怒鳴られるかもしれない、今度こそ本当に呆れられて、挨拶もしてくれなくなるかもしれない。
それでも、……レオ先輩に会いたい。
すっかりと夜に沈んだ街を歩きながら、いつもの廃ビルに向かった。
どれだけ罵倒されようがかまわないと開き直ってここまで来たけど、廃ビルの前まで来るとさすがに怖気づいて、おずおずと地下室に足を踏み入れた。
「……あの、……レオ先輩」
「バカ犬、帰れ」
俺に背中を向けたまま、レオ先輩が壁に向かって声を荒げた。
「これだけ置いたら、帰ります。弁当、作ってきたんです」
「じゃ、そこ置いとけ」
「先輩……俺、やっぱり迷惑ですか」
「なにを勘違いしてんだか知らねえけど、俺とお前は友達でもなんでもねえだろ」
背を向けられたまま、心がひび割れるような言葉を浴びたとしても、それ以上に、先輩の近くにいられることのほうが嬉しいなんて、自分でもどうかしてると思う。
「わかってます。もう邪魔しないので、今だけ、いいですか。弁当、作ってきたんで一緒に食べませんか?」
「今、何時だと思ってんだよ。さっさと帰れ」
「でも、せっかく夕飯持ってきたし、俺の分もここにあるし」
じっとレオ先輩の返事を待つと、深いため息が地下室に響いた。
「……お前さ、案外図太いよな」
「レオ先輩限定です」
「嬉しくねえ……」
そうこぼしたレオ先輩は、本当に困り果てている。
俺、わがままばかり言ってるよな……。
地下室に気まずい沈黙が落ちて、さすがにレオ先輩に申し訳ない気持ちになった。
「……この弁当って、太陽が作ったのか?」
しぶしぶと弁当を受けとったレオ先輩はかなり戸惑っている。……というか、怯えている。
「いや、俺、料理とかできないし。母ちゃんの作った夕飯を詰めてきました」
「あ、そ」
よかった、って顔してるし。
「俺の作った弁当とか、俺だって怖くて食べたくないけどさ」
……そこまであからさまにホッとした顔をしなくてもいいのに。
むすっと呟くと、ふっと笑った先輩にわしゃわしゃと頭をなでられた。
「ほら、弁当、食うんだろ」
「は、はいっ」
レオ先輩が優しくて、泣きたくなった。
久しぶりにレオ先輩の笑った顔を見た気がする……。
ひんやりとした壁によりかかり、ふたりで並んで弁当に箸をのばす。
「お前の母親、料理上手だな」
「飯はいつも美味いです」
先輩の描いた絵に囲まれて、レオ先輩と並んで弁当を食べるなんてこれ以上に幸せなことはないはずなのに、ぎゅうぎゅうと切なさに胸を押し潰される。
もうすぐ、レオ先輩はここからいなくなる。
そしたら、もう二度と先輩に会えなくなる。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
留学なんてやめちゃえばいいのに。
……ずっと、俺の隣にいてくれたらいいのに。
絶対にかなうはずのない想いばかりが、胸をしめつける。
先輩と過ごせるのはもうわずかな時間で、泣かないように持参した弁当をぱくぱくと口に押し込んだ。
すると壁に寄り掛かって座ったレオ先輩の腕が、こつんと俺の肩に触れた。
「悪い」
「い、いえっ」
あー……もう、こんなことに動揺する自分が嫌になる。
レオ先輩に触れた肩がじんわり熱くなって、顔まで火照ってくる。
地下室が暗くてよかった。
「太陽の親は、明るくていい親だよな」
ふいにこぼしたレオ先輩に頷いた。
「めちゃくちゃケンカしますけどね」
「ははっ、それは目に浮かぶ。ほんと、似た者親子だな」
「それ、わりと嬉しいです」
おにぎりを頬張りながら、ペコっと頭をさげると、レオ先輩が不思議そうに首をかしげた。
「太陽、前にも同じこと言ってたよな?」
そんな先輩に、ちょっと悩んで続けた。
「あー……俺と母ちゃんって一滴も、血、つながってないんですよ」
「……は?」
「俺もガキの頃から自分は母ちゃん似だと思ってたんですけど、正真正銘の他人で、ついでに、父ちゃんともほとんど血、つながってないです。あ! 先輩、そのアスパラベーコン、美味いですよ。ピリ辛で」
「あ、ああ」
