「休憩にするか」
壁に並んでよりかかり、先輩と差し入れの菓子パンを食べながら作品を眺めた。
「そういえば、この前の放課後、教室でなにしてたんですか? 眠いからって、家に帰ったのに、レオ先輩が放課後、学校にいたからびっくりしました」
「ああ、提出書類があって」
「課題ですか?」
「まあ、そんなもん」
「俺も課題が溜まっててヤバイです」
「目に浮かぶな」
「え、ひどい」
俺ってレオ先輩のなかでどんなイメージなんだろう?
むむうっと考えこむ俺を見て、先輩は笑っている。
「俺がこんななりしてるから想像しにくいかもしれねえけど。うちの親は堅物で厳格なんだよ。母親はヒステリックでいつもわめいてるし」
「うちの母ちゃんも、まあまあ、うるさいけど」
「太陽の家とは、たぶん違う。俺が美大なんて志望したら父親に殴り殺されて、その横で母親はヒステリックに騒いだ挙句に泡吹いて倒れてるかもな」
「……マジですか」
「世の中には、そういう家もあるんだよ。特別に優秀な人間以外は一族として認めない、そんな気配をぷんぷん匂わせてる親なんだよ。俺の意思なんて関係ない」
そんなの理不尽すぎる……。
レオ先輩の人生は、他の誰でもなくレオ先輩だけのものなのに。
「おい、太陽が悲壮な顔するな、俺はべつに構わない。慣れてるからな」
「そんなことに慣れちゃだめです」
思わず呟くと、レオ先輩が顔を歪める。
「……慣れるしかねえだろ、そういう家なんだから」
でも、だからって……進路も自由に選べないなんて。
レオ先輩はじっと目の前の壁を見つめている。
その眼差しは、鋭いのにどこか脆く寂し気で、ぎゅうぎゅうと心臓が引き絞られる。
気づけば、レオ先輩にそっと手をのばし、その頭をなでていた。
「おい、やめろ。つか、……お前、なにしてんだよ?」
「えと、アニマルセラピーみたいな?」
「アニマルって、誰が動物だよ……」
「えーっと、……俺……かな?」
レオ先輩も、ちょっとライオンっぽいけど。
そうとは言えず、ゆるゆるとレオ先輩の髪をなでた。
レオ先輩の髪は見た目よりずっと柔らかくて、心臓が静かに跳ねる。
「俺が、レオ先輩を癒します」
「……変なやつ」
呆れ果てたのか、諦めたのか、先輩はされるがままに、目をつぶる。
その無防備な姿に、ばくんっと心臓が鳴った。
くっきりとした顔立ちに、切れ長の瞳、つんっと尖った鼻に薄く形の整った唇。レオ先輩はどの角度から見ても、すごく綺麗だ。
先輩の髪をなでながら、じっと顔を寄せて見惚れていたら、レオ先輩がパチッと目を見開いた。
わあっ!!
「いったあ」
驚いて思い切り尻もちをついた俺を見て、先輩が目を丸くする。
「ったく、お前は、いったいなにしてるんだよ」
「ほんとに、俺、なにしてるんだろう……?」
恥ずかし。
「ぷっ。なんだよ、それ」
肩を揺らして笑うレオ先輩を見ていたら、じんわりと胸が熱くなった。
……嬉しいな。
今だけはレオ先輩を独り占めだ。
すると、レオ先輩が片づけたはずのスプレー缶を手にとった。
レオ先輩がシャカシャカとスプレーを振ると、プシュッと小気味のいい音を立てて、スプレーが白い霧となり飛び散る。
埃っぽいこの空間も、退廃した壁も、刺激臭すらもレオ先輩は味方につけて、あっという間に、息をのむほどの精緻(せいち)な作品が生まれた。
「……どうだ?」
「……」
「太陽?」
「……なにも言えないです。言葉とか出てこないです」
その色彩のエネルギーに圧倒されて、ただ涙が一筋流れた。
このひとは、すごい。
目の前に現れたのは、水辺に咲く菖蒲。
深く鮮やかな紫色の花びらはスプレーで微妙な濃淡がつけられて、ペンキで刷いた葉と茎の凛とした若草色が際だつ。
「お前、北斎好きなんだろ」
「すごいです、……本当に。……俺、北斎が好きですけど、レオ先輩の絵はもっと好きです」
頬っぺたを濡らしたまま伝えると、レオ先輩が困ったように笑う。
「こんな落書きを見て泣くとか、ほんとにお前はバカだな」
先輩が手のひらで俺の涙をぬぐい、ひやりと冷たい手のひらが触れた。
「やべ、ペンキついたかも」
「いいです、光栄です」
「……太陽だけだよ、そんなこと言うバカなやつは」
苦笑いするレオ先輩に、どうしても伝えたくて必死に絞り出した。
「先輩はわかってないです。きっと先輩はすごいアーティストになります、みんなを感動させるひとになる、絶対に。俺が約束します」
「……ありがとな」
それは、未来を照らす明るい響きではなく、諦めの滲む乾いた声でそれがむしょうに悲しくて、俺はレオ先輩のパーカーの裾をそっと握った。
そんなありがとうは欲しくなかった。
「おい、太陽が落ち込んでどうするんだよ」
「だって、レオ先輩にはこんなに才能があるのに……」
「俺はべつに美大に行きたいとも、アーティストになりたいとも思ってねえよ」
「どれもすごい絵ばかりなのに……?」
「興味ねえよ。これはただのうっぷん晴らしで、俺には大事なものなんてなにもないからな」
レオ先輩のその一言が、ざくりと心を刺した。
自分が先輩にとって価値ある存在でいたいなんて、大それたことを望んでるわけじゃない。
ただ、先輩にとって大切なものがないこの世界が悲しかった。
「太陽、顔上げろ」
「……無理、です」
情けないことに、涙がまたこぼれてしまいそうで顔が上げられない。
「太陽、そこまでここにある絵が好きなら、いつでも好きなときにここに見に来ればいいだろ。だからベソベソ泣くな」
──え?
