黒煙がけぶる街を、レオ先輩に手を引かれて歩いた。

 先輩はなにも言わない。
 時折、俺の存在を確認するように強く手を握りこんでくる。

「先輩、心配かけて、すみませんでした」

 そう伝えるけど、レオ先輩は硬く口を閉ざしたままだ。
 黙って歩き続けていると、見慣れない住宅街にたどり着いた。

「あの、俺たち、どこに向かって歩いてるんですか?」
「俺の家」
「え、」

 ……先輩の家!?

 こんな砂と煙だらけのカッコで?
 レオ先輩の家族もいるかもしれないのに?

 あたふたと戸惑う俺には構わず、レオ先輩は無言で歩き続ける。
 そして、目の前に現れた建物にぽかんと口を開けて立ちすくんだ。

「あの、レオ先輩……ここは?」

 レオ先輩につれていかれたのは、絶句するほどの大豪邸だった。

 優美にうねる曲線状の屋根に、白い外壁はライトアップされてブルーに輝き、入口の豪奢な門から玄関までのアプローチはゆったりとした石畳が続いている。
 石畳の両脇には庭園さながらの庭が広がっていて、ライトアップされた池まである。

 錦鯉(にしきごい)とか泳いでそうだ……。

「えーっと、ここは?」
「だから、俺の家」
「……どの部分が?」
「あ?」

 なにを言ってんだ?と首をかしげたレオ先輩の顔つきで、バカな俺でも理解した。
 つまり、このすべてがレオ先輩の自宅ってことだ。

 え、でも、この全部が自宅? ほんとに?
 やっぱり頭が追いつかない。
 家や庭がライトアップされてて、池まであって外車が五台並んでいて、そのすべてが?
 口を半開きにして眺めていると、目の前のアイアンゲートが自動で開いた。

「……オート、なんですね」

 いったい、どんな仕組みになってるんだろ……。
 レオ先輩は冷めた様子で、石畳を進んでいく。

「外観はピカピカしてるけど家のなかは冷たくて暗い。家っていうより、ただの華美な箱で、中身は空だ」
「……絶対に空ではないと思う」

ぼそっと呟くと、レオ先輩に睨まれた。

「そういう意味じゃねえよ」
「先輩の言いたいことはわかるけど!」
「とにかく、今、家誰もいないから」
「あ、そう……なんですね」

 ホッと肩の力が抜けて、同時に別の緊張に襲われた。
 つまり、……こんなに大きな家にレオ先輩とふたりきり!?
 心のなかの動揺はすぐに見透かされて、呆れ半分でレオ先輩に小突かれた。

「べつに捕って食やしねえ。だから落ち着け」
「俺、レオ先輩になら食べられてもいいです」
「お前はさー、ほんとに……、はああああ……なにもわかってないんだな……」

 本気で答えたのに、先輩にありえないくらい深いため息をつかれた。
 また、呆れられたな、俺……。

「それにしても、すごい家ですね」
「俺はお前の家のほうが好きだよ。帰ったらおばさんがわーわー賑やかに迎えてくれて明るくて、楽しい」
「それなら、いつか俺が先輩の家で、わーわー言いながら、出迎えます!」
「そうか」

 困ったように笑ったレオ先輩は、いつもよりずっと雰囲気が柔らかくて、じんわりと胸が熱くなる。
……でも、来週には留学しちゃうんだよな。
 
 ふいに現実が影を落として、ふるふると頭を振った。今だけは考えるのをやめよう。

 レオ先輩が玄関の扉を開けると、うちのリビングより広い玄関ホールが現れどぎもて度肝を抜かれた。

「太陽、家に連絡しろ。あんな事故があって、きっと心配してる」
「あ、はい」
「それから、うちに泊まることをちゃんと伝えろよ」
「はい」

 って、え?

「泊まるって? どこに?」

 理解が追いつかずきょろきょろしてると、
「悪いけど、犬小屋はないから俺の部屋な」
 そう真顔で言われた。

「あ、犬小屋、ないんですか……」

 って、俺も動揺しすぎて、言ってることがおかしい。

「野宿でも、俺、全然余裕ですけど」
「あのなあ、お前の頭の中はどうなってんだよ。なんで余るほど部屋があるのに野宿するんだよ」

 庭で野宿されたら通報される……と呆れる先輩に、それでも動揺は隠せなかった。

 だ、だって、先輩の家に泊まるだなんて!
 妄想すらしたことがない……。

「おじゃまします」

 ぼそっと呟いて、ため息がでるほど広い家に足を踏み入れた。

 無駄のない美しさに包まれた静謐な家のなかを「うわーっ」とか、「へええ……!」と驚いて目を瞠る俺とは対照的に、レオ先輩はいつも以上に口数が少ない。

 これが自宅の風呂?と家庭用にしてはサイズ感がおかしいだだっ広い風呂に浸かって、風呂上りには先輩のTシャツを借りた。
 風呂上りにも、先輩はほとんどなにも話さない。
 唇をきつく結んだレオ先輩と、言葉少なく布団にくるまったけど。

 ……えっと、これはどういう状況だろ?

