風が、哭いていた。
遠く、山を越え、森を越え、湖の上を渡ってきた風が、淡く光る霧の帳を揺らしていた。
霞ヶ原⋯⋯水と霧に包まれたその地は、古より人ならざるものが住むと恐れられている。けれど、いまそこにいるのは、ただ一人の少女だった。
白い髪。
湖面の月を映すような、淡く澄んだ青の瞳。
透き通るような肌は、光を拒むように冷たく、華奢な身体にまとう着物は、色を忘れた水墨のよう。
名を、璃霞(りか)という。
「……今日も、来なかった」
ぽつりと、唇が動いた。
指先で撫でるように水をすくうと、それはすぐに零れて消える。
彼女は、この湖のほとりの離れに住んでいた。
人里離れたこの地に、十年もの間、たった一人。
誰が訪れるでもなく、誰と語らうでもなく。
それでも璃霞は、夜になるとこうして縁側に座り、風と水の音に耳を傾けていた。
まるで、それだけが自分を生かしているかのように。
「……ねえ。風は、知ってるの?」
囁くように問う。
誰にともなく、目に見えぬものに向けて。
「わたしは、何なの……?どうして、生まれてきたの……?」
返事はない。
けれど、風がまた湖面を撫でた。
それだけで、璃霞の瞳がふと潤む。
そのとき。
かすかな音がした。
水音とも違う、鳥の羽ばたきでもない。
気配。
人ではない、けれど、確かに存在する何かの気配が、霧の中に立っていた。
「……誰?」
立ち上がることもできず、声だけが震える。
だがその問いに、応える声があった。
「……名を問う前に、自らの名を名乗るのが、礼というものだろう?」
低く、深く、風に乗るような声。
それは耳で聞くというよりも、胸の奥に響く声だった。
霧が、裂ける。
そこに現れたのは⋯⋯。
白銀の髪をなびかせた、異形の男。
夜の闇に溶け込むような黒い装束。
額には仄かに赤く光る印が浮かび、紅い瞳がじっと璃霞を見下ろしていた。
「……あなたは……人じゃない」
「そうだな。私は夜叉だ」
彼は静かに答えた。
「それも⋯⋯この世の夜叉どもの頂点、王と呼ばれた存在だ」
「王……?」
璃霞は混乱しながらも、一歩だけ後ずさる。
けれど、その目は彼から離せなかった。
恐怖とも違う、もっと深いところで何かが蠢いていた。
男⋯⋯燐(りん)と名乗るその存在は、ゆっくりと近づいてくる。
足音はまるで音もなく、風のように静かだった。
「私には、ひとつ……欲しいものがある」
「……なに?」
「お前の魂の一部だ」
璃霞の目が見開かれる。
彼女は理解できなかった。魂を渡すとはどういうことか。
「代わりに、私の魂も、お前に与えよう」
「……え?」
「我らの魂を、交わす。そうすれば⋯⋯」
夜の風が強く吹き、燐の髪が舞う。
その瞳が、吸い込まれるような紅に輝いた。
「我らは、『契り』を結ぶことになる。お前は、お前であり、私の半身にもなる。私は、私でありながら、お前を守る呪縛に縛られる」
「……そんなの……っ」
璃霞は、ようやく足を動かし、後退る。
けれど、その場から逃げることはできなかった。
なぜなら、彼の声が、なぜか心を打つのだ。
「私は、お前を守りたい」
その言葉は、酷く単純だった。
でも⋯⋯。
(どうして……この人の言葉が……こんなに、苦しい……)
涙が、こぼれそうになる。
「私の名は燐。夜叉の王。そして、今この時より⋯⋯お前の契り主となる者だ」
霧が、彼の背に翼のように広がる。
燐は璃霞の前に膝をつき、彼女の手を取った。
冷たい。けれど、懐かしい。
その感触に、璃霞の心が微かに揺れる。
「お前は孤独だ。私はそれを知っている。お前の中の空白を、埋めることができる」
「……そんな、こと……誰にも……」
「誰もいないからこそ、私が来た」
燐の言葉に、璃霞は震えた。
彼女の心の底に、ずっと沈んでいたなにかが、少しだけ動いた気がした。
そして⋯⋯。
彼の指が、彼女の胸元に触れた瞬間。
風が爆ぜた。
白い霧が巻き上がり、湖面が波打つ。
璃霞の身体に熱が走り、視界が反転する。
「⋯⋯ああ、なるほど。これが、お前の魂か」
燐が微笑む。
その手に、小さな光が宿っていた。
そして、彼の胸にもまた、同じような光が灯る。
「契りは、成った」
璃霞は、意識を失った。
⋯⋯遠くで、水の音がした。
それは揺れる風のざわめきか、心臓の鼓動だったか。
璃霞は夢の中に落ちていた。
深く、静かで、光の届かない水底のような場所だった。
ただ、誰かの声が聞こえる。
(……わたしは、お前の一部だ)
(……だから、お前は、もう一人ではない)
その言葉が、胸の奥に触れるたびに、何かが溶けていく。
冷たく凍っていたもの。
誰にも見せなかった感情。
言葉にできなかった想い。
「ああ……」
まぶたの奥が熱い。
閉じていた瞼を、璃霞はゆっくり開いた。
白い天井。
知らない天井。
(ここは……?)
見慣れた離れの屋敷ではなかった。
ふわりと漂う香の匂いが、どこか懐かしく、けれど非現実的で。
起き上がろうとしたとき、障子の向こうから声がした。
「目を覚ましたか、姫君」
その声は、燐だった。
ふすまが音もなく開く。
そこに立っていた彼は、夜の霧の中に現れたときよりも、ずっと人間らしい姿をしていた。
長い白銀の髪は後ろで結われ、深緑の狩衣を纏っていた。
それでも、目だけは変わらない。紅い。
この世のものではない、異形の色。
璃霞は、身を起こしながら問うた。
「ここは……どこ……?」
「我が居城だ」
「……城?」
「お前と契りを交わした夜、お前は気を失った。放っておけるわけがないだろう」
「勝手に……」
璃霞は口を噤んだ。
言葉にできない感情が喉に詰まる。
「怒っているか?」
「……わからない。怖かった。でも、夢の中で……」
「声を聞いただろう?」
彼の声は低く、けれど優しかった。
「それは、お前の内にある私の魂だ。もう、お前と私は繋がっている。お前の痛みは私のものとなり、私の怒りもお前に伝わるだろう」
璃霞は、自分の胸に手を当てた。
確かに、どこか奥深くに、知らない何かがあった。
それは温かくもあり、恐ろしくもあり⋯⋯けれど、なぜか懐かしかった。
「……あなたの魂って、どんなもの……?」
「風だ」
燐は即答した。
「吹けば吹くほど形を変え、姿は持たず、時に全てを薙ぎ払う」
「……わたしのは?」
「水だ。澄んでいるが、深く、淀めば淵となる。誰にも届かぬ底がある」
璃霞の目が揺れた。
まるで、自分のことをすべて見透かされているようだった。
「なぜ、わたしなんかと……契りを?」
「なんかではない。お前は、この世にたったひとつの存在だ」
「…………」
「お前は水神の器だ」
その言葉に、空気が変わった。
風が室内を走り、障子が震える。
「……器……?」
「そうだ。お前の身体には、封じられた神の力がある。古き水の神⋯⋯霞神の残滓だ」
璃霞の心に、鈍い痛みが走った。
神という言葉に、思い当たるものがあった。
⋯⋯子どものころ。
村の祭りで、見知らぬ大人たちに囲まれ、神の血を引く者と囁かれた。
その日の夜、彼女は屋敷に閉じ込められた。
「だから、私は……ずっと、ひとりだったの?」
問いかけは、自分に向けたものだった。
燐は静かに頷いた。
「人は、神を恐れる。神は、人を見下す。お前は、その間に生まれた。居場所など、あるはずもない」
「なら……」
璃霞は小さく息を呑んだ。
「あなたは、わたしを利用しようとしてるの? 神の力が目当てで……?」
「それなら、わざわざ契りなど交わさぬ」
「でも……っ」
「私は、孤独に惹かれたのだ」
その言葉に、璃霞は息を飲んだ。
「お前の中にある寂しさ……それは、かつての私と同じだ」
燐の目が細められる。
その奥にあるものが、悲しみに似ていた。
「千年前、私は神に仕えていた。だが、裏切られた。捨てられ、闇に堕ちた。それが夜叉となった理由だ」
「……神が?」
「人も神も、過ちは犯す。だが、その罰は弱き者に下る」
璃霞は、彼の言葉が沁みるのを感じた。
自分を見たこともない父、優しかったが早くに亡くなった母、
自分を『穢れ』と呼んだ侍女たち。
すべてが、いま一つの意味に繋がっていくようだった。
