深い霧が再び里を包み始めた頃、璃霞は燐と共に里の外れにある古びた祠を訪れていた。そこは、夜叉と霞姫の契りにまつわる古の秘密が隠されていると言われる場所だった。
「ここに……何が?」
璃霞は不安げに周囲を見渡した。
燐は静かに祠の扉を押し開き、中へと踏み込む。
祠の内部はひんやりと冷たく、薄暗い空間に淡い青い光が満ちていた。
「これは……」
璃霞の目の前には、水晶のように透き通った古代の巻物が鎮座していた。
燐が慎重に巻物を解くと、そこには夜叉と霞姫の契りの起源と、それにまつわる禁断の力の真実が記されていた。
「お前の力の源は、ただの水の精霊の加護ではない。夜叉の王との契りによって、闇と光の狭間に生まれた特別な力だ」
璃霞は驚きと戸惑いで目を見開いた。
「わたし……そんな秘密を?」
燐は優しく彼女の手を取り、低く囁く。
「この力はお前だけのものではない。お前の血筋、そしてお前と共に歩む者すべての未来を左右する。だからこそ、俺たちはこの力の真実を知り、守らなければならない」
二人が祠を後にすると、外は霧が濃くなり、夜の静寂に不気味な気配が漂っていた。
「危険はすぐそこに迫っている……」
璃霞の胸に新たな決意が芽生えた。
翌日、里に新たな来訪者が現れた。黒いマントに身を包み、顔を影に隠したその人物は、璃霞と燐の前に静かに現れた。
「お前たちの力、そして契りに興味がある者だ」
燐は警戒の色を隠さず、その人物に問いかけた。
「名を名乗れ」
しかし、来訪者は微笑みながらも名前を明かさず、ただ言葉を残した。
「夜叉の契りは祝福でも呪いでもない。真実の意味を知れば、お前たちは選択を迫られるだろう」
その言葉と共に、闇のような霧と共に姿を消した。
璃霞はその謎めいた言葉が頭から離れなかった。
「わたし達の絆は、本当に祝福なのか……それとも呪いか……?」
燐は彼女の不安を感じ取り、そっと背中を撫でた。
「答えはこれから見つけるものだ。お前と俺が共に歩く限り、どんな試練も乗り越えられる」
そして、里には新たな危機の兆しが訪れていた。
陰陽師たちの動きが激しくなり、闇の力が里を取り巻き始めている。
璃霞と燐は、その真実に迫るため、さらに深い謎と向き合う決意を固めた。
夜の帳が降りる頃、璃霞はふと気配に気づき、屋敷の縁側に出た。風が揺れる。冷たい夜気が肌をなで、静かに水面を撫でていく。里は静寂に包まれていたが、胸の奥には、不穏なざわめきがあった。
⋯⋯何かが、近づいている。
魂の奥がそう告げていた。
燐の姿を探して歩き出すと、彼は森の外れでひとり、空を仰いでいた。白銀の月が、黒い髪に冷たい光を落としている。
「燐様」
璃霞の呼びかけに、燐は振り返る。
「来たか……感じるか、風の変化を」
璃霞は頷いた。夜の風が、まるでどこかから悲鳴を運んでくるようだった。森が、ざわめいていた。
「紅い霧が……南の方角から迫ってきている。あの霧はただの天象ではない。誰かが霊的な結界を破った証拠だ」
璃霞は息を呑んだ。
「結界?何の……?」
「お前の中に流れる霞の血……その本当の起源が封印されていた場所だ」
燐の言葉に、璃霞の胸が高鳴る。己の出自にまつわる秘密。忘れ去られた真実。紅い霧は、それを告げに来たのか。
「行こう。真実に、向き合うために」
二人は夜の闇を抜け、霧の立ちこめる南の山へと足を向けた。
山の奥深く、存在すら忘れられた廃社があった。赤く染まる霧が地を這い、木々を濡らしていた。空気は重く、神気と妖気が入り交じる。
「ここが……」
璃霞は視界の先に、ひとつの大きな封印の柱を見つけた。古代の神術で編まれた紋様が刻まれており、柱の周囲には割れた符が散らばっている。
燐の表情が険しくなる。
「封印が破られている……何者かが、内部に侵入したな」
その時だった。
霧の中から、ひとりの影が姿を現した。背は高く、白い髪を風に靡かせている。だが、その顔には仮面。表情は読み取れない。
「ようこそ、霞の姫君よ。そして、夜叉の王」
男の声は柔らかく、それでいてどこか狂気を孕んでいた。
「貴様は何者だ」
燐の声が低く響く。
仮面の男はひとつ笑い、手を広げる。
「私はただ、真実を解き放つ者にすぎない。封印されし霞姫の始祖の記憶⋯⋯お前の血の根源を、いま解き放つ」
次の瞬間、大地が震え、封印の柱が軋みを上げて崩れ始めた。
「止めて……!」
璃霞が叫ぶ。
だが遅かった。柱の下から、銀白の光を纏う巨大な魂のような存在が現れる。
それは、女だった。
長い髪をたなびかせ、蒼い瞳を璃霞と同じく宿した、静かな表情の女。
しかし、その気配は禍々しいほど強く、周囲の空間がひずむ。
「……私の名は、蒼霞。霞姫の始祖にして、災厄の扉を開いた者」
璃霞は体が凍りつくのを感じた。彼女の魂は、目の前の女と深く繋がっている。
それはまるで、自分自身の過去を見せられているような、奇妙な感覚だった。
「我が血を継ぐ者よ。お前が目覚めた今、世界は再び均衡を失う。夜叉と人の契りは、災厄を呼ぶ……それでもお前は、彼と共に在るというのか」
蒼霞の問いに、璃霞は一歩踏み出した。
「わたしは、あなたの記憶を知る。けれど、それに縛られない。燐様と共に歩く未来を、わたしは選ぶ」
その瞬間、蒼霞の瞳が僅かに揺らいだ。
「……ならば、その選択に相応しい試練を与えよう」
彼女は空へ舞い上がると、紅の霧と共に消えた。
「蒼霞……」
燐は呟いた。
「伝承でしか知らぬ名だった。まさか、実在するとは」
「わたしの中には、あの人の記憶も……力も流れている。わたしが何者かを、はっきり知る時が来たのね」
璃霞の表情に、恐れはなかった。あるのはただ、真実に手を伸ばす覚悟だけ。
数日後。
里に戻った璃霞は、体の奥底に流れる新たな力の目覚めを感じていた。水はより深く、夜叉の契りはより強く⋯⋯。
その変化を、燐はそっと見守っていた。
だが同時に、陰陽師たちの陣営もまた、動きを加速させていた。
人と妖の均衡が崩れる兆しは、すでに各地で現れ始めている。災厄の前触れ、封印の揺らぎ。
そして、かつて燐が語った選択の時が、刻一刻と迫っていた。
璃霞は、湖畔にてひとり、水面を見つめていた。
彼女の蒼い瞳に映るのは、自らの過去でも未来でもない。
今を生きる、自分自身の姿だった。
「この力は、恐れるものじゃない。受け入れて、そして……導くものなんだ」
燐が静かに隣に立つ。
