面をかぶった、終焉そのものだった。

影霞の背後で、無数の影がざわめいた。
それは哀しみを選んだ者たちの成れの果て。
彼女が生み出した、灰の眷属たちだった。

彼らは、言葉を持たず、ただ命令に従って灰を拡げる。

その瞬間、風が変わった。

遠く、山の向こうから蒼い風が吹き抜けた。

霧がわずかに裂け、道ができる。

そして、その風の中にふたりの影が現れる。

璃霞と燐だった。

蒼い瞳が、金の瞳を見据える。

まるで、鏡合わせのような邂逅。

「……来たのね」

影霞が言う。

「あなたが……影霞……?」

璃霞の声が揺れる。
対峙した瞬間、自分の中の何かが震えた。
それはまるで、自分を否定されたような感覚。

けれど、影霞は笑っていた。

「ようやく、対話の時が来たのね。璃霞。あなたが選ばなかったもうひとつの道……それが、わたしよ」

蒼花の中心。沈黙に覆われた広場で、二人の「霞姫」が対峙した。

白銀の髪、蒼の瞳の璃霞。
灰色の髪、金の瞳の影霞。

世界の理が静かに震え、霧がゆっくりと渦を巻く。

「あなたが、わたし……?」

璃霞は口を開いた。

「そう。わたしという可能性。愛を捨て、力を選んだ末に生まれたもう一人の霞姫。あなたが背を向けた痛み、無力さ、喪失……それらすべてを抱いて、灰に溶けたわたしよ」

影霞の声は穏やかだった。
だが、その底に潜む狂気と諦念は、場にいた者たちの心を静かに蝕んでいった。

「どうして……そんなに静かでいられるの?」

「静かじゃないわ、璃霞。ただ、もう叫ぶ気力すら残っていないだけ。人も、妖も、希望も……それは全て、繰り返される悲劇。この世界は、何も変わらない。千年前も、今も、ずっーと繰り返しているの」

「わたしは……変えたい。たとえ繰り返していても、何度でも立ち向かう。燐様と出会って、契りを結んで、強くなった。わたしは、希望をまだ信じたいの!」

その言葉に、影霞の表情が僅かに揺れた。

「そう……燐か。あなたはまだ、あの男の手を離していないのね。
でもその手は、やがてあなたを裏切る。必ず」

「燐様は、わたしを裏切らない!」

「裏切らなくても、死ぬ。あなたより先に、あるいはあなたのために。そのとき、あなたはまた一人になるのよ。そしてそのときこそ、あなたもわたしになる。いずれ必ず、どちらかの道を選ばされる。それが扉という存在の運命」

