しばらくしてレオ先輩が立ち上がり、再び絵を描きはじめると、弁当箱をカバンに詰めながら先輩に伝える。

「先輩、ちゃんとご飯食べてください。絵描いてると夢中になってお腹減らないってことは知ってます。けど、身体によくないから」
「適当に食ってるから大丈夫だ。それより、まじめな話、お前はもうここには来るな」

 レオ先輩の視線が厳しく尖って、下を向いた。

「わかってます、邪魔してすいませんでした」

 頭を下げて謝りながらも、正直、その約束を守れる自信はなかった。
 暗い階段を上りながら、朝までレオ先輩が描く姿を隣で見ていたいという思いと必死に戦っていた。

 地下室から地上にもどり夜空を見上げると、冷たい銀色の月が世界から色を奪うように夜を染めていく。
 よそよそしい月の光を浴びて、賑やかな雑踏のなかで足を踏み出せず、ただ立ち尽くす。

 先輩のまなざしや、俺に触れた手のひらのぬくもりが、まだ肌に残っている。
 あれほど柔らかなレオ先輩に触れたら、諦めきれない。

 先輩の触れた肩や背中が熱を帯びて、その熱がゆっくりと波紋のように広がっていく。
 今、レオ先輩と別れたばかりなのに、もう先輩に会いたくてたまらない。


 翌日、死に物狂いで文化祭の準備を終えると、夕闇が街を包むより早くレオ先輩のいる地下室に向かった。
 昨日一晩、悩んで泣いてレオ先輩を諦めようと思ったけれど、やっぱり先輩に会いたくて、今日もまた地下室に来てしまった。

 呆れられても、怒鳴られても、どうしても先輩に会いたい。

「……お前さ、俺の話をちゃんと聞いてたか?」
「すいません……」

 先輩の命令に逆らってまた地下室に来てしまったけれど、追い返されることはなくてホッとした。

「先輩は、最近は毎日ここにきてますね」
「今のうちにな」

 レオ先輩に、伝えたいことはたくさんあるのに、なにひとつ言葉にできない。
 ただレオ先輩のそばにいたい、先輩の姿を見ていたい。
 その気持ちだけで、今ここにいる。

 すると、レオ先輩が深く息を吐く。

「あのな、太陽。お前に言っておかなきゃいけないことがある」

 レオ先輩の感情を消した声が響いて、身構える。
 もう帰れ、って怒鳴られても仕方ないよな……。
 覚悟して耳を傾けると思いもよらないことを告げられた。

「このビルは、もうすぐとり壊される。だから近いうちに入れなくなる」
「──え?」

ポキっと心のなかの大事ななにかが折れた。

「おい、そんな顔すんなって」
「だって……とり壊しって……」
「そりゃそうだろ、いつまでもこんなに立地のいい場所に廃ビルのまま置いておかねえだろ」
「だって、そしたら先輩の作品は?」
「もともと、ただのゴミだ」
「……つまり、この壁も、とり壊されるってこと、ですか?」
「当たり前だ、キャンバスじゃなくて壁だぞ。持ち帰れねえし、保存もできねえだろ」
「けど、だからって」
「だから俺は自由に描けるんだよ。誰も知らない、誰にもなにも言われない、誰にも知られないままとり壊される。俺にとっては、これ以上ない最高の場所だったんだよ」

 俺は絵のことも芸術のことも、なにもわからないけど、初めて先輩の絵を見たとき、息ができなくなったんだ。
 ただ、すごい、って湧き上がる感情にすべてを持っていかれた。
 勝手に涙がこぼれてきて、ここで作品に出会えたことを世界に感謝したくなった。

 それなのに、……とり壊し?
 なんで? どうして?

 先輩はアメリカに行って、ここにある絵はビルごと全て壊される。
 全部が綺麗になくなって、俺の大好きなものが消えてしまう。

「おい、太陽、顔上げろって」
「いやだ」

 視界が滲んで、立てた膝に顔をうずめて、声を殺して泣いた。

「お前、……泣きすぎだ」
「俺、ふだんは泣かないです。けど、これは違う。悔しいし、先輩は俺の…… 憧れで……ここは俺にとっても大切な場所だったから……」
「憧れって……嬉しいもんだな」

 伏せたまま耳に届いた先輩の声は、これまで聞いたことのないような優しい声だった。
 ぽんぽんっと慰めるように俺の背中をさする手のひらのぬくもりに、ますます涙がこみ上げる。
 優しくしなくていいから、どこにも行かないでほしい。

「おい、太陽」
「……無理」

 俺だって、この先もずっと、この地下室でレオ先輩と過ごせると思っていたわけじゃない。

……けど、いきなりとり壊しだなんて。

 じっと体を固くしてうずくまっていると、頭上にレオ先輩の声が落ちた。

「せっかくここに通ったんだ。太陽もなにか描いてみるか?」
「え……?」
「めそめそするくらいなら、お前もなにか描いてみりゃいいだろ。描いて、ひとつでも傷跡残してみろよ」
「……俺が? ここに?」

 顔を上げると、先輩の大きな手のひらに頬っぺたをぬぐわれた。
 その手のぬくもりにまた涙がこみあげる。

「この廃ビルは、とり壊しまでは自由にしていいって言われてるから大丈夫だ」
「けど」

 躊躇っていると、その理由をとり違えたのか、レオ先輩が渋々と口を開いた。

「……言いたくねえけど、ここ、親のビルなんだよ。だから、なにを書いても問題ない」
「だったら、どうして……」
「親のビルだから、だよ」

 先輩が、諦めてすべてを受け入れているのが、やりきれない。

「ほら」
「無理です」
「だから、なんでだよ?」
「……だって、崇拝するアーティストの聖域を、素人が汚しちゃう罪悪感がものすごくて……」
「じゃ、命令。俺のためになんか描けよ」