「お前の選んだ未来に、俺も共にあろう」
璃霞は微笑み、小さく頷いた。
だが、その時⋯⋯。
空に、亀裂が走った。
まるで天地を割くように、空間が裂け、黒い渦が広がる。
そこから無数の異形の影が、地上へと降りてくる。
「来たな……災厄の門だ」
燐が剣を抜く。
「これは……戦争になる」
璃霞も構える。
彼女の体から、かつてないほど強く、冷たく、美しい水の刃が浮かび上がる。
「守る……わたしは、守る。愛した人を、共に生きる世界を」
二人の背に、契りの印が輝く。
その光は、夜の空に抗うように強く、静かに⋯⋯しかし、決して消えることのない意志の光だった。
風が止んだ。空気が凍りついたように静まり返り、森の梢までもが息を潜めている。
璃霞の白い髪がかすかに揺れ、蒼い瞳が虚空の裂け目を見上げていた。
その空の裂け目⋯⋯災厄の門と呼ばれるそれは、まるで夜空に流し墨を垂らしたように広がっていた。黒い渦の中から、歪な影が次々と現れ、大地へと降り立っていく。
「これは……もう、ただの戦いじゃない」
璃霞の声は震えてはいなかった。ただ、冷静に、現実を見つめていた。
燐が横に立ち、静かに頷く。
「この門の向こうにあるのは、闇そのものだ。そこから生まれ落ちたものに、理は通じない……殺すしかない」
「どうして……どうして、こんなことが起きるの?」
「この世界は均衡の上に立っている。お前の覚醒、契りの深化、それが揺らぎを生んだ」
璃霞は言葉を失った。
自分の力が、世界を狂わせている⋯⋯。
そんな思いが胸を刺した。
「だけど……私はこの力を、破壊のためじゃなく、守るために使いたい」
璃霞は顔を上げた。月明かりの中で、その横顔はまるで神仏のように静かだった。
燐は小さく微笑み、彼女の髪に触れる。
「それができるのは、お前だけだ。蒼霞の血も、霞の運命も、お前なら超えられる……俺は、信じている」
その時、地響きが起きた。
森の中から、黒く蠢く魔物たちが現れ始めた。巨大な影、獣のような姿、人の形を模した異形⋯⋯どれもが人知の外にある存在だった。
「来るぞ」
燐は剣を抜いた。漆黒の刀身が夜気を切り裂く。
璃霞は両手を前に組み、静かに水の気を集めていく。空気中の湿気が凝縮し、彼女の周囲に小さな渦を作った。
「行こう、燐様。わたしたちの世界を、壊させない」
その言葉とともに、二人は跳んだ。
戦場は地獄のようだった。地面は裂け、炎と氷と闇が混ざり合い、叫びと咆哮が空にこだまする。
璃霞の水刃は、切り裂くと同時に癒しも与えた。味方の傷を包み、炎を鎮め、毒を洗い流す。
彼女の動きは舞のようであり、殺意を孕んだ芸術だった。
一方、燐の闇は容赦がなかった。
剣を振るうたび、敵の影が喰われる。
彼の剣はただ斬るだけではない。対象の存在そのものを消す力を持っていた。
「燐様、右側に!」
璃霞の叫びと同時に、黒い触手のようなものが燐に向かって伸びる。
彼は振り返りもせず、後ろ手に剣を振るった。触手は消し飛び、地面がえぐれた。
「援護は完璧だな」
燐が言う。
「当然です」
璃霞が笑う。ふたりの呼吸は完璧だった。
⋯⋯だが、その時。
空が悲鳴をあげた。裂け目がさらに広がり、その中心から、巨大な存在が降りてくる。
その姿は、人のようであり、まったくの異形でもあった。
六本の腕。炎のように燃える瞳。背には骨のような羽根が伸び、肌は鉛色に染まっている。
「これは……古の禁忌、堕神」
燐が低く唸った。
「神、なの……?」
璃霞の声はかすれていた。
「かつて、この世界を滅ぼしかけた存在。神が堕ち、意志を失い、本能だけで世界を喰らう存在。契りの崩壊が、こいつを呼び起こした」
堕神が、口を開いた。
声はなかった。ただ、空間全体が震えた。
その瞬間、何人かの戦士が血を吹き、地に崩れ落ちた。
「声だけで命を奪う……っ」
璃霞が歯を食いしばる。
「ここで止めなければ、世界が壊れる」
燐の顔に、焦りはなかった。ただ、静かな決意だけがあった。
「わたしの力じゃ、通じるかわからない……」
「通じる。契りの光がある限り、お前はすべてを超えられる」
燐が彼女の手を取った。
「融合するぞ。契りの力を解放する。もう一段階深く、お前と俺の魂を重ねる」
璃霞の瞳が揺れた。
「それは……魂をひとつにするってこと?」
「命を預け合う。お互いが、どちらにもなれるほどに」
璃霞は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「……やろう。もう、後戻りしない」
燐が呪文を唱えると、二人の体を青と黒の光が包み込む。
その光は激しく、しかし美しく⋯⋯まるで星が爆ぜるようだった。
魂が融合する。
璃霞と燐、ふたつの存在が、ひとつの光になって昇華していく。
その姿は、誰の目にも神聖に映った。
「行くぞ……堕神を、ここで終わらせる!」
璃霞の体に、燐の影の力が流れ込み、同時に燐の心に、璃霞の優しさと澄んだ気が広がっていく。
ふたりは跳んだ。天へ。堕神の元へ⋯⋯。
⋯⋯天が割れた。
璃霞と燐、その融合された存在が放つ光は、堕神の黒い身体に一直線に突き刺さった。
悲鳴のような振動が空間に走り、地が大きく波打つ。大地の裂け目から火柱が上がり、空を貫いた。
「もっと……!」
璃霞の声が光と混じって空間を震わせた。彼女の胸の奥から溢れる水の気が、巨大な龍のように姿を取り、堕神に巻きつく。
龍の水鱗は透き通っており、月の光を反射して宝石のように輝いていた。
燐の剣が、その龍の中心に走るように重なる。
「魂界一閃……!」
燐が呪文を唱えると同時に、黒と蒼の光が絡まり、眩い閃光が世界を塗りつぶした。
それは、一瞬だった。
堕神の身体が、大きく軋みながら裂け始めた。
まるで静かに砕ける氷のように、音もなく、ゆっくりと。
だがその直後。
堕神の瞳が開いた。
その瞳は、全ての感情を拒絶するような、絶対的な無だった。
彼の身体から突如、漆黒の触手が無数に伸び、璃霞と燐の融合体を捕らえようと襲いかかる。
「燐様、来る!」
「わかってる……!だが、こいつの本体はまだ崩れてない!」
触手が裂け、切断されるたびに、そこからさらに新たな影が生まれてくる。
それはまるで、恐怖そのものが自己増殖しているかのようだった。
「これじゃ、キリがない……!」
璃霞は体力の限界を感じ始めていた。契りの力で増幅された魔力すら、消耗が早い。
