夕闇の降りた街は、いつも以上に人で溢れて賑やかで、先輩の背中を必死で追った。
それでも行き来する人の流れに押されて立ち往生していると、レオ先輩に手首をつかまれた。
「とろいな、お前」
「す、すいませんっ」
このままつかんでろ、と先輩のパーカーのすそをにぎらされて、街を歩いた。
レオ先輩がどこにもいかないように、このままずっとつかんでいられたらいいのにな。
それでアメリカにも、どこにもいかないでくれたらいいのに。
でも、こんなこと、伝えられるはずはない。
わかっているのに、ふいに零れてしまいそうで、伝えられない言葉を必死に飲み込んだ。
歩道橋が見えたところで足を止めると、俺に引っ張られる形でレオ先輩が振り返る。
「どうした?」
「レオ先輩、あの歩道橋を渡ってもいいですか?」
「いいけど、遠回りだろ」
「あの歩道橋から見える景色が好きなんです。夕焼けが綺麗な日には、街がオレンジ色に沈んでいくのが見れるから」
「……夕焼けって時間じゃねえだろ」
「夜の景色もすごく、綺麗だから」
少しでも長くレオ先輩と一緒にいたくて、嘘をついた。
歩道橋からの景色が好きなのは本当のことだけど、わざわざ遠回りをしてまで見に行くことはしない。
歩道橋から眺める街並みは、燃えるような夕焼けと淡い夜の狭間に揺れている。
隣には大好きなひとがいて、そのひとはもうすぐ遠くに行ってしまう。
諦めたくても諦められない。
もうずっと、胸が痛くてたまらない。
そのとき、空からドンっと腹の底を揺らす重低音が響いた。同時に、夜空に大輪の花火があがる。
「……花火?」
そう呟いてハッとする。
「そっか、今日、花火大会なんだ」
「え?」
「みんなで花火大会に行こうって話してたから」
「は? もう始まってんだろ、早く行けよ」
「いえ、俺は断ったんで」
「……それは地下室に来るためか?」
黙っていると、レオ先輩に刃のような目つきで睨まれた。
「地下室には来るなって何度も言ってるよな?」
レオ先輩は鋭い瞳をさらに尖らせて、道行く人を怯えさせている。
「俺はレオ先輩のいるところに行きたいんです。花火大会だって、本当はレオ先輩と一緒に行けたらなって……」
「興味ねえよ」
「それでも、俺はレオ先輩がいいから」
睨み返す勢いで先輩を見つめると、
「つか、なんでケンカ腰なんだよ」
そう言って、レオ先輩が吹き出した。
そのまま俺の頭をわしゃわしゃなでると、仕方ねえな、と先輩が呟いた。
「花火、観に行くか?」
「え?」
「観に行きたいんだろ?」
「い、行きたいですっ!」
返事をするより先に体が飛び跳ねた。
歩道橋を下りると、花火の音に導かれるように河川敷への道を急いだ。
出店で賑わう祭りの喧噪を避けて、会場の入り口にある自転車置き場を過ぎながら、現実感がなくて足下はふわついていた。
小高い丘になっている公園の中腹のベンチにレオ先輩と並んで座ると、こっそりと自分の手のひらをつねって夢じゃないことを確かめる。
「太陽」
「はいっ!」
勢いよく顔を上げると、むにっと頬っぺたをつままれた。
「これは夢じゃない」
「は、はひっ」
頬っぺたをつかまれたまま、ぶんぶん頷くとレオ先輩に笑われた。
ふたりで見上げた夜空は墨汁で固められたように深い黒で、次々と打ち上げしられる花火の儚い煌めきが心に沁みた。
頭上に散る花火が鮮やかに夜を照らし、その儚い煌めきが、隣にいるレオ先輩の横顔を淡く照らし出す。
後ろでゆるく結ばれたグレージュの髪、凛とした瞳、強く引き結ばれた口元。
そのくっきりと整った横顔は、夜の闇に溶け込む彫刻のように美しくて、花火よりも俺を強く惹きつける。
こうしてレオ先輩の隣にいられることが嬉しいのに寂しくて、胸に込み上げる感情を扱いきれない。
俺はレオ先輩が、好きだ。
どうしようもなく、切なくて愛おしくて甘くて苦くてくるしい。
それなのに、もう会えなくなる。
顔も見れない、声も聞けない。
今は触れられる距離にいるのに。
すぐに手が届かないところに行ってしまう。
きっと、もう二度と会えない。
その事実が心臓をぎゅうぎゅうと締めつける。
どこにも行かないでください、この先もずっと俺の隣にいてください。
次々と浮かぶその想いは、ぐっとこらえて花火の散る夏の夜に沈めた。
俺ができるのは、笑って見送ることだから。
