朝の空気がさらりと頬をなでる。
 夏の光の粒が、世界の隅々まで満ちていて、木々の緑までキラキラと透き通って見える。
 
 隣にいるレオ先輩は、いつもの鋭い横顔。
 ひとつにまとめたグレージュの髪を風に揺らし、「太陽」と呼ぶのは、いつもと変わらない低い声。
 ちらっと見上げると、レオ先輩と目が合って全身が熱くなる。

 先輩の部屋にお泊りして、先輩と一緒に登校するなんて甘すぎる現実に、足元はふわふわして、頬っぺたがゆるゆると崩れていく。

「太陽、少しは落ち着け」
「無理です」

 呆れる先輩に真顔で応えた。

 だって、レオ先輩と登校できるなんて、浮かれるに決まってる!

 手のひらでパタパタと顔を扇いで、どうにか火照った熱を逃がそうとするけど、余計に先輩を意識してそわそわしてしまう。
 もう雲の上を歩いているような感覚で、ふわふわと学校へ向かうと、校舎が近づくにつれて、あたりの空気が少しずつ賑やかさを増していく。
 学校前の交差点にさしかかると、その向こうに見える景色はいつになく賑やかだ。
 アーチ型に飾りつけられた正門には、派手な横断幕が掲げられカラフルな紙花や風船が揺れている。

「そういえば、俺、昨日は文化祭準備の途中で抜けちゃったんだ。今日は謝って回らなきゃ」

 一応、メッセージで生徒会の先輩たちには連絡したけど、迷惑かけたことには変わらない。

「太陽は人の何倍も働いてるんだから、文句を言う奴はいないだろ」

 正門の両脇には、机が並べられ来場者に配られるパンフレットが山積みにされている。
 文化祭に向けて、まだパラパラと人が集まっている程度で、校門周りは静かだ。
 校舎に足を踏み入れると、廊下や教室のあちらこちらにカラフルなポスターや装飾が施され、準備に追われる生徒の弾む声が聞こえてくる。

「いよいよ、文化祭かあ」
「成功するといいな」

 はい、と答えたけれど、正直、レオ先輩と一緒に文化祭に来れただけでもう満足だ。
 だって、昨日はレオ先輩の家に泊まって、一緒に眠って、そ、そのうえ……。
 ポッと顔が熱くなって、そこで思考を切った。

 ダメだ、これ以上、あれこれ考えたら、使い物にならなくなって文化祭をぶち壊す。

 平常心、平常心と繰り返す俺を、レオ先輩が柔らかな顔で見ていて、ますます顔が熱くなる。

「えと、レオ先輩は、これから職員室ですか?」
「ん、太陽は?」
「俺は講堂の手伝いに呼ばれてます」
「大変そうだな」
「わりと楽しみです」
「お前らしいな」

 ぐしゃぐしゃと頭をなでられて、幸せな想いで目をつぶる。

 講堂に続く渡り廊下にさしかかると、足を止めた。

「それじゃ、あの、……レオ先輩、また。それから、昨日はありがとうございました」

 これからのことはなにも考えられなくて、またレオ先輩に会いたいとそれだけを願って頭をさげた。
 すると、レオ先輩に腕をつかまれ引き寄せられた。

「先輩? どうしたんですか?」
「太陽、浮気すんなよ」

 こそっと耳に吹き込まれて、その唇がチュッと音をたてて俺の耳たぶに触れた。

「え、え、え!?れ、レオ先輩!?」
 
 な、なにそれ!?
 ぶわっと顔が熱くなって、あたふたと耳を押さえる。

 そんな俺を見て、レオ先輩は、ほんの一瞬、とろけるような甘い顔で笑うと、すぐにいつもの鋭い表情に戻って職員室へと向かった。
 その後ろ姿を、幻を追うように見つめていた。

 レオ先輩に、キスをされて、抱きしめられて、一緒に眠った。
 妄想でも夢でもない現実。
 じわじわとその現実に頬が熱をもち、その熱が全身に広がっていく。

だ、だめだ。

 文化祭が終わるまで、レオ先輩のことはなるべく考えないようにしようって決めたばかりなのに。
 気合を入れなおして、講堂に向かうと、講堂では生徒会役員を中心に慌ただしくミスコンの準備が進められている。

 講堂では、ミスコンのほかにも、吹奏楽部や演劇部が発表を行うため、ステージ裏では音響のチェックが行われ、照明の調整にも余念がない。
 すでに分刻みで生徒会からの連絡が飛び交い、スマホが手放せない。

「あの、昨日は早々に帰っちゃってすみませんでした」

 舞台袖に生徒会の副会長を見つけると頭を下げた。

「え、なにが? それより、壁の件、みんなめっちゃくちゃ感謝してたよー。太陽くんが交渉してくれたんだって?」
「え? 壁の件って?」
「私たちじゃ、絶対に引き受けてもらえなかったからさ。交渉係として太陽くんを表彰したいくらいの大活躍だよ。ほんと、感謝しかない」

 なんのことだろう?

「あ、そうだ、リハーサルの順番、ちょっと入れ替えたから確認してもらってもいいかな。本番の進行はこっちでやるからさ」
「了解です」

 進行表に赤ペンで、変更点を書きこんだ。
 リハーサルを終えて、生徒会の先輩と生徒会室へ移動していると、正門のあたりがざわめいている。

「正門付近、賑やかですね」
「それがさ、例の壁あっただろ? ボロボロに剥げてるから装飾するなりしとけって学校から言われてたやつ」

 レオ先輩が浮世絵を描いてくれたらと、願って叶わなかった壁は、かなり年月を重ねた倉庫の一部で、風雨にさらされてところどころ、ひび割れて壁の色が剥げている。

「そういえば、あれ、どうなったんですか?」

 装飾係が壁一面を飾りつけるなんて間に合わないし、バルーンやカラーテープでどうにかなるレベルじゃないと悲鳴を上げていた。
 美術部も展示作品の制作で忙しく、とても手が回らない様子だった。
 そもそも、正門や校舎の飾りつけだけで時間も備品もぎりぎりだったし。

「それがさ、昨日の朝、その壁を確認しに行ったらブルーシートがかけられて
たんだよ。さすがにブルーシートはマズイよな、って今朝、代わりに紅白幕をかけようとブルーシート外したらさ……」

 話しながらその壁の前まで連れて行かれ、いきなり現れたその光景に言葉を失った。

 これは……。
「赤富士だ……」

 葛飾北斎の凱風快晴(がいふうかいせい)彷彿(ほうふつ)とさせる、朝陽に照らされた富士山の姿が、スプレーとペンキを駆使して描かれていた。

 豪快に吹き付けられた赤が炎のようにほとばしり、山肌は濃淡のある筆致で表現されている。
 抑揚を加えてふきつけられた青と白が、ぽっかりと浮かぶ空と雲を表現し、すす墨を思わせる煤色が山頂の雪をくっきりと浮かびあがらせている。
 その隅には、サインのように細筆で白い子犬が小さく描かれている。

 ……こんなものが描けるのは、ひとりしかいない。

「おい、太陽?」
「すみません、この資料お願いします!」

 そう伝えて人込みをぬって駆け出すと、まっすぐに職員室に向かった。

 ……見つけた。

 職員室のある廊下の隅にレオ先輩の後ろ姿をとらえた。
 ひとを寄せつけない迫力のある存在感は健在で、ひとつに結んだ髪が昼の光に輝いている。

「レオ先輩! 赤富士! あれって、レオ先輩ですよね!?」

 待ちきれず少し離れた場所から、レオ先輩に叫んだ。