伊都さんはいつも決まった時間に起きて、決まった時間に決まったことをしている筈なのに、家を出る間際は慌てて家を出て行く。そして仕事から帰ってくると、全ての力を出し切ったみたいにヘトヘトで、時にはすごく息を切らしていることもある。
最初はただ単に早く家に帰りたくて全速力で自転車を漕いで来ているのだろうと思ったけれど、初めてちゃんと朝に彼女の背中を見送った時、そんな単純な理由じゃないような気がした。
きっと何か、彼女にとって、本当に恐ろしくて逃げ出したいモノがあるのだろう。だから朝も、決まった通りのルーティンをこなしながら家を出る時間の間際まで、本当は行きたくないと拒む気持ちを抑えて、意を決してそこに向かっているのかもしれない。
でも、伊都さんは家ではあまり仕事の話はしないので、これは全て僕の想像でしかない。
時計を見ると18時を過ぎている。今朝、夕食は外で食べないかと伊都さんを誘った。反応的に、嫌だ、というような雰囲気は感じなかったけど、実際はどうだっただろう。
「……やっぱり、家でゆっくり食べた方が気楽で良かったかな」
伊都さんの帰りはいつも19時半くらいで、それからまた外にご飯を食べに行くとなると、ただでさえヘトヘトに疲れ切っている様子の伊都さんの負担を考えるとなかなか誘うことができなかった。
だけど、少しでも何か、気晴らしになるようなことができるといいなと考えていた。伊都さんの休日は僕はhitotokiの出勤日だから、どこかに出かけることも難しい。
その時、ドアロックが解除される音が聞こえた。ドアが開くなり、「すみませんっ、少し遅くなっちゃって」と慌てた声が聞こえてきた。僕は洗剤の詰め替えを一旦止めて、玄関の方に顔を出す。
「おかえり〜。 全然大丈夫だよ〜」
なるべく声をいつも通りにと意識する。でも、本当は伊都さんがいつもより早く帰って来てくれたことが嬉しくて自分でも声色が普段より明るいことが分かる。
「すぐ着替えて来ますね」と言う伊都さんの顔は、鼻と頬が僅かに黄土色に染まって、息が上がっている。前髪も、あっちこっちに乱れている。
「ゆっくりで大丈夫だよ。 もしかして、急いで帰って来てくれたの?」
「え?」
きょとんとした後で、伊都さんは慌てて乱れた前髪を手櫛で整えた。
「僕が急がせちゃったね」
「違うんです。 ご飯を食べに行くのが楽しみだったから、急いで帰ってきたんです」
僕はつい微笑んで「それなら、良かった」と言った。伊都さんはそんな僕に微笑み返す。
その笑顔は、普段仕事から帰ってくる時の表情とは違ってぎこちなさが無くて柔らかかった。だから、本当に伊都さんはこれからのことを楽しみにしていたんだろうと、自分とって都合よく考えてしまう。
伊都さんは優しい。今まで出会った人の中で、誰よりも。