璃霞の胸に、鋭い痛みが走った。
それは彼女の恐れ⋯⋯ずっと心の奥で感じていた別離の予感だった。

けれど。

「……なら、今はまだ選ばない。今この瞬間、燐様がそばにいるなら、それだけで十分。未来の痛みに怯えて、今の希望を手放したくない!」

その叫びに、霧が僅かに揺れた。

影霞の瞳が細くなる。

「やはり……あなたは、愚かだ。けれど⋯⋯強いのね」

そして、影霞が手を上げた。

その瞬間、霧が渦を巻き、周囲の建物を一瞬で飲み込む。
灰の眷属たちが一斉に動き、燐の前に立ちはだかる。

「ここで、確かめましょう。あなたが愛を選んだ者として、どこまで抗えるのか」

璃霞は、短刀を抜いた。
青い霞が彼女の周囲に立ちのぼり、空気が震える。

「わたしは、わたしを守る。たとえあなたが、わたしの未来であっても。たとえ、この手であなたを斬ることになっても⋯⋯わたしは、前に進む!」

二人の霞が、交錯した。

白と灰。愛と諦念。希望と静寂。
相反する二つの理が、ひとつの身体から放たれ、空を裂いた。
霧の都にて、はじまったのは自分との戦いだった。

蒼花の都、中央広場。
霞と灰が交錯する中心で、璃霞と影霞の戦いが静かに、しかし決定的に始まった。

初めに動いたのは、影霞だった。

その足元から広がる灰色の霧が、一瞬で大地を飲み込む。
それはただの霧ではない。意志を持ち、記憶を侵し、心を鈍らせ、最後には“自我”すら融かしてしまう、灰の波。

その霧が襲いかかる瞬間、璃霞の身体から青白い霞が立ち上がった。
彼女の指先には、清流のようにしなやかな剣⋯⋯霞の巫剣が握られていた。

「来なさい⋯⋯灰のわたし」

璃霞の声が、風の中に冴え渡る。

その瞬間、霧と霞が激突した。

静かだった。

爆発音も、風切り音も、怒号もなかった。
ただ、二つの理が空間でぶつかり合い、世界そのものが軋んでいた。

影霞は手を上げ、指先から記憶を紡いだ。

それは璃霞の過去⋯⋯家族を失った夜、血に濡れた廊下、母の叫び、冷えた手。

「……やめて……!」

璃霞の意識に、鋭く過去が突き刺さる。

けれど、その記憶の中に⋯⋯。

燐が現れた。

かつて、闇の中に差し込んだ唯一の光。
誰よりも彼女をただの璃霞として見てくれた男。

その姿が、今も胸に生きていた。

「わたしは……もう、過去に呑まれたりしない!」

璃霞が霞の剣を振るった。

記憶を切り裂き、灰の幻影を吹き飛ばす。
その一撃が空を裂き、地を穿ち、影霞の足元に裂け目を走らせる。

影霞の表情が、はじめて揺れた。

「……あなた、強くなったのね」

「そう。あなたが思うより、ずっと⋯⋯」

その瞬間、燐が前に出た。
彼の目が、影霞を真正面から見据える。

「影霞……その名は、契りの理から外れた者が持つには、重すぎる」

「あなたが言うの?夜叉の王……燐。かつて、原初の契りを破壊し、自ら世界を分けた男が」

「破壊ではない。護ったのだ。俺は世界を選んだ。だが、今は違う。
今の俺は、璃霞と共にある。彼女と共に歩む。それが、俺の新たな契りだ」

影霞の目が細くなる。

「じゃあ、見せてよ。あなたがどれほどのものを懸けて、彼女を選んだのか」

燐が静かに頷いた。

そして⋯⋯彼の周囲の空気が、一瞬で変わった。

風が渦巻き、大地が震え、夜叉としての本性が顕れる。

彼の身体に、黒き炎と漆黒の文様が走り、空気中の影がざわめいた。

璃霞が見たことのない、完全な姿だった。

「……それが、燐様の……真の姿?」

燐の唇が、かすかに動いた。

「俺の真名は⋯⋯燐夜。夜を支配し、炎を統べる夜叉の王。そして今、この名を璃霞の前で告げることが、俺の誓いとなる」

その言葉と同時に、彼の背から黒き羽が広がった。
闇のような光を放ち、世界そのものに影を差し込むような威が走る。

だが⋯⋯璃霞は、怖れなかった。

「……燐様」