燐もまた、額に汗を浮かべていた。
それでも、彼らは止まらなかった。
「これが……最後の一撃だ」
燐が静かに言う。
璃霞は、彼の視線を見て理解した。
この一撃は、命を懸けたものになる⋯⋯そう、燐は分かっていた。
「やめて」
璃霞が叫んだ。
「そんなの……いらない。命を差し出してまで守られたくない!」
「違う。これは共に捧げる一撃だ。お前が共に戦ってくれるからこそ、俺は最後の力を使える」
璃霞の目に、涙が浮かんだ。
「なら……一緒に。わたしも、命を込める」
ふたりの手が再び重なった。
魂が完全に融合する。
もう、どちらが璃霞でどちらが燐かは、境界が曖昧だった。
それでも、心はひとつだった。
璃霞が詠唱する。
「水よ⋯⋯遥か昔に閉ざされた運命を洗い流し、いまここに、新たな流れを刻め……!」
燐が剣を掲げる。
「闇よ⋯⋯理を越えた破壊の力よ、俺の意志と共に、災厄を喰らい尽くせ……!」
ふたりの魔力が天と地を結ぶ雷となり、空間を震わせた。
堕神が動く。巨大な腕を振り下ろす。
だが、その前に⋯⋯。
「⋯⋯解放」
ふたりの声が重なった瞬間。
光と闇が混ざり合い、堕神の身体に突き刺さる。
その内部から裂けるようにして、白い光が迸った。
堕神が叫ぶ。
だが、その叫びも、やがて……。
終わった。
堕神の身体が砕け、黒い灰となって空へと舞い上がる。
裂けた空が閉じ、世界が、ようやく静けさを取り戻した。
気づけば、璃霞は地面に倒れていた。
隣には、燐の姿。
「燐様……っ!」
彼女は叫び、すがるように彼の身体に手を伸ばした。
燐の目は閉じられていたが、その表情は穏やかだった。
「……終わったのか」
燐が、かすかに唇を動かす。
「うん……うん、終わったよ……!」
璃霞は涙を流しながら彼の手を強く握った。
燐の手が、彼女の髪に触れる。
「お前は……強かった。……美しかった」
「だめ。そんなの、まるで……お別れみたいに言わないで……!」
燐は微笑む。
「違う。これは、始まりだ。お前が……世界を導いていく。俺は……」
「わたしも一緒に行く。ずっと、傍にいるって言った。置いてかないで」
しかし、燐の手の温もりが、徐々に失われていく。
璃霞の身体から、霧のように蒼い気が溢れた。彼女の涙が、その力と混ざり合って燐の胸へと吸い込まれていく。
「お願い……わたしの命を、分ける。だから……っ」
その時、契りの紋が再び輝いた。
蒼い光が燐の胸から走り、彼の心臓の鼓動が⋯⋯微かに、戻った。
璃霞は彼を抱きしめ、ただ静かに泣いた。
その涙は、命の重さを、愛の深さを、すべて物語っていた。
深い静寂が辺りを包んでいた。
大地はひび割れ、空にはまだ名残の赤が滲んでいる。それでも、堕神が消えたことによって、空気は確かに変わっていた。
濁っていた風が澄み、水はゆっくりと流れを取り戻していた。
その中で、璃霞はただ、燐の傍に座り続けていた。
彼はまだ意識を取り戻していない。けれど、胸元に手を当てると、かすかに鼓動が感じられた。
とても微かな、生きている証。
璃霞はその鼓動に耳を澄ませながら、静かに目を閉じた。
「……わたしたちは、生き残った」
小さな呟きは、風に溶けて消えた。
その言葉には、喜びも、安堵も、痛みも、全部含まれていた。
決して一つではない、複雑な感情が胸に渦巻く。
命をかけた戦いの果てに、彼女が手にしたものは「喪失」と「再生」だった。
少し離れた場所では、夜叉たちが静かに周囲を警戒していた。
陰陽師たちの姿も見えた。敵だった者たちでさえ、この地獄を共にくぐったことで、今は沈黙の同盟のように並んでいた。
戦いが終わったという事実が、誰の胸にもまだ、実感としては届いていない。
璃霞は空を見上げた。
かつて亀裂が走っていた空は、今は少しずつ元の蒼を取り戻しつつあった。
その蒼はどこか、彼女の瞳と似ていた。
ふいに、燐の指がわずかに動いた。
璃霞は目を見開いた。
「燐様……?聞こえますか?」
もう一度、彼の胸に手を当てる。鼓動が、先ほどよりも少しだけ強くなっている。
意識が、確実に戻ってこようとしている。
彼女はそっと額を彼の額に重ね、囁いた。
「帰ってきて……わたしの傍に、また立って」
遠くで風鈴のような音が鳴った。
それはたぶん、どこかで壊れた社が風に揺れている音だったのだろう。
けれど璃霞には、それが世界が彼らに語りかけているように感じられた。
⋯⋯おかえり、と。
しばらくして、燐はゆっくりと目を開けた。
「……璃霞」
「はい……!わたし、ここにいます!」
璃霞の目から、再び涙が零れた。それは哀しみではなく、確かな希望の涙だった。
彼が戻ってきた。命を捧げたはずの彼が、自分の願いで、想いで、また生きてくれている。
燐は微笑みながら、かすれた声で言った。
「また……一緒に、歩けるな」
璃霞は強く頷いた。
「はい。今度は、わたしがあなたを守ります」
ふたりはもう、何も言葉を交わさなくても通じ合っていた。
夜は静かに明け始めていた。
雲の切れ間から、薄紅の陽光が差し込んでくる。
それはまるで、世界がふたりに微笑んでいるかのようだった。
璃霞は立ち上がり、燐の手を引いて、朝陽の方へ向かって歩き出した。
背中に、風が吹いていた。
それは新たな旅路の合図だった。
まだ朝靄の立ちこめる森の奥で、灰色の羽音が微かに響いた。
ふわりと舞い降りたのは、一羽の鴉だった。目だけが異様に赤く、どこか人のような知性を宿している。
その鴉は、倒れた堕神の残骸⋯⋯すでに灰と化したその場所の中心にとまり、首を傾げた。
まるで、何かを確認するかのように。
「……やはり、砕けたか。夜叉と霞の血が、ここまでの力を発揮するとは」
その声は鴉のくちばしからではなかった。
声は、木々の影から響いた。
黒い衣を纏い、仮面をつけた人物が姿を現す。
仮面は、あのとき封印の前に現れた男と同じ。
だがその背には、六つの影が従っていた。どれもが人間ではない。
牙、羽、鱗、炎、氷、毒。あらゆる異能の象徴を纏いながら、影たちは沈黙を保っていた。
「さて……女神の器が目覚めた以上、次に動くのは灰の王の番か」
仮面の男は、鴉の頭をそっと撫でる。
「璃霞、お前は知らねばならぬ。自らが扉であることを。堕神など序章に過ぎぬ。
この世界はまだ、本当の夜を知らない」
そして彼らは、霧の中へと消えた。
その頃。
璃霞は、燐と共に里へ戻っていた。
