夕飯を終えて、レオ先輩を部屋に案内したものの、心臓がただごとじゃないレベルで早打ちしている。
だって、……レオ先輩が、俺のベッドに座ってる。
────これ、夢じゃなくて?
「さっきから挙動不審がひでえな」
ふっと笑った先輩に動揺して、ぶんぶんと頷いたら、また笑われた。
今日はずっと先輩の表情が柔らかくて、嬉しくなる。
そのまま床にぺたんと座って、ふわふわと夢見心地で見上げると、先輩が吹き出した。
「そうしてると、マジで犬みてえ」
肩を揺らして笑う先輩の眼差しが優しくて、ぎゅううっと胸が引き絞られる。
もう、犬でもなんでもいい。
ずっとレオ先輩とこうしていたい。
じわじわと儚い幸せに浸っていたら、レオ先輩に顎をつかまれた。
じっと俺を見つめた先輩がそのまま顔を寄せてくるから、躊躇いながらも「わん?」と首をかしげる。
その瞬間、先輩の表情が甘く崩れた。
「お前なあ……」
「期待されてるのかと思って」
「太陽はそれでいいのかよ。犬だぞ?」
「レオ先輩の愛犬になれるなら、嬉しいですっ」
「なんだよ、それ」
そう言って、肩を震わせて笑いながら、レオ先輩がぽつりとこぼす。
「太陽、お前といると楽しいな」
「それは、すごく、……すごく、嬉しいです」
とんでもないご褒美をもらったようで、ぎゅっと胸が熱くなった。
それからレオ先輩と並んで教科書を開いたものの、勉強になるはずがない。
先輩には申し訳ないけど、この状況に俺のポンコツな頭はすでに茹で上がっていて、とてもじゃないけど、数学を解く余裕はない。
「太陽……お前、よく高校受かったな」
「ほんとに……自分でもそう思います……」
俺の解答を見て、頭を抱えた先輩に猛烈に申し訳なくなった。
よし、こうなったら勉強しよう。
全力で頑張って猛烈に勉強していっぱい褒めてもらって、ご褒美に笑ってもらおう。
そう心に誓い、俺なりに精一杯頑張ってみたものの……。
「……お前は、どうしてこうも珍解答ばっかり捻りだせるんだ?」
あまりの俺の学力の低さに、甘い夢は呆気なく散った。
頭を抱えて、俺のノートを確認するレオ先輩にそっと聞いてみる。
「あの、レオ先輩はどうしてそんなに勉強できるんですか?」
「ああ、学校行ってないのにって?」
「えっと、はい」
そこは素直に頷いた。
「俺が通ってた中学って大学付属なんだけど、国立や医学部を受ける奴が一定数いたせいで、中一で中学の全範囲を終わらせるんだよ」
「え? 中学の一年間で?」
「そう、で、中二から高校の範囲やらされてたから、全部履修してんだよ。それだけ」
「へ、へえ」
そんな学校があるんだ……。
「俺、中学一年のときって、英語で曜日と月の名前覚えた記憶しかないです」
「それもすげえな……」
どうやったら、中学の範囲を一年間で終わらせることができるんだろ。
俺には絶対に無理だ。
むしろ、三年でも足りないくらいだったのに。
「太陽の場合は、もう少し前からやり直したほうがよさそうだな。ほら、いいか」
先輩がすらすらとノートに解説を記入する指先を見つめた。
骨ばった大きな手が、驚くほどに美しい数字や文字をきゃしゃ繰り出していく。
スプレーやペンキで絵を描くときとは違う、繊細で華奢な文字。
先輩はきっと書道も得意なんだろうな。
「いてっ」
和装で書をしたためるレオ先輩の姿をぼんやりと妄想してたら、頭をはたかれた。
「おい、ぼけっとすんな」
