僕は、そのメモを見つめながら自分の口角が僅かに上がっていることに気付いて、思わず手で口元を押さえた。自分の知らないところで、誰かの優しさに触れると胸の真ん中がきゅっと締め付けられる。僕は、この感覚を知っている。
知っているから、これが当たり前のことじゃないんだと分かる。
その時、玄関のドアの解錠音が聞こえて僕は心臓が跳ね上がるくらいに驚いたけれど、考えるよりも先に足が玄関に向かった。咄嗟に、なんて言おう、おかえりって言ってもいいのかななんて考えて玄関の方に顔を覗かせたら、開いたドアから伊都さんがよろよろと足元がおぼつかない状態で入ってきた。後ろで一つに纏めてある髪もゴムが緩んでいるのかボサボサで、息も乱れている。
伊都さんは不安定な足取りのまま靴を脱ぎ、リビングに向かう前に脱衣所に向かった。僕は暫くその場から動けないでいると、シャワーの音が聞こえてきてハッとした。
“死にたいと思いながら……生きたいとも、思っている気がします。”
あの日の伊都さんの言葉を思い出す。
僕は、伊都さんを強くて優しい人だと思った。相反する感情を抱えながら、そんな自分を受容して、生きている。そんな強さを僕も持てるだろうか。きっと、難しい。だから、彼女は、すごい人だと思っていた。
でも、ただ強いだけじゃない。優しいだけじゃない。伊都さんは、死ぬと生きるの狭間で、今もずっと揺れている。
手に取ったままだったメモを見る。ここにある、伊都さんの優しさはあまりに脆くて、儚い。そんな危うさのある優しさが、とても切なくて、あまりにも遠くにあるもののように感じた。
部屋に戻って布団に潜り込ると、目の前にはさっき読み終えた漫画が積み上げられている。部屋の向こう側で僅かに足音がする。ドライヤーの音が聞こえてくる。僕はまた、涙が込み上げてくる。なぜかは、やっぱり分からない。だけど、僕は確かに、すぐそこに伊都さんがいることに安心している。この安心も、伊都さんがくれた脆くて儚いものだと思ったら、僕は、何よりもそれを大切にしなくちゃいけない気がした。危うさがあるなら、壊れないように守って、倒れないように支えたい。ただ弱いだけの僕に、そんなことができるとは思えない。でも。
いつの間にか眠りに落ちて、目を覚ました。体を起こすと、枕元にメモ用紙があった。[話したいことがあったら、いつでも、]と書かれたそのメモを、昨日うっかりここまで持ってきてしまったようだった。僕はそれを丁寧に拾って、大切にポケットに仕舞った。
僕はその日から、伊都さんとともに朝を過ごすようになった。