頬っぺたをぬぐって顔を上げると、指先でピアスをいじりながらレオ先輩が続ける。
「お前のそういう顔、見たくねえんだよ。だから、いつでも来たいときにここに来ればいい」
「いつでも? 好きなときに? この地下室に来ていいんですか?」
「ああ。だから、もうへこんだ顔するな」
「俺、絶対に邪魔しないんで! 先輩がいなかったらすぐに帰りますから!」
ぎゅっと拳をにぎって、喜びを噛みしめていると笑われた。
「泣いたり、笑ったり、お前は忙しい奴だな」
ふいに見せたレオ先輩の表情はすごく無防備で、俺の心は手加減なく撃ち抜かれた。
あー……、もう、レオ先輩はずるい。
知れば知るほど、レオ先輩に心を奪われて、惹かれていく。
その日は夜が更けるまで、先輩の描く姿を見つめていた。
「太陽、そろそろ帰れ」
「今日は、文化祭の準備で遅くなるって親に伝えてあるから大丈夫です」
先輩に嘘をついて、その場に残った。
今日だけは、先輩の姿を見ていたかったから。
終電ギリギリまで地下室にいたから、さすがに母ちゃんに怒られたけど、できるなら朝まで先輩のそばにいたかった。
壁に並んでよりかかり、先輩と差し入れの菓子パンを食べながら作品を眺めた。
「そういえば、この前の放課後、教室でなにしてたんですか? 眠いからって、家に帰ったのに、レオ先輩が放課後、学校にいたからびっくりしました」
「ああ、提出書類があって」
「課題ですか?」
「まあ、そんなもん」
「俺も課題が溜まっててヤバイです」
「目に浮かぶな」
「え、ひどい」
俺ってレオ先輩のなかでどんなイメージなんだろう?
むむうっと考えこむ俺を見て、先輩は笑っている。
「俺がこんななりしてるから想像しにくいかもしれねえけど。うちの親は堅物で厳格なんだよ。母親はヒステリックでいつもわめいてるし」
「うちの母ちゃんも、まあまあ、うるさいけど」
「太陽の家とは、たぶん違う。俺が美大なんて志望したら父親に殴り殺されて、その横で母親はヒステリックに騒いだ挙句に泡吹いて倒れてるかもな」
「……マジですか」
「世の中には、そういう家もあるんだよ。特別に優秀な人間以外は一族として認めない、そんな気配をぷんぷん匂わせてる親なんだよ。俺の意思なんて関係ない」
そんなの理不尽すぎる……。
レオ先輩の人生は、他の誰でもなくレオ先輩だけのものなのに。
「おい、太陽が悲壮な顔するな、俺はべつに構わない。慣れてるからな」
「そんなことに慣れちゃだめです」
思わず呟くと、レオ先輩が顔を歪める。
「……慣れるしかねえだろ、そういう家なんだから」
でも、だからって……進路も自由に選べないなんて。
レオ先輩はじっと目の前の壁を見つめている。
その眼差しは、鋭いのにどこか脆く寂し気で、ぎゅうぎゅうと心臓が引き絞られる。
気づけば、レオ先輩にそっと手をのばし、その頭をなでていた。
「おい、やめろ。つか、……お前、なにしてんだよ?」
「えと、アニマルセラピーみたいな?」
「アニマルって、誰が動物だよ……」
「えーっと、……俺……かな?」
レオ先輩も、ちょっとライオンっぽいけど。
そうとは言えず、ゆるゆるとレオ先輩の髪をなでた。
レオ先輩の髪は見た目よりずっと柔らかくて、心臓が静かに跳ねる。
「俺が、レオ先輩を癒します」
「……変なやつ」
呆れ果てたのか、諦めたのか、先輩はされるがままに、目をつぶる。
その無防備な姿に、ばくんっと心臓が鳴った。
くっきりとした顔立ちに、切れ長の瞳、つんっと尖った鼻に薄く形の整った唇。レオ先輩はどの角度から見ても、すごく綺麗だ。
先輩の髪をなでながら、じっと顔を寄せて見惚れていたら、レオ先輩がパチッと目を見開いた。
わあっ!!