けれど、その姿はもはやただの姫ではなかった。
人も妖も、彼女を見る目が変わっていた。
敬意、畏怖、希望、そして恐れ。
彼女の中にある霞の血は、完全に目覚めていた。
戦いの記憶、蒼霞の記憶、契りの力⋯⋯すべてが、彼女を変えていた。
だが璃霞自身は、何も変わっていないように感じていた。
「ねえ、燐様。わたしたちは、これからどうなるのかな」
彼女はぽつりと呟いた。
燐は横を歩きながら、空を仰ぐ。
「どう、とは?」
「わたしが、強くなればなるほど……壊れていくものもある気がして」
燐は静かに立ち止まり、璃霞を見つめる。
その瞳には、深い闇と同時に、光が宿っていた。
「お前は、壊すために強くなるのではない。繋ぐために、在る」
「でも……」
「この世界には、ふたつの王が存在する。ひとつは俺。夜叉の王。
もうひとつは、まだ目覚めていない灰の王だ」
璃霞は振り返る。
「……その灰の王が、次の災厄?」
「そうだ。奴は、かつてこの世から色を奪おうとした。世界を灰一色に塗り替えることで、痛みも争いもすべて消そうとした」
「……それって、ある意味では優しさなのかもしれないね」
「優しさで世界を無にするのは、ただの怠惰だ」
燐の声が鋭くなる。
璃霞は目を伏せる。
「わたしの中にも、時々あるの。……全部、終わってしまえばいいって。
そしたら、傷つかなくて済むって」
燐は、彼女の手を握った。
「お前がそう思うなら、なおさらだ。灰に抗え。色を持たぬ世界は、死と同じだ。お前の涙も、喜びも、すべて意味をなくす」
璃霞は、その手の温もりに、そっと頷いた。
「……なら、灰の王が動き出す前に、わたしたちが探らなきゃいけないね。
扉が何なのか、そしてわたしがどこへ向かうべきなのか」
「そのために、まずは霊山・白水へ向かうぞ。そこに、お前の血脈のさらに奥⋯⋯霞姫の原初が眠っている」
璃霞の瞳が揺れた。
「原初……?」
燐は歩き出しながら言った。
「俺たちはまだ、自分たちの力の全容を知らない。だからこそ、備えねばならない。
次は、これまでのどの災いよりも⋯⋯深く、冷たいぞ」
璃霞は一度だけ振り返った。
里はまだ朝の光の中、平穏に包まれているように見えた。
けれど、その静けさの奥で、何かが確かに脈動している。
遠く、空の向こうで。
次の夜が、すでに始まりかけている。
彼女は再び、前を向いた。
そして、歩き出す。
霊山・白水。
その名の通り、白い霧と水に覆われた聖域。かつて霞姫たちが封じられた地であり、人と妖の交わりが最も深く交錯した場所だった。
璃霞は、燐とともに、山の麓にある石の門をくぐった。
その瞬間、空気が変わった。
音が消え、風が止み、視界が一面の白に包まれる。
「ここが……白水」
璃霞が呟く。
「この山は記憶を映す。歩く者の過去、心の奥底にあるものを、映像として見せるとされている」
燐が静かに言った。
「心を読まれるってこと?」
「違う。読まれるのではなく、晒されるのだ。自分自身に。お前は、逃げるな。すべてを見届けろ」
璃霞は小さく息を飲み、歩を進めた。
彼女の足元から霧が立ち上り、次第にその輪郭が形を成していく。
最初に現れたのは⋯⋯かつての家族。
幼い璃霞が、母に手を引かれて歩いている姿。笑っていた。
その後ろには、まだ生きていた父の姿もある。優しい目をしていた。
「……懐かしい」
璃霞は、ぽつりと呟いた。
だが、その光景はすぐに変わった。
燃える屋敷。血まみれの床。
倒れた家族。逃げ惑う下女たち。
少女だった璃霞が、ただひとり、生き残っていた。
「いや……もう、いい……」
彼女は目を背けようとしたが、足が止まらなかった。
見たくなくても、進まなければならない。それが、この霊山の掟だった。
次に現れたのは、夜叉たちに囲まれていた璃霞。
初めて燐と出会った日。
剣を向けられ、恐怖と怒りと好奇心が入り混じったあの夜。
そして、契りの儀。
燐と向かい合い、命を繋いだ瞬間。
すべての記憶が、痛みも喜びも、そのまま現実のように再現されていく。
それらを、璃霞は歯を食いしばって見つめた。
燐は、隣で彼女を見守っていた。何も言わなかった。
ただ、必要なときに、手を差し出すために。
やがて、白い霧が形を変え、最後に現れたのは。
鏡のように、璃霞自身だった。
もうひとりの璃霞は、冷たい目をしていた。
髪はさらに白く、瞳は淡い金に輝いている。
まるで、神格を得た存在⋯⋯完全な霞姫の姿。
「……あなたは」
「わたしよ。可能性のひとつ。すべてを受け入れ、すべてを超えた存在」
鏡の璃霞が、静かに言う。
「それが、わたしの最終形?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。あなたがこのまま力を選び続ければ、わたしになる。けれど⋯⋯愛を選ぶなら、違う道もある」
「愛……?」
「燐と生きる道。争いを捨てる道。人としての限界を受け入れる道。だが、その代わり……あなたは、いずれ守れなくなる」
璃霞の瞳が揺れた。
「つまり、選べってこと?」
「そう。ここで選びなさい。力か、愛か。あなたは世界の扉。その選択ひとつで、すべてが変わる」
璃霞は立ち尽くした。
この問いは、彼女の中の根幹に触れるものだった。
今までは、両方を手に入れようとしていた。
燐を愛し、力を求め、世界を救おうとしていた。
でも、現実は⋯⋯それを許してはくれないのかもしれない。
璃霞は、目を閉じた。
そして静かに答えた。
「……まだ、選ばない」
鏡の璃霞が、目を見開いた。
「なぜ?」
「わたしは、まだ可能性の途中にいる。今ここでどちらかを選ぶことは、どちらかを捨てること。それが、いちばん怖い」
「それは甘えだわ」
「そう。甘えだと思う。でも、それでも⋯⋯わたしは、途中でいたい。もう少しだけ、足掻かせて」
鏡の璃霞は、しばらく黙って彼女を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……その答えを持ち帰りなさい。いずれまた、わたしは現れる。その時までに、選べる自分になっていることを願うわ」
そして幻は消え、霧が静かに晴れていった。
燐が璃霞の肩に手を置く。
「見届けたか」
「……うん。全部、見た。認めた。だから、進める」
ふたりは、霊山の奥へと進んでいった。
そこに眠る原初の霞姫の秘密を知るために。
まだ夜は明けていない。