「俺、父ちゃんのはとこの子供なんです。俺の本当の母さんは、十代で俺を生んで早くに亡くなったらしくて。父親はわからなくて、誰も知らない。母さんの写真は見せてもらいました」
壁に描かれた群青の大波やカラフルな美人画と向かいあって、レオ先輩にこの話をするのは不思議な気がした。
「本当の母さんが死んだとき、俺はまだ赤ん坊で、引きとり手がいなくて、施設に入れるかどうかで葬式の場でもめてたらしくて。たまたまた遠縁でその場にいた父ちゃんと母ちゃんが、……まあ、きっと見かねて。俺を引きとりたいって申し出てくれたんです」
「そっか……」
前を見つめたまま箸を止めた先輩にあわてて伝える。
「先輩、これ全然、暗い話とか重い話じゃなくて! 単なる事実ってだけなんで!」
「ん、けど、驚いた」
「まあ、そうですよね。ただ本当に『あ、そういえば』みたいな感じで切り出されて、俺も『へー、そうなんだ』って感じであっさりしてたんで。だから、似た者親子って言われると嬉しいです。あ、これ、美味い」
いつもと味付けの違うチキンカツにハッとすると、「緊張感ねえな」と苦笑された。
「それ、いつ知った?」
「中学の入学式の日です。さすがに母ちゃんと血がつながってないって聞かされたときは、ショックで」
「だよな……」
レオ先輩の穏やかな声が心に深く響いて、そっと続けた。
「でも、悩んだり落ち込んだりするのは、育ててくれた母ちゃんにも俺を産んでくれた母さんにも申し訳ないって気持ちもあって。ショックなのに、罪悪感で落ち込むこともできなくて。誰にも言えなくてしんどかったときに見つけたのがレオ先輩が描いた浮世絵だったんです」
日常からとり残されたように佇む廃ビルの壁に描かれた艶やかな絵の数々。
誰に見られることも望んでいない美しくも激しいその姿に、強く惹きつけられた。
心を悩ましていたことはその荒々しい美しさに溶かされて、がんじがらめに絡まっていた心が静かにほどけていくのを感じた。
「あのとき、……先輩の絵を見て俺は救われたんです。自暴自棄になりかけてた俺はもう心から笑えなくなってて。それでもそんな姿をまわりに見せちゃいけないと思ったら、どうしたらいいかわからなくなって……」
自分は母ちゃん似だと信じて疑わなかった俺は、すぐにはその現実を理解できなかった。それでも気のいい父ちゃんと、母ちゃんの前で、落ち込んだりいらだった態度をとることはできなくて、心を潰してヘラヘラと笑っていた。
実の母さんは死んで、父さんは、どこの誰だかわからない。
──じゃあ、俺は誰の子なんだろう?
その問いが、俺をつかんで離さず、眠れない夜が続いた。
夕陽の美しさにも、朝日の輝きにも心が動かなくなった。
大好きな父ちゃんと母ちゃんだったからこそ、ふたりが他人だという現実がきつかった。
父ちゃんも母ちゃんも優しくて、俺には、気のいい幼なじみの流星もいる。
それなのに世界にたったひとりでとり残された気がして、居場所を探すように夜の街をふらついた。
そんな俺の前に、いきなり現れたのがレオ先輩が描いた浮世絵だった。
夜に沈んだ街で、ビルとビルの隙間からやっと覗けるほどの壁に描かれた浮世絵の存在は鮮烈だった。
その怒気を孕んだ激しく荒々しい色使いに俺の心は手加減なく撃ち抜かれ、呼吸も忘れて、その絵を見入った。
怒っていい、悲しんでいい、悔しがっていい。
怒れ、悲しめ、悔しがれ。
────無理に笑うな。
激しく彩られたその絵にそう言われたようで、体が震えて、気づけば涙が零れていた。
色鮮やかな壁に、すべてを許された気がした。
レオ先輩は覚えてないだろうけど、ぼろぼろと涙をこぼす俺に、レオ先輩はなにも言わず、ただ静かにそばにいてくれた。
そのぶっきらぼうな優しさが嬉しかった。
「俺が笑って毎日を過ごせるようになったのはレオ先輩のおかげなんです。……レオ先輩があの場所に、あの絵を描いてくれたから。……あのときは、本当にありがとうございました」
誰が悪いわけでもないし、誰かを責めることもできない。
悩んでも仕方ないと、割り切ろうとしても心のなかはぐちゃぐちゃで、幼い俺はその気持ちをうまく消化させることができなかった。