「では……わたしは、どうすればいいの……?」
燐は少し間をおき、そして言った。
「お前は、お前自身の選択をすればいい」
「……選択……」
「契りを交わしたからといって、私のものになる必要はない。私の力を借りるもよし。私を拒むもよし。それを決めるのは、お前だ」
「わたしに……自由があるの?」
「あるとも。だが、試練もある」
燐の瞳がわずかに陰る。
「お前を狙う者が、これから増える」
「……わたしを?」
「霞神の力を目覚めさせようとする者、あるいは奪おうとする者⋯⋯人も妖も、関係ない。お前は、渦の中心に立たされる」
璃霞は小さく震えた。
だが、ふと微笑んだ。
「でも……いまは、ひとりじゃない」
燐が目を見開いた。
「わたしの中に……あなたがいる。でしょ?」
一瞬の沈黙。
それから、燐は静かに微笑んだ。
それは初めて見せた、どこか人間らしい笑みだった。
「……ああ。確かに、そうだな」
二人はしばらく沈黙した。
風が障子の隙間をくぐり、部屋を通り抜ける。
「……どこかへ、行きたい」
璃霞がぽつりと呟く。
「この屋敷の外に……出たことがないの。外の世界が、どんな風に見えるのか、ずっと夢みてた」
「ならば、行こう」
「……いいの?」
燐は立ち上がり、手を差し伸べる。
「契りを交わした今、私がそばにいれば、お前を誰も傷つけられない。外の世界を、お前に見せよう」
璃霞は一瞬だけ躊躇したが、すぐにその手を取った。
初めて触れた、外の温もり。
それは、冷たくもあたたかかった。
森を抜け、霧を超え、璃霞は初めて自分の足で外界へ出た。
世界は、想像よりも遥かに広く、眩しかった。
湖の向こうに広がるのは、翠の木々と、空を裂くような山脈。
遠くには村の灯がかすかに揺れ、鳥の鳴き声と共に命の営みを感じさせた。
「……綺麗」
璃霞は目を細めて言った。
「これが、私が閉じ込められていた外……」
「まだ、ほんの一部にすぎん」
燐が答える。
彼は外套を翻し、森の中へと歩を進める。璃霞もそれに続いた。
歩きながら、彼女は燐に尋ねた。
「ねえ……どうして夜叉は、人を憎むの?」
「……理由は様々だが、一つには忘れられたからだ」
「……忘れられた?」
燐は足を止め、振り返った。
「かつて夜叉は、人に仕え、神と共にあった。だが、時代が移り、人は神を忘れ、妖を恐れ、夜叉を滅ぼした」
「……」
「だから我らは、影となり、闇に潜み、ひっそりと生きるようになった。人に知られず、忌まれながら」
「でも、燐は……わたしに優しい」
「それが、お前が人でありながら人でないからだ」
燐の声は静かだった。
「お前の中には、水の神の血が流れている。私たち夜叉に近い存在……いや、もはや、お前自身が人ならざる者と言えるかもしれない」
「……じゃあ、私は……何者なの?」
「それを、これから知ることになるだろう。契りを交わした我らは、今後幾度も選択を迫られる」
「選択……」
「どちらの世界に生きるか。誰のために力を使うか。そして……」
燐は、言葉を切った。
「お前は、誰を信じるか」
璃霞はその言葉を胸に刻んだ。
いずれ、この言葉が重く、深く、彼女の運命を左右することをまだ知らずに。
森を抜けた先にあったのは、見渡す限りの竹林だった。風に揺れる細い葉が、さらさらと音を立てて、まるで誰かが囁いているように聞こえる。
燐は足を止めた。
「ここから先は、境界だ」
「境界……?」
「人の世と、妖の世のあわい。だが、この場所に結界はない。古くから、水の巫女の血を引く者だけが、この地を安全に通れる」
「わたしが、その……?」
「そうだ。お前は、水神の巫女だった女の末裔。いや、もしかすると、転生かもしれない」
「……っ」
璃霞は足元の草を見つめる。知らされなかった出生、閉ざされた屋敷、そしていきなり告げられる異形の真実。心が追いつかない。
燐は彼女の手を取った。
「進めるか?」
璃霞は、小さく頷いた。
⋯⋯境界を越える。
足元がかすかに揺れた。世界の色が滲んでいく。
空が深い紫に染まり、音が遠ざかる。人の世界の理から外れた何かが、空間を支配し始める。
空気が変わった。重い。冷たい。静かすぎる。
けれど、その静寂の中で、璃霞は不思議な懐かしさを感じていた。
「ここは……」
「妖の里に通じる道だ。だが、その前に、通らねばならぬ試練がある」
燐は前方を指差した。
そこには、歪んだ鳥居があった。
朽ちかけた木の柱に、黒い注連縄が垂れている。
その奥には、神域とも墓場ともつかぬ奇妙な空間が広がっていた。
「この場所は、水鏡ノ森⋯⋯お前の記憶と、魂の正体を映す」
「記憶……?」
「お前が見たくなかったもの。思い出したくなかったもの。すべてが顕になる」
燐は璃霞の手をそっと離した。
「ここからは、私も入れぬ。お前だけが進む場所だ」
璃霞は驚いた。
「……待って。一緒に来てくれるって……」
「来るとも。だが、魂の試練は誰にも代われない」
彼女は迷った。けれど、もう足を止めることはできなかった。
静かに、鳥居をくぐる。
すると⋯⋯。
空が割れた。
目の前に広がったのは、見知らぬ過去。
小さな璃霞が、廊下を走っている。
「お母様……っ」
血の気のない女性が、倒れていた。
「璃霞……逃げなさい……お前は……神の……」
刃の音。焼ける匂い。人の叫び声。
「忌み子だ!神と人の混血など、不吉を招く!」
「水の巫女の末裔など、災いの元だ!」
「このままでは村が……!」
顔のない大人たちが、言葉を浴びせる。
それをただ、小さな璃霞が見ている。何もできずに、ただ。
次に現れたのは、縁側にうずくまる十歳の璃霞。
無言のまま空を見上げ、ひとしずく涙を流していた。
(わたしは、捨てられた⋯⋯)
その言葉が、心に焼きつく。
やがて、空間が崩れ始める。
鳥居が溶け、森が霧に変わり、すべてが水に溶けるように消えていく。
璃霞はふらりと膝をついた。
だが⋯⋯。
「……終わりか?」
声が響いた。
目の前に、もう一人の自分が立っていた。
鏡のように、だが違う。
水のように揺らめく白い髪。冷たい眼差し。
「あなたは……」
「お前だ、璃霞。だが、お前が拒み続けた本当の自分でもある⋯⋯」
「どういう⋯⋯こと……?」
「お前の中には、力がある。だが、過去の痛みを恐れて、それを閉ざしていた」
その手が、璃霞の胸元に触れる。
「目を開けよ。真実を見よ。お前は、水を司る者。神と妖のあわいに立つ、唯一の媒介者だ」
璃霞の瞳が、青く輝いた。
そして、意識が飛ぶ。
目を覚ました時、そこは竹林の中だった。
燐がそばにいた。璃霞は、彼を見上げる。
「……戻ったな」
璃霞は小さく頷いた。
「見た。過去を……そして、もう一人の私を」
「その力は、これから大きく目覚めるだろう。だが、それはお前にとって、祝福か、呪いか……」
燐は静かに立ち上がり、彼女に外套をかけた。
「我らの契りは、ただの儀式ではない。魂を分かち合うとは、記憶も、感情も、すべてを混ぜ合うということ」
「あなたの感情も、これから私に……?」
燐は答えず、夜の空を見上げた。
遠く、黒い雲が広がっていた。
「急ごう。お前の力が目覚めた今、こちらの世界も動き出す。お前を奪おうとする者たちが、すでに動いている」
「奪う……?」
「人間の側からも。妖の側からも。お前はその境界を壊す鍵だ」
璃霞は震えた。
自分はもう、ただの“姫”ではない。
世界の均衡を変える存在として、生きていかなければならない。
「燐……」
彼女は彼を呼んだ。
「……あなたは、本当にわたしを守ってくれるの?」
燐は、静かに笑った。
「そのために契りを交わした。お前の運命を、共に背負うために」
璃霞は初めて、自分の意志で歩き出した。
その隣に、燐がいる。
二人の魂は結ばれた。
月が昇った。
澄み渡る夜空を、静かに雲が横切る。
その下で、燐と璃霞は妖の里の入り口に立っていた。
谷あいに築かれた、漆黒の町。
灯篭の火だけが宙を舞い、建物はすべて影のように沈んでいる。
耳を澄ませば、どこかで囁く声がする。人ではない。けれど、確かに生きている声。