だが、その先に待つものが何であれ⋯⋯璃霞の歩みに、もう迷いはなかった。
「ここに……何が?」
璃霞は不安げに周囲を見渡した。
燐は静かに祠の扉を押し開き、中へと踏み込む。
祠の内部はひんやりと冷たく、薄暗い空間に淡い青い光が満ちていた。
「これは……」
璃霞の目の前には、水晶のように透き通った古代の巻物が鎮座していた。
燐が慎重に巻物を解くと、そこには夜叉と霞姫の契りの起源と、それにまつわる禁断の力の真実が記されていた。
「お前の力の源は、ただの水の精霊の加護ではない。夜叉の王との契りによって、闇と光の狭間に生まれた特別な力だ」
璃霞は驚きと戸惑いで目を見開いた。
「わたし……そんな秘密を?」
燐は優しく彼女の手を取り、低く囁く。
「この力はお前だけのものではない。お前の血筋、そしてお前と共に歩む者すべての未来を左右する。だからこそ、俺たちはこの力の真実を知り、守らなければならない」
二人が祠を後にすると、外は霧が濃くなり、夜の静寂に不気味な気配が漂っていた。
「危険はすぐそこに迫っている……」
璃霞の胸に新たな決意が芽生えた。
翌日、里に新たな来訪者が現れた。黒いマントに身を包み、顔を影に隠したその人物は、璃霞と燐の前に静かに現れた。
「お前たちの力、そして契りに興味がある者だ」
燐は警戒の色を隠さず、その人物に問いかけた。
「名を名乗れ」
しかし、来訪者は微笑みながらも名前を明かさず、ただ言葉を残した。
「夜叉の契りは祝福でも呪いでもない。真実の意味を知れば、お前たちは選択を迫られるだろう」
その言葉と共に、闇のような霧と共に姿を消した。
璃霞はその謎めいた言葉が頭から離れなかった。
「わたし達の絆は、本当に祝福なのか……それとも呪いか……?」
燐は彼女の不安を感じ取り、そっと背中を撫でた。
「答えはこれから見つけるものだ。お前と俺が共に歩く限り、どんな試練も乗り越えられる」
そして、里には新たな危機の兆しが訪れていた。
陰陽師たちの動きが激しくなり、闇の力が里を取り巻き始めている。
璃霞と燐は、その真実に迫るため、さらに深い謎と向き合う決意を固めた。
夜の帳が降りる頃、璃霞はふと気配に気づき、屋敷の縁側に出た。風が揺れる。冷たい夜気が肌をなで、静かに水面を撫でていく。里は静寂に包まれていたが、胸の奥には、不穏なざわめきがあった。
⋯⋯何かが、近づいている。
魂の奥がそう告げていた。
燐の姿を探して歩き出すと、彼は森の外れでひとり、空を仰いでいた。白銀の月が、黒い髪に冷たい光を落としている。
「燐様」
璃霞の呼びかけに、燐は振り返る。
「来たか……感じるか、風の変化を」
璃霞は頷いた。夜の風が、まるでどこかから悲鳴を運んでくるようだった。森が、ざわめいていた。
「紅い霧が……南の方角から迫ってきている。あの霧はただの天象ではない。誰かが霊的な結界を破った証拠だ」
璃霞は息を呑んだ。
「結界?何の……?」
「お前の中に流れる霞の血……その本当の起源が封印されていた場所だ」
燐の言葉に、璃霞の胸が高鳴る。己の出自にまつわる秘密。忘れ去られた真実。紅い霧は、それを告げに来たのか。
「行こう。真実に、向き合うために」
二人は夜の闇を抜け、霧の立ちこめる南の山へと足を向けた。
山の奥深く、存在すら忘れられた廃社があった。赤く染まる霧が地を這い、木々を濡らしていた。空気は重く、神気と妖気が入り交じる。
「ここが……」
璃霞は視界の先に、ひとつの大きな封印の柱を見つけた。古代の神術で編まれた紋様が刻まれており、柱の周囲には割れた符が散らばっている。
燐の表情が険しくなる。
「封印が破られている……何者かが、内部に侵入したな」
その時だった。
霧の中から、ひとりの影が姿を現した。背は高く、白い髪を風に靡かせている。だが、その顔には仮面。表情は読み取れない。
「ようこそ、霞の姫君よ。そして、夜叉の王」
男の声は柔らかく、それでいてどこか狂気を孕んでいた。
「貴様は何者だ」
燐の声が低く響く。
仮面の男はひとつ笑い、手を広げる。
「私はただ、真実を解き放つ者にすぎない。封印されし霞姫の始祖の記憶⋯⋯お前の血の根源を、いま解き放つ」
次の瞬間、大地が震え、封印の柱が軋みを上げて崩れ始めた。
「止めて……!」
璃霞が叫ぶ。
だが遅かった。柱の下から、銀白の光を纏う巨大な魂のような存在が現れる。
それは、女だった。
長い髪をたなびかせ、蒼い瞳を璃霞と同じく宿した、静かな表情の女。
しかし、その気配は禍々しいほど強く、周囲の空間がひずむ。
「……私の名は、蒼霞。霞姫の始祖にして、災厄の扉を開いた者」
璃霞は体が凍りつくのを感じた。彼女の魂は、目の前の女と深く繋がっている。
それはまるで、自分自身の過去を見せられているような、奇妙な感覚だった。
「我が血を継ぐ者よ。お前が目覚めた今、世界は再び均衡を失う。夜叉と人の契りは、災厄を呼ぶ……それでもお前は、彼と共に在るというのか」
蒼霞の問いに、璃霞は一歩踏み出した。
「わたしは、あなたの記憶を知る。けれど、それに縛られない。燐様と共に歩く未来を、わたしは選ぶ」
その瞬間、蒼霞の瞳が僅かに揺らいだ。
「……ならば、その選択に相応しい試練を与えよう」
彼女は空へ舞い上がると、紅の霧と共に消えた。
「蒼霞……」
燐は呟いた。
「伝承でしか知らぬ名だった。まさか、実在するとは」
「わたしの中には、あの人の記憶も……力も流れている。わたしが何者かを、はっきり知る時が来たのね」
璃霞の表情に、恐れはなかった。あるのはただ、真実に手を伸ばす覚悟だけ。
数日後。
里に戻った璃霞は、体の奥底に流れる新たな力の目覚めを感じていた。水はより深く、夜叉の契りはより強く⋯⋯。
その変化を、燐はそっと見守っていた。
だが同時に、陰陽師たちの陣営もまた、動きを加速させていた。
人と妖の均衡が崩れる兆しは、すでに各地で現れ始めている。災厄の前触れ、封印の揺らぎ。
そして、かつて燐が語った選択の時が、刻一刻と迫っていた。
璃霞は、湖畔にてひとり、水面を見つめていた。
彼女の蒼い瞳に映るのは、自らの過去でも未来でもない。
今を生きる、自分自身の姿だった。
「この力は、恐れるものじゃない。受け入れて、そして……導くものなんだ」
燐が静かに隣に立つ。
「お前の選んだ未来に、俺も共にあろう」
璃霞は微笑み、小さく頷いた。
だが、その時⋯⋯。