ただ一歩、彼のもとへと近づき、手を伸ばす。

「たとえ、この姿でも……わたしにとっては、あなたが燐様です」

その瞬間、影霞が、再び笑った。

「ほんとうに、愛を選ぶのね。ならば⋯⋯わたしがその愛ごと、消し去ってあげる」

そして、霧が爆ぜた。

周囲にいた灰の眷属たちが、一斉に形を変える。

獣のようなもの、少女の姿、老いた者、剣の影、鎖のような霧⋯⋯。
それらはすべて、過去に愛を失った者たちの記憶の残滓だった。

影霞はそれを操る。

「これは世界そのものよ。愛の果て。悲しみの具現。あなたが見ないふりしてきたすべてを、ぶつけてあげる!」

璃霞は短く息を吸った。

足元の霞が、ふわりと舞い上がる。

「いいわ。ならわたしも、わたしそのもので応える。愛を選んだ扉として!」

璃霞の身体から、淡い光が溢れた。

それは契りの証、魂の煌めき。
燐との誓い、そして⋯⋯自らの選択が織り成す、蒼の理。

その光が、空へ、地へ、灰の中へと広がっていく。

世界が、震え始めた。

扉が、開こうとしていた。

広場に立ちこめる霧が、凍てついた静寂のなかで渦巻く。
影霞が生み出した哀しみの眷属たちが、璃霞へと殺到した。

その姿は歪で、美しく、そして悲しかった。

一人は泣く母。
一人は幼き弟。
一人は、かつて璃霞が見捨てた孤児の少女。
全ては璃霞の記憶の奥に沈んでいた、無力だった自分の象徴。

「それでも、あなたは愛を選ぶの?」

影霞の声は、問うようでいて、突き刺す刃のようだった。

璃霞は剣を握り直し、心を静める。

「選ぶ。悲しみがあるから、愛がある。失う痛みがあるからこそ、大切だと思える。あなたがそれを捨てたのなら、わたしは抱きしめる⋯⋯全部」

次の瞬間、灰の眷属たちが一斉に襲いかかる。

空を裂く鋭い爪。
記憶のように滑り込む声。
死者のような冷たい手。

だが璃霞の周囲に、蒼の霞が舞った。

「霞結界⋯⋯流水陣」

璃霞が放った術式が、空間を包む。

その霞は霧を断ち切り、穢れを洗い流す水のような理を持っていた。
眷属たちの叫びがかき消され、次々に霞のなかへと還っていく。

「なんてこと……っ」

影霞が声を詰まらせる。

「彼らの哀しみを、無かったことにするつもり!?」

「違う」

璃霞は、蒼い瞳をまっすぐに影霞へ向けた。

「鎮めて、還すの。忘れ去るんじゃなく、抱えて、終わらせるために。そのためにわたしがいるんでしょう?」

そのとき、空に響く音があった。

キィィィン……と、鈴のような高音。

それは、世界のどこか遠くで鳴る鍵の音だった。

燐が顔を上げる。

「……開くぞ、璃霞。お前のなかの、扉が」

璃霞の身体が淡く光る。

その光は胸元から広がり、肩へ、髪へ、空間そのものへ⋯⋯。
まるで世界に新しい道を刻むかのように、優しく、力強く、染みわたっていった。

影霞が一歩、後ずさる。

「……そんな……。わたしの灰が……かき消されていく……」

「もう、終わらせよう」

璃霞が剣を下ろした。

霞が風のように舞い、影霞の身体を包む。
刃は振るわれていない。ただ、霞が彼女の心に触れた。

「わたしを、否定しないの……?」

「できない。だってあなたは⋯⋯わたしだから」

影霞の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

そしてその涙は、地に落ちることなく、霞の中で光となって溶けていった。

「……あぁ……ようやく……静かになった……」

影霞の身体がゆっくりと霞のなかに溶けていく。

怒りも、悲しみも、痛みも、静かに、優しく、融けていった。

「璃霞……これが、あなたの……愛のかたちなのね……なら……次の道を……間違えないで……お願い……」

その言葉を最後に、影霞は完全に霧の中へと消えた。

そして同時に。

空が晴れた。

長く閉ざされていた霧の都、蒼花に光が差し込む。
