俺が初めてレオ先輩と言葉を交わしたのは、三年前。中学に入学した直後のことだった。
「太陽、中学の制服似合うわねっ」
「えー、そうかな、ぶかぶかだよ……」
俺の制服姿を見て母ちゃんは嬉しそうだったけど、当時の俺は身長が一四〇センチしかなくて、明らかにサイズが大きい制服は、肩が落ちて、指先まですっぽり袖に隠れて、制服に着られてる感がすごかった。
「すぐに大きくなるわよ」
「入学式まであと二時間だよ。間に合わないよー」
長い袖を不満気にぱたぱたと揺らしていたら、「ちょっといい?」と、母ちゃんが俺を呼んだ。
「その制服でね、今度、一緒に行きたいところがあるの」
「どこ?」
「お墓参り」
「お墓参りって誰の?」
「太陽の本当のお母さんのね、お墓参りに行ってほしいの」
──────え?
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
でも、母ちゃんは穏やかな顔でまっすぐに俺を見ていて、それが冗談じゃないことだけは、わかった。
そのときに、俺の実の母さんは若いうちに亡くなり、俺は父ちゃんと母ちゃんに養子として引き取られたことを知った。
「へー、そうなんだ」なんて平静を装ったけれど、頭のなかは真っ白で、それまで自分が当たり前に信じていた世界がガラガラと音を立てて崩れた気がした。
それから居場所を失ったように夜の街をぶらつくようになった。
毎晩のようにあてもなく街をさまよって、あるとき古びたビルが立ち並ぶ駅の裏手に迷い込んだ。
街灯もまばらなその場所は妙に静かで、空気が重く澱んでいた。
……駅裏にこんな場所があるんだ。
暗い影が染みついたような路地でぼんやり佇んでいると、たったひとり置き去りにされたようで、悲しくて仕方なかった。
そのときビルの隙間でなにかが動いた。
……なんだろう?
こそっと覗いてみると、大きな黒い影が廃ビルの壁にペンキやスプレーで色を吹き付けていた。
──────すごい。
そこに描かれていたのは浮世絵で、その鮮やかな光景は衝撃的だった。
闇夜に映えるその絵は、暴力的なほどに美しくて、気づけば心ごと攫われていた。
どれくらいそこに立ち尽くしていたんだろう。
突然、その大きな影が、ぴたりと動きを止めて振り向いた。
「おい、ガキがこんなところでなにしてんだ。早く帰れ」
「ひっ!」
まさか声をかけられるとは思わなくて、びくりと肩を揺らし固まった。
ど、どうしようっ。
フードを被っていて顔はよく見えなかったけど、ぎらりと射るような瞳に睨まれて、足がすくんだ。
怖さのあまり、もう逃げ出すこともできなかった。
「……お前、……大丈夫か?」
「え?」
……あ、あれ、頬っぺたが濡れてる。
おそるおそる顔を上げてはじめて、自分が泣いていることに気がついた。
「ま、どうでもいいけど」
興味なさそうに肩をすくめると、そのひとは壁に向かってまた色を重ね始めた。
しばらく、魂を抜かれたようにその光景を見つめていた。
次々と艶やかな浮世絵を繰り出すその姿に興奮は収まらなくて、ごしごしと涙をぬぐうと、そのひとにたずねた。
「……あの、お兄さんは、ここにいても、いいんですか?」
「俺は悪い子だからな、いいんだよ」
影の落ちたその横顔は、薄く笑っているのに悲しそうで、その表情に胸の奥がちりっと痛んだ。
同じだと、思った。
居場所も行き場所もなくて、怒っているのに悲しくて、頭のなかはぐちゃぐちゃで、どうしようもなく胸が痛い。
そっか、だから俺はこのひとの絵に惹かれるんだ。
このひとは俺よりもっと怒っていて、もっと悲しくてすごく苛立っていて、……たぶん、俺より傷ついているから。
「……俺も、悪い子になりたい」
「やめとけ、しんどいぞ」