「は、はいっ」
それでも先輩の指先から目が離せず、その文字を見て思わずこぼれた。
「先輩の字ってすごく美人ですね」
「は? ひとの話、聞いてんのか?」
「ただ綺麗なだけじゃなくて、すごく美人。うん、美人って言葉がぴったりだ」
「……書きにくいから、やめろ」
いかつい見た目で周りを威嚇するのにお箸の持ち方が綺麗だったり、字が美人だったり、これは、もう、憧れなんてもんじゃない。
すると、レオ先輩が俺の手元を指さした。
「太陽、その授業用のノート見せて」
「いや、えっと、それは大丈夫です」
「あ?」
先輩にバレないように、さっとノートを隠した。
「どうしたんだよ、今、手に持ってただろ」
「持って、た、かなあ……?」
「……おい、太陽」
レオ先輩にどすの利いた声で脅されて白状する。
「だ、だって、俺、字がすごく汚いから、先輩に見られたくない」
「は? なにをバカなこと言ってんだよ、お前は小学生か。ほら見せろ」
「いやだ」
「貸せって」
「いーやーだー」
これ以上、レオ先輩に幻滅されたくないし! バカで字も汚いなんて、恥ずかしすぎるっ。
ノートを高く上げて、身体をよじったら勢い余ってそのまま床に倒れ込んだ。
「あっぶねえな」
すんでのところで、先輩が俺の頭を抱えてくれたから、頭を打たずにすんだけど。
「び……っくりした」
……危うく、床に頭をぶつけるところだった。
「おい、大丈夫か?」
「は、はい……っ!」
……って!
「わあああああっ!」
体を起こそうとして、自分が先輩の腕のなかにすっぽりとおさまっていることに気がついた。
レオ先輩の厚い胸板が目の前にあって、レオ先輩の腕に頭を支えられている。
「こ、こ、こ、こ、」
全身が心臓になってしまったんじゃないかってくらい、大きな鼓動を打ち鳴らす。
その体勢で先輩と目が合って、思わず涙目で伝えてしまった。
「こ、こ、こ、こんなことされたら、心臓が間に合わないっ」
「は? なんの話だよ……」
「だ、だから、心臓がいくつあっても、足りないってことです!」
「……よくわかんねえな」
「だ、だって、レオ先輩は俺の憧れなんです」
鼻先を近づけて、レオ先輩をじっと見つめて伝えると、ぐいっと顔を押しやられた。
「太陽、近い」
「す、すみませんっ。……俺、レオ先輩と一緒にいると、自分でも犬っぽくなる気がします」
「なんだよ、それ」
くくっと声を立てて笑った先輩に、頭をわしゃわしゃなでられて、目をつぶった。
課題がひと段落つくと、先輩が机の上に置かれたプリントを手にとった。
「この資料はなんだ?」
「文化祭で生徒会から交渉を頼まれたリストです。文化祭の交渉係を担当してて」
「交渉係って?」
「生徒会を中心に、あっちこっちの部署に交渉して回る係です。生徒会の手先がきたって冗談半分に嫌がられたりもしますけど楽しいです」
「生徒会も人使い荒いな」
「いろいろ知れて面白いですよ」
「この壁の写真もそのリストの一部か? ここって、正門横の倉庫だよな」
「はい、壁がボロボロで来場者の目につきやすいから装飾することになってて。美術部か装飾部門に相談しに行かなきゃいけないんですけど」
「ほんとに、なんでもやるんだな」
「けど、まだ相談してなくて」
「ふーん」
「レオ先輩、あの……ずっと考えていたことがあって」
まさか、このタイミングで切り出せるとは思ってなかった。
「なんだ?」
