文化祭を控えて、どこかお祭り気分を楽しむような浮かれた空気が学校全体に漂っている。
 
 休み時間に生徒会室での打ち合わせを終えると、少し遠回りをして二年生の教室が並ぶ二階に向かった。
 レオ先輩の教室をのぞいてみたけれど、レオ先輩の姿はそこにはなかった。
 
……まあ、レオ先輩はほとんど学校に来てないからなあ。

 あの日、レオ先輩は巧さんとホテルのプールに行ったのかな。

 ホテルのナイトプールがどんなものか気になって調べてみたら、水着姿の女の子たちが貝の形をした浮き輪に乗って、ライトアップされたプールにぷかぷか浮いていて驚いた。
 俺が知っている市民プールとは全く様子が違っていた。
 そんな場所で、レオ先輩が水着姿の女の子たちに囲まれているところを想像すると、落ち着かない。

 俺が口出しできることじゃないけど、なんだか嫌だな。
 それによく考えたら、巧さんもレオ先輩と同じ高二なんだよな。
 俺よりひとつ上には見えないくらい大人っぽかったし、運転手つきの車で遊びに行くなんて、別世界……というより、もはや異世界だ。

 自分の教室にもどり、ふうっとため息をついたところで山本にぽんっと背中をたたかれた。

「太陽、また文化祭の打ち合わせに行ってたのかよ。で、合コンはどうする?」
「合コンって?」

そこに流星がやってきて、ひらめいた。

「わかった。流星が行くなら、俺も行く」

そう山本に伝えた。
だって、絶対に流星は行かないし。

「ふざけんなよ、絶対に行かねえよ」

ほらな。

「ってことで、俺も行かない。はい、この話は終わり!」
「ちぇーっ。流星くんが来てくれたら女子、百人くらいは集まりそうなのにな」
「え……合コンってそんなに壮大な人数で催すものなの?」

 俺、よく考えたら合コンとかよく知らないや。
 百人の男女ってどんな感じだろ。
 頭に浮かぶのは、広い草原で向かい合う男性陣と女性陣。
 
「……つまりは、関ヶ原の戦いみたいな感じ?」
「とりあえず、太陽は黙ってろ」

 自分から言い出したくせに。ひどいな、山本。
 とにかく、と低く掠れた声で流星がぼそっと答えた。

「俺に、合コンの話は二度とするな」

 その声音(こわね)から流星の殺気を山本も感じとったらしい。

「ま、まあ流星くんは高嶺の花すぎて、女子が委縮しちゃうか。流星くんはイケメンの範疇(はんちゅう)をこえちゃってるからな。そんな言葉じゃ到底表せないっつうか」
「まあなっ」
「なんで、太陽が得意げなんだよ。俺が褒めたのは流星くんだし」
「流星は俺の自慢の幼なじみだからなっ」

ふふん♪

「たしかに女子たちも、流星くんにはあいさつ程度で、気軽に声かけたりしないよな。流星くんのことを離れたところから虎視眈々(こしたんたん)と狙ってる感じ? こう、油断したすきにガブッと……!」
「ホラーじゃん!」

 口紅をした肉食恐竜にくわえられている流星が浮かんで、あわてて打ち消した。

「その点、太陽はいいよな。庶民派イケメンの代表。お気楽でお気軽に声をかけられるカワイイ太陽くんだもんな。幼なじみなのに不思議だなー」
「それって、俺、褒められてるの?」
「褒めてる、褒めてる」

 ホントかな、と首をかしげると、つうかさ、と山本が声をひそめる。

「太陽って好きな子とかいないの?」
「んー……、考えたことないかも」
「へえ、モテるのに不思議だな」
「俺、モテないよ」

 俺の場合はたぶん、話しやすいとか、親しみやすいってだけで、モテてるわけじゃないと思う。

「まあ、そう思っておけよ。太陽に先に彼女ができたら悔しいし」
「なんだよ、それ」
「お子様の太陽には彼女とか早いし」
「ひどっ」

 そう笑って答えながら、ふいにレオ先輩の横顔が浮かんで動揺した。
 な、なんで俺、このタイミングでレオ先輩を思い出したんだろう!

「あれ、太陽、顔が赤くね?」
「え、そ、そうかな」

 ほつほつと顔が熱くなって、両手で頬っぺたを押さえてごまかした。

「そういえばさ、例の先輩いるだろ?」
「え? レオ先輩!?」
「ん、てか驚きすぎじゃね?」
「そ、そんなことないけど」

心のなかを読まれたのかと思った……!