空に、亀裂が走った。
まるで天地を割くように、空間が裂け、黒い渦が広がる。
そこから無数の異形の影が、地上へと降りてくる。
「来たな……災厄の門だ」
燐が剣を抜く。
「これは……戦争になる」
璃霞も構える。
彼女の体から、かつてないほど強く、冷たく、美しい水の刃が浮かび上がる。
「守る……わたしは、守る。愛した人を、共に生きる世界を」
二人の背に、契りの印が輝く。
その光は、夜の空に抗うように強く、静かに⋯⋯しかし、決して消えることのない意志の光だった。
風が止んだ。空気が凍りついたように静まり返り、森の梢までもが息を潜めている。
璃霞の白い髪がかすかに揺れ、蒼い瞳が虚空の裂け目を見上げていた。
その空の裂け目⋯⋯災厄の門と呼ばれるそれは、まるで夜空に流し墨を垂らしたように広がっていた。黒い渦の中から、歪な影が次々と現れ、大地へと降り立っていく。
「これは……もう、ただの戦いじゃない」
璃霞の声は震えてはいなかった。ただ、冷静に、現実を見つめていた。
燐が横に立ち、静かに頷く。
「この門の向こうにあるのは、闇そのものだ。そこから生まれ落ちたものに、理は通じない……殺すしかない」
「どうして……どうして、こんなことが起きるの?」
「この世界は均衡の上に立っている。お前の覚醒、契りの深化、それが揺らぎを生んだ」
璃霞は言葉を失った。
自分の力が、世界を狂わせている⋯⋯。
そんな思いが胸を刺した。
「だけど……私はこの力を、破壊のためじゃなく、守るために使いたい」
璃霞は顔を上げた。月明かりの中で、その横顔はまるで神仏のように静かだった。
燐は小さく微笑み、彼女の髪に触れる。
「それができるのは、お前だけだ。蒼霞の血も、霞の運命も、お前なら超えられる……俺は、信じている」
その時、地響きが起きた。
森の中から、黒く蠢く魔物たちが現れ始めた。巨大な影、獣のような姿、人の形を模した異形⋯⋯どれもが人知の外にある存在だった。
「来るぞ」
燐は剣を抜いた。漆黒の刀身が夜気を切り裂く。
璃霞は両手を前に組み、静かに水の気を集めていく。空気中の湿気が凝縮し、彼女の周囲に小さな渦を作った。
「行こう、燐様。わたしたちの世界を、壊させない」
その言葉とともに、二人は跳んだ。
戦場は地獄のようだった。地面は裂け、炎と氷と闇が混ざり合い、叫びと咆哮が空にこだまする。
璃霞の水刃は、切り裂くと同時に癒しも与えた。味方の傷を包み、炎を鎮め、毒を洗い流す。
彼女の動きは舞のようであり、殺意を孕んだ芸術だった。
一方、燐の闇は容赦がなかった。
剣を振るうたび、敵の影が喰われる。
彼の剣はただ斬るだけではない。対象の存在そのものを消す力を持っていた。
「燐様、右側に!」
璃霞の叫びと同時に、黒い触手のようなものが燐に向かって伸びる。
彼は振り返りもせず、後ろ手に剣を振るった。触手は消し飛び、地面がえぐれた。
「援護は完璧だな」
燐が言う。
「当然です」
璃霞が笑う。ふたりの呼吸は完璧だった。
⋯⋯だが、その時。
空が悲鳴をあげた。裂け目がさらに広がり、その中心から、巨大な存在が降りてくる。
その姿は、人のようであり、まったくの異形でもあった。
六本の腕。炎のように燃える瞳。背には骨のような羽根が伸び、肌は鉛色に染まっている。
「これは……古の禁忌、堕神」
燐が低く唸った。
「神、なの……?」
璃霞の声はかすれていた。
「かつて、この世界を滅ぼしかけた存在。神が堕ち、意志を失い、本能だけで世界を喰らう存在。契りの崩壊が、こいつを呼び起こした」
堕神が、口を開いた。
声はなかった。ただ、空間全体が震えた。
その瞬間、何人かの戦士が血を吹き、地に崩れ落ちた。
「声だけで命を奪う……っ」
璃霞が歯を食いしばる。
「ここで止めなければ、世界が壊れる」
燐の顔に、焦りはなかった。ただ、静かな決意だけがあった。
「わたしの力じゃ、通じるかわからない……」
「通じる。契りの光がある限り、お前はすべてを超えられる」
燐が彼女の手を取った。
「融合するぞ。契りの力を解放する。もう一段階深く、お前と俺の魂を重ねる」
璃霞の瞳が揺れた。
「それは……魂をひとつにするってこと?」
「命を預け合う。お互いが、どちらにもなれるほどに」
璃霞は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「……やろう。もう、後戻りしない」
燐が呪文を唱えると、二人の体を青と黒の光が包み込む。
その光は激しく、しかし美しく⋯⋯まるで星が爆ぜるようだった。
魂が融合する。
璃霞と燐、ふたつの存在が、ひとつの光になって昇華していく。
その姿は、誰の目にも神聖に映った。
「行くぞ……堕神を、ここで終わらせる!」
璃霞の体に、燐の影の力が流れ込み、同時に燐の心に、璃霞の優しさと澄んだ気が広がっていく。
ふたりは跳んだ。天へ。堕神の元へ⋯⋯。
⋯⋯天が割れた。
璃霞と燐、その融合された存在が放つ光は、堕神の黒い身体に一直線に突き刺さった。
悲鳴のような振動が空間に走り、地が大きく波打つ。大地の裂け目から火柱が上がり、空を貫いた。
「もっと……!」
璃霞の声が光と混じって空間を震わせた。彼女の胸の奥から溢れる水の気が、巨大な龍のように姿を取り、堕神に巻きつく。
龍の水鱗は透き通っており、月の光を反射して宝石のように輝いていた。
燐の剣が、その龍の中心に走るように重なる。
「魂界一閃……!」
燐が呪文を唱えると同時に、黒と蒼の光が絡まり、眩い閃光が世界を塗りつぶした。
それは、一瞬だった。
堕神の身体が、大きく軋みながら裂け始めた。
まるで静かに砕ける氷のように、音もなく、ゆっくりと。
だがその直後。
堕神の瞳が開いた。
その瞳は、全ての感情を拒絶するような、絶対的な無だった。
彼の身体から突如、漆黒の触手が無数に伸び、璃霞と燐の融合体を捕らえようと襲いかかる。
「燐様、来る!」
「わかってる……!だが、こいつの本体はまだ崩れてない!」
触手が裂け、切断されるたびに、そこからさらに新たな影が生まれてくる。
それはまるで、恐怖そのものが自己増殖しているかのようだった。
「これじゃ、キリがない……!」
璃霞は体力の限界を感じ始めていた。契りの力で増幅された魔力すら、消耗が早い。
燐もまた、額に汗を浮かべていた。
それでも、彼らは止まらなかった。
「これが……最後の一撃だ」