「その倉庫の壁に、スプレーで絵、描いてもらえませんか? 美術部や装飾部門じゃなくて、俺は先輩に描いてほしくて」
「お前なあ、都合よく俺を使うなよ」
ため息まじりに天井を仰いだレオ先輩に、身を乗り出して伝えた。
「俺、みんなにレオ先輩の作品を観てもらいたいんです。すごい人が、俺たちの学校にいるんだって。先輩の才能をみんなに知ってほしいんです」
ずっと考えていた。
先輩のこと、そして先輩の描いた作品のこと。
せめて、写真だけでもどこかに展示できないか、とか。
でも、採光のとぼしい地下室で撮影した写真は、どれも実際の美しさからは程遠い。
フラッシュをたけば鮮やかな色味が白く飛んでしまうし、地下室の薄暗い光で写真を撮れば、ぼやけたり黄ばんだ色味になって全くの別物になる。
あの色彩のエネルギーは、実際に見た人にしかわからない。
だから、できるなら本物をみんなに見てほしい。
その気持ちを精一杯先輩に伝えたけれど、先輩は首を横にふるばかりだ。
「俺は、人の目に触れないところで誰にも知られずに描くのが好きなんだよ」
先輩のこだわりに俺は触れられない。
俺が口出しできることでもない。
けど……。
「ごめんな」
「……いえ、俺こそ余計なこと言ってすみませんでした」
頭をさげて謝ると、レオ先輩に頭をぐしゃぐしゃとなでられた。
「ごちそう様でした」
玄関で姿勢を正した先輩が母ちゃんに深く一礼する。
「また来てね」
そう笑う母ちゃんに、レオ先輩が柔らかく微笑んでいる。
今日はいろんな顔のレオ先輩を見ることができて、もう胸がいっぱいだ。
「じゃあな、太陽」
軽く手を上げて、背中を向けた先輩をすぐに追いかけた。
「駅まで送ります」
「……なんでだよ」
もう少し一緒にいたいから、とはさすがに言えなくて、頭をフル回転させて、適当な言い訳を繰り出した。
「ほら、駅までの道って、暗いし人も少なくて危ないから!」
「……どう考えても、俺は怖がられる側の人間だろ」
うっ、たしかに。
「じゃ、またな」
ああ、もう!
「俺がもうちょっと先輩と一緒にいたいんです! レオ先輩は憧れの人なん
で!」
やけっぱちに叫ぶと先輩が口元を隠して、顔をしかめた。
「やめろ、それ」
「……迷惑ですか?」
「そうじゃねぇけど、むずむずするんだよ」
「じゃあ、心のなかだけで思っておきます」
「駄々洩れてるけどな……」
「え?」
「なんでもねえよ」
家から駅までの道を、先輩とたわいのない話をして歩く。
こんな幸せな時間が訪れるとは思わなかった。
夏の夜の空気は生ぬるくて、夜風が頬をなでるたびに気持ちが波立つ。
こんな奇跡、きっともう二度とない。
隣を歩く先輩は、ポケットに手をつっこんで黙って前を見ている。
街灯が先輩の横顔を照らして、そのくっきりと整った輪郭に心が吸い寄せられる。
レオ先輩と眺める月はやけに綺麗で、いつだってレオ先輩は俺の世界を色鮮やかに変えていく。
もし俺にしっぽがあったら、きっとちぎれんばかりに振ってるんだろうな。
もう何度めかわからない熱い感情が込み上げてきて、ぐっとおさえた。
「先輩、よかったらまた来てください」
「んー、そうだな」
ふわふわと浮遊するような先輩の返事に不安がよぎり、思わず先輩のシャツの裾をつかんだ。
「あの、これから家に帰るんですよね?」
「いや、いつものとこ」
「……地下室ですか」
こんな時間から?