くしゃっと頭をなでられて、大通りまでの道を案内された。
「ほら、こっち側歩けよ。危ないから」
優しく俺の手を引くそのひとは、俺のことを小学生だと思ったのかもしれな
い。
……俺、もう中学生なのにな。
そろりと見上げると、がっしりとした体つきのその人は俺より三〇センチにじ以上背が高くて、パーカーのフードからのぞく瞳にはひりひりとした気迫が滲んでいて、その鋭い眼差しが心に焼き付いて離れなかった。
「気をつけて帰れよ」
こくこくと頷く俺を、そのひとは笑って見送ってくれた。
耳にピアスを連ねた怖そうなひとと話したからなのか、すごい絵を見てしまったからなのか心臓がドキドキとうるさくて、胸がひりりと痛かったことを今でも覚えている。
それから辛いことがあるとその絵を見に行くようになった。
またあのひとに会えたらと淡く期待したけれど、それから何度その場所に足を運んでも、姿を見かけることはなかった。
あれから三年が過ぎて俺は高校生になり、身長も二〇センチ以上伸びた。
……と言っても、一六五センチと背は低いほうだけど。
幻のようなそのひとと運命的な再会を果たしたのはつい数か月前のことだ。
それは街が濃いオレンジ色に染まる美しい夕暮れ時で、歩道橋のうえからぼんやりとその景色を眺めていたら、からんと派手な音がして、なにかが足下に転がってきた。
拾い上げてみると、スプレー缶だった。
当の本人は、ヘッドホンをしていて、気づいてない。
「落としましたよ」
声をかけても気づかないから、軽く肩をたたいたものの、振り返ったその姿に足がすくんだ。そして、気軽に声をかけたことをうっすらと後悔した。
ハーフアップに結んだアッシュグレイの髪と、耳には連打されたピアス。
瞳に宿るのは、獲物を射抜くような鋭い光。
そのうえ一八〇センチを優に超えるがっしりとした体格で、迫力満点の存在感で道行く人を威嚇していた。
どこか見覚えがある気もしたけれど、振り返った顔つきは挑発的で、そのひりついた空気から苛立ちを押し殺しているのが伝わってきた。
「あー……」
気だるげにスプレー缶を受けとったその手は、塗料でカラフルに彩られていて、よく見れば、カーゴパンツにもパーカーの袖にもペンキらしきシミがついている。
「……手、すごいですね」
「油性だから、落ちねえんだよ」
不機嫌そうに眉をしかめ、語尾は乱暴に切られた。
話しかけるな、近づくな、と拒絶の気配が息苦しいほどに伝わってきた。
それでも好奇心が優って、すぐに立ち去ろうとしたその人を引き留めた。
「あの、……もしかして、そのスプレーって、絵とか、描くためですか?」
「だったら、どうした」
瞬間、全身の血が沸騰するほどに興奮して、恐怖もふっとんだ。
「あの! すぐそこにある廃ビルに描かれた絵、知ってますか? スプレーとかペンキで描かれた浮世絵。俺、あの絵がすごく好きで。ああいうの、なんていうんだろう」
「ゴミ、もしくはただの汚れ」
「ゴミじゃないです!」
思わず言い返すと、目を眇めて、値踏みするように見つめられた。
まずい……。
危うい雰囲気のひとに、思いっきり言い返してしまった……。
「……じゃ、派手な落書き。壁を不法に汚しただけだろ」
「普通なら、そうかもしれないんですけど!」
拳をにぎり、静かに反論した。
「あの廃ビルにある絵は、全然違うんです。ゴミでも汚れでもない。アートなんです。俺は芸術とか全然わかんないけど、あれは違う。落書きなんて呼んだら、バチがあたる」
「バチって、……お前、正気?」
「浮世絵なんです。壁にスプレーとかペンキで浮世絵を描いてるんです。はじめて見たときは震えました。しばらく動けなくて。今でもよく見にいきます」
話しているうちに興奮がよみがえり、ポケットからとり出したスマホを差し出した。