「それから辛いことがあるとあの絵を見に行くようになって、いつかまた幻のあのひとに会えたらいいなって……」
話しているうちにじわじわと顔が熱くなる。
だって、あのとき胸を焦がしていたひとが隣にいるんだ。
「まさか、あの絵を描いたひとと、こうして一緒に過ごせるなんて思ってなかっ
たから」
……すごく嬉しいです、と恥ずかしくなって最後はぼそぼそと続けた。
「そうか」
静かな地下室で、レオ先輩とこうして並んでいるだけで幸せが満ちていく。
ぽんぽんと先輩に頭をなでられて、その心地よさに目をつぶった。
あと、どのくらい先輩の近くにいられるんだろう……。
壁に描かれた白い子犬の絵を見ながらぼんやりとそんなことを考えていたら、先輩の腕がふわりと肩に回り、片手で強く抱きしめられた。
────え?
頭を掻き抱かれ、先輩の胸元にもたれたけれど、一瞬、なにが起きたのかわからなくて、先輩の逞しい腕のなかで息を詰めた。
「俺のほうがずっと、お前に救われてる」
耳元でそっと呟いた先輩に、胸が波打った。
その言葉の意味はわからないまま、レオ先輩の腕のなかで呼吸が熱くなる。
先輩にとって俺はどんな存在ですか?
俺はただの後輩以上になれていますか?
もし俺がアメリカに行かないでほしいって言ったら……。
レオ先輩に聞きたいことはたくさんあるけど、今はただなにも考えずに、このまま先輩のそばにいたい。
これからのことは、もうどうでもいいから。
少しでも長くこの時間が続くように、祈るような気持ちでレオ先輩に体を預けた。
それでも、……レオ先輩に会いたい。
すっかりと夜に沈んだ街を歩きながら、いつもの廃ビルに向かった。
どれだけ罵倒されようがかまわないと開き直ってここまで来たけど、廃ビルの前まで来るとさすがに怖気づいて、おずおずと地下室に足を踏み入れた。
「……あの、……レオ先輩」
「バカ犬、帰れ」
俺に背中を向けたまま、レオ先輩が壁に向かって声を荒げた。
「これだけ置いたら、帰ります。弁当、作ってきたんです」
「じゃ、そこ置いとけ」
「先輩……俺、やっぱり迷惑ですか」
「なにを勘違いしてんだか知らねえけど、俺とお前は友達でもなんでもねえだろ」
背を向けられたまま、心がひび割れるような言葉を浴びたとしても、それ以上に、先輩の近くにいられることのほうが嬉しいなんて、自分でもどうかしてると思う。
「わかってます。もう邪魔しないので、今だけ、いいですか。弁当、作ってきたんで一緒に食べませんか?」
「今、何時だと思ってんだよ。さっさと帰れ」
「でも、せっかく夕飯持ってきたし、俺の分もここにあるし」
じっとレオ先輩の返事を待つと、深いため息が地下室に響いた。
「……お前さ、案外図太いよな」
「レオ先輩限定です」
「嬉しくねえ……」
そうこぼしたレオ先輩は、本当に困り果てている。
俺、わがままばかり言ってるよな……。
地下室に気まずい沈黙が落ちて、さすがにレオ先輩に申し訳ない気持ちになった。
「……この弁当って、太陽が作ったのか?」
しぶしぶと弁当を受けとったレオ先輩はかなり戸惑っている。……というか、怯えている。
「いや、俺、料理とかできないし。母ちゃんの作った夕飯を詰めてきました」
「あ、そ」
よかった、って顔してるし。
「俺の作った弁当とか、俺だって怖くて食べたくないけどさ」
……そこまであからさまにホッとした顔をしなくてもいいのに。
むすっと呟くと、ふっと笑った先輩にわしゃわしゃと頭をなでられた。
「ほら、弁当、食うんだろ」
「は、はいっ」
レオ先輩が優しくて、泣きたくなった。
久しぶりにレオ先輩の笑った顔を見た気がする……。
ひんやりとした壁によりかかり、ふたりで並んで弁当に箸をのばす。
「お前の母親、料理上手だな」
「飯はいつも美味いです」
先輩の描いた絵に囲まれて、レオ先輩と並んで弁当を食べるなんてこれ以上に幸せなことはないはずなのに、ぎゅうぎゅうと切なさに胸を押し潰される。
もうすぐ、レオ先輩はここからいなくなる。