「……ここが、妖たちの住む場所……?」
璃霞は息を呑んだ。
「ここは影渡りの都。人の眼には映らぬが、数百の妖たちが棲みついている」
燐が言った。
「……まるで、夢みたい」
「夢か⋯⋯悪夢にならなければいいがな」
その言葉に、璃霞は不安げに彼を見上げた。
燐の目は、淡く光る闇の中でも、何かを見透かすように鋭い。
「私たちは歓迎されるだろうか……?」
「王である私が戻るのだ。表向きはな」
「じゃあ、裏は……?」
燐はわずかに笑った。
「裏切りと野心と、血のにおいが満ちている」
璃霞は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
そのとき⋯⋯
「⋯⋯王よ」
低く、湿った声がした。
闇の中から、数体の影が現れる。
人とも獣ともつかぬ姿。仮面のような顔をした、異形の妖たちが、頭を垂れて並んだ。
「……王は、ついに還られた。我ら、黒羽の従者一同、魂より歓迎いたします」
「形式ばかりの言葉だな、黒羽。私がいなくなった間、お前たちがどう動いたか、知らぬとでも思っているのか?」
「……滅相もございません。王の御不在を嘆きつつ、民の安寧を守っていたのみ」
その言葉には、一切の真情がなかった。
だが燐は、怒りもせずに前を歩く。璃霞もその後をついて行く。
建物の奥へ、影の通路を抜けた先に現れたのは⋯⋯。
黒曜石のごとき大殿だった。
天井まで届く巨大な柱に、金色の符が貼られ、中央には紋章が浮かび上がっている。
夜叉の王家にのみ許された血の印。
「……ここが、あなたの……」
「玉座の間だ。私はここでかつて、数百年にわたり妖の秩序を守ってきた」
「じゃあ……なぜ姿を消したの?」
璃霞の問いに、燐はわずかに口を閉じた。
「私の中で、何かが壊れた。人と妖、どちらの未来にも希望が見えなかった。……だが、お前と契りを交わして、少しだけ風向きが変わった気がした」
「……わたしが、変えたの?」
「その証が、ここにある」
燐は手を伸ばした。
天井の中心、空中に浮かぶ魂の核。
青と紅が交じり合うその光は、璃霞の心を引き込むほど美しかった。
「これは……」
「契りによって生まれた魂の共有核だ。お前の魂と、私の魂が繋がっている限り、この核は生き続け、同時に私たちの命をつなぐ」
「命を……?」
「そう。お前が死ねば、私も死ぬ。私が死ねば、お前も」
璃霞の目が揺れた。
命の重さを、突然肩に乗せられた気がした。
だが、次の瞬間。
「⋯⋯では、王よ。我らも契りを交わさせていただけますか?」
異様な声が響いた。
ふと振り返ると、黒羽の従者の一人が、ずいと前に出てきていた。
「契りの力。王ですら魂を割って共有するならば、我らもあなたに倣い、別の血筋と⋯⋯」
「……黙れ」
燐の声が冷たく響いた。
「契りは儀式ではない。魂の核心を差し出す行為だ。お前たちのような、欲にまみれた者に真似できるものではない」
その瞬間、空気が張り詰めた。
黒羽の従者たちが、一斉に睨む。敵意は、確かにそこにあった。
「……では、我らがこの契りの正統性を疑うとしたら?」
「好きにしろ」
燐が袖を翻す。
「だが、契りを傷つけようとするなら⋯⋯容赦はせん」
その言葉に、黒羽たちは静かに頭を下げた。
「我らは、ただ王の安寧と、姫君の御安泰をお祈り申し上げております」
やがて彼らは闇に溶けるように姿を消していった。
璃霞は、その場に崩れそうになりながら、燐の袖を掴んだ。
「……怖かった」
「当然だ。ここは、人間の理が通じぬ場所。だが……」
燐は彼女の目を見た。
「もう、戻る道はない」
璃霞はわかっていた。
自分は、もう戻れない。
けれど同時に⋯⋯。
ここにしかないものが、ある。
たとえば、彼の言葉。彼の存在。
そして何より、自分の魂がようやく繋がったという実感。
「……もう少しだけ、そばにいてくれる?」
燐は、それに答える代わりに、璃霞の手を取った。
「永く、共に在ろう。璃霞」
その言葉が、璃霞の胸に響く。
温かくも、どこか哀しい響きだった。
その夜⋯⋯。
璃霞は、夢を見る。
幼い自分が、湖のほとりで誰かを待っている。
風が吹き、木々が揺れ、水面が光る。
そこに、黒い影が現れる。
それは、燐ではない。
もっと禍々しい、凶悪な何か。
目を開けると、外はまだ夜だった。
だが、風のにおいが変わっていた。
不穏。冷たい。
まるで、世界のどこかで扉が開いたかのような⋯⋯そんな気配だった。
燐の言葉の余韻がまだ耳の奥でざわめいている。
「もう、戻る道はない」
その言葉を胸に、璃霞は妖の里の奥深くへと歩を進めた。
黒曜石の柱が光を反射し、蒼く滲む光の筋が壁を走る。まるでこの里全体が、生きているかのように脈動している。
「……この場所の空気が、こんなに重いとは思わなかった」
燐が少しだけ頷く。
「人の里とはまったく異なる。ここは、命の灯火が互いに揺れ、争い、そして共鳴する境界の街」
「共鳴……?」
「人と妖は、根本的に違う。けれど、ここではその二つが交わり、混ざり合うことがある」
燐の瞳が鋭く光った。
「お前の魂も、そうだ。お前は人と妖の媒介者⋯⋯それは祝福でもあり、呪いでもある」
璃霞は言葉に詰まった。祝福?呪い?
だが、その胸の奥には不思議な熱が灯っていた。
「ここに来て、わたしは少しだけ、わかってきた気がする」
「何が?」
「わたしの力。燐様が言った通り、わたしの中に水の神の血が流れているのなら、これからどうなるか……」
燐は微笑んだ。
「その力は、人の世界を癒すことも、破壊することもできる。だからこそ、使い方を誤れば、両方の世界を滅ぼしかねない」
「わたしに、その責任があるの?」
「お前にしかできないことだ。お前はこの世界の均衡を守るための鍵であり、呪われた存在でもある」
そこまで言われて、璃霞の胸は張り裂けそうだった。
「……どうしたらいいの?」
「まずは、己の力を知ること。己を知ることが、すべての始まりだ」
燐は手を伸ばし、璃霞の手のひらに小さな水晶を置いた。
「これを持て。お前の魂とリンクし、力の暴走を抑えるお守りだ」
璃霞はそれを握りしめた。冷たくて、まるで生きているようにほんのり温かかった。
「ありがとう、燐様」
「……燐はもう、様ではない。お前の伴侶であり、守護者であり、そして……」
言葉を濁した。
璃霞は不思議に思ったが、問いただすことはしなかった。
その夜。
璃霞は屋敷の一角、燐と共に過ごしていた。
炎の灯が揺れ、二人の影を壁に映す。
「なぜ、あなたはわたしを選んだの?」
問いかける璃霞に、燐は少しだけ視線を逸らした。
「理由は複雑だが、一つ言えるのは⋯⋯お前はただの巫女ではないということだ」
「それ以上は?」
燐は息を吐いた。
「……お前の血筋には、夜叉の血が混ざっている」
「……!」
璃霞の心臓が跳ね上がる。
「そんなこと、初めて聞いた」
「なぜ、知らなかった?」
「屋敷で隠されていたから。わたしは長い間、孤独だった。家族も、友もいなかった」
「それは辛かったな」
燐は優しく言った。
「だが、だからこそ、お前がこの力を受け入れることが重要なのだ」
璃霞は瞳を伏せた。
「力は怖い⋯⋯でもあなたと契りを交わしたから、わたしは負けたくない」
燐は手を伸ばし、璃霞の頬に触れた。
「負けないでほしい。お前が強ければ、私も強くなれる」
二人の間に、熱い沈黙が流れた。
翌日。
妖の里では、異変が起こり始めていた。
「王よ!陰陽師たちが里の境界を侵してきております!」
従者の一人が慌てて報告に駆け込んだ。
「何だと……!」
燐の眉が深く寄る。
「奴らか……」
「陰陽師とは?」
璃霞が尋ねた。
「人間の世界にいる、妖を討つ者たちだ。妖と人間の秩序を乱す存在は許さぬ、という名目の下で暗躍している」
「わたしの力を奪いに来るの?」
燐は頷いた。
「奴らは、この世界の平衡を恐れている。お前のような存在は、彼らにとって“異物”だ」
「わたしは、どうすれば……」
「戦うしかない」
璃霞はそれでも迷った。
戦う?自分にそんなことができるのか?