「……壁紙にしてんの?」
「だって、カッコいいじゃないですか! 俺、もともと葛飾北斎とか好きで。それが誰の目にも触れないあんな場所にひっそりと描かれてて。もう、すべてがカッコよくて、粋だなって」
「あのさ、お前、カッコいいって意味知ってる?」
ポリポリとピアスをいじりながら、心底呆れられた。
けど、抑えられなかった。どうしても伝えずにはいられなかった。
夜の街を歩いていてふと目にした浮世絵。
古びたビルの隙間の、誰にも目をとめられない汚れた壁に広がる鮮やかな世界。
あのときの俺はかなり落ち込んでいて、でも、落ち込んでしまうことにも罪悪感があって、苦しくてたまらなかった。
幼かった俺は親にも流星にも言えなくて、行き場のない思いを抱えて迷い込んだ先で見つけたのが、その激しくも艶やかな色彩だった。
心を悩ましていたことはその美しさに霧散して、その絵を食い入るように見つめた。
あのときの感動は忘れられない。
「あの絵を描いたひとって、すごいアーティストだと思うんです。もし、プロじゃなかったら、これから絶対にプロになる。あれを描いたひとがプロになれない世界なら、芸術の世界もたいしたことないって、本気で俺は思います」
「なんだよ、それ」
ふっと息を吐き、不機嫌さに満ちていたそのひとの鋭い瞳がほどけた。
「バカだろ、お前」
険のある表情がふいに柔らかくほころんで、確信した。
このひとはきっと、悪いひとじゃない。
「……見に来るか?」
「え?」
「これから描くんだよ。暗くて、よく見えねえかもしれねえけど」
「かくって?」
「だから落書きすんの、これで」
カラカラとスプレー缶を振って、不機嫌そうに首をかしげた。
「見てみたい! ……です! いいんすか!? あ、ですか!?」
「なんだよ、それ」
くくっと肩をゆすると、その人は重そうなリュックを肩にかけなおして、歩き出した。
これ、ついていって大丈夫かな。
そんな思いが一瞬頭をよぎったけど、ま、悪い人じゃなさそうだしと結論づけて、すぐにあとを追いかけた。
駅裏の雑居ビルがひしめく一角にさしかかると、前を歩くその人に声をかけた。
「あの、ここです! このビルの隙間にさっき話した浮世絵があるんです」
「……よくそんな細い隙間に描いた絵を見つけたな」
興味なさそうに、その廃ビルに足を踏み入れる背中を慌てて追った。
「あ、あの、勝手に入っていいんですか……?」
「一応、許可とってる」
「へ、へえ」
許可って、ほんとかな……。
勝手知ったる様子で、建物のなかへと進んでいく後ろ姿に、躊躇いつつもついて行った。
無造作に結ばれたアッシュグレイの髪に、虚ろな瞳とその奥にある鋭い眼光、そして影を沈めた顔つき。
危うげなその外見に不安がないわけではなかったけど、正直なところ好奇心が抑えられず、引き返す選択肢なんてなかった。
がらんとしたビルの一階は埃が立ち込めて、老朽化した壁は剥がれ落ち、天井や壁の配線は剥き出しになっている。
床の上にはたばこの吸い殻やスナック菓子の食べかすが散乱している。
んー、あまり治安はよろしくなさそうだ。
というか、無法地帯っぽい。
「こっち」
呼ばれるまま薄暗い階段を地下へと下りると、独特の刺激臭が鼻を突く。
顔を上げて、目の前に現れたその光景に息をのんだ。
「すごい……」
明かりとりの小さな窓から、うっすらとさす夕陽。
その細い光に浮かび上がる壁一面の、スプレー画。
ビルの隙間に描かれたあの絵と同じ、激しい色彩の浮世絵が現れて呆然とした。
これって……。
心臓の音だけが耳の奥で大きく響いて、言葉にならない。
埃っぽい地下室で、スプレーやペンキで彩られた壁が、狂気じみた美しさで輝いている。