そしたら、もう二度と先輩に会えなくなる。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
留学なんてやめちゃえばいいのに。
……ずっと、俺の隣にいてくれたらいいのに。
絶対にかなうはずのない想いばかりが、胸をしめつける。
先輩と過ごせるのはもうわずかな時間で、泣かないように持参した弁当をぱくぱくと口に押し込んだ。
すると壁に寄り掛かって座ったレオ先輩の腕が、こつんと俺の肩に触れた。
「悪い」
「い、いえっ」
あー……もう、こんなことに動揺する自分が嫌になる。
レオ先輩に触れた肩がじんわり熱くなって、顔まで火照ってくる。
地下室が暗くてよかった。
「太陽の親は、明るくていい親だよな」
ふいにこぼしたレオ先輩に頷いた。
「めちゃくちゃケンカしますけどね」
「ははっ、それは目に浮かぶ。ほんと、似た者親子だな」
「それ、わりと嬉しいです」
おにぎりを頬張りながら、ペコっと頭をさげると、レオ先輩が不思議そうに首をかしげた。
「太陽、前にも同じこと言ってたよな?」
そんな先輩に、ちょっと悩んで続けた。
「あー……俺と母ちゃんって一滴も、血、つながってないんですよ」
「……は?」
「俺もガキの頃から自分は母ちゃん似だと思ってたんですけど、正真正銘の他人で、ついでに、父ちゃんともほとんど血、つながってないです。あ! 先輩、そのアスパラベーコン、美味いですよ。ピリ辛で」
「あ、ああ」
「俺、父ちゃんのはとこの子供なんです。俺の本当の母さんは、十代で俺を生んで早くに亡くなったらしくて。父親はわからなくて、誰も知らない。母さんの写真は見せてもらいました」
壁に描かれた群青の大波やカラフルな美人画と向かいあって、レオ先輩にこの話をするのは不思議な気がした。
「本当の母さんが死んだとき、俺はまだ赤ん坊で、引きとり手がいなくて、施設に入れるかどうかで葬式の場でもめてたらしくて。たまたまた遠縁でその場にいた父ちゃんと母ちゃんが、……まあ、きっと見かねて。俺を引きとりたいって申し出てくれたんです」
「そっか……」
前を見つめたまま箸を止めた先輩にあわてて伝える。
「先輩、これ全然、暗い話とか重い話じゃなくて! 単なる事実ってだけなんで!」
「ん、けど、驚いた」
「まあ、そうですよね。ただ本当に『あ、そういえば』みたいな感じで切り出されて、俺も『へー、そうなんだ』って感じであっさりしてたんで。だから、似た者親子って言われると嬉しいです。あ、これ、美味い」
いつもと味付けの違うチキンカツにハッとすると、「緊張感ねえな」と苦笑された。
「それ、いつ知った?」
「中学の入学式の日です。さすがに母ちゃんと血がつながってないって聞かされたときは、ショックで」
「だよな……」
レオ先輩の穏やかな声が心に深く響いて、そっと続けた。
「でも、悩んだり落ち込んだりするのは、育ててくれた母ちゃんにも俺を産んでくれた母さんにも申し訳ないって気持ちもあって。ショックなのに、罪悪感で落ち込むこともできなくて。誰にも言えなくてしんどかったときに見つけたのがレオ先輩が描いた浮世絵だったんです」
日常からとり残されたように佇む廃ビルの壁に描かれた艶やかな絵の数々。
誰に見られることも望んでいない美しくも激しいその姿に、強く惹きつけられた。
心を悩ましていたことはその荒々しい美しさに溶かされて、がんじがらめに絡まっていた心が静かにほどけていくのを感じた。
「あのとき、……先輩の絵を見て俺は救われたんです。自暴自棄になりかけてた俺はもう心から笑えなくなってて。それでもそんな姿をまわりに見せちゃいけないと思ったら、どうしたらいいかわからなくなって……」
自分は母ちゃん似だと信じて疑わなかった俺は、すぐにはその現実を理解できなかった。それでも気のいい父ちゃんと、母ちゃんの前で、落ち込んだりいらだった態度をとることはできなくて、心を潰してヘラヘラと笑っていた。
実の母さんは死んで、父さんは、どこの誰だかわからない。
──じゃあ、俺は誰の子なんだろう?