けれど、燐の強い眼差しが答えを促した。
「私が傍にいる。決して一人にはさせない」
璃霞は決意を固め、頷いた。
その夜。
里の外れで、陰陽師たちの集団が密かに動いていた。
「今回の標的は、水神の巫女、璃霞だ。奴が契りを交わした夜叉の王、燐を倒さねばならぬ」
「了解。だが、燐は強力だ。慎重に行動する必要がある」
「くく……お楽しみはこれからだな」
彼らの中には、ひときわ冷酷な女陰陽師がいた。黒髪を長く垂らし、蒼い目が氷のように光っている。
「霞姫、璃霞……。その血筋に惹かれる者は多い。私が先手を打つ」
彼女の名は、凛花。
璃霞と燐の運命に大きな波紋をもたらす存在だった。
次の朝。
璃霞は燐とともに、里の祭壇へと向かっていた。
「ここで、わたしは力の制御法を学ぶ」
「祭壇は水の精霊が宿る場所だ。お前の力を開放し、制御するには最適な地だ」
二人が歩みを進める中、燐の背後に不穏な気配が忍び寄る。
「来たな……」
燐は闇に溶けるように動き、璃霞を庇った。
「あなた、危ない!」
璃霞の声が夜の静寂を破った。
数人の影が一斉に飛びかかる。
燐は獣のように身を翻し、闇を纏いながら敵を蹴散らした。
璃霞は水晶を握りしめ、濡れた大地から水を呼び起こす。
「水よ、我が願いを叶えよ!」
蒼い波が巻き上がり、敵を包み込んだ。
戦いの中で、璃霞の心は強く揺れた。
自分の力は、ただの恐怖の塊なのか、それとも誰かを守るための光なのか⋯⋯。
その答えを求めて、彼女は更に前へと進む。
戦いの余韻がまだ辺りに残る。夜の空気は張りつめ、静寂の中に幾度も波紋のような震えが広がった。
璃霞は水晶を握ったまま、深く息を吐いた。身体の中を駆け抜けた水の力がまだ鎮まらず、まるで嵐の余波のように胸を揺らしている。
「燐様……わたし、まだ怖い」
燐は彼女の肩に手を置き、柔らかな声で答えた。
「恐怖は力の一部だ。恐怖があるからこそ、お前は慎重になり、力を制御しようとする。恐怖がなければ、ただの暴走になる」
璃霞はうなずきながら、目を閉じて心を落ち着けようとした。
けれど、頭の片隅にずっと引っかかっているものがあった。
⋯⋯凛花。
あの女陰陽師の名が、脳裏に深く刻まれていた。
彼女が狙う理由、凄まじい冷たさ、妖への憎悪……。
「燐様、あの女陰陽師は何者なの?」
「……凛花は人間の陰陽師の中でも一際異彩を放つ者だ。彼女の家系は代々、妖を根絶やしにすることを宿命づけられている」
「でも、どうしてわたしを……」
「お前の力が、彼女にとって最大の脅威だからだ」
燐の瞳は鋭く光った。
「契りを交わしたことで、お前の魂は燐のものと結ばれた。彼女はその契約を壊そうとする。つまり、私たち二人を同時に狙っているのだ」
璃霞はそれを聞いて、背筋が凍る思いだった。
「わたし、どうすれば……」
「強くなるしかない」
燐の言葉は揺るがなかった。
翌朝、妖の里はいつになく静かだった。
だが、その平穏は表面だけのものに過ぎなかった。
璃霞は燐とともに、里の長老たちが集う会議に参加していた。
「王よ、このたびの人間界の陰陽師の動きは予想以上に早かった」
長老の一人が言った。
「彼らはただの狩人ではない。策略を用い、情報を巧みに操っている」
「つまり、我々の弱点を突いてくるということか」
燐が呟く。
「そうです。彼らは妖の中に潜む裏切り者を利用し、内部から崩そうとしています」
璃霞はその言葉に戦慄を覚えた。
「裏切り者……」
「はい。我々の中にも人間との契りや裏切りを企てる者がいる」
「ならば……どうすれば」
燐が答えた。
「全てを疑い、警戒し、戦うしかない」
璃霞の心は張り裂けそうだった。
彼女が信じたいものが、少しずつ壊れていく。
その夜、璃霞は燐の側で眠りにつこうとしていた。
だが、眠りは浅く、夢の中でまたもや凛花が現れた。
「璃霞……お前の魂は我が手で断ち切られる」
凛花の瞳は冷たく輝き、無数の刃が光る。
「あなたは……誰なの?」
「私は、妖を憎む者。お前をこの世界から消すために来た」
璃霞は必死に抵抗しようとするが、夢の中の刃は避けられない。
だがその瞬間、燐の声が響いた。
「璃霞!お前の魂は我がものだ。離すな!」
璃霞は目を覚ました。
額には冷たい汗が流れ、呼吸は荒く、手は震えていた。
燐は優しく彼女を抱き寄せた。
「夢か……」
「はい。でも、怖かった」
「その恐怖を、力に変えろ」
璃霞はうなずき、再び瞳を閉じた。
数日後、妖の里に異変が起こった。
「王よ!里の北門が破られました!」
従者の声が震えていた。
燐は即座に立ち上がり、璃霞の手を取った。
「戦いの時だ、璃霞」
「はい、燐様」
二人は戦闘態勢に入る。
だが、そこに現れたのは意外な者だった。
「⋯⋯凛花」
黒衣を纏った女陰陽師が、冷笑を浮かべながら現れた。
「王と契りを交わした人間の巫女……面白い。だが、その契りはもろくも崩れるだろう」
燐は凛花を睨みつけた。
「我が里を侮るな。お前のような者に、この里は渡さぬ」
「言葉ではなく、力で証明しなさい」
戦いが始まった。
凛花は刃を振るい、燐は闇の力で応戦する。
璃霞は水晶を握りしめ、精霊の力を呼び覚ました。
「水の力よ、我が身を守り、敵を討て!」
青い波が彼女の周囲に渦巻き、刃を弾き返す。
戦いは激しさを増し、夜空に雷鳴が轟いた。
燐の黒き影が凛花を包み込み、璃霞の水流が彼女の動きを制限する。
だが、凛花の眼差しは冷たく、決して屈しなかった。
「まだ終わらせない……」
璃霞は心の奥で何かが弾けるのを感じた。
力が暴走しそうな予感。
「止めて……」
燐の声が耳に届く。
璃霞は必死に自分を抑えながら、戦いを続けた。
戦闘の最中、燐はふと後方に目をやった。
里の片隅で、一人の影が動いていた。
「奴は……裏切り者だ」
燐は叫び、璃霞を背に隠す。
「裏切り者が里を売ろうとしている!」
璃霞の視線がその方向へ向けられた。
そこに立っていたのは、妖の中でも高位の者、紅蓮だった。
「紅蓮……どうしてこんなことを……?」
紅蓮は冷ややかに笑った。
「強き者に与するのは生き残るための術だ。王も、王妃もいらぬ」
その言葉に、燐の体から闇の霧が立ち上った。
「許さぬ……!」
紅蓮と燐の間で、黒い火花が散った。
璃霞は、戦いの最中に初めて、自分の力が何かを変えようとしていることを知った。
この契りは、ただの呪いでもなければ、祝福でもない。
闇の火花が舞い散る中、燐は紅蓮に向けて呪文を唱えた。
「闇よ、我が刃となり、敵を斬り裂け!」
黒い影が燐の体から伸び、紅蓮を締め上げる。だが、紅蓮は嘲笑を浮かべ、妖の鋭い爪で影を裂いた。
「まだまだ甘い。燐王よ、私を倒せるか?」
その声は冷たく、威圧的だった。
璃霞は燐の横で息を呑む。紅蓮の力は、里でも最強クラスだと聞いていた。
「燐様……気をつけて!」
燐は軽く頷き、目の前の敵に集中した。
一方、璃霞の心は乱れていた。
裏切り者が里にいるという事実。
自分たちの世界は、もう安全ではない。
「どうして、こんなに……」
彼女の中の水の力が、波のように揺れ動き始める。
その波は、彼女の内面の葛藤と共鳴し、まるで意思を持つかのように動いていた。
「璃霞よ」
燐の声が響き、彼女の心を引き戻す。
「力を解放しろ。お前の力は恐れるものではない」
璃霞は意を決し、水晶を強く握りしめた。
「水よ……我が意志に応えよ」
周囲の空気が冷たく震え、青い水の霧が立ち上がる。
その霧は敵の動きを封じ、紅蓮の動きを鈍らせた。
「これは……!」
紅蓮の驚きの声が響く。
燐はその隙を逃さず、一撃を加えた。
「終わりだ、紅蓮」
紅蓮は必死に抵抗したが、燐の闇の力と璃霞の水の力の連携は圧倒的だった。
やがて、紅蓮は力尽き、倒れ込んだ。
里は一時の静寂に包まれた。
だが、その勝利は長くは続かなかった。
凛花が冷ややかに口を開く。
「まだ終わっていないわよ」
璃霞は振り返り、その瞳に凛花の強い意志を見た。
「私がいる限り、お前たちの平穏は許さない」
燐は冷たく言った。
「ならば、ここで決着をつけよう」
凛花は刀を抜き放ち、戦闘態勢に入る。
璃霞は燐の隣に立ち、覚悟を決めた。
「わたしも……戦う」
激しい戦いの中、璃霞の水の力はどんどん暴走し始めた。
「止まれ、璃霞!」
燐が叫ぶ。
だが、璃霞の目は青く光り、誰も止められない強さを持っていた。
水の波が渦巻き、凛花を包み込む。
「……やめて!」
燐の叫びが空に響いた。
璃霞は心の深淵に落ち、恐怖と怒りが渦巻く。
その時、燐が静かに語りかけた。
「璃霞、私を見て」
その声が彼女を現実に引き戻した。
「あなたがいる。わたしは一人じゃない」
璃霞の力が静まる。