「ああ」
「……それで朝まで、描くんですか?」
ん、と短く答えたレオ先輩の表情に影がさす。
「好きじゃねえんだよ、自分の家。たまに着替えや風呂に帰る程度で十分」
それなら……と、ふいにこぼれた。
「いつか先輩が自分の理想の家を作ってください。毎日帰りたくなるような家。先輩ならきっと最高にかっこいい家を作るんだろうな。玄関には先輩の描いた絵をどーんっと飾って、高い天井に広いアトリエもあって! うん、絶対にカッコいい!」
また笑われるか、呆れられるだろうなと思ったけど、レオ先輩は思いのほか優しい表情をしていた。
「そしたら、お前の部屋も作ってやるよ」
「……え、犬小屋?」
真顔でたずねると、先輩が吹き出した。
「さすがに犬小屋じゃねえだろ」
「俺、先輩と同じ家に暮らせるなら犬小屋で全然、いいんで!!」
「いや、よくねえだろ」
本気で伝えたのに、また先輩に呆れられた。
まあ、いいけどさ。
「先輩はいつもめちゃくちゃカッコいいです」
ほら、こうしてる瞬間だって先輩のきりっとした横顔が月の光に縁どられてすごく綺麗だ。
ぽわんとその横顔に見惚れていると、レオ先輩の片手に顎をつかまれた。
「どうしたんですか?」
そのまま首をかしげて先輩の瞳をのぞきこむ。
と、鋭い瞳が近づいて、レオ先輩の唇が、俺の口に触れた。
────え?
それは、キスというより、ライオンにぺろりと顔をなめられたようで、目を見開いて固まった。
「お前、可愛いな」
「え、あ、……あ」
それは、いったいどういう意味で?とか、これはキス?という疑問が湧いてきたのはそれからずっと後のことで、頭のなかは真っ白で息もできない。
ただ火を噴きそうなほど体が熱くて、声も言葉も溶けて、ぽうっと火照った頭で立ち尽くしていると「じゃあな」と楽しそうに目を細めて先輩は去っていった。
ふわふわと朧気な意識のなかで、月の光を浴びて遠ざかっていく先輩の後ろ姿を見つめていた。
──俺、先輩に、キスされた……?
幻想や妄想じゃなくて?
ほんの一瞬、唇をかすめるようなキスだったけど、世界が止まったみたいだった。
骨ばった先輩の手のひら、唇の柔らかさ、夜風の匂い。
全部が混ざって頭が追いつかない。
頭のなかは真っ白なのに、先輩に触れられた感覚だけは熱を帯びて残っていて、頭がパンクしそうだ……。
先輩はどうして俺にキスなんてしたんだろう……。
視界から先輩の姿が消えると膝から力が抜けてその場にしゃがみこんだ。
だって、……レオ先輩が、俺のベッドに座ってる。
────これ、夢じゃなくて?
「さっきから挙動不審がひでえな」
ふっと笑った先輩に動揺して、ぶんぶんと頷いたら、また笑われた。
今日はずっと先輩の表情が柔らかくて、嬉しくなる。
そのまま床にぺたんと座って、ふわふわと夢見心地で見上げると、先輩が吹き出した。
「そうしてると、マジで犬みてえ」
肩を揺らして笑う先輩の眼差しが優しくて、ぎゅううっと胸が引き絞られる。
もう、犬でもなんでもいい。
ずっとレオ先輩とこうしていたい。
じわじわと儚い幸せに浸っていたら、レオ先輩に顎をつかまれた。
じっと俺を見つめた先輩がそのまま顔を寄せてくるから、躊躇いながらも「わん?」と首をかしげる。
その瞬間、先輩の表情が甘く崩れた。
「お前なあ……」
「期待されてるのかと思って」
「太陽はそれでいいのかよ。犬だぞ?」
「レオ先輩の愛犬になれるなら、嬉しいですっ」
「なんだよ、それ」
そう言って、肩を震わせて笑いながら、レオ先輩がぽつりとこぼす。
「太陽、お前といると楽しいな」
「それは、すごく、……すごく、嬉しいです」