空の彼方で、鳥たちが自由に舞い、風が通り抜ける。

誰もが、黙ってその景色を見ていた。

璃霞は膝をついた。

力を使いすぎた身体が悲鳴を上げていたが、心は、不思議と穏やかだった。

そして、背後からそっと支えるように、燐が彼女を抱きとめた。

「よく、やったな。璃霞」

「……燐様。わたし……ひとつ、終わらせることができた……」

「そうだ。そしてそれは、始まりでもある。お前は扉を開いた。だが、その先にはもっと深い世界がある」

璃霞はゆっくりと頷いた。

「行こう。わたしは、まだ見ぬ扉の先を……ちゃんと、自分で選ぶ」

空は蒼く、霞が淡く流れていた。

この日、璃霞は影霞というもう一人の自分を抱きしめ、
そして⋯⋯世界の真理の扉を、静かに開けた。


蒼花の霧が晴れたその夜。
街は静けさに包まれていた。

人々は影霞に操られていたことすら知らず、まどろみのなかで朝を待っている。

璃霞と燐は、広場の外れにある小さな祠に身を寄せていた。

その祠には、かつて霞姫を祀る神座の欠片が封じられていたという。
石は割れ、祠の扉も半ば朽ちていたが、かすかな残滓⋯⋯理の余韻が今なお漂っている。

その中心に、ひとつの痕跡があった。

銀白の紋様で描かれた小さな輪⋯⋯蒼の環。
それは、璃霞が影霞との戦いを終えたあとに残されたものだった。

「これが……扉の形……?」

璃霞が手をかざすと、淡く蒼い光が環から立ちのぼる。

燐が小さく頷いた。

「扉は、もともと外にあるものではない。お前自身が選び、進んだとき⋯⋯初めてそれが扉になる」

「じゃあ、次に進む道も……」

「お前が決めることだ」

璃霞は、そっと環に触れた。

その瞬間。

空間が音もなく、反転した。

周囲の景色が剥がれ落ち、世界の構造が崩れていくような、奇妙な感覚。
まるで現実が一枚の薄紙で、そこに新しい文字を書き加えるような……世界の編集が始まった。

光が満ちる。蒼と白のあいだの、神聖とも言える光。

そして璃霞は、立っていた。

どこでもない場所に。

そこには空も大地もなかった。ただ、霞のように淡く光る霧が漂い、時間すら存在しない間が広がっていた。

「……ここが、神座……?」

その声に、何かが応えた。

否、それは声ですらなかった。
ただ璃霞の胸の奥に、意味だけが染み入ってくるような知覚だった。

「汝、契りの証を持ちし者⋯⋯問う。願いは、何か」

璃霞は、静かに目を閉じた。

そして、迷いなく答えた。

「わたしは⋯⋯選びたい。誰かの代わりじゃなく、誰かの記憶に縛られず、自分の意志で、誰かを守れる強さを選びたい。それが叶うなら、何度でも扉を越える」

応えはなかった。
だが次の瞬間、空間が震え、蒼の環が彼女の胸に溶け込む。

扉が、璃霞自身になった。

その時、再び声が響いた。

「ならば、汝に鍵を授けよう。新たなる理の道、黄泉霞の系譜。選び、進め。そして……つなげ」

蒼が深紅に染まり、光が弾けた。

気づけば璃霞は、祠に戻っていた。
燐が、心配そうに彼女を見ていた。

「璃霞……?」

璃霞は、ふと手を見る。
そこには、今まで持っていた霞の剣とは異なる⋯⋯黒と銀の双刃があった。

「これは……新しい契りの証」

燐が目を細め、微笑む。

「……受け取ったんだな、黄泉霞の系譜を」

「うん。これが、わたしが選んだ未来」

璃霞は立ち上がった。

「燐様。わたし……あなたと出会って、変われた。でも、これからは変えていく側になりたい。扉を越えるだけじゃなく、誰かの扉になれるように」

燐は彼女の手をそっと取った。

「なら、俺はその鍵になろう。璃霞、お前の選ぶ道に、俺の力も賭ける」

「ありがとう。わたし、もう進むって決めたから⋯⋯」

二人は祠を出た。

夜が明けはじめていた。

遥か東の空に、朝日が昇っていく。

霧の都に、蒼い光が差し込む。
そして、静かに終わる。