戦いは終わりを迎え、凛花は倒れた。
翌朝、璃霞と燐は里の広場で静かに語り合っていた。
「あなたのおかげで、わたしは自分の力を恐れなくなった」
璃霞は微笑み、燐の手を握った。
「お前が恐れるのは自然なことだ。だが、それに負けてはいけない」
「これからも、一緒に戦ってほしい」
燐は強く頷いた。
「約束しよう。お前の傍に、ずっと」
璃霞の瞳は希望に輝き、二人は固い契りを交わした。
夜の帳が再び里を包み込んだ。
戦いの傷跡は深く、そこかしこに黒い焦げ跡と崩れた土塀が残っている。
だが、璃霞と燐の間には静かな安堵の空気が漂っていた。
「璃霞……お前は強くなったな」
燐はそっと彼女の頬に手を触れた。
「まだまだよ……でも、もう少しだけ怖くなくなった」
璃霞はゆっくりと笑みを浮かべた。
「お前の力は、ただの水ではない。魂の叫びのようなものだ」
燐の言葉には深い敬意が込められていた。
「この契りは、お前と私だけのものではない」
燐は視線を遠くに向けた。
「人と妖、その狭間に生きる者たち、全ての存在を繋ぐ橋だ」
璃霞はその言葉を噛みしめた。
自分の存在が、この世界に意味を持つことを初めて実感した。
「燐様、わたし……」
璃霞の声は震えていた。
「お前は、迷いながらも光を見つけた」
燐は優しく微笑んだ。
「それが何よりも強い力だ」
遠くで梟の鳴き声が響き、夜風が柔らかく二人を包み込む。
璃霞は燐の手をしっかりと握り返した。
「これから、何があっても、あなたと共に歩む」
「俺もだ、璃霞」
二人の間に言葉以上の絆が結ばれた瞬間だった。
月明かりの下、二人は静かに里の奥へと歩み始めた。
闇の中に輝く青い瞳と白銀の髪が、まるで夜の風に溶け込む霞のように美しかった。
この契りがもたらす未来はまだ見えない。
だが、確かなことは二つ。
璃霞は一人ではないこと。
そして燐は、彼女の光であり影であること。
遠く、山を越え、森を越え、湖の上を渡ってきた風が、淡く光る霧の帳を揺らしていた。
霞ヶ原⋯⋯水と霧に包まれたその地は、古より人ならざるものが住むと恐れられている。けれど、いまそこにいるのは、ただ一人の少女だった。
白い髪。
湖面の月を映すような、淡く澄んだ青の瞳。
透き通るような肌は、光を拒むように冷たく、華奢な身体にまとう着物は、色を忘れた水墨のよう。
名を、璃霞(りか)という。
「……今日も、来なかった」
ぽつりと、唇が動いた。
指先で撫でるように水をすくうと、それはすぐに零れて消える。
彼女は、この湖のほとりの離れに住んでいた。
人里離れたこの地に、十年もの間、たった一人。
誰が訪れるでもなく、誰と語らうでもなく。
それでも璃霞は、夜になるとこうして縁側に座り、風と水の音に耳を傾けていた。
まるで、それだけが自分を生かしているかのように。
「……ねえ。風は、知ってるの?」
囁くように問う。
誰にともなく、目に見えぬものに向けて。
「わたしは、何なの……?どうして、生まれてきたの……?」
返事はない。
けれど、風がまた湖面を撫でた。
それだけで、璃霞の瞳がふと潤む。
そのとき。
かすかな音がした。
水音とも違う、鳥の羽ばたきでもない。
気配。
人ではない、けれど、確かに存在する何かの気配が、霧の中に立っていた。
「……誰?」
立ち上がることもできず、声だけが震える。
だがその問いに、応える声があった。
「……名を問う前に、自らの名を名乗るのが、礼というものだろう?」
低く、深く、風に乗るような声。
それは耳で聞くというよりも、胸の奥に響く声だった。
霧が、裂ける。
そこに現れたのは⋯⋯。
白銀の髪をなびかせた、異形の男。
夜の闇に溶け込むような黒い装束。
額には仄かに赤く光る印が浮かび、紅い瞳がじっと璃霞を見下ろしていた。
「……あなたは……人じゃない」
「そうだな。私は夜叉だ」
彼は静かに答えた。
「それも⋯⋯この世の夜叉どもの頂点、王と呼ばれた存在だ」
「王……?」
璃霞は混乱しながらも、一歩だけ後ずさる。
けれど、その目は彼から離せなかった。
恐怖とも違う、もっと深いところで何かが蠢いていた。
男⋯⋯燐(りん)と名乗るその存在は、ゆっくりと近づいてくる。
足音はまるで音もなく、風のように静かだった。
「私には、ひとつ……欲しいものがある」
「……なに?」
「お前の魂の一部だ」
璃霞の目が見開かれる。
彼女は理解できなかった。魂を渡すとはどういうことか。
「代わりに、私の魂も、お前に与えよう」
「……え?」
「我らの魂を、交わす。そうすれば⋯⋯」
夜の風が強く吹き、燐の髪が舞う。
その瞳が、吸い込まれるような紅に輝いた。
「我らは、『契り』を結ぶことになる。お前は、お前であり、私の半身にもなる。私は、私でありながら、お前を守る呪縛に縛られる」
「……そんなの……っ」
璃霞は、ようやく足を動かし、後退る。
けれど、その場から逃げることはできなかった。
なぜなら、彼の声が、なぜか心を打つのだ。
「私は、お前を守りたい」
その言葉は、酷く単純だった。
でも⋯⋯。
(どうして……この人の言葉が……こんなに、苦しい……)
涙が、こぼれそうになる。
「私の名は燐。夜叉の王。そして、今この時より⋯⋯お前の契り主となる者だ」
霧が、彼の背に翼のように広がる。
燐は璃霞の前に膝をつき、彼女の手を取った。
冷たい。けれど、懐かしい。
その感触に、璃霞の心が微かに揺れる。
「お前は孤独だ。私はそれを知っている。お前の中の空白を、埋めることができる」
「……そんな、こと……誰にも……」
「誰もいないからこそ、私が来た」
燐の言葉に、璃霞は震えた。
彼女の心の底に、ずっと沈んでいたなにかが、少しだけ動いた気がした。
そして⋯⋯。
彼の指が、彼女の胸元に触れた瞬間。
風が爆ぜた。
白い霧が巻き上がり、湖面が波打つ。
璃霞の身体に熱が走り、視界が反転する。
「⋯⋯ああ、なるほど。これが、お前の魂か」
燐が微笑む。
その手に、小さな光が宿っていた。
そして、彼の胸にもまた、同じような光が灯る。
「契りは、成った」
璃霞は、意識を失った。
⋯⋯遠くで、水の音がした。
それは揺れる風のざわめきか、心臓の鼓動だったか。
璃霞は夢の中に落ちていた。
深く、静かで、光の届かない水底のような場所だった。
ただ、誰かの声が聞こえる。
(……わたしは、お前の一部だ)
(……だから、お前は、もう一人ではない)
その言葉が、胸の奥に触れるたびに、何かが溶けていく。
冷たく凍っていたもの。
誰にも見せなかった感情。
言葉にできなかった想い。
「ああ……」
まぶたの奥が熱い。
閉じていた瞼を、璃霞はゆっくり開いた。
白い天井。
知らない天井。
(ここは……?)
見慣れた離れの屋敷ではなかった。
ふわりと漂う香の匂いが、どこか懐かしく、けれど非現実的で。
起き上がろうとしたとき、障子の向こうから声がした。
「目を覚ましたか、姫君」
その声は、燐だった。
ふすまが音もなく開く。
そこに立っていた彼は、夜の霧の中に現れたときよりも、ずっと人間らしい姿をしていた。
長い白銀の髪は後ろで結われ、深緑の狩衣を纏っていた。
それでも、目だけは変わらない。紅い。
この世のものではない、異形の色。
璃霞は、身を起こしながら問うた。
「ここは……どこ……?」
「我が居城だ」
「……城?」
「お前と契りを交わした夜、お前は気を失った。放っておけるわけがないだろう」
「勝手に……」
璃霞は口を噤んだ。
言葉にできない感情が喉に詰まる。
「怒っているか?」
「……わからない。怖かった。でも、夢の中で……」
「声を聞いただろう?」
彼の声は低く、けれど優しかった。
「それは、お前の内にある私の魂だ。もう、お前と私は繋がっている。お前の痛みは私のものとなり、私の怒りもお前に伝わるだろう」
璃霞は、自分の胸に手を当てた。
確かに、どこか奥深くに、知らない何かがあった。
それは温かくもあり、恐ろしくもあり⋯⋯けれど、なぜか懐かしかった。
「……あなたの魂って、どんなもの……?」
「風だ」
燐は即答した。
「吹けば吹くほど形を変え、姿は持たず、時に全てを薙ぎ払う」
「……わたしのは?」
「水だ。澄んでいるが、深く、淀めば淵となる。誰にも届かぬ底がある」
璃霞の目が揺れた。
まるで、自分のことをすべて見透かされているようだった。
「なぜ、わたしなんかと……契りを?」
「なんかではない。お前は、この世にたったひとつの存在だ」
「…………」
「お前は水神の器だ」
その言葉に、空気が変わった。
風が室内を走り、障子が震える。
「……器……?」
「そうだ。お前の身体には、封じられた神の力がある。古き水の神⋯⋯霞神の残滓だ」
璃霞の心に、鈍い痛みが走った。