火の粉のように散る花火の光が、夜空に淡く色を落としては消えていく。
その光景を見つめながら、大きく息を吸って、そっと呼吸を吐き出した。
「先輩、俺、いつか先輩に会いにアメリカに行きます。だから、先輩は、アメリカで頑張ってください。それで、……俺のこと、忘れないでくれたら嬉しいです」
覚悟を決めて絞り出したのに、先輩は疑わしげに目を細めて呟いた。
「……英語だぞ」
「英語の勉強、頑張ります」
「まあ、……期待しないで待ってるな」
「えぇ……」
レオ先輩はぼんやりと花火を見上げていて、本当に、全く期待してなさそうだ……。
「太陽、曜日と月名の英語しか知らないんだろ?」
「そ、それは中学のときの話だし! 俺、レオ先輩のために頑張るし!」
「まずは、学校の勉強をどうにかしろ」
「えー……。レオ先輩、父ちゃんみたい」
「あ?」
「その顔、めちゃくちゃ怖いです」
「黙れ、このクソガキ」
レオ先輩に頭をわしゃわしゃなでられて、身体をよじって逃げ出した。
こんなたわいもない会話を、夜が更けて朝が来るまで続けられたらいいのに。
けれどこれは、花火の降る間に与えられた幻みたいな時間で、きっとすぐに終わりがくる。
「先輩、いつ日本を発つんですか?」
「来週だな」
そっか……。
「俺、レオ先輩のことをずっと応援してますから。遠く離れて、この先、二度と会えなかったとしても、ずっとレオ先輩は俺の憧れです。だから、アメリカで頑張ってください」
今だけは、泣かずに伝えた。
行かないでほしい、なんて言えないからせめて笑って伝えた。
俺の泣き顔ばかりがレオ先輩の記憶に残ってしまうのは寂しいから。
なにより俺の本音を伝えたところで、レオ先輩のことを困らせるだけだ。
レオ先輩は固い表情をしていて、なにを考えているか全然わからない。
「花火、綺麗ですね」
「だな」
花火を見て、思い切り笑ってみても、レオ先輩はそれきり口を閉ざしたままだった。
文化祭を翌日に控えて、教室は雑然としている。
机やいすは、教室の隅に寄せられて看板づくりのために散乱しているガムかみくずテープや紙屑をよけて歩く。
「ねえ、実行委員は?」
「備品確認するって生徒会室にいるー」
「受付は外でいいんだよね?」
ふう。
生徒会から頼まれたチェックリストを手に、ため息がこぼれた。
花火大会の夜、俺なりに精いっぱいのエールをレオ先輩に送ったのだけど、レオ先輩はずっと口を閉ざしていて、そのまま小高い丘のベンチで先輩と別れた。
レオ先輩のことを考えると、思考が止まって動けなくなる。
気づけばふらりと駅裏に向かってしまう。
もうすぐ文化祭なんだから、しっかりしないといけないのに。
────よし。
気合を入れなおすと、ぶ厚いファイルを手に職員室に向かった。
「失礼します」
用事を終えて職員室の扉を閉めると、流星が通りがかった。
文化祭の準備が本格的に忙しくなり、流星ともゆっくり話せていない。
「太陽、大丈夫か。最近、ますます忙しそうだよな」
「これは文化祭とは関係なくて、俺の個人的な用事だから」
「……なんだ、追試か」
「ちがうよ! ひどいな。レオ先輩の作品をまとめたものを二年の学年主任に預かってもらったんだ。近いうちに先輩の両親が学校に来るらしいから」
できるなら先輩の作品を文化祭で展示して、みんなに先輩の作品を見てもらいたい。けど、それは先輩が望まない。
それならせめて、そのすごさを先輩の両親に知ってほしい。
先輩がどれだけすごい才能を持っていて、どんなに心を震わせる作品を描いてきたのか、少しでいいから理解してほしい。
そのうえで、これからアメリカでレオ先輩が進む道を支えてあげてほしい。 レオ先輩の描いた作品が俺の記憶にしか残らないのはあまりに悔しいから。
「相変わらず、お人よしつうか、おせっかいっていうか……」
「わかってるよ。けど、あのビル、もうすぐとり壊されちゃうんだ。だから、それまでに俺ができることはしておきたくて」
「まあ俺に手伝えることがあれば遠慮なく声かけろよ。それから、俺、レオ先輩に余計なこと言ったかもしれない」
「余計なこと?」
「うん、それだけ太陽に言っておきたかったんだけど」
そのとき、生徒会の先輩が廊下の向こうから声を張り上げてやってきた。
「太陽、ここにいたのか、副会長が探してたぞ」
「あ、すいません! ごめんな、流星。また今度聞かせて」