あのときは、薄暗くてパーカーのフードに隠れて顔はよく見えなかったけど。……この鋭い眼差しには見覚えがある。
このひとは、……俺が、ずっと探していた幻のアーティストだ。
胸の奥を撃ち抜かれたような衝撃に、ぽろりと涙がこぼれた。
「……は? ……お前、泣いてんのか?」
「あっ、あの、……絵が、すごくて……びっくりしてっ」
ふいに声をかけられて、あたふたと答えた。
「……変なやつ」
荒っぽい言葉とは裏腹に、その声はひどく優しくて、じわっと胸が熱くなった。
「あの、……えっと、ど、どうしよっ」
「いいから、落ち着け」
それでも、ぽろぽろとこぼれる涙は止まらず、そのひとを驚かせた。
────それが、レオ先輩だった。
そのひとが、同じ学校の先輩だと知ったのはそれからすぐのことだった。
俺よりずっと年上だとばかり思っていたのに、ひとつしか歳が違わないと知ったときには、息をするのも忘れるほど驚いた。
けど、たしかにレオ先輩の名前はうちの高校の名簿に載っていて、学校で見かけることはほとんどないけれど、レオ先輩は孤高のカリスマとしてとても有名だった。
それ以来、絵を描くときには誘ってもらえるようになり、いくつもの新作を見せてもらった。
壁に描かれた作品を、グラフィティやストリートアートと呼ぶことや、世界にはものすごい作品がたくさんあることを先輩から教わった。
レオ先輩が描くものはどれも心を揺さぶるすごいものばかりで、作品を観るたびに感動して無言になる俺に先輩は呆れながらも、その距離は近づいていき、いまでは気軽に声をかけてもらえるまでになった。
ただ、先輩と俺のあいだにははっきりとした境界線があって、声をかけてはもらえるけど、俺はレオ先輩の世界には踏み込めない。
悲しいけれど、レオ先輩にとって俺は、しばらく会わなければ簡単に忘れさられてしまう石ころみたいな存在だ。
……つぎはいつレオ先輩に会えるんだろう。
朝の登校時間に、校舎に背中を向けて帰っていく先輩の姿を思い出して、じわっと頬っぺたが熱くなった。
「太陽、中学の制服似合うわねっ」
「えー、そうかな、ぶかぶかだよ……」
俺の制服姿を見て母ちゃんは嬉しそうだったけど、当時の俺は身長が一四〇センチしかなくて、明らかにサイズが大きい制服は、肩が落ちて、指先まですっぽり袖に隠れて、制服に着られてる感がすごかった。
「すぐに大きくなるわよ」
「入学式まであと二時間だよ。間に合わないよー」
長い袖を不満気にぱたぱたと揺らしていたら、「ちょっといい?」と、母ちゃんが俺を呼んだ。
「その制服でね、今度、一緒に行きたいところがあるの」
「どこ?」
「お墓参り」
「お墓参りって誰の?」
「太陽の本当のお母さんのね、お墓参りに行ってほしいの」
──────え?
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
でも、母ちゃんは穏やかな顔でまっすぐに俺を見ていて、それが冗談じゃないことだけは、わかった。
そのときに、俺の実の母さんは若いうちに亡くなり、俺は父ちゃんと母ちゃんに養子として引き取られたことを知った。
「へー、そうなんだ」なんて平静を装ったけれど、頭のなかは真っ白で、それまで自分が当たり前に信じていた世界がガラガラと音を立てて崩れた気がした。
それから居場所を失ったように夜の街をぶらつくようになった。
毎晩のようにあてもなく街をさまよって、あるとき古びたビルが立ち並ぶ駅の裏手に迷い込んだ。
街灯もまばらなその場所は妙に静かで、空気が重く澱んでいた。
……駅裏にこんな場所があるんだ。
暗い影が染みついたような路地でぼんやり佇んでいると、たったひとり置き去りにされたようで、悲しくて仕方なかった。
そのときビルの隙間でなにかが動いた。
……なんだろう?