燐が静かに言う。
璃霞は、彼の視線を見て理解した。
この一撃は、命を懸けたものになる⋯⋯そう、燐は分かっていた。
「やめて」
璃霞が叫んだ。
「そんなの……いらない。命を差し出してまで守られたくない!」
「違う。これは共に捧げる一撃だ。お前が共に戦ってくれるからこそ、俺は最後の力を使える」
璃霞の目に、涙が浮かんだ。
「なら……一緒に。わたしも、命を込める」
ふたりの手が再び重なった。
魂が完全に融合する。
もう、どちらが璃霞でどちらが燐かは、境界が曖昧だった。
それでも、心はひとつだった。
璃霞が詠唱する。
「水よ⋯⋯遥か昔に閉ざされた運命を洗い流し、いまここに、新たな流れを刻め……!」
燐が剣を掲げる。
「闇よ⋯⋯理を越えた破壊の力よ、俺の意志と共に、災厄を喰らい尽くせ……!」
ふたりの魔力が天と地を結ぶ雷となり、空間を震わせた。
堕神が動く。巨大な腕を振り下ろす。
だが、その前に⋯⋯。
「⋯⋯解放」
ふたりの声が重なった瞬間。
光と闇が混ざり合い、堕神の身体に突き刺さる。
その内部から裂けるようにして、白い光が迸った。
堕神が叫ぶ。
だが、その叫びも、やがて……。
終わった。
堕神の身体が砕け、黒い灰となって空へと舞い上がる。
裂けた空が閉じ、世界が、ようやく静けさを取り戻した。
気づけば、璃霞は地面に倒れていた。
隣には、燐の姿。
「燐様……っ!」
彼女は叫び、すがるように彼の身体に手を伸ばした。
燐の目は閉じられていたが、その表情は穏やかだった。
「……終わったのか」
燐が、かすかに唇を動かす。
「うん……うん、終わったよ……!」
璃霞は涙を流しながら彼の手を強く握った。
燐の手が、彼女の髪に触れる。
「お前は……強かった。……美しかった」
「だめ。そんなの、まるで……お別れみたいに言わないで……!」
燐は微笑む。
「違う。これは、始まりだ。お前が……世界を導いていく。俺は……」
「わたしも一緒に行く。ずっと、傍にいるって言った。置いてかないで」
しかし、燐の手の温もりが、徐々に失われていく。
璃霞の身体から、霧のように蒼い気が溢れた。彼女の涙が、その力と混ざり合って燐の胸へと吸い込まれていく。
「お願い……わたしの命を、分ける。だから……っ」
その時、契りの紋が再び輝いた。
蒼い光が燐の胸から走り、彼の心臓の鼓動が⋯⋯微かに、戻った。
璃霞は彼を抱きしめ、ただ静かに泣いた。
その涙は、命の重さを、愛の深さを、すべて物語っていた。
深い静寂が辺りを包んでいた。
大地はひび割れ、空にはまだ名残の赤が滲んでいる。それでも、堕神が消えたことによって、空気は確かに変わっていた。
濁っていた風が澄み、水はゆっくりと流れを取り戻していた。
その中で、璃霞はただ、燐の傍に座り続けていた。
彼はまだ意識を取り戻していない。けれど、胸元に手を当てると、かすかに鼓動が感じられた。
とても微かな、生きている証。
璃霞はその鼓動に耳を澄ませながら、静かに目を閉じた。
「……わたしたちは、生き残った」
小さな呟きは、風に溶けて消えた。
その言葉には、喜びも、安堵も、痛みも、全部含まれていた。
決して一つではない、複雑な感情が胸に渦巻く。
命をかけた戦いの果てに、彼女が手にしたものは「喪失」と「再生」だった。
少し離れた場所では、夜叉たちが静かに周囲を警戒していた。
陰陽師たちの姿も見えた。敵だった者たちでさえ、この地獄を共にくぐったことで、今は沈黙の同盟のように並んでいた。
戦いが終わったという事実が、誰の胸にもまだ、実感としては届いていない。
璃霞は空を見上げた。
かつて亀裂が走っていた空は、今は少しずつ元の蒼を取り戻しつつあった。
その蒼はどこか、彼女の瞳と似ていた。
ふいに、燐の指がわずかに動いた。
璃霞は目を見開いた。
「燐様……?聞こえますか?」
もう一度、彼の胸に手を当てる。鼓動が、先ほどよりも少しだけ強くなっている。
意識が、確実に戻ってこようとしている。
彼女はそっと額を彼の額に重ね、囁いた。
「帰ってきて……わたしの傍に、また立って」
遠くで風鈴のような音が鳴った。
それはたぶん、どこかで壊れた社が風に揺れている音だったのだろう。
けれど璃霞には、それが世界が彼らに語りかけているように感じられた。
⋯⋯おかえり、と。
しばらくして、燐はゆっくりと目を開けた。
「……璃霞」
「はい……!わたし、ここにいます!」
璃霞の目から、再び涙が零れた。それは哀しみではなく、確かな希望の涙だった。
彼が戻ってきた。命を捧げたはずの彼が、自分の願いで、想いで、また生きてくれている。
燐は微笑みながら、かすれた声で言った。
「また……一緒に、歩けるな」
璃霞は強く頷いた。
「はい。今度は、わたしがあなたを守ります」
ふたりはもう、何も言葉を交わさなくても通じ合っていた。
夜は静かに明け始めていた。
雲の切れ間から、薄紅の陽光が差し込んでくる。
それはまるで、世界がふたりに微笑んでいるかのようだった。
璃霞は立ち上がり、燐の手を引いて、朝陽の方へ向かって歩き出した。
背中に、風が吹いていた。
それは新たな旅路の合図だった。
まだ朝靄の立ちこめる森の奥で、灰色の羽音が微かに響いた。
ふわりと舞い降りたのは、一羽の鴉だった。目だけが異様に赤く、どこか人のような知性を宿している。
その鴉は、倒れた堕神の残骸⋯⋯すでに灰と化したその場所の中心にとまり、首を傾げた。
まるで、何かを確認するかのように。
「……やはり、砕けたか。夜叉と霞の血が、ここまでの力を発揮するとは」
その声は鴉のくちばしからではなかった。
声は、木々の影から響いた。
黒い衣を纏い、仮面をつけた人物が姿を現す。
仮面は、あのとき封印の前に現れた男と同じ。
だがその背には、六つの影が従っていた。どれもが人間ではない。
牙、羽、鱗、炎、氷、毒。あらゆる異能の象徴を纏いながら、影たちは沈黙を保っていた。
「さて……女神の器が目覚めた以上、次に動くのは灰の王の番か」
仮面の男は、鴉の頭をそっと撫でる。
「璃霞、お前は知らねばならぬ。自らが扉であることを。堕神など序章に過ぎぬ。
この世界はまだ、本当の夜を知らない」
そして彼らは、霧の中へと消えた。
その頃。
璃霞は、燐と共に里へ戻っていた。
けれど、その姿はもはやただの姫ではなかった。
人も妖も、彼女を見る目が変わっていた。