 さっきからレオ先輩が抱き枕のように俺を両腕で抱え込んでいる。 

 で、その唇が、さっきからずっと、俺のおでこにくっついている。

 えーーっと。

「ごめんな、太陽」
「え、どうしてレオ先輩が謝るんですか?」

 吐息の触れる距離でレオ先輩に謝られて、慌てて伝える。

「レオ先輩はなにも悪くないです」

 ただ、俺の心臓がさっきからとんでもない音を鳴らしているだけで。
 ついでに暴走している鼓動のせいで、呼吸もままならないだけで。
 だ、だって、レオ先輩が、俺の額にキスしてる……。
 
 もう頭のなかは真っ白で思考の糸が完全に途切れている。
 ただ、もう恥ずかしくて全身が熱い。
 けれど、俺の動揺なんてどこ吹く風とばかりに、レオ先輩は黙ったままだ。

「あ、あの、レオ先輩?」
「ん」

 小さな返事とともに強く、抱きしめられた。

「太陽、頼むから、もう無茶すんな」

 その手のひらの力の強さに、先輩が抱えた不安の大きさを知る。
 ……きっと、ものすごく不安にさせたんだ。

 俺だってあのビルのなかにレオ先輩がいるかもしれないと思ったら、なにも考えられなくなった。
 最悪の事態を想像しては、必死で打ち消して、それでも燃えあがる炎を前に体が震えた。

「レオ先輩、心配かけて本当にすみませんでした」

 心から謝ったけど、全くとり合ってくれず、まだレオ先輩の唇は俺の額に触れている。
 えーっと、えーっと、考えなきゃいけないことはたぶん、たくさんあるんだけど。

 レオ先輩と一緒に寝るってだけで、全身の血が沸騰しそうなのに、額にはレオ先輩の唇がくっついていて、そのうえ両腕で抱きしめられていて。

 なんというか、もう心臓がとてもヤバイです。

 だって、俺はレオ先輩のことが好きなわけで……、これは、その。

 レオ先輩の腕のなかでもぞもぞ動くと、離れるのは許さないと言わんばかりにレオ先輩が俺を強く抱きしめる。

 火災現場では動揺したし、明日は文化祭で考えなきゃいけないことがたくさんあるんだけど。
 とりあえず、このままだと俺の心臓がもたない。

「レオ先輩、えっと、このままだと、さすがに…………うわっ!」

 頭を強くかき抱かれ、その勢いで先輩の胸に顔をうずめた。
 同時に先輩の心音が直に鼓膜に響いて、、俺の心臓もますます加速する。

「太陽、どこにも行くなよ」
「レオ先輩……」

 不安に濡れる先輩の声を、初めて耳にした。
 ……こんなの、たまらない。

 気づけば腕を引き抜いて、レオ先輩にぎゅっと抱き付いていた。

「……ごめんな、太陽」
「『ごめん』ってどうして?」

 じっとつぎの言葉を待つと、先輩が空気を震わせる。

「俺のせいで、太陽をあぶない目に遭わせた」
「それは違う。俺が勝手にあの場所に行って、勘違いしただけで」
「……太陽には、日なたにいてほしいんだよ。あんな暗い地下室に出入りするような生活は、させたくない」

……先輩は全然わかってない。

 苦しげに呟いたレオ先輩がもどかしくて、少し体を離すと、自分の額をごつんと先輩の胸にぶつけた。

「いってえな、なんだよ、急に」
「レオ先輩は、……バカだ」
「はあ?」

 すごみのある声が頭上に落ちたけど、俺を包む腕はすごく優しいから怖くはなかった。
 レオ先輩の両腕にくるまれてその顔は見えないけど、きっと目を眇めて、ものすごく怖い顔をしてるんだろうな……と、想像しながら続けた。

「俺の日なたは、レオ先輩の隣なんです。先輩がいることで俺の世界はキラキラ輝くんです。どんな景色も、先輩と一緒に目にしたものは俺にはなにより輝いて見える。どれだけ深くて暗い場所にいたとしても、レオ先輩がいる世界が俺にとっては眩しい世界だから」
「……俺は、お前をこっちの世界に引き込みたくねえんだよ。俺とお前はどう考えても属する世界が違うだろ」
「俺は、もうずっと前からレオ先輩がいる世界に惹かれて、その世界にいる。属する世界とか、俺にとってはどうでもいいんです」

 (たん)()を切るようにきっぱりと伝えた。

「俺の初恋はレオ先輩で、今もこれから先も、先輩は俺にとっては光そのものだから。俺はどこに行ってもきっと、ずっとレオ先輩を想うから……」

 勢いよく言い放ったわりに、語尾は脆く震えた。

「……だから、レオ先輩のことを待っててもいいですか。五年でも十年でも、その先になったとしても、俺は、レオ先輩以外はきっと好きにはなれないから」
「お前は、本当にバカだ。バカすぎて、」

 ──もう、手放せない。

 そう吐息交じりに呟くと、レオ先輩の唇が、俺の唇に触れた。


「太陽、お前のことが、好きだ」


 そのまま強く抱きしめられて、先輩の腕の中に深く沈んだ。
 心臓が痛いほどに鼓動が暴れて、唇が離れたあともしばらく息ができなかった。

 あー……もう、どうしよう……。

 唇に残るぬくもりに、ちりちりと顔が熱くなる。

 好きって、言われた。……レオ先輩に。

 胸の奥が焼けるように痛くて甘くて、顔が火照って。
 その熱を冷ますように顔を上げると、先輩と目が合った。

「……太陽が俺のうっ憤晴らしの落書きを、心に留めて、大切にしてくれて、泣いて、悔しがってくれて、……嬉しかったんだ。俺がどれだけお前の存在に救われたか、きっとお前にはわからない。俺は、何度もお前に救われてる」

 息が詰まるほど強く抱きしめられて、とろけるように力が抜けていく。
 だから、レオ先輩にしがみつくようにして頷いた。

 その夜はレオ先輩の腕のなかで眠った。
 目が覚めたらすべてが夢の中の出来事で、きれいさっぱり消えていたとしてもかまわなかった。