こそっと覗いてみると、大きな黒い影が廃ビルの壁にペンキやスプレーで色を吹き付けていた。
──────すごい。
そこに描かれていたのは浮世絵で、その鮮やかな光景は衝撃的だった。
闇夜に映えるその絵は、暴力的なほどに美しくて、気づけば心ごと攫われていた。
どれくらいそこに立ち尽くしていたんだろう。
突然、その大きな影が、ぴたりと動きを止めて振り向いた。
「おい、ガキがこんなところでなにしてんだ。早く帰れ」
「ひっ!」
まさか声をかけられるとは思わなくて、びくりと肩を揺らし固まった。
ど、どうしようっ。
フードを被っていて顔はよく見えなかったけど、ぎらりと射るような瞳に睨まれて、足がすくんだ。
怖さのあまり、もう逃げ出すこともできなかった。
「……お前、……大丈夫か?」
「え?」
……あ、あれ、頬っぺたが濡れてる。
おそるおそる顔を上げてはじめて、自分が泣いていることに気がついた。
「ま、どうでもいいけど」
興味なさそうに肩をすくめると、そのひとは壁に向かってまた色を重ね始めた。
しばらく、魂を抜かれたようにその光景を見つめていた。
次々と艶やかな浮世絵を繰り出すその姿に興奮は収まらなくて、ごしごしと涙をぬぐうと、そのひとにたずねた。
「……あの、お兄さんは、ここにいても、いいんですか?」
「俺は悪い子だからな、いいんだよ」
影の落ちたその横顔は、薄く笑っているのに悲しそうで、その表情に胸の奥がちりっと痛んだ。
同じだと、思った。
居場所も行き場所もなくて、怒っているのに悲しくて、頭のなかはぐちゃぐちゃで、どうしようもなく胸が痛い。
そっか、だから俺はこのひとの絵に惹かれるんだ。
このひとは俺よりもっと怒っていて、もっと悲しくてすごく苛立っていて、……たぶん、俺より傷ついているから。
「……俺も、悪い子になりたい」
「やめとけ、しんどいぞ」
くしゃっと頭をなでられて、大通りまでの道を案内された。
「ほら、こっち側歩けよ。危ないから」
優しく俺の手を引くそのひとは、俺のことを小学生だと思ったのかもしれな
い。
……俺、もう中学生なのにな。
そろりと見上げると、がっしりとした体つきのその人は俺より三〇センチにじ以上背が高くて、パーカーのフードからのぞく瞳にはひりひりとした気迫が滲んでいて、その鋭い眼差しが心に焼き付いて離れなかった。
「気をつけて帰れよ」
こくこくと頷く俺を、そのひとは笑って見送ってくれた。
耳にピアスを連ねた怖そうなひとと話したからなのか、すごい絵を見てしまったからなのか心臓がドキドキとうるさくて、胸がひりりと痛かったことを今でも覚えている。
それから辛いことがあるとその絵を見に行くようになった。
またあのひとに会えたらと淡く期待したけれど、それから何度その場所に足を運んでも、姿を見かけることはなかった。
あれから三年が過ぎて俺は高校生になり、身長も二〇センチ以上伸びた。
……と言っても、一六五センチと背は低いほうだけど。
幻のようなそのひとと運命的な再会を果たしたのはつい数か月前のことだ。
それは街が濃いオレンジ色に染まる美しい夕暮れ時で、歩道橋のうえからぼんやりとその景色を眺めていたら、からんと派手な音がして、なにかが足下に転がってきた。
拾い上げてみると、スプレー缶だった。
当の本人は、ヘッドホンをしていて、気づいてない。
「落としましたよ」
声をかけても気づかないから、軽く肩をたたいたものの、振り返ったその姿に足がすくんだ。そして、気軽に声をかけたことをうっすらと後悔した。
ハーフアップに結んだアッシュグレイの髪と、耳には連打されたピアス。
瞳に宿るのは、獲物を射抜くような鋭い光。
そのうえ一八〇センチを優に超えるがっしりとした体格で、迫力満点の存在感で道行く人を威嚇していた。