片手で流星に謝ると、生徒会室に急いだ。
それでも行き来する人の流れに押されて立ち往生していると、レオ先輩に手首をつかまれた。
「とろいな、お前」
「す、すいませんっ」
このままつかんでろ、と先輩のパーカーのすそをにぎらされて、街を歩いた。
レオ先輩がどこにもいかないように、このままずっとつかんでいられたらいいのにな。
それでアメリカにも、どこにもいかないでくれたらいいのに。
でも、こんなこと、伝えられるはずはない。
わかっているのに、ふいに零れてしまいそうで、伝えられない言葉を必死に飲み込んだ。
歩道橋が見えたところで足を止めると、俺に引っ張られる形でレオ先輩が振り返る。
「どうした?」
「レオ先輩、あの歩道橋を渡ってもいいですか?」
「いいけど、遠回りだろ」
「あの歩道橋から見える景色が好きなんです。夕焼けが綺麗な日には、街がオレンジ色に沈んでいくのが見れるから」
「……夕焼けって時間じゃねえだろ」
「夜の景色もすごく、綺麗だから」
少しでも長くレオ先輩と一緒にいたくて、嘘をついた。
歩道橋からの景色が好きなのは本当のことだけど、わざわざ遠回りをしてまで見に行くことはしない。
歩道橋から眺める街並みは、燃えるような夕焼けと淡い夜の狭間に揺れている。
隣には大好きなひとがいて、そのひとはもうすぐ遠くに行ってしまう。
諦めたくても諦められない。
もうずっと、胸が痛くてたまらない。
そのとき、空からドンっと腹の底を揺らす重低音が響いた。同時に、夜空に大輪の花火があがる。
「……花火?」
そう呟いてハッとする。
「そっか、今日、花火大会なんだ」
「え?」
「みんなで花火大会に行こうって話してたから」
「は? もう始まってんだろ、早く行けよ」
「いえ、俺は断ったんで」
「……それは地下室に来るためか?」
黙っていると、レオ先輩に刃のような目つきで睨まれた。
「地下室には来るなって何度も言ってるよな?」
レオ先輩は鋭い瞳をさらに尖らせて、道行く人を怯えさせている。
「俺はレオ先輩のいるところに行きたいんです。花火大会だって、本当はレオ先輩と一緒に行けたらなって……」
「興味ねえよ」
「それでも、俺はレオ先輩がいいから」
睨み返す勢いで先輩を見つめると、
「つか、なんでケンカ腰なんだよ」
そう言って、レオ先輩が吹き出した。
そのまま俺の頭をわしゃわしゃなでると、仕方ねえな、と先輩が呟いた。
「花火、観に行くか?」
「え?」
「観に行きたいんだろ?」
「い、行きたいですっ!」
返事をするより先に体が飛び跳ねた。
歩道橋を下りると、花火の音に導かれるように河川敷への道を急いだ。
出店で賑わう祭りの喧噪を避けて、会場の入り口にある自転車置き場を過ぎながら、現実感がなくて足下はふわついていた。
小高い丘になっている公園の中腹のベンチにレオ先輩と並んで座ると、こっそりと自分の手のひらをつねって夢じゃないことを確かめる。
「太陽」
「はいっ!」
勢いよく顔を上げると、むにっと頬っぺたをつままれた。
「これは夢じゃない」
「は、はひっ」
頬っぺたをつかまれたまま、ぶんぶん頷くとレオ先輩に笑われた。
ふたりで見上げた夜空は墨汁で固められたように深い黒で、次々と打ち上げしられる花火の儚い煌めきが心に沁みた。
頭上に散る花火が鮮やかに夜を照らし、その儚い煌めきが、隣にいるレオ先輩の横顔を淡く照らし出す。
後ろでゆるく結ばれたグレージュの髪、凛とした瞳、強く引き結ばれた口元。
そのくっきりと整った横顔は、夜の闇に溶け込む彫刻のように美しくて、花火よりも俺を強く惹きつける。
こうしてレオ先輩の隣にいられることが嬉しいのに寂しくて、胸に込み上げる感情を扱いきれない。
俺はレオ先輩が、好きだ。
どうしようもなく、切なくて愛おしくて甘くて苦くてくるしい。
それなのに、もう会えなくなる。
顔も見れない、声も聞けない。
今は触れられる距離にいるのに。
すぐに手が届かないところに行ってしまう。
きっと、もう二度と会えない。
その事実が心臓をぎゅうぎゅうと締めつける。
どこにも行かないでください、この先もずっと俺の隣にいてください。
次々と浮かぶその想いは、ぐっとこらえて花火の散る夏の夜に沈めた。
俺ができるのは、笑って見送ることだから。
火の粉のように散る花火の光が、夜空に淡く色を落としては消えていく。
