すると足を止めて振り向いたレオ先輩に、眩しい光が煌いて、気づけばレオ先輩に向かって走り出していた。
「レオ先輩!」
「太陽、待て」
喜び勇んでレオ先輩に抱き付こうとした俺を、先輩が手のひらで制した。
「いいから、落ち着け」
呆れ果てるレオ先輩に、それでも抱き付きたくてうずうずした。
忙しなく人の行き交う賑やかな廊下を抜けると、レオ先輩と屋上への階段を登る。
「おい、職権乱用かよ」
「今だけです」
預かっていた鍵で屋上の扉を開けると、賑やかな声が風に乗って届く。
フェンス越しに見下ろすと、先輩が描いた赤富士の前には人があふれ、途切れることなく歓声があがっている。
……やっぱりレオ先輩はすごい。
行き交う誰もが先輩の描いた作品に心を奪われて、圧倒されている。
この光景を、レオ先輩に見てもらえるなんて。
もう、それだけで胸がいっぱいだ。
ただ……、屋上から赤富士を眺めていると、燃えてしまった地下室を思い出して少しだけ悲しくなる。
……あの地下室に描かれた作品は、もう二度と見ることができないんだよな。
俺を救ってくれた浮世絵も、レオ先輩が描いた白い犬も、全部、燃えてしまったから……。
しゅんっと目を伏せると、「そういえば」と先輩がスマホを差し出した。
「これは?」
「巧が、とり壊される前にって、あの地下室に冷やかしに来たんだよ。そのときに撮ったらしい」
それは、燃えてしまった地下室を撮影した動画だった。
暗い地下室をおりる足音に始まり、地下の扉を開けると広がる浮世絵の艶やかな世界。
その色彩の美しさが、カメラのフラッシュや光のノイズで色合いを削られることなく、動画におさめられていた。
そこには壁に向かい、一心に色を操るレオ先輩の姿も、あった。
「ありがとう、……ございます」
驚きに声が震えて、深く頭を下げた。
「まあ、感謝は巧に伝えてやれよ」
はい、ともう一度うなずいて、動画をおさめたスマホをそっと握りしめた。
先輩の描いた作品はもちろん、あの地下室で描く先輩の姿が残っていたことが嬉しくて、油断すると声を出して泣いてしまいそうで、ぐっと堪えた。
赤富士の前には続々と人が集まっている。
「レオ先輩、あの赤富士って、いつ描いたんですか?」
「一昨日の夜……だったかな」
それって、つまり。
「寝ないで、描いたんですか?」
「夢中になると時間が飛ぶんだよ」
「でも、深夜に学校に入れました?」
たしか、夜の九時に学校は完全施錠されるはずだ。
「忍び込むのは得意だからな」
先輩の目元が楽しげに緩んで、ハッとする。
「やっぱり、あの廃ビル、忍び込んでたんじゃないですか!」
「ご想像にお任せってことで」
「でも、どうして、急に?」
俺が頼んだときには、いい返事はもらえなかったのに。
「太陽が北斎の赤富士が好きだって言ってたから。いろいろお詫びもこめて」
「お詫びって、なんのことですか?」
「俺のせいで、お前を妙な界隈に引っ張ったから」
「俺、妙な界隈に引っ張られてないです」
「……だとしても、俺がお前をあの場所に誘わなかったら、あの事故に居合わせることもなかっただろ」
「あれは、俺がレオ先輩の言うことを聞かないで地下室に行こうとしたせいだから」
「……つうか、お前さ」
じっと目を細めたレオ先輩が、片手で俺の顎をつかんだ。
「俺に言うことないか?」
「え? ……あ、赤富士、ありがとうございました?」
呼吸の触れる距離にレオ先輩が迫って、かあっと秒速で顔が赤く染まっていく。
「そうじゃない。俺が欲しいのはお前の本音」
「……俺の本音」
まだ伝えていない俺の本音はひとつしかない。
でも、これを伝えたら、……きっとレオ先輩を困らせる。
「ただの、わがままだから、いいです」
「いいから言え」
圧のある表情で見下ろされて、そっと吐き出した。
「先輩、……アメリカに、……行かないでください」