とんでもないご褒美をもらったようで、ぎゅっと胸が熱くなった。
それからレオ先輩と並んで教科書を開いたものの、勉強になるはずがない。
先輩には申し訳ないけど、この状況に俺のポンコツな頭はすでに茹で上がっていて、とてもじゃないけど、数学を解く余裕はない。
「太陽……お前、よく高校受かったな」
「ほんとに……自分でもそう思います……」
俺の解答を見て、頭を抱えた先輩に猛烈に申し訳なくなった。
よし、こうなったら勉強しよう。
全力で頑張って猛烈に勉強していっぱい褒めてもらって、ご褒美に笑ってもらおう。
そう心に誓い、俺なりに精一杯頑張ってみたものの……。
「……お前は、どうしてこうも珍解答ばっかり捻りだせるんだ?」
あまりの俺の学力の低さに、甘い夢は呆気なく散った。
頭を抱えて、俺のノートを確認するレオ先輩にそっと聞いてみる。
「あの、レオ先輩はどうしてそんなに勉強できるんですか?」
「ああ、学校行ってないのにって?」
「えっと、はい」
そこは素直に頷いた。
「俺が通ってた中学って大学付属なんだけど、国立や医学部を受ける奴が一定数いたせいで、中一で中学の全範囲を終わらせるんだよ」
「え? 中学の一年間で?」
「そう、で、中二から高校の範囲やらされてたから、全部履修してんだよ。それだけ」
「へ、へえ」
そんな学校があるんだ……。
「俺、中学一年のときって、英語で曜日と月の名前覚えた記憶しかないです」
「それもすげえな……」
どうやったら、中学の範囲を一年間で終わらせることができるんだろ。
俺には絶対に無理だ。
むしろ、三年でも足りないくらいだったのに。
「太陽の場合は、もう少し前からやり直したほうがよさそうだな。ほら、いいか」
先輩がすらすらとノートに解説を記入する指先を見つめた。
骨ばった大きな手が、驚くほどに美しい数字や文字をきゃしゃ繰り出していく。
スプレーやペンキで絵を描くときとは違う、繊細で華奢な文字。
先輩はきっと書道も得意なんだろうな。
「いてっ」
和装で書をしたためるレオ先輩の姿をぼんやりと妄想してたら、頭をはたかれた。
「おい、ぼけっとすんな」
「は、はいっ」
それでも先輩の指先から目が離せず、その文字を見て思わずこぼれた。
「先輩の字ってすごく美人ですね」
「は? ひとの話、聞いてんのか?」
「ただ綺麗なだけじゃなくて、すごく美人。うん、美人って言葉がぴったりだ」
「……書きにくいから、やめろ」
いかつい見た目で周りを威嚇するのにお箸の持ち方が綺麗だったり、字が美人だったり、これは、もう、憧れなんてもんじゃない。
すると、レオ先輩が俺の手元を指さした。
「太陽、その授業用のノート見せて」
「いや、えっと、それは大丈夫です」
「あ?」
先輩にバレないように、さっとノートを隠した。
「どうしたんだよ、今、手に持ってただろ」
「持って、た、かなあ……?」
「……おい、太陽」
レオ先輩にどすの利いた声で脅されて白状する。
「だ、だって、俺、字がすごく汚いから、先輩に見られたくない」
「は? なにをバカなこと言ってんだよ、お前は小学生か。ほら見せろ」
「いやだ」
「貸せって」
「いーやーだー」
これ以上、レオ先輩に幻滅されたくないし! バカで字も汚いなんて、恥ずかしすぎるっ。
ノートを高く上げて、身体をよじったら勢い余ってそのまま床に倒れ込んだ。
「あっぶねえな」
すんでのところで、先輩が俺の頭を抱えてくれたから、頭を打たずにすんだけど。
「び……っくりした」
……危うく、床に頭をぶつけるところだった。
「おい、大丈夫か?」
「は、はい……っ!」
……って!