敬意、畏怖、希望、そして恐れ。
彼女の中にある霞の血は、完全に目覚めていた。
戦いの記憶、蒼霞の記憶、契りの力⋯⋯すべてが、彼女を変えていた。
だが璃霞自身は、何も変わっていないように感じていた。
「ねえ、燐様。わたしたちは、これからどうなるのかな」
彼女はぽつりと呟いた。
燐は横を歩きながら、空を仰ぐ。
「どう、とは?」
「わたしが、強くなればなるほど……壊れていくものもある気がして」
燐は静かに立ち止まり、璃霞を見つめる。
その瞳には、深い闇と同時に、光が宿っていた。
「お前は、壊すために強くなるのではない。繋ぐために、在る」
「でも……」
「この世界には、ふたつの王が存在する。ひとつは俺。夜叉の王。
もうひとつは、まだ目覚めていない灰の王だ」
璃霞は振り返る。
「……その灰の王が、次の災厄?」
「そうだ。奴は、かつてこの世から色を奪おうとした。世界を灰一色に塗り替えることで、痛みも争いもすべて消そうとした」
「……それって、ある意味では優しさなのかもしれないね」
「優しさで世界を無にするのは、ただの怠惰だ」
燐の声が鋭くなる。
璃霞は目を伏せる。
「わたしの中にも、時々あるの。……全部、終わってしまえばいいって。
そしたら、傷つかなくて済むって」
燐は、彼女の手を握った。
「お前がそう思うなら、なおさらだ。灰に抗え。色を持たぬ世界は、死と同じだ。お前の涙も、喜びも、すべて意味をなくす」
璃霞は、その手の温もりに、そっと頷いた。
「……なら、灰の王が動き出す前に、わたしたちが探らなきゃいけないね。
扉が何なのか、そしてわたしがどこへ向かうべきなのか」
「そのために、まずは霊山・白水へ向かうぞ。そこに、お前の血脈のさらに奥⋯⋯霞姫の原初が眠っている」
璃霞の瞳が揺れた。
「原初……?」
燐は歩き出しながら言った。
「俺たちはまだ、自分たちの力の全容を知らない。だからこそ、備えねばならない。
次は、これまでのどの災いよりも⋯⋯深く、冷たいぞ」
璃霞は一度だけ振り返った。
里はまだ朝の光の中、平穏に包まれているように見えた。
けれど、その静けさの奥で、何かが確かに脈動している。
遠く、空の向こうで。
次の夜が、すでに始まりかけている。
彼女は再び、前を向いた。
そして、歩き出す。
霊山・白水。
その名の通り、白い霧と水に覆われた聖域。かつて霞姫たちが封じられた地であり、人と妖の交わりが最も深く交錯した場所だった。
璃霞は、燐とともに、山の麓にある石の門をくぐった。
その瞬間、空気が変わった。
音が消え、風が止み、視界が一面の白に包まれる。
「ここが……白水」
璃霞が呟く。
「この山は記憶を映す。歩く者の過去、心の奥底にあるものを、映像として見せるとされている」
燐が静かに言った。
「心を読まれるってこと?」
「違う。読まれるのではなく、晒されるのだ。自分自身に。お前は、逃げるな。すべてを見届けろ」
璃霞は小さく息を飲み、歩を進めた。
彼女の足元から霧が立ち上り、次第にその輪郭が形を成していく。
最初に現れたのは⋯⋯かつての家族。
幼い璃霞が、母に手を引かれて歩いている姿。笑っていた。
その後ろには、まだ生きていた父の姿もある。優しい目をしていた。
「……懐かしい」
璃霞は、ぽつりと呟いた。
だが、その光景はすぐに変わった。
燃える屋敷。血まみれの床。
倒れた家族。逃げ惑う下女たち。
少女だった璃霞が、ただひとり、生き残っていた。
「いや……もう、いい……」
彼女は目を背けようとしたが、足が止まらなかった。
見たくなくても、進まなければならない。それが、この霊山の掟だった。
次に現れたのは、夜叉たちに囲まれていた璃霞。
初めて燐と出会った日。
剣を向けられ、恐怖と怒りと好奇心が入り混じったあの夜。
そして、契りの儀。
燐と向かい合い、命を繋いだ瞬間。
すべての記憶が、痛みも喜びも、そのまま現実のように再現されていく。
それらを、璃霞は歯を食いしばって見つめた。
燐は、隣で彼女を見守っていた。何も言わなかった。
ただ、必要なときに、手を差し出すために。
やがて、白い霧が形を変え、最後に現れたのは。
鏡のように、璃霞自身だった。
もうひとりの璃霞は、冷たい目をしていた。
髪はさらに白く、瞳は淡い金に輝いている。
まるで、神格を得た存在⋯⋯完全な霞姫の姿。
「……あなたは」
「わたしよ。可能性のひとつ。すべてを受け入れ、すべてを超えた存在」
鏡の璃霞が、静かに言う。
「それが、わたしの最終形?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。あなたがこのまま力を選び続ければ、わたしになる。けれど⋯⋯愛を選ぶなら、違う道もある」
「愛……?」
「燐と生きる道。争いを捨てる道。人としての限界を受け入れる道。だが、その代わり……あなたは、いずれ守れなくなる」
璃霞の瞳が揺れた。
「つまり、選べってこと?」
「そう。ここで選びなさい。力か、愛か。あなたは世界の扉。その選択ひとつで、すべてが変わる」
璃霞は立ち尽くした。
この問いは、彼女の中の根幹に触れるものだった。
今までは、両方を手に入れようとしていた。
燐を愛し、力を求め、世界を救おうとしていた。
でも、現実は⋯⋯それを許してはくれないのかもしれない。
璃霞は、目を閉じた。
そして静かに答えた。
「……まだ、選ばない」
鏡の璃霞が、目を見開いた。
「なぜ?」
「わたしは、まだ可能性の途中にいる。今ここでどちらかを選ぶことは、どちらかを捨てること。それが、いちばん怖い」
「それは甘えだわ」
「そう。甘えだと思う。でも、それでも⋯⋯わたしは、途中でいたい。もう少しだけ、足掻かせて」
鏡の璃霞は、しばらく黙って彼女を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……その答えを持ち帰りなさい。いずれまた、わたしは現れる。その時までに、選べる自分になっていることを願うわ」
そして幻は消え、霧が静かに晴れていった。
燐が璃霞の肩に手を置く。
「見届けたか」
「……うん。全部、見た。認めた。だから、進める」
ふたりは、霊山の奥へと進んでいった。
そこに眠る原初の霞姫の秘密を知るために。
まだ夜は明けていない。
だが、その先に待つものが何であれ⋯⋯璃霞の歩みに、もう迷いはなかった。