ぐっと堪えたけれど喉の奥が熱くなり、一粒の涙が零れた。
「今日は、留学をとり消しに来たんだよ」
そう耳元でささやいたレオ先輩に、今度こそ力いっぱい飛びついた。
「お前は、よほど赤富士が好きなんだな」
フェンスにしがみついて赤富士を見つめている俺に、レオ先輩が短く息を吐く。
「先輩の作品をみんなに見てもらえるなんて思ってもなかったから。レオ先輩の才能を知ってもらえて、俺はすごく嬉しいんです」
「みんな、なんて関係ない。俺は、お前だけのために描いたんだよ」
「俺のため……?」
「そうだよ、俺が今まで描いてたものは、ただのうっぷん晴らし。けど、初めて誰かのために描きたいと思った、描かなきゃいけないと思ったんだよ。お前のために、自分のために」
「そう、なんですか……」
しばらく感動して言葉が出てこなかった。
「嬉しいです。生まれてから今までで一番の、……最高のプレゼントです」
「プレゼントって、言い方がむずい」
「今日は、俺のもうひとつの誕生日だから」
「……もうひとつ?」
首をかしげた先輩に笑って伝える。
「俺が、今の父ちゃんと母ちゃんの家にもらわれた日なんです。だから、憧れのアーティストに、赤富士描いてもらって、これ以上のプレゼントはないです」
「そっか。……もうひとつの、誕生日か」
「はい、こうして気持ちを整理できたのもレオ先輩のおかげです」
「ならよかった」
先輩の口元がほどけて、淡い笑みが浮かぶ。
レオ先輩の鋭い目元に浮かぶのは、満ち足りた光。
あー、このひとは、きっとすぐに俺の手の届かないところにいく。
出会ってから今日までそんなに時間は経ってないのに、レオ先輩はこれからも目まぐるしく変化して、もっと大きな世界へと飛び立っていく。
先輩が言うとおり、俺とレオ先輩は、住む世界も進む道も違うのかもしれない。
……それでも俺はレオ先輩のそばにいたい。
苦味も苦しみも絶望もすべてを背負って、きっと先輩は進み続ける。
その隣で、俺はこの先もずっと先輩を見つめていたい。
フェンスの向こうには遠く青空が広がっている。
「太陽」
「わっ!」
名前を呼ばれて振り向くと、すぐ目の前にレオ先輩が迫っていて驚いた。
「……驚きすぎだろ」
「だ、だって、急にレオ先輩が目の前にいるから、びっくりして」
「そっか」
長い前髪をかき上げて、先輩がさらに顔を寄せてくる。
「あ、あの、レオ先輩?」
フェンスに背中を押し付けられて、逃げ道を塞ぐように先輩がその両手をフェンスにかけた。
「いい子にしてろよ」
────えっ?
顔を上げたときにはもう、レオ先輩の唇が、俺の唇に重なっていた。
あまりに突然で、ぱっと両手で口を押えて絞り出す。
「な、なんで!?」
「嫌だったか?」
余裕を漂わせて先輩が俺に問いかける。
そ、それは、すごく、びっくりしたけど……。
「嫌じゃない、です。レオ先輩にされて嫌なことなんて、ひとつもない」
まっすぐに先輩を見つめて伝えると。
「それ、覚えておけよ」 とくすっと笑ったその唇がもう一度、俺の唇に触れた。
優しく触れるだけのキスなのに、重なる唇が熱っぽくて、レオ先輩に丸ごと食べられちゃいそうで、ぎゅっとレオ先輩のシャツにしがみついた。
痛いほどに心臓が跳ねて苦しい。
足下はふわふわと頼りなくて、そっと唇がはなれると、ぼんやりとした視界にレオ先輩が映る。
「好きだよ、太陽」
吐息まじりに耳元にふきこまれて、……もう、ダメだ。
膝に力が入らずふにゃふにゃとしゃがみこんだ。
見上げると、青く高い夏の空に、レオ先輩の笑顔が輝いている。
「太陽は?」
かすかに不安交じりの甘い声が頭上に落ちて、ほわほわと顔がほころんだ。
「俺は、レオ先輩よりも、レオ先輩が好きっ」
俺なりに精一杯の想いをこめたつもりだったけれど、レオ先輩はきょとんとしている。
……あれ、俺、変なこと言ったかな?