「わあああああっ!」
体を起こそうとして、自分が先輩の腕のなかにすっぽりとおさまっていることに気がついた。
レオ先輩の厚い胸板が目の前にあって、レオ先輩の腕に頭を支えられている。
「こ、こ、こ、こ、」
全身が心臓になってしまったんじゃないかってくらい、大きな鼓動を打ち鳴らす。
その体勢で先輩と目が合って、思わず涙目で伝えてしまった。
「こ、こ、こ、こんなことされたら、心臓が間に合わないっ」
「は? なんの話だよ……」
「だ、だから、心臓がいくつあっても、足りないってことです!」
「……よくわかんねえな」
「だ、だって、レオ先輩は俺の憧れなんです」
鼻先を近づけて、レオ先輩をじっと見つめて伝えると、ぐいっと顔を押しやられた。
「太陽、近い」
「す、すみませんっ。……俺、レオ先輩と一緒にいると、自分でも犬っぽくなる気がします」
「なんだよ、それ」
くくっと声を立てて笑った先輩に、頭をわしゃわしゃなでられて、目をつぶった。
課題がひと段落つくと、先輩が机の上に置かれたプリントを手にとった。
「この資料はなんだ?」
「文化祭で生徒会から交渉を頼まれたリストです。文化祭の交渉係を担当してて」
「交渉係って?」
「生徒会を中心に、あっちこっちの部署に交渉して回る係です。生徒会の手先がきたって冗談半分に嫌がられたりもしますけど楽しいです」
「生徒会も人使い荒いな」
「いろいろ知れて面白いですよ」
「この壁の写真もそのリストの一部か? ここって、正門横の倉庫だよな」
「はい、壁がボロボロで来場者の目につきやすいから装飾することになってて。美術部か装飾部門に相談しに行かなきゃいけないんですけど」
「ほんとに、なんでもやるんだな」
「けど、まだ相談してなくて」
「ふーん」
「レオ先輩、あの……ずっと考えていたことがあって」
まさか、このタイミングで切り出せるとは思ってなかった。
「なんだ?」
「その倉庫の壁に、スプレーで絵、描いてもらえませんか? 美術部や装飾部門じゃなくて、俺は先輩に描いてほしくて」
「お前なあ、都合よく俺を使うなよ」
ため息まじりに天井を仰いだレオ先輩に、身を乗り出して伝えた。
「俺、みんなにレオ先輩の作品を観てもらいたいんです。すごい人が、俺たちの学校にいるんだって。先輩の才能をみんなに知ってほしいんです」
ずっと考えていた。
先輩のこと、そして先輩の描いた作品のこと。
せめて、写真だけでもどこかに展示できないか、とか。
でも、採光のとぼしい地下室で撮影した写真は、どれも実際の美しさからは程遠い。
フラッシュをたけば鮮やかな色味が白く飛んでしまうし、地下室の薄暗い光で写真を撮れば、ぼやけたり黄ばんだ色味になって全くの別物になる。
あの色彩のエネルギーは、実際に見た人にしかわからない。
だから、できるなら本物をみんなに見てほしい。
その気持ちを精一杯先輩に伝えたけれど、先輩は首を横にふるばかりだ。
「俺は、人の目に触れないところで誰にも知られずに描くのが好きなんだよ」
先輩のこだわりに俺は触れられない。
俺が口出しできることでもない。
けど……。
「ごめんな」
「……いえ、俺こそ余計なこと言ってすみませんでした」
頭をさげて謝ると、レオ先輩に頭をぐしゃぐしゃとなでられた。
「ごちそう様でした」
玄関で姿勢を正した先輩が母ちゃんに深く一礼する。
「また来てね」
そう笑う母ちゃんに、レオ先輩が柔らかく微笑んでいる。
今日はいろんな顔のレオ先輩を見ることができて、もう胸がいっぱいだ。
「じゃあな、太陽」
軽く手を上げて、背中を向けた先輩をすぐに追いかけた。
「駅まで送ります」
「……なんでだよ」
もう少し一緒にいたいから、とはさすがに言えなくて、頭をフル回転させて、適当な言い訳を繰り出した。
「ほら、駅までの道って、暗いし人も少なくて危ないから!」
「……どう考えても、俺は怖がられる側の人間だろ」
うっ、たしかに。
「じゃ、またな」
ああ、もう!