神という言葉に、思い当たるものがあった。
⋯⋯子どものころ。
村の祭りで、見知らぬ大人たちに囲まれ、神の血を引く者と囁かれた。
その日の夜、彼女は屋敷に閉じ込められた。
「だから、私は……ずっと、ひとりだったの?」
問いかけは、自分に向けたものだった。
燐は静かに頷いた。
「人は、神を恐れる。神は、人を見下す。お前は、その間に生まれた。居場所など、あるはずもない」
「なら……」
璃霞は小さく息を呑んだ。
「あなたは、わたしを利用しようとしてるの? 神の力が目当てで……?」
「それなら、わざわざ契りなど交わさぬ」
「でも……っ」
「私は、孤独に惹かれたのだ」
その言葉に、璃霞は息を飲んだ。
「お前の中にある寂しさ……それは、かつての私と同じだ」
燐の目が細められる。
その奥にあるものが、悲しみに似ていた。
「千年前、私は神に仕えていた。だが、裏切られた。捨てられ、闇に堕ちた。それが夜叉となった理由だ」
「……神が?」
「人も神も、過ちは犯す。だが、その罰は弱き者に下る」
璃霞は、彼の言葉が沁みるのを感じた。
自分を見たこともない父、優しかったが早くに亡くなった母、
自分を『穢れ』と呼んだ侍女たち。
すべてが、いま一つの意味に繋がっていくようだった。
「では……わたしは、どうすればいいの……?」
燐は少し間をおき、そして言った。
「お前は、お前自身の選択をすればいい」
「……選択……」
「契りを交わしたからといって、私のものになる必要はない。私の力を借りるもよし。私を拒むもよし。それを決めるのは、お前だ」
「わたしに……自由があるの?」
「あるとも。だが、試練もある」
燐の瞳がわずかに陰る。
「お前を狙う者が、これから増える」
「……わたしを?」
「霞神の力を目覚めさせようとする者、あるいは奪おうとする者⋯⋯人も妖も、関係ない。お前は、渦の中心に立たされる」
璃霞は小さく震えた。
だが、ふと微笑んだ。
「でも……いまは、ひとりじゃない」
燐が目を見開いた。
「わたしの中に……あなたがいる。でしょ?」
一瞬の沈黙。
それから、燐は静かに微笑んだ。
それは初めて見せた、どこか人間らしい笑みだった。
「……ああ。確かに、そうだな」
二人はしばらく沈黙した。
風が障子の隙間をくぐり、部屋を通り抜ける。
「……どこかへ、行きたい」
璃霞がぽつりと呟く。
「この屋敷の外に……出たことがないの。外の世界が、どんな風に見えるのか、ずっと夢みてた」
「ならば、行こう」
「……いいの?」
燐は立ち上がり、手を差し伸べる。
「契りを交わした今、私がそばにいれば、お前を誰も傷つけられない。外の世界を、お前に見せよう」
璃霞は一瞬だけ躊躇したが、すぐにその手を取った。
初めて触れた、外の温もり。
それは、冷たくもあたたかかった。
森を抜け、霧を超え、璃霞は初めて自分の足で外界へ出た。
世界は、想像よりも遥かに広く、眩しかった。
湖の向こうに広がるのは、翠の木々と、空を裂くような山脈。
遠くには村の灯がかすかに揺れ、鳥の鳴き声と共に命の営みを感じさせた。
「……綺麗」
璃霞は目を細めて言った。
「これが、私が閉じ込められていた外……」
「まだ、ほんの一部にすぎん」
燐が答える。
彼は外套を翻し、森の中へと歩を進める。璃霞もそれに続いた。
歩きながら、彼女は燐に尋ねた。
「ねえ……どうして夜叉は、人を憎むの?」
「……理由は様々だが、一つには忘れられたからだ」
「……忘れられた?」
燐は足を止め、振り返った。
「かつて夜叉は、人に仕え、神と共にあった。だが、時代が移り、人は神を忘れ、妖を恐れ、夜叉を滅ぼした」
「……」
「だから我らは、影となり、闇に潜み、ひっそりと生きるようになった。人に知られず、忌まれながら」
「でも、燐は……わたしに優しい」
「それが、お前が人でありながら人でないからだ」
燐の声は静かだった。
「お前の中には、水の神の血が流れている。私たち夜叉に近い存在……いや、もはや、お前自身が人ならざる者と言えるかもしれない」
「……じゃあ、私は……何者なの?」
「それを、これから知ることになるだろう。契りを交わした我らは、今後幾度も選択を迫られる」
「選択……」
「どちらの世界に生きるか。誰のために力を使うか。そして……」
燐は、言葉を切った。
「お前は、誰を信じるか」
璃霞はその言葉を胸に刻んだ。
いずれ、この言葉が重く、深く、彼女の運命を左右することをまだ知らずに。
森を抜けた先にあったのは、見渡す限りの竹林だった。風に揺れる細い葉が、さらさらと音を立てて、まるで誰かが囁いているように聞こえる。
燐は足を止めた。
「ここから先は、境界だ」
「境界……?」
「人の世と、妖の世のあわい。だが、この場所に結界はない。古くから、水の巫女の血を引く者だけが、この地を安全に通れる」
「わたしが、その……?」
「そうだ。お前は、水神の巫女だった女の末裔。いや、もしかすると、転生かもしれない」
「……っ」
璃霞は足元の草を見つめる。知らされなかった出生、閉ざされた屋敷、そしていきなり告げられる異形の真実。心が追いつかない。
燐は彼女の手を取った。
「進めるか?」
璃霞は、小さく頷いた。
⋯⋯境界を越える。
足元がかすかに揺れた。世界の色が滲んでいく。
空が深い紫に染まり、音が遠ざかる。人の世界の理から外れた何かが、空間を支配し始める。
空気が変わった。重い。冷たい。静かすぎる。
けれど、その静寂の中で、璃霞は不思議な懐かしさを感じていた。
「ここは……」
「妖の里に通じる道だ。だが、その前に、通らねばならぬ試練がある」
燐は前方を指差した。
そこには、歪んだ鳥居があった。
朽ちかけた木の柱に、黒い注連縄が垂れている。
その奥には、神域とも墓場ともつかぬ奇妙な空間が広がっていた。
「この場所は、水鏡ノ森⋯⋯お前の記憶と、魂の正体を映す」
「記憶……?」
「お前が見たくなかったもの。思い出したくなかったもの。すべてが顕になる」
燐は璃霞の手をそっと離した。
「ここからは、私も入れぬ。お前だけが進む場所だ」
璃霞は驚いた。
「……待って。一緒に来てくれるって……」
「来るとも。だが、魂の試練は誰にも代われない」
彼女は迷った。けれど、もう足を止めることはできなかった。
静かに、鳥居をくぐる。
すると⋯⋯。
空が割れた。
目の前に広がったのは、見知らぬ過去。
小さな璃霞が、廊下を走っている。
「お母様……っ」
血の気のない女性が、倒れていた。
「璃霞……逃げなさい……お前は……神の……」
刃の音。焼ける匂い。人の叫び声。
「忌み子だ!神と人の混血など、不吉を招く!」
「水の巫女の末裔など、災いの元だ!」
「このままでは村が……!」
顔のない大人たちが、言葉を浴びせる。
それをただ、小さな璃霞が見ている。何もできずに、ただ。
次に現れたのは、縁側にうずくまる十歳の璃霞。
無言のまま空を見上げ、ひとしずく涙を流していた。
(わたしは、捨てられた⋯⋯)
その言葉が、心に焼きつく。
やがて、空間が崩れ始める。
鳥居が溶け、森が霧に変わり、すべてが水に溶けるように消えていく。
璃霞はふらりと膝をついた。
だが⋯⋯。
「……終わりか?」
声が響いた。
目の前に、もう一人の自分が立っていた。
鏡のように、だが違う。
水のように揺らめく白い髪。冷たい眼差し。
「あなたは……」
「お前だ、璃霞。だが、お前が拒み続けた本当の自分でもある⋯⋯」
「どういう⋯⋯こと……?」
「お前の中には、力がある。だが、過去の痛みを恐れて、それを閉ざしていた」
その手が、璃霞の胸元に触れる。
「目を開けよ。真実を見よ。お前は、水を司る者。神と妖のあわいに立つ、唯一の媒介者だ」
璃霞の瞳が、青く輝いた。
そして、意識が飛ぶ。
目を覚ました時、そこは竹林の中だった。
燐がそばにいた。璃霞は、彼を見上げる。
「……戻ったな」
璃霞は小さく頷いた。
「見た。過去を……そして、もう一人の私を」
「その力は、これから大きく目覚めるだろう。だが、それはお前にとって、祝福か、呪いか……」
燐は静かに立ち上がり、彼女に外套をかけた。
「我らの契りは、ただの儀式ではない。魂を分かち合うとは、記憶も、感情も、すべてを混ぜ合うということ」
「あなたの感情も、これから私に……?」
燐は答えず、夜の空を見上げた。
遠く、黒い雲が広がっていた。
「急ごう。お前の力が目覚めた今、こちらの世界も動き出す。お前を奪おうとする者たちが、すでに動いている」
「奪う……?」
「人間の側からも。妖の側からも。お前はその境界を壊す鍵だ」
璃霞は震えた。
自分はもう、ただの“姫”ではない。
世界の均衡を変える存在として、生きていかなければならない。