「さっき、職員室で見かけた。最近、よく学校に来てるな」
「え、ほんと!?」
「ん、よくわかんないけど、ぶ厚い封筒を受けとってた」
「俺、ちょっと行ってくるっ!」

 イスを蹴飛ばす勢いで立ち上がると、流星の声が背後で響く。

「おい、太陽! もうすぐ授業始まる。次、体育だぞ!」
「わかってる! すぐ戻るから!」

 それだけ伝えてすぐに職員室に向かったけれど、レオ先輩には会えないまま休み時間は終わってしまった。


 もうレオ先輩、帰っちゃったかな。
 体育の授業が始まっても、レオ先輩のことが気になって、落ち着かない。

「悪い、太陽!」
「いいよ。俺、拾ってくる」

 バスケの練習試合で、大きく跳ねたボールが体育館の外まで勢いよく転がった。
慌てて追いかけると、ボールは誰かの足元で止まっている。

「すいませんっ、ありがとうございます」
 
 声を弾ませ頭をさげる。
と、ボールを拾い上げたその横顔に、思わず声が裏返った。

「……えっ!? レオ先輩!?」

 まさか、こんなところでレオ先輩に会えるなんて!

 髪をひとつにまとめたレオ先輩は、昼の光を浴びて、いつもよりその表情に滲む影が薄れて見える。
 その代わりに、澄んだ眼差しがいっそう鋭く際立っている。

 ふいに現れたレオ先輩が眩しくて、ドキドキしすぎて心臓が痛い。
 ど、どうしよう、嬉しすぎるっ。

「太陽は、体育か」
「は、はい、」

 それだけ答えて深呼吸を繰り返す。
 もう、鼓動が大暴走していて、このままだとせっかくレオ先輩に会えたのにまともに話せない。

「どうした、太陽?」
「あ、え、っと。ちょっと深呼吸を」
「──は?」
「あ、あの、急にレオ先輩に会えて、息が苦しくて」
「熱でもあるのか?」
「!!」

 いきなり額に手を当てられて、ぴょんっと飛び跳ねた。
 
「な、な、な、」
「……お前、本当に大丈夫か?」

 眉を寄せていぶかしむレオ先輩に、涙目で訴えた。

「こ、こ、こんなことされたら、本当に熱出しちゃいますからっ」
「よくわかんねえな……。とりあえず、落ち着け」

 ぽんぽんとレオ先輩に背中をさすられて、も、もう、全身から火を噴きそうだ。

「どうだ、少しは落ち着いたか?」
「は、はい! もう大丈夫です!」

……というのはただの強がりで、正直、全然大丈夫じゃない。
 けど、このままだと心臓がバクバクしすぎて本当に倒れちゃうかもしれないから、「元気、元気」と、レオ先輩に笑って見せた。

「あんまり無理するなよ」

 レオ先輩によしよしと頭をなでられて、ぶんぶんと大きく頷いた。

 レオ先輩は、やっぱり優しいな。

 その大きな手のひらにドキドキしながら、じわじわとその幸せをかみしめた。
 あー……、もう心臓が爆発するのも時間の問題かもしれない……。

「そういえば、この前は悪かったな」
「いえ、俺こそ足止めしちゃって、すみませんでした」

 顔を上げて、レオ先輩に謝った。

「あれは、どう考えても巧が悪いだろ」
「巧さん、すごく大人っぽいですよね、びっくりしました」
「派手でびっくりしただろ」

 はいっと笑って、少し悩んで聞いてみる。

「あの、それで、あのあと、先輩は……プール、楽しかったですか?」
「行くはずねえだろ。駅で降りて、いつもんとこで朝まで描いてた」
「え、……それなら、俺も地下室に行けばよかった」

 そしたら先輩と一緒にいられたのに。
 
「それより、懐かしいな、これ」
 
 そう言ってバスケットボールを片手で軽く転がすと、レオ先輩がゆるく膝を曲げて、一気に跳ね上がった。
 
「……え、」
 
 たちまち、高く伸びた(たくま)しい腕から放たれたボールは綺麗な弧を描いて遠くのゴールに吸い込まれた。

「……すごい」

 あ然としてその光景を見つめた。

「やばっ、場外からのロングスリーポイント!?」

 体育館中が騒然としているなか、俺は身動きがとれなくなった。
 無駄のない美しいフォームが目に焼き付いて離れない。
 心臓がどくんっと跳ねて、胸の奥が熱くて痛い。
 頭のなかは真っ白で、全身が心臓になってしまったみたいにドキドキしている。