どこか見覚えがある気もしたけれど、振り返った顔つきは挑発的で、そのひりついた空気から苛立ちを押し殺しているのが伝わってきた。
「あー……」
気だるげにスプレー缶を受けとったその手は、塗料でカラフルに彩られていて、よく見れば、カーゴパンツにもパーカーの袖にもペンキらしきシミがついている。
「……手、すごいですね」
「油性だから、落ちねえんだよ」
不機嫌そうに眉をしかめ、語尾は乱暴に切られた。
話しかけるな、近づくな、と拒絶の気配が息苦しいほどに伝わってきた。
それでも好奇心が優って、すぐに立ち去ろうとしたその人を引き留めた。
「あの、……もしかして、そのスプレーって、絵とか、描くためですか?」
「だったら、どうした」
瞬間、全身の血が沸騰するほどに興奮して、恐怖もふっとんだ。
「あの! すぐそこにある廃ビルに描かれた絵、知ってますか? スプレーとかペンキで描かれた浮世絵。俺、あの絵がすごく好きで。ああいうの、なんていうんだろう」
「ゴミ、もしくはただの汚れ」
「ゴミじゃないです!」
思わず言い返すと、目を眇めて、値踏みするように見つめられた。
まずい……。
危うい雰囲気のひとに、思いっきり言い返してしまった……。
「……じゃ、派手な落書き。壁を不法に汚しただけだろ」
「普通なら、そうかもしれないんですけど!」
拳をにぎり、静かに反論した。
「あの廃ビルにある絵は、全然違うんです。ゴミでも汚れでもない。アートなんです。俺は芸術とか全然わかんないけど、あれは違う。落書きなんて呼んだら、バチがあたる」
「バチって、……お前、正気?」
「浮世絵なんです。壁にスプレーとかペンキで浮世絵を描いてるんです。はじめて見たときは震えました。しばらく動けなくて。今でもよく見にいきます」
話しているうちに興奮がよみがえり、ポケットからとり出したスマホを差し出した。
「……壁紙にしてんの?」
「だって、カッコいいじゃないですか! 俺、もともと葛飾北斎とか好きで。それが誰の目にも触れないあんな場所にひっそりと描かれてて。もう、すべてがカッコよくて、粋だなって」
「あのさ、お前、カッコいいって意味知ってる?」
ポリポリとピアスをいじりながら、心底呆れられた。
けど、抑えられなかった。どうしても伝えずにはいられなかった。
夜の街を歩いていてふと目にした浮世絵。
古びたビルの隙間の、誰にも目をとめられない汚れた壁に広がる鮮やかな世界。
あのときの俺はかなり落ち込んでいて、でも、落ち込んでしまうことにも罪悪感があって、苦しくてたまらなかった。
幼かった俺は親にも流星にも言えなくて、行き場のない思いを抱えて迷い込んだ先で見つけたのが、その激しくも艶やかな色彩だった。
心を悩ましていたことはその美しさに霧散して、その絵を食い入るように見つめた。
あのときの感動は忘れられない。
「あの絵を描いたひとって、すごいアーティストだと思うんです。もし、プロじゃなかったら、これから絶対にプロになる。あれを描いたひとがプロになれない世界なら、芸術の世界もたいしたことないって、本気で俺は思います」
「なんだよ、それ」
ふっと息を吐き、不機嫌さに満ちていたそのひとの鋭い瞳がほどけた。
「バカだろ、お前」
険のある表情がふいに柔らかくほころんで、確信した。
このひとはきっと、悪いひとじゃない。
「……見に来るか?」
「え?」
「これから描くんだよ。暗くて、よく見えねえかもしれねえけど」
「かくって?」
「だから落書きすんの、これで」
カラカラとスプレー缶を振って、不機嫌そうに首をかしげた。
「見てみたい! ……です! いいんすか!? あ、ですか!?」
「なんだよ、それ」
くくっと肩をゆすると、その人は重そうなリュックを肩にかけなおして、歩き出した。
これ、ついていって大丈夫かな。