「えっと、だから、その……! 俺はレオ先輩が想ってるよりも、レオ先輩のことが好きで! レオ先輩がレオ先輩を想う以上に、俺はレオ先輩のことが好きっていうか! だから、つまり俺は、……宇宙の誰よりもレオ先輩のことが好きなんだと思います!」
必死に伝えると、すぐにレオ先輩のくっきりと整った顔にじわじわと甘い笑顔が広がっていく。
「……ほんと、お前はバカだなあ」
それは『好き』よりももっと甘い響きで、ぎゅうっと胸の奥が熱くなるほど嬉しくて。
誰もいない屋上だけど、べつに誰に見られてもいいやとレオ先輩に思い切り抱き付いた。
「お、おい、太陽!?」
そして、驚くレオ先輩の頬っぺたにそっと唇をおしつけた。 終
「レオ先輩!」
「太陽、待て」
喜び勇んでレオ先輩に抱き付こうとした俺を、先輩が手のひらで制した。
「いいから、落ち着け」
呆れ果てるレオ先輩に、それでも抱き付きたくてうずうずした。
忙しなく人の行き交う賑やかな廊下を抜けると、レオ先輩と屋上への階段を登る。
「おい、職権乱用かよ」
「今だけです」
預かっていた鍵で屋上の扉を開けると、賑やかな声が風に乗って届く。
フェンス越しに見下ろすと、先輩が描いた赤富士の前には人があふれ、途切れることなく歓声があがっている。
……やっぱりレオ先輩はすごい。
行き交う誰もが先輩の描いた作品に心を奪われて、圧倒されている。
この光景を、レオ先輩に見てもらえるなんて。
もう、それだけで胸がいっぱいだ。
ただ……、屋上から赤富士を眺めていると、燃えてしまった地下室を思い出して少しだけ悲しくなる。
……あの地下室に描かれた作品は、もう二度と見ることができないんだよな。
俺を救ってくれた浮世絵も、レオ先輩が描いた白い犬も、全部、燃えてしまったから……。
しゅんっと目を伏せると、「そういえば」と先輩がスマホを差し出した。
「これは?」
「巧が、とり壊される前にって、あの地下室に冷やかしに来たんだよ。そのときに撮ったらしい」
それは、燃えてしまった地下室を撮影した動画だった。
暗い地下室をおりる足音に始まり、地下の扉を開けると広がる浮世絵の艶やかな世界。
その色彩の美しさが、カメラのフラッシュや光のノイズで色合いを削られることなく、動画におさめられていた。
そこには壁に向かい、一心に色を操るレオ先輩の姿も、あった。
「ありがとう、……ございます」
驚きに声が震えて、深く頭を下げた。
「まあ、感謝は巧に伝えてやれよ」
はい、ともう一度うなずいて、動画をおさめたスマホをそっと握りしめた。
先輩の描いた作品はもちろん、あの地下室で描く先輩の姿が残っていたことが嬉しくて、油断すると声を出して泣いてしまいそうで、ぐっと堪えた。
赤富士の前には続々と人が集まっている。
「レオ先輩、あの赤富士って、いつ描いたんですか?」
「一昨日の夜……だったかな」
それって、つまり。
「寝ないで、描いたんですか?」
「夢中になると時間が飛ぶんだよ」
「でも、深夜に学校に入れました?」
たしか、夜の九時に学校は完全施錠されるはずだ。
「忍び込むのは得意だからな」
先輩の目元が楽しげに緩んで、ハッとする。
「やっぱり、あの廃ビル、忍び込んでたんじゃないですか!」
「ご想像にお任せってことで」
「でも、どうして、急に?」
俺が頼んだときには、いい返事はもらえなかったのに。
「太陽が北斎の赤富士が好きだって言ってたから。いろいろお詫びもこめて」
「お詫びって、なんのことですか?」
「俺のせいで、お前を妙な界隈に引っ張ったから」
「俺、妙な界隈に引っ張られてないです」
「……だとしても、俺がお前をあの場所に誘わなかったら、あの事故に居合わせることもなかっただろ」
「あれは、俺がレオ先輩の言うことを聞かないで地下室に行こうとしたせいだから」
「……つうか、お前さ」
じっと目を細めたレオ先輩が、片手で俺の顎をつかんだ。
「俺に言うことないか?」
「え? ……あ、赤富士、ありがとうございました?」
呼吸の触れる距離にレオ先輩が迫って、かあっと秒速で顔が赤く染まっていく。
「そうじゃない。俺が欲しいのはお前の本音」
「……俺の本音」
まだ伝えていない俺の本音はひとつしかない。
でも、これを伝えたら、……きっとレオ先輩を困らせる。
「ただの、わがままだから、いいです」
「いいから言え」
圧のある表情で見下ろされて、そっと吐き出した。
「先輩、……アメリカに、……行かないでください」
ぐっと堪えたけれど喉の奥が熱くなり、一粒の涙が零れた。