「いったあ」
驚いて思い切り尻もちをついた俺を見て、先輩が目を丸くする。
「ったく、お前は、いったいなにしてるんだよ」
「ほんとに、俺、なにしてるんだろう……?」
恥ずかし。
「ぷっ。なんだよ、それ」
肩を揺らして笑うレオ先輩を見ていたら、じんわりと胸が熱くなった。
……嬉しいな。
今だけはレオ先輩を独り占めだ。
すると、レオ先輩が片づけたはずのスプレー缶を手にとった。
レオ先輩がシャカシャカとスプレーを振ると、プシュッと小気味のいい音を立てて、スプレーが白い霧となり飛び散る。
埃っぽいこの空間も、退廃した壁も、刺激臭すらもレオ先輩は味方につけて、あっという間に、息をのむほどの精緻(せいち)な作品が生まれた。
「……どうだ?」
「……」
「太陽?」
「……なにも言えないです。言葉とか出てこないです」
その色彩のエネルギーに圧倒されて、ただ涙が一筋流れた。
このひとは、すごい。
目の前に現れたのは、水辺に咲く菖蒲。
深く鮮やかな紫色の花びらはスプレーで微妙な濃淡がつけられて、ペンキで刷いた葉と茎の凛とした若草色が際だつ。
「お前、北斎好きなんだろ」
「すごいです、……本当に。……俺、北斎が好きですけど、レオ先輩の絵はもっと好きです」
頬っぺたを濡らしたまま伝えると、レオ先輩が困ったように笑う。
「こんな落書きを見て泣くとか、ほんとにお前はバカだな」
先輩が手のひらで俺の涙をぬぐい、ひやりと冷たい手のひらが触れた。
「やべ、ペンキついたかも」
「いいです、光栄です」
「……太陽だけだよ、そんなこと言うバカなやつは」
苦笑いするレオ先輩に、どうしても伝えたくて必死に絞り出した。
「先輩はわかってないです。きっと先輩はすごいアーティストになります、みんなを感動させるひとになる、絶対に。俺が約束します」
「……ありがとな」
それは、未来を照らす明るい響きではなく、諦めの滲む乾いた声でそれがむしょうに悲しくて、俺はレオ先輩のパーカーの裾をそっと握った。
そんなありがとうは欲しくなかった。
「おい、太陽が落ち込んでどうするんだよ」
「だって、レオ先輩にはこんなに才能があるのに……」
「俺はべつに美大に行きたいとも、アーティストになりたいとも思ってねえよ」
「どれもすごい絵ばかりなのに……?」
「興味ねえよ。これはただのうっぷん晴らしで、俺には大事なものなんてなにもないからな」
レオ先輩のその一言が、ざくりと心を刺した。
自分が先輩にとって価値ある存在でいたいなんて、大それたことを望んでるわけじゃない。
ただ、先輩にとって大切なものがないこの世界が悲しかった。
「太陽、顔上げろ」
「……無理、です」
情けないことに、涙がまたこぼれてしまいそうで顔が上げられない。
「太陽、そこまでここにある絵が好きなら、いつでも好きなときにここに見に来ればいいだろ。だからベソベソ泣くな」
──え?
頬っぺたをぬぐって顔を上げると、指先でピアスをいじりながらレオ先輩が続ける。
「お前のそういう顔、見たくねえんだよ。だから、いつでも来たいときにここに来ればいい」
「いつでも? 好きなときに? この地下室に来ていいんですか?」
「ああ。だから、もうへこんだ顔するな」
「俺、絶対に邪魔しないんで! 先輩がいなかったらすぐに帰りますから!」
ぎゅっと拳をにぎって、喜びを噛みしめていると笑われた。
「泣いたり、笑ったり、お前は忙しい奴だな」
ふいに見せたレオ先輩の表情はすごく無防備で、俺の心は手加減なく撃ち抜かれた。
あー……、もう、レオ先輩はずるい。
知れば知るほど、レオ先輩に心を奪われて、惹かれていく。
その日は夜が更けるまで、先輩の描く姿を見つめていた。
「太陽、そろそろ帰れ」
「今日は、文化祭の準備で遅くなるって親に伝えてあるから大丈夫です」
先輩に嘘をついて、その場に残った。
今日だけは、先輩の姿を見ていたかったから。
終電ギリギリまで地下室にいたから、さすがに母ちゃんに怒られたけど、できるなら朝まで先輩のそばにいたかった。