「燐……」
彼女は彼を呼んだ。
「……あなたは、本当にわたしを守ってくれるの?」
燐は、静かに笑った。
「そのために契りを交わした。お前の運命を、共に背負うために」
璃霞は初めて、自分の意志で歩き出した。
その隣に、燐がいる。
二人の魂は結ばれた。
月が昇った。
澄み渡る夜空を、静かに雲が横切る。
その下で、燐と璃霞は妖の里の入り口に立っていた。
谷あいに築かれた、漆黒の町。
灯篭の火だけが宙を舞い、建物はすべて影のように沈んでいる。
耳を澄ませば、どこかで囁く声がする。人ではない。けれど、確かに生きている声。
「……ここが、妖たちの住む場所……?」
璃霞は息を呑んだ。
「ここは影渡りの都。人の眼には映らぬが、数百の妖たちが棲みついている」
燐が言った。
「……まるで、夢みたい」
「夢か⋯⋯悪夢にならなければいいがな」
その言葉に、璃霞は不安げに彼を見上げた。
燐の目は、淡く光る闇の中でも、何かを見透かすように鋭い。
「私たちは歓迎されるだろうか……?」
「王である私が戻るのだ。表向きはな」
「じゃあ、裏は……?」
燐はわずかに笑った。
「裏切りと野心と、血のにおいが満ちている」
璃霞は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
そのとき⋯⋯
「⋯⋯王よ」
低く、湿った声がした。
闇の中から、数体の影が現れる。
人とも獣ともつかぬ姿。仮面のような顔をした、異形の妖たちが、頭を垂れて並んだ。
「……王は、ついに還られた。我ら、黒羽の従者一同、魂より歓迎いたします」
「形式ばかりの言葉だな、黒羽。私がいなくなった間、お前たちがどう動いたか、知らぬとでも思っているのか?」
「……滅相もございません。王の御不在を嘆きつつ、民の安寧を守っていたのみ」
その言葉には、一切の真情がなかった。
だが燐は、怒りもせずに前を歩く。璃霞もその後をついて行く。
建物の奥へ、影の通路を抜けた先に現れたのは⋯⋯。
黒曜石のごとき大殿だった。
天井まで届く巨大な柱に、金色の符が貼られ、中央には紋章が浮かび上がっている。
夜叉の王家にのみ許された血の印。
「……ここが、あなたの……」
「玉座の間だ。私はここでかつて、数百年にわたり妖の秩序を守ってきた」
「じゃあ……なぜ姿を消したの?」
璃霞の問いに、燐はわずかに口を閉じた。
「私の中で、何かが壊れた。人と妖、どちらの未来にも希望が見えなかった。……だが、お前と契りを交わして、少しだけ風向きが変わった気がした」
「……わたしが、変えたの?」
「その証が、ここにある」
燐は手を伸ばした。
天井の中心、空中に浮かぶ魂の核。
青と紅が交じり合うその光は、璃霞の心を引き込むほど美しかった。
「これは……」
「契りによって生まれた魂の共有核だ。お前の魂と、私の魂が繋がっている限り、この核は生き続け、同時に私たちの命をつなぐ」
「命を……?」
「そう。お前が死ねば、私も死ぬ。私が死ねば、お前も」
璃霞の目が揺れた。
命の重さを、突然肩に乗せられた気がした。
だが、次の瞬間。
「⋯⋯では、王よ。我らも契りを交わさせていただけますか?」
異様な声が響いた。
ふと振り返ると、黒羽の従者の一人が、ずいと前に出てきていた。
「契りの力。王ですら魂を割って共有するならば、我らもあなたに倣い、別の血筋と⋯⋯」
「……黙れ」
燐の声が冷たく響いた。
「契りは儀式ではない。魂の核心を差し出す行為だ。お前たちのような、欲にまみれた者に真似できるものではない」
その瞬間、空気が張り詰めた。
黒羽の従者たちが、一斉に睨む。敵意は、確かにそこにあった。
「……では、我らがこの契りの正統性を疑うとしたら?」
「好きにしろ」
燐が袖を翻す。
「だが、契りを傷つけようとするなら⋯⋯容赦はせん」
その言葉に、黒羽たちは静かに頭を下げた。
「我らは、ただ王の安寧と、姫君の御安泰をお祈り申し上げております」
やがて彼らは闇に溶けるように姿を消していった。
璃霞は、その場に崩れそうになりながら、燐の袖を掴んだ。
「……怖かった」
「当然だ。ここは、人間の理が通じぬ場所。だが……」
燐は彼女の目を見た。
「もう、戻る道はない」
璃霞はわかっていた。
自分は、もう戻れない。
けれど同時に⋯⋯。
ここにしかないものが、ある。
たとえば、彼の言葉。彼の存在。
そして何より、自分の魂がようやく繋がったという実感。
「……もう少しだけ、そばにいてくれる?」
燐は、それに答える代わりに、璃霞の手を取った。
「永く、共に在ろう。璃霞」
その言葉が、璃霞の胸に響く。
温かくも、どこか哀しい響きだった。
その夜⋯⋯。
璃霞は、夢を見る。
幼い自分が、湖のほとりで誰かを待っている。
風が吹き、木々が揺れ、水面が光る。
そこに、黒い影が現れる。
それは、燐ではない。
もっと禍々しい、凶悪な何か。
目を開けると、外はまだ夜だった。
だが、風のにおいが変わっていた。
不穏。冷たい。
まるで、世界のどこかで扉が開いたかのような⋯⋯そんな気配だった。
燐の言葉の余韻がまだ耳の奥でざわめいている。
「もう、戻る道はない」
その言葉を胸に、璃霞は妖の里の奥深くへと歩を進めた。
黒曜石の柱が光を反射し、蒼く滲む光の筋が壁を走る。まるでこの里全体が、生きているかのように脈動している。
「……この場所の空気が、こんなに重いとは思わなかった」
燐が少しだけ頷く。
「人の里とはまったく異なる。ここは、命の灯火が互いに揺れ、争い、そして共鳴する境界の街」
「共鳴……?」
「人と妖は、根本的に違う。けれど、ここではその二つが交わり、混ざり合うことがある」
燐の瞳が鋭く光った。
「お前の魂も、そうだ。お前は人と妖の媒介者⋯⋯それは祝福でもあり、呪いでもある」
璃霞は言葉に詰まった。祝福?呪い?
だが、その胸の奥には不思議な熱が灯っていた。
「ここに来て、わたしは少しだけ、わかってきた気がする」
「何が?」
「わたしの力。燐様が言った通り、わたしの中に水の神の血が流れているのなら、これからどうなるか……」
燐は微笑んだ。
「その力は、人の世界を癒すことも、破壊することもできる。だからこそ、使い方を誤れば、両方の世界を滅ぼしかねない」
「わたしに、その責任があるの?」
「お前にしかできないことだ。お前はこの世界の均衡を守るための鍵であり、呪われた存在でもある」
そこまで言われて、璃霞の胸は張り裂けそうだった。
「……どうしたらいいの?」
「まずは、己の力を知ること。己を知ることが、すべての始まりだ」
燐は手を伸ばし、璃霞の手のひらに小さな水晶を置いた。
「これを持て。お前の魂とリンクし、力の暴走を抑えるお守りだ」
璃霞はそれを握りしめた。冷たくて、まるで生きているようにほんのり温かかった。
「ありがとう、燐様」
「……燐はもう、様ではない。お前の伴侶であり、守護者であり、そして……」
言葉を濁した。
璃霞は不思議に思ったが、問いただすことはしなかった。
その夜。
璃霞は屋敷の一角、燐と共に過ごしていた。
炎の灯が揺れ、二人の影を壁に映す。
「なぜ、あなたはわたしを選んだの?」
問いかける璃霞に、燐は少しだけ視線を逸らした。
「理由は複雑だが、一つ言えるのは⋯⋯お前はただの巫女ではないということだ」
「それ以上は?」
燐は息を吐いた。
「……お前の血筋には、夜叉の血が混ざっている」
「……!」
璃霞の心臓が跳ね上がる。
「そんなこと、初めて聞いた」
「なぜ、知らなかった?」
「屋敷で隠されていたから。わたしは長い間、孤独だった。家族も、友もいなかった」
「それは辛かったな」
燐は優しく言った。
「だが、だからこそ、お前がこの力を受け入れることが重要なのだ」
璃霞は瞳を伏せた。
「力は怖い⋯⋯でもあなたと契りを交わしたから、わたしは負けたくない」
燐は手を伸ばし、璃霞の頬に触れた。
「負けないでほしい。お前が強ければ、私も強くなれる」
二人の間に、熱い沈黙が流れた。
翌日。
妖の里では、異変が起こり始めていた。
「王よ!陰陽師たちが里の境界を侵してきております!」
従者の一人が慌てて報告に駆け込んだ。
「何だと……!」
燐の眉が深く寄る。
「奴らか……」
「陰陽師とは?」
璃霞が尋ねた。
「人間の世界にいる、妖を討つ者たちだ。妖と人間の秩序を乱す存在は許さぬ、という名目の下で暗躍している」
「わたしの力を奪いに来るの?」
燐は頷いた。
「奴らは、この世界の平衡を恐れている。お前のような存在は、彼らにとって“異物”だ」
「わたしは、どうすれば……」
「戦うしかない」
璃霞はそれでも迷った。
戦う?自分にそんなことができるのか?