「俺がもうちょっと先輩と一緒にいたいんです! レオ先輩は憧れの人なん
で!」
やけっぱちに叫ぶと先輩が口元を隠して、顔をしかめた。
「やめろ、それ」
「……迷惑ですか?」
「そうじゃねぇけど、むずむずするんだよ」
「じゃあ、心のなかだけで思っておきます」
「駄々洩れてるけどな……」
「え?」
「なんでもねえよ」
家から駅までの道を、先輩とたわいのない話をして歩く。
こんな幸せな時間が訪れるとは思わなかった。
夏の夜の空気は生ぬるくて、夜風が頬をなでるたびに気持ちが波立つ。
こんな奇跡、きっともう二度とない。
隣を歩く先輩は、ポケットに手をつっこんで黙って前を見ている。
街灯が先輩の横顔を照らして、そのくっきりと整った輪郭に心が吸い寄せられる。
レオ先輩と眺める月はやけに綺麗で、いつだってレオ先輩は俺の世界を色鮮やかに変えていく。
もし俺にしっぽがあったら、きっとちぎれんばかりに振ってるんだろうな。
もう何度めかわからない熱い感情が込み上げてきて、ぐっとおさえた。
「先輩、よかったらまた来てください」
「んー、そうだな」
ふわふわと浮遊するような先輩の返事に不安がよぎり、思わず先輩のシャツの裾をつかんだ。
「あの、これから家に帰るんですよね?」
「いや、いつものとこ」
「……地下室ですか」
こんな時間から?
「ああ」
「……それで朝まで、描くんですか?」
ん、と短く答えたレオ先輩の表情に影がさす。
「好きじゃねえんだよ、自分の家。たまに着替えや風呂に帰る程度で十分」
それなら……と、ふいにこぼれた。
「いつか先輩が自分の理想の家を作ってください。毎日帰りたくなるような家。先輩ならきっと最高にかっこいい家を作るんだろうな。玄関には先輩の描いた絵をどーんっと飾って、高い天井に広いアトリエもあって! うん、絶対にカッコいい!」
また笑われるか、呆れられるだろうなと思ったけど、レオ先輩は思いのほか優しい表情をしていた。
「そしたら、お前の部屋も作ってやるよ」
「……え、犬小屋?」
真顔でたずねると、先輩が吹き出した。
「さすがに犬小屋じゃねえだろ」
「俺、先輩と同じ家に暮らせるなら犬小屋で全然、いいんで!!」
「いや、よくねえだろ」
本気で伝えたのに、また先輩に呆れられた。
まあ、いいけどさ。
「先輩はいつもめちゃくちゃカッコいいです」
ほら、こうしてる瞬間だって先輩のきりっとした横顔が月の光に縁どられてすごく綺麗だ。
ぽわんとその横顔に見惚れていると、レオ先輩の片手に顎をつかまれた。
「どうしたんですか?」
そのまま首をかしげて先輩の瞳をのぞきこむ。
と、鋭い瞳が近づいて、レオ先輩の唇が、俺の口に触れた。
────え?
それは、キスというより、ライオンにぺろりと顔をなめられたようで、目を見開いて固まった。
「お前、可愛いな」
「え、あ、……あ」
それは、いったいどういう意味で?とか、これはキス?という疑問が湧いてきたのはそれからずっと後のことで、頭のなかは真っ白で息もできない。
ただ火を噴きそうなほど体が熱くて、声も言葉も溶けて、ぽうっと火照った頭で立ち尽くしていると「じゃあな」と楽しそうに目を細めて先輩は去っていった。
ふわふわと朧気な意識のなかで、月の光を浴びて遠ざかっていく先輩の後ろ姿を見つめていた。
──俺、先輩に、キスされた……?
幻想や妄想じゃなくて?
ほんの一瞬、唇をかすめるようなキスだったけど、世界が止まったみたいだった。
骨ばった先輩の手のひら、唇の柔らかさ、夜風の匂い。
全部が混ざって頭が追いつかない。
頭のなかは真っ白なのに、先輩に触れられた感覚だけは熱を帯びて残っていて、頭がパンクしそうだ……。
先輩はどうして俺にキスなんてしたんだろう……。
視界から先輩の姿が消えると膝から力が抜けてその場にしゃがみこんだ。