俺が茫然しているうちに、先輩はかすかに頬を緩めて「じゃあな」と片手を上げて行ってしまった。


「おい、太陽。試合、はじまるぞ」
「あ、うん」

 そう返事はしたけど、レオ先輩から目が離せなくて、ふわふわとその背中を見つめていた。


 放課後、どうしてもレオ先輩に会いたくて、文化祭の打ち合わせが終わるとすぐに駅まで向かった。

 いつもの廃ビルの前まで来たけれど、ビルのなかはしんと静まり返っている。

……レオ先輩、いないのかな。

 勝手に地下室に入ることはできないから、雑居ビルがひしめくそのあたりをぶらぶら歩いてレオ先輩を探した。
 けれど、そう簡単には見つからない。

……もう一度、駅の裏手に行ってみよ。

 諦めきれなくて、駅のまわりを歩き回っていたら、宵の気配が街を包みはじめたころに、駅の裏通りでレオ先輩を見かけた。
 その冷ややかな横顔は夜の闇に溶け込むように静かで美しくて、無造作にまとめられたグレージュの髪は気だるげに揺れている。

「レオ先輩!」

 弾かれたようにその後ろ姿を走って追いかけると、先輩が俺に気づいた。

「太陽? お前、こんなところでなにしてんだよ」
「俺は、えっと……。あの、レオ先輩はなにしてるんですか?」

 淡い期待を抱いて、問いかけた。

「あー……ペンキ、足りなくなったから買いに出てた。これからまた地下室」「あ、あの! 邪魔しないし、話しかけたりもしないので。その、俺、ついていってもいいですか?」
「好きにしろ」
「はいっ」

 嬉しくて飛び跳ねるように返事した。

 ふわふわと足下が浮くほどの興奮を抱えて、先輩のあとをついて行く。
 もう先輩に会えただけで胸がいっぱいで、必死でその背中を追いかけた。


 薄暗い地下室で、先輩は手慣れた様子でスプレー缶とペンキを並べていく。
 邪魔にならないように呼吸すら殺して壁に描かれた作品を眺める。
 そこに、前回ここに来たときには気が付かなかった白い犬の絵を見つけた。

「先輩、この犬の絵って前からありましたっけ?」
「あー、お前を見てたら描きたくなったんだよ」

 ぐしゃっと俺の頭をなでると、レオ先輩が細い筆をとり、ペンキやスプレーで描いたものに、微細な線を書き入れていく。

「日本画でよく犬が描かれてんだよな」

へえ……日本画かあ……。

 暗い地下室でひっそりと描かれた白い犬。
 その屈託なくじゃれる無邪気さが、底知れぬエネルギーを感じさせる他の絵とは、まるで違っている。
 やっぱりレオ先輩はすごい。

「俺、この犬、すごく好きです!」
「そっか」

 壁に向かう背中は、もう音楽を(かな)でるように、筆を替えのびのびと描いている。

「太陽って、犬っぽいよな」

 そう言って、スプレー缶を手にした先輩は別人だ。
 この瞬間だけは、先輩は楽に呼吸しているように見える。

 それはもう、神様が先輩の体をつかって描かせていると思わせるような神聖で神秘的な瞬間で、そのたびに俺は心ごと奪われる。

「俺、レオ先輩が絵を描いてるところを見るの、好きです。神様が降臨しているっていうか妖術っつうか、もう神秘的な感じがする」
「……バカにしてんのか」
「俺にとってはマジでそんな感じなんです。廃れた壁に、いきなり浮世絵が現れる。それが、今まで見たことのない鮮やかさで。圧倒されるし衝撃的すぎて無言になる。強烈なのに、心は静かで、胸がプルプル震えて涙が止まらない、みたいな。俺、もっと先輩の作品を見てみたいです」
「嬉しいこと言ってくれるな」
「俺、レオ先輩のファン一号になれますか?」

 そうたずねると、レオ先輩はスプレーを動かす手を止めた。
 喜んでくれたと期待したら、振り向いたその顔は暗かった。
 先輩の背負う影が濃く暗くなり、なんだか俺まで悲しくなってくる。

「そんなに簡単にプロにはなれねえよ。実際は壁に落書きしてるだけだろ」
「落書きじゃなくて、俺のリスペクトする大事な作品です」
「つうか、ただのゴミだろ、これ」
「俺にとっては唯一無二の作品で、宝物みたいにすっごく大切なものです」

 まっすぐにレオ先輩に伝えると、ポケットからとり出したスマホに先輩の描いた作品をおさめていく。
 けど、おさまらない。
 実際に見たひとだけが感じることのできる勢いや、艶やかさがある。

「レオ先輩は美大とか考えてないんですか? イギリスの有名なアーティスト、ほら、前にレオ先輩が教えてくれた人、えっと……」
「バンクシー?」
「そう! そういうのを目指したらどうですか?」
「あれは作品のもつ社会的な意味合いを含めてカッコいいんであって、誰にでもできるわけじゃねえんだよ。それに、他の誰かには誰もなれないし、そもそも、既存の誰かを目指すようじゃ先行き暗いよな」
「そういう考え方が、もうアーティストっぽくてカッコいいです」
「やさしいな、太陽は」
「本心ですよ?」
「だからだよ」

ふいに、ほろりと溶けるような笑顔を向けられて、息をのんだ。