けれど、燐の強い眼差しが答えを促した。
「私が傍にいる。決して一人にはさせない」
璃霞は決意を固め、頷いた。
その夜。
里の外れで、陰陽師たちの集団が密かに動いていた。
「今回の標的は、水神の巫女、璃霞だ。奴が契りを交わした夜叉の王、燐を倒さねばならぬ」
「了解。だが、燐は強力だ。慎重に行動する必要がある」
「くく……お楽しみはこれからだな」
彼らの中には、ひときわ冷酷な女陰陽師がいた。黒髪を長く垂らし、蒼い目が氷のように光っている。
「霞姫、璃霞……。その血筋に惹かれる者は多い。私が先手を打つ」
彼女の名は、凛花。
璃霞と燐の運命に大きな波紋をもたらす存在だった。
次の朝。
璃霞は燐とともに、里の祭壇へと向かっていた。
「ここで、わたしは力の制御法を学ぶ」
「祭壇は水の精霊が宿る場所だ。お前の力を開放し、制御するには最適な地だ」
二人が歩みを進める中、燐の背後に不穏な気配が忍び寄る。
「来たな……」
燐は闇に溶けるように動き、璃霞を庇った。
「あなた、危ない!」
璃霞の声が夜の静寂を破った。
数人の影が一斉に飛びかかる。
燐は獣のように身を翻し、闇を纏いながら敵を蹴散らした。
璃霞は水晶を握りしめ、濡れた大地から水を呼び起こす。
「水よ、我が願いを叶えよ!」
蒼い波が巻き上がり、敵を包み込んだ。
戦いの中で、璃霞の心は強く揺れた。
自分の力は、ただの恐怖の塊なのか、それとも誰かを守るための光なのか⋯⋯。
その答えを求めて、彼女は更に前へと進む。
戦いの余韻がまだ辺りに残る。夜の空気は張りつめ、静寂の中に幾度も波紋のような震えが広がった。
璃霞は水晶を握ったまま、深く息を吐いた。身体の中を駆け抜けた水の力がまだ鎮まらず、まるで嵐の余波のように胸を揺らしている。
「燐様……わたし、まだ怖い」
燐は彼女の肩に手を置き、柔らかな声で答えた。
「恐怖は力の一部だ。恐怖があるからこそ、お前は慎重になり、力を制御しようとする。恐怖がなければ、ただの暴走になる」
璃霞はうなずきながら、目を閉じて心を落ち着けようとした。
けれど、頭の片隅にずっと引っかかっているものがあった。
⋯⋯凛花。
あの女陰陽師の名が、脳裏に深く刻まれていた。
彼女が狙う理由、凄まじい冷たさ、妖への憎悪……。
「燐様、あの女陰陽師は何者なの?」
「……凛花は人間の陰陽師の中でも一際異彩を放つ者だ。彼女の家系は代々、妖を根絶やしにすることを宿命づけられている」
「でも、どうしてわたしを……」
「お前の力が、彼女にとって最大の脅威だからだ」
燐の瞳は鋭く光った。
「契りを交わしたことで、お前の魂は燐のものと結ばれた。彼女はその契約を壊そうとする。つまり、私たち二人を同時に狙っているのだ」
璃霞はそれを聞いて、背筋が凍る思いだった。
「わたし、どうすれば……」
「強くなるしかない」
燐の言葉は揺るがなかった。
翌朝、妖の里はいつになく静かだった。
だが、その平穏は表面だけのものに過ぎなかった。
璃霞は燐とともに、里の長老たちが集う会議に参加していた。
「王よ、このたびの人間界の陰陽師の動きは予想以上に早かった」
長老の一人が言った。
「彼らはただの狩人ではない。策略を用い、情報を巧みに操っている」
「つまり、我々の弱点を突いてくるということか」
燐が呟く。
「そうです。彼らは妖の中に潜む裏切り者を利用し、内部から崩そうとしています」
璃霞はその言葉に戦慄を覚えた。
「裏切り者……」
「はい。我々の中にも人間との契りや裏切りを企てる者がいる」
「ならば……どうすれば」
燐が答えた。
「全てを疑い、警戒し、戦うしかない」
璃霞の心は張り裂けそうだった。
彼女が信じたいものが、少しずつ壊れていく。
その夜、璃霞は燐の側で眠りにつこうとしていた。
だが、眠りは浅く、夢の中でまたもや凛花が現れた。
「璃霞……お前の魂は我が手で断ち切られる」
凛花の瞳は冷たく輝き、無数の刃が光る。
「あなたは……誰なの?」
「私は、妖を憎む者。お前をこの世界から消すために来た」
璃霞は必死に抵抗しようとするが、夢の中の刃は避けられない。
だがその瞬間、燐の声が響いた。
「璃霞!お前の魂は我がものだ。離すな!」
璃霞は目を覚ました。
額には冷たい汗が流れ、呼吸は荒く、手は震えていた。
燐は優しく彼女を抱き寄せた。
「夢か……」
「はい。でも、怖かった」
「その恐怖を、力に変えろ」
璃霞はうなずき、再び瞳を閉じた。
数日後、妖の里に異変が起こった。
「王よ!里の北門が破られました!」
従者の声が震えていた。
燐は即座に立ち上がり、璃霞の手を取った。
「戦いの時だ、璃霞」
「はい、燐様」
二人は戦闘態勢に入る。
だが、そこに現れたのは意外な者だった。
「⋯⋯凛花」
黒衣を纏った女陰陽師が、冷笑を浮かべながら現れた。
「王と契りを交わした人間の巫女……面白い。だが、その契りはもろくも崩れるだろう」
燐は凛花を睨みつけた。
「我が里を侮るな。お前のような者に、この里は渡さぬ」
「言葉ではなく、力で証明しなさい」
戦いが始まった。
凛花は刃を振るい、燐は闇の力で応戦する。
璃霞は水晶を握りしめ、精霊の力を呼び覚ました。
「水の力よ、我が身を守り、敵を討て!」
青い波が彼女の周囲に渦巻き、刃を弾き返す。
戦いは激しさを増し、夜空に雷鳴が轟いた。
燐の黒き影が凛花を包み込み、璃霞の水流が彼女の動きを制限する。
だが、凛花の眼差しは冷たく、決して屈しなかった。
「まだ終わらせない……」
璃霞は心の奥で何かが弾けるのを感じた。
力が暴走しそうな予感。
「止めて……」
燐の声が耳に届く。
璃霞は必死に自分を抑えながら、戦いを続けた。
戦闘の最中、燐はふと後方に目をやった。
里の片隅で、一人の影が動いていた。
「奴は……裏切り者だ」
燐は叫び、璃霞を背に隠す。
「裏切り者が里を売ろうとしている!」
璃霞の視線がその方向へ向けられた。
そこに立っていたのは、妖の中でも高位の者、紅蓮だった。
「紅蓮……どうしてこんなことを……?」
紅蓮は冷ややかに笑った。
「強き者に与するのは生き残るための術だ。王も、王妃もいらぬ」
その言葉に、燐の体から闇の霧が立ち上った。
「許さぬ……!」
紅蓮と燐の間で、黒い火花が散った。
璃霞は、戦いの最中に初めて、自分の力が何かを変えようとしていることを知った。
この契りは、ただの呪いでもなければ、祝福でもない。
闇の火花が舞い散る中、燐は紅蓮に向けて呪文を唱えた。
「闇よ、我が刃となり、敵を斬り裂け!」
黒い影が燐の体から伸び、紅蓮を締め上げる。だが、紅蓮は嘲笑を浮かべ、妖の鋭い爪で影を裂いた。
「まだまだ甘い。燐王よ、私を倒せるか?」
その声は冷たく、威圧的だった。
璃霞は燐の横で息を呑む。紅蓮の力は、里でも最強クラスだと聞いていた。
「燐様……気をつけて!」
燐は軽く頷き、目の前の敵に集中した。
一方、璃霞の心は乱れていた。
裏切り者が里にいるという事実。
自分たちの世界は、もう安全ではない。
「どうして、こんなに……」
彼女の中の水の力が、波のように揺れ動き始める。
その波は、彼女の内面の葛藤と共鳴し、まるで意思を持つかのように動いていた。
「璃霞よ」
燐の声が響き、彼女の心を引き戻す。
「力を解放しろ。お前の力は恐れるものではない」
璃霞は意を決し、水晶を強く握りしめた。
「水よ……我が意志に応えよ」
周囲の空気が冷たく震え、青い水の霧が立ち上がる。
その霧は敵の動きを封じ、紅蓮の動きを鈍らせた。
「これは……!」
紅蓮の驚きの声が響く。
燐はその隙を逃さず、一撃を加えた。
「終わりだ、紅蓮」
紅蓮は必死に抵抗したが、燐の闇の力と璃霞の水の力の連携は圧倒的だった。
やがて、紅蓮は力尽き、倒れ込んだ。
里は一時の静寂に包まれた。
だが、その勝利は長くは続かなかった。
凛花が冷ややかに口を開く。
「まだ終わっていないわよ」
璃霞は振り返り、その瞳に凛花の強い意志を見た。
「私がいる限り、お前たちの平穏は許さない」
燐は冷たく言った。
「ならば、ここで決着をつけよう」
凛花は刀を抜き放ち、戦闘態勢に入る。
璃霞は燐の隣に立ち、覚悟を決めた。
「わたしも……戦う」
激しい戦いの中、璃霞の水の力はどんどん暴走し始めた。
「止まれ、璃霞!」
燐が叫ぶ。
だが、璃霞の目は青く光り、誰も止められない強さを持っていた。
水の波が渦巻き、凛花を包み込む。
「……やめて!」
燐の叫びが空に響いた。
璃霞は心の深淵に落ち、恐怖と怒りが渦巻く。
その時、燐が静かに語りかけた。
「璃霞、私を見て」
その声が彼女を現実に引き戻した。
「あなたがいる。わたしは一人じゃない」
璃霞の力が静まる。
戦いは終わりを迎え、凛花は倒れた。
翌朝、璃霞と燐は里の広場で静かに語り合っていた。
「あなたのおかげで、わたしは自分の力を恐れなくなった」
璃霞は微笑み、燐の手を握った。
「お前が恐れるのは自然なことだ。だが、それに負けてはいけない」
「これからも、一緒に戦ってほしい」
燐は強く頷いた。
「約束しよう。お前の傍に、ずっと」
璃霞の瞳は希望に輝き、二人は固い契りを交わした。
夜の帳が再び里を包み込んだ。
戦いの傷跡は深く、そこかしこに黒い焦げ跡と崩れた土塀が残っている。
だが、璃霞と燐の間には静かな安堵の空気が漂っていた。
「璃霞……お前は強くなったな」
燐はそっと彼女の頬に手を触れた。
「まだまだよ……でも、もう少しだけ怖くなくなった」
璃霞はゆっくりと笑みを浮かべた。
「お前の力は、ただの水ではない。魂の叫びのようなものだ」
燐の言葉には深い敬意が込められていた。
「この契りは、お前と私だけのものではない」
燐は視線を遠くに向けた。
「人と妖、その狭間に生きる者たち、全ての存在を繋ぐ橋だ」
璃霞はその言葉を噛みしめた。
自分の存在が、この世界に意味を持つことを初めて実感した。
「燐様、わたし……」
璃霞の声は震えていた。
「お前は、迷いながらも光を見つけた」
燐は優しく微笑んだ。
「それが何よりも強い力だ」
遠くで梟の鳴き声が響き、夜風が柔らかく二人を包み込む。
璃霞は燐の手をしっかりと握り返した。
「これから、何があっても、あなたと共に歩む」
「俺もだ、璃霞」
二人の間に言葉以上の絆が結ばれた瞬間だった。
月明かりの下、二人は静かに里の奥へと歩み始めた。
闇の中に輝く青い瞳と白銀の髪が、まるで夜の風に溶け込む霞のように美しかった。
この契りがもたらす未来はまだ見えない。
だが、確かなことは二つ。
璃霞は一人ではないこと。
そして燐は、彼女の光であり影であること。