 その瞳は刃物のように鋭いのに優しくて、レオ先輩の低い声に押されるようにして、壁に向かった。
 この想いを壁にぶつければ、俺も先輩みたいに特別ななにかを描くことができるのかな……。

悔しい……。

 このビルがとり壊されることも、先輩が平然としていることも、留学してしまうことも、全部。
 この想いを、そのまま壁にぶつけてやる。

「……あれ?」

 勢い込んでスプレー缶を握ったものの、ぷしゅっと、情けない音を立てて細いノズルの先から、だらだらと赤い液体が壁を流れていく。

 おかしいな……。
 先輩は、ふわっとスプレーを広げていたのに。
 もう一度試してみても、壁に吹き付けられた赤い液体は、無情にもだらだらと、壁を伝って落ちていく。

「目指すは、ホラー系か」
「ち、ちがいますっ! 赤富士、描きたいなって思ったんですけど」
「あかふじ……?北斎の……?」

 ぽかんとしたレオ先輩に、「はい」と小さく頷いた。

「どっちかっつうと、血しぶきの舞う館っぽいけど。とり壊される前にここで肝試しでもしたいのかと……つうか、ぶはっ」

 すると、鋭いまなざしがほどけて、決壊したようにレオ先輩が笑いだした。

「えっと、あの」

 レオ先輩は目尻に涙を浮かべて笑っている。

 ……まあ、先輩が楽しそうだからいっか。
 絵を描くことは諦めて、スプレー缶を床に置いた。

「やっぱり、先輩はすごいです……」
「わりい、俺、自分に才能があるとは思わないけど、太陽に才能がないのだけは、ぷぷっ、くくっ……わかる、かも」
「スプレーで絵描くのって、めっちゃくちゃ難しいじゃないですか!」

 むくれていると、くいっと顎をつかまれて、至近距離でレオ先輩に顔をのぞきこまれた。

「あ、あの、レオ先輩?」

 どぎまぎと目をしばたたかせる俺を見て、レオ先輩がそっと続けた。

「太陽、もうここには来るな」
「え、」
「俺はお前のことが可愛い。だからこそ、煩わせたくないんだよ。俺はアメリカに行く。お前の居場所はこの廃ビルじゃない。わかってるよな? もう、ここまでにしよう」

 まだ柔らかな笑みの残る表情で、レオ先輩に最終宣告された。
 冷たい声でも、突き放すわけでもない。
 慈しむような優しい声で諭されて、ああ、もう、本当に終わりなんだと思った。

「わかったな、太陽」
「はい……」

 これ以上、先輩を困らせることはできない。
 もう、ここに来ることも許されない。
 このビルもなくなる。
 レオ先輩はアメリカに行く。

 そう思うそばから、じわじわと胸の奥が痛くて、もうレオ先輩が恋しい。

「あの、今日だけ……、もう少しだけ、ここにいてもいいですか」
「……今日だけだぞ」

 脆く(つむ)いだ言葉は、どうにかレオ先輩に受け止めてもらえた。
 そのまま地下室の壁に寄り掛かり、先輩が絵を描く姿をぼんやりと眺めた。

 柔らかく青が波打つ海、淡い灰色が溶け込む空。
 廃ビルのくすんだ鉛色の壁が、洗練された色彩で激しくも美しく染まっていく。

 萌黄色(もえぎいろ)緑青(りょくしょう)千歳緑(せんざいみどり)松葉色(まつばいろ)
 緑ひとつをとっても、なん十種類もの呼び名があることを先輩に教えてもらった。

 ……こんなにすごい作品ばかりなのに、すべて壊されてしまう。

 もう、ここに見に来ることもできないんだ。
 ぽつりと涙がこぼれたら、止まらなくなった。

「お前、……どんだけ泣くんだよ」
「だって、……悔しいです。こんなにすごい作品たちがとり壊されて、なにも残らないなんて」
「ストリートアートなんてそんなもんだ。これはただの落書きで、それがこいつらの運命なんだよ」

 先輩が顎でしゃくった壁はもう、隙間もないほどの絵柄で埋め尽くされている。
 指でそっと湿った壁に触れると、鮮やかな赤が涙で滲んだ。

「俺、忘れませんから。この絵に出会えたこと、一生忘れません」
「……お前は、本当にばかだな」

 柔らかなその声に、ますます涙が止まらなくなった。

「おい、太陽」

 先輩の骨ばった手に頬っぺたを拭われて、それでも涙は止まらない。

「……太陽、泣くなよ」

 困り切った先輩の声に、顔を上げると、
「泣き虫め」
 ペッと赤い塗料を頬っぺたにつけられた。

「え!? ペンキ!?」
「ムカついたか?」
「……めちゃくちゃ光栄です」
「ほんと、お前はバカだなあ。……バカで、可愛いよ、お前はほんとに」

 子供にするように頭をなでられて、目をつぶった。
 先輩に頭をなでられながら、気持ちがこぼれてしまいそうで苦しくてたまらなかった。
 柔らかな先輩の笑顔が、辛い。

 どうしようもなく俺はレオ先輩が好きだ。



「じゃ、そろそろ帰ります」

 邪魔しないように足音を立てずに地下室の階段へと向かう。
 と、レオ先輩がスプレー缶を置いてやってくる。

「太陽、駅まで送る」
「え、大丈夫ですよ?」
「コンビニに行くついでだ」

 先に階段をのぼりはじめたレオ先輩に、強く断ることはできなかった。

 あと、少しだけ先輩といられる。
 レオ先輩と過ごせるのは、ほんのわずかな時間だから。
 唇を噛みしめて、地下室からの階段を上った。