「今日は、留学をとり消しに来たんだよ」
そう耳元でささやいたレオ先輩に、今度こそ力いっぱい飛びついた。
「お前は、よほど赤富士が好きなんだな」
フェンスにしがみついて赤富士を見つめている俺に、レオ先輩が短く息を吐く。
「先輩の作品をみんなに見てもらえるなんて思ってもなかったから。レオ先輩の才能を知ってもらえて、俺はすごく嬉しいんです」
「みんな、なんて関係ない。俺は、お前だけのために描いたんだよ」
「俺のため……?」
「そうだよ、俺が今まで描いてたものは、ただのうっぷん晴らし。けど、初めて誰かのために描きたいと思った、描かなきゃいけないと思ったんだよ。お前のために、自分のために」
「そう、なんですか……」
しばらく感動して言葉が出てこなかった。
「嬉しいです。生まれてから今までで一番の、……最高のプレゼントです」
「プレゼントって、言い方がむずい」
「今日は、俺のもうひとつの誕生日だから」
「……もうひとつ?」
首をかしげた先輩に笑って伝える。
「俺が、今の父ちゃんと母ちゃんの家にもらわれた日なんです。だから、憧れのアーティストに、赤富士描いてもらって、これ以上のプレゼントはないです」
「そっか。……もうひとつの、誕生日か」
「はい、こうして気持ちを整理できたのもレオ先輩のおかげです」
「ならよかった」
先輩の口元がほどけて、淡い笑みが浮かぶ。
レオ先輩の鋭い目元に浮かぶのは、満ち足りた光。
あー、このひとは、きっとすぐに俺の手の届かないところにいく。
出会ってから今日までそんなに時間は経ってないのに、レオ先輩はこれからも目まぐるしく変化して、もっと大きな世界へと飛び立っていく。
先輩が言うとおり、俺とレオ先輩は、住む世界も進む道も違うのかもしれない。
……それでも俺はレオ先輩のそばにいたい。
苦味も苦しみも絶望もすべてを背負って、きっと先輩は進み続ける。
その隣で、俺はこの先もずっと先輩を見つめていたい。
フェンスの向こうには遠く青空が広がっている。
「太陽」
「わっ!」
名前を呼ばれて振り向くと、すぐ目の前にレオ先輩が迫っていて驚いた。
「……驚きすぎだろ」
「だ、だって、急にレオ先輩が目の前にいるから、びっくりして」
「そっか」
長い前髪をかき上げて、先輩がさらに顔を寄せてくる。
「あ、あの、レオ先輩?」
フェンスに背中を押し付けられて、逃げ道を塞ぐように先輩がその両手をフェンスにかけた。
「いい子にしてろよ」
────えっ?
顔を上げたときにはもう、レオ先輩の唇が、俺の唇に重なっていた。
あまりに突然で、ぱっと両手で口を押えて絞り出す。
「な、なんで!?」
「嫌だったか?」
余裕を漂わせて先輩が俺に問いかける。
そ、それは、すごく、びっくりしたけど……。
「嫌じゃない、です。レオ先輩にされて嫌なことなんて、ひとつもない」
まっすぐに先輩を見つめて伝えると。
「それ、覚えておけよ」 とくすっと笑ったその唇がもう一度、俺の唇に触れた。
優しく触れるだけのキスなのに、重なる唇が熱っぽくて、レオ先輩に丸ごと食べられちゃいそうで、ぎゅっとレオ先輩のシャツにしがみついた。
痛いほどに心臓が跳ねて苦しい。
足下はふわふわと頼りなくて、そっと唇がはなれると、ぼんやりとした視界にレオ先輩が映る。
「好きだよ、太陽」
吐息まじりに耳元にふきこまれて、……もう、ダメだ。
膝に力が入らずふにゃふにゃとしゃがみこんだ。
見上げると、青く高い夏の空に、レオ先輩の笑顔が輝いている。
「太陽は?」
かすかに不安交じりの甘い声が頭上に落ちて、ほわほわと顔がほころんだ。
「俺は、レオ先輩よりも、レオ先輩が好きっ」
俺なりに精一杯の想いをこめたつもりだったけれど、レオ先輩はきょとんとしている。
……あれ、俺、変なこと言ったかな?
「えっと、だから、その……! 俺はレオ先輩が想ってるよりも、レオ先輩のことが好きで! レオ先輩がレオ先輩を想う以上に、俺はレオ先輩のことが好きっていうか! だから、つまり俺は、……宇宙の誰よりもレオ先輩のことが好きなんだと思います!」
必死に伝えると、すぐにレオ先輩のくっきりと整った顔にじわじわと甘い笑顔が広がっていく。
「……ほんと、お前はバカだなあ」
それは『好き』よりももっと甘い響きで、ぎゅうっと胸の奥が熱くなるほど嬉しくて。
誰もいない屋上だけど、べつに誰に見られてもいいやとレオ先輩に思い切り抱き付いた。
「お、おい、太陽!?」
そして、驚くレオ先輩の頬っぺたにそっと唇をおしつけた。 終