そんな思いが一瞬頭をよぎったけど、ま、悪い人じゃなさそうだしと結論づけて、すぐにあとを追いかけた。
駅裏の雑居ビルがひしめく一角にさしかかると、前を歩くその人に声をかけた。
「あの、ここです! このビルの隙間にさっき話した浮世絵があるんです」
「……よくそんな細い隙間に描いた絵を見つけたな」
興味なさそうに、その廃ビルに足を踏み入れる背中を慌てて追った。
「あ、あの、勝手に入っていいんですか……?」
「一応、許可とってる」
「へ、へえ」
許可って、ほんとかな……。
勝手知ったる様子で、建物のなかへと進んでいく後ろ姿に、躊躇いつつもついて行った。
無造作に結ばれたアッシュグレイの髪に、虚ろな瞳とその奥にある鋭い眼光、そして影を沈めた顔つき。
危うげなその外見に不安がないわけではなかったけど、正直なところ好奇心が抑えられず、引き返す選択肢なんてなかった。
がらんとしたビルの一階は埃が立ち込めて、老朽化した壁は剥がれ落ち、天井や壁の配線は剥き出しになっている。
床の上にはたばこの吸い殻やスナック菓子の食べかすが散乱している。
んー、あまり治安はよろしくなさそうだ。
というか、無法地帯っぽい。
「こっち」
呼ばれるまま薄暗い階段を地下へと下りると、独特の刺激臭が鼻を突く。
顔を上げて、目の前に現れたその光景に息をのんだ。
「すごい……」
明かりとりの小さな窓から、うっすらとさす夕陽。
その細い光に浮かび上がる壁一面の、スプレー画。
ビルの隙間に描かれたあの絵と同じ、激しい色彩の浮世絵が現れて呆然とした。
これって……。
心臓の音だけが耳の奥で大きく響いて、言葉にならない。
埃っぽい地下室で、スプレーやペンキで彩られた壁が、狂気じみた美しさで輝いている。
あのときは、薄暗くてパーカーのフードに隠れて顔はよく見えなかったけど。……この鋭い眼差しには見覚えがある。
このひとは、……俺が、ずっと探していた幻のアーティストだ。
胸の奥を撃ち抜かれたような衝撃に、ぽろりと涙がこぼれた。
「……は? ……お前、泣いてんのか?」
「あっ、あの、……絵が、すごくて……びっくりしてっ」
ふいに声をかけられて、あたふたと答えた。
「……変なやつ」
荒っぽい言葉とは裏腹に、その声はひどく優しくて、じわっと胸が熱くなった。
「あの、……えっと、ど、どうしよっ」
「いいから、落ち着け」
それでも、ぽろぽろとこぼれる涙は止まらず、そのひとを驚かせた。
────それが、レオ先輩だった。
そのひとが、同じ学校の先輩だと知ったのはそれからすぐのことだった。
俺よりずっと年上だとばかり思っていたのに、ひとつしか歳が違わないと知ったときには、息をするのも忘れるほど驚いた。
けど、たしかにレオ先輩の名前はうちの高校の名簿に載っていて、学校で見かけることはほとんどないけれど、レオ先輩は孤高のカリスマとしてとても有名だった。
それ以来、絵を描くときには誘ってもらえるようになり、いくつもの新作を見せてもらった。
壁に描かれた作品を、グラフィティやストリートアートと呼ぶことや、世界にはものすごい作品がたくさんあることを先輩から教わった。
レオ先輩が描くものはどれも心を揺さぶるすごいものばかりで、作品を観るたびに感動して無言になる俺に先輩は呆れながらも、その距離は近づいていき、いまでは気軽に声をかけてもらえるまでになった。
ただ、先輩と俺のあいだにははっきりとした境界線があって、声をかけてはもらえるけど、俺はレオ先輩の世界には踏み込めない。
悲しいけれど、レオ先輩にとって俺は、しばらく会わなければ簡単に忘れさられてしまう石ころみたいな存在だ。
……つぎはいつレオ先輩に会えるんだろう。
朝の登校時間に、校舎に背中を向けて帰っていく先輩の姿を思い出して、じわっと頬っぺたが熱くなった。