その光景を見つめながら、大きく息を吸って、そっと呼吸を吐き出した。
「先輩、俺、いつか先輩に会いにアメリカに行きます。だから、先輩は、アメリカで頑張ってください。それで、……俺のこと、忘れないでくれたら嬉しいです」
覚悟を決めて絞り出したのに、先輩は疑わしげに目を細めて呟いた。
「……英語だぞ」
「英語の勉強、頑張ります」
「まあ、……期待しないで待ってるな」
「えぇ……」
レオ先輩はぼんやりと花火を見上げていて、本当に、全く期待してなさそうだ……。
「太陽、曜日と月名の英語しか知らないんだろ?」
「そ、それは中学のときの話だし! 俺、レオ先輩のために頑張るし!」
「まずは、学校の勉強をどうにかしろ」
「えー……。レオ先輩、父ちゃんみたい」
「あ?」
「その顔、めちゃくちゃ怖いです」
「黙れ、このクソガキ」
レオ先輩に頭をわしゃわしゃなでられて、身体をよじって逃げ出した。
こんなたわいもない会話を、夜が更けて朝が来るまで続けられたらいいのに。
けれどこれは、花火の降る間に与えられた幻みたいな時間で、きっとすぐに終わりがくる。
「先輩、いつ日本を発つんですか?」
「来週だな」
そっか……。
「俺、レオ先輩のことをずっと応援してますから。遠く離れて、この先、二度と会えなかったとしても、ずっとレオ先輩は俺の憧れです。だから、アメリカで頑張ってください」
今だけは、泣かずに伝えた。
行かないでほしい、なんて言えないからせめて笑って伝えた。
俺の泣き顔ばかりがレオ先輩の記憶に残ってしまうのは寂しいから。
なにより俺の本音を伝えたところで、レオ先輩のことを困らせるだけだ。
レオ先輩は固い表情をしていて、なにを考えているか全然わからない。
「花火、綺麗ですね」
「だな」
花火を見て、思い切り笑ってみても、レオ先輩はそれきり口を閉ざしたままだった。
文化祭を翌日に控えて、教室は雑然としている。
机やいすは、教室の隅に寄せられて看板づくりのために散乱しているガムかみくずテープや紙屑をよけて歩く。
「ねえ、実行委員は?」
「備品確認するって生徒会室にいるー」
「受付は外でいいんだよね?」
ふう。
生徒会から頼まれたチェックリストを手に、ため息がこぼれた。
花火大会の夜、俺なりに精いっぱいのエールをレオ先輩に送ったのだけど、レオ先輩はずっと口を閉ざしていて、そのまま小高い丘のベンチで先輩と別れた。
レオ先輩のことを考えると、思考が止まって動けなくなる。
気づけばふらりと駅裏に向かってしまう。
もうすぐ文化祭なんだから、しっかりしないといけないのに。
────よし。
気合を入れなおすと、ぶ厚いファイルを手に職員室に向かった。
「失礼します」
用事を終えて職員室の扉を閉めると、流星が通りがかった。
文化祭の準備が本格的に忙しくなり、流星ともゆっくり話せていない。
「太陽、大丈夫か。最近、ますます忙しそうだよな」
「これは文化祭とは関係なくて、俺の個人的な用事だから」
「……なんだ、追試か」
「ちがうよ! ひどいな。レオ先輩の作品をまとめたものを二年の学年主任に預かってもらったんだ。近いうちに先輩の両親が学校に来るらしいから」
できるなら先輩の作品を文化祭で展示して、みんなに先輩の作品を見てもらいたい。けど、それは先輩が望まない。
それならせめて、そのすごさを先輩の両親に知ってほしい。
先輩がどれだけすごい才能を持っていて、どんなに心を震わせる作品を描いてきたのか、少しでいいから理解してほしい。
そのうえで、これからアメリカでレオ先輩が進む道を支えてあげてほしい。 レオ先輩の描いた作品が俺の記憶にしか残らないのはあまりに悔しいから。
「相変わらず、お人よしつうか、おせっかいっていうか……」
「わかってるよ。けど、あのビル、もうすぐとり壊されちゃうんだ。だから、それまでに俺ができることはしておきたくて」
「まあ俺に手伝えることがあれば遠慮なく声かけろよ。それから、俺、レオ先輩に余計なこと言ったかもしれない」
「余計なこと?」
「うん、それだけ太陽に言っておきたかったんだけど」
そのとき、生徒会の先輩が廊下の向こうから声を張り上げてやってきた。
「太陽、ここにいたのか、副会長が探してたぞ」
「あ、すいません! ごめんな、流星。また今度聞かせて」
片手で流星に謝ると、生徒会室に急いだ。