その問いが、俺をつかんで離さず、眠れない夜が続いた。
夕陽の美しさにも、朝日の輝きにも心が動かなくなった。
大好きな父ちゃんと母ちゃんだったからこそ、ふたりが他人だという現実がきつかった。
父ちゃんも母ちゃんも優しくて、俺には、気のいい幼なじみの流星もいる。
それなのに世界にたったひとりでとり残された気がして、居場所を探すように夜の街をふらついた。
そんな俺の前に、いきなり現れたのがレオ先輩が描いた浮世絵だった。
夜に沈んだ街で、ビルとビルの隙間からやっと覗けるほどの壁に描かれた浮世絵の存在は鮮烈だった。
その怒気を孕んだ激しく荒々しい色使いに俺の心は手加減なく撃ち抜かれ、呼吸も忘れて、その絵を見入った。
怒っていい、悲しんでいい、悔しがっていい。
怒れ、悲しめ、悔しがれ。
────無理に笑うな。
激しく彩られたその絵にそう言われたようで、体が震えて、気づけば涙が零れていた。
色鮮やかな壁に、すべてを許された気がした。
レオ先輩は覚えてないだろうけど、ぼろぼろと涙をこぼす俺に、レオ先輩はなにも言わず、ただ静かにそばにいてくれた。
そのぶっきらぼうな優しさが嬉しかった。
「俺が笑って毎日を過ごせるようになったのはレオ先輩のおかげなんです。……レオ先輩があの場所に、あの絵を描いてくれたから。……あのときは、本当にありがとうございました」
誰が悪いわけでもないし、誰かを責めることもできない。
悩んでも仕方ないと、割り切ろうとしても心のなかはぐちゃぐちゃで、幼い俺はその気持ちをうまく消化させることができなかった。
「それから辛いことがあるとあの絵を見に行くようになって、いつかまた幻のあのひとに会えたらいいなって……」
話しているうちにじわじわと顔が熱くなる。
だって、あのとき胸を焦がしていたひとが隣にいるんだ。
「まさか、あの絵を描いたひとと、こうして一緒に過ごせるなんて思ってなかっ
たから」
……すごく嬉しいです、と恥ずかしくなって最後はぼそぼそと続けた。
「そうか」
静かな地下室で、レオ先輩とこうして並んでいるだけで幸せが満ちていく。
ぽんぽんと先輩に頭をなでられて、その心地よさに目をつぶった。
あと、どのくらい先輩の近くにいられるんだろう……。
壁に描かれた白い子犬の絵を見ながらぼんやりとそんなことを考えていたら、先輩の腕がふわりと肩に回り、片手で強く抱きしめられた。
────え?
頭を掻き抱かれ、先輩の胸元にもたれたけれど、一瞬、なにが起きたのかわからなくて、先輩の逞しい腕のなかで息を詰めた。
「俺のほうがずっと、お前に救われてる」
耳元でそっと呟いた先輩に、胸が波打った。
その言葉の意味はわからないまま、レオ先輩の腕のなかで呼吸が熱くなる。
先輩にとって俺はどんな存在ですか?
俺はただの後輩以上になれていますか?
もし俺がアメリカに行かないでほしいって言ったら……。
レオ先輩に聞きたいことはたくさんあるけど、今はただなにも考えずに、このまま先輩のそばにいたい。
これからのことは、もうどうでもいいから。
少しでも長くこの時間が続くように、祈るような気持ちでレオ先輩に体を預けた。
