あの日、あんな風に匡に自分はもう色んなことを受け入れたみたいに言ったけれど、まだ足元はグラついたままだ。それこそ、わたしにとっての拠り所が姉や匡であるまでは、わたしは真っ直ぐ地に足をついた状態とは言えない。もっとちゃんと、しないと。

 匡がいずれ去ることはわかっていた。はじめから、そう決まっていた。ただ、ここでアルバイトを始めて生活を根付かせているように見えたから、油断というか、このままこの生活がもう少し続くのだろうと期待していた。だから、自分が思ったよりもはやくタイミングがきたことに、動揺している。

 デスクトップの右下に表示されている時刻を見ると、給湯室に行ってから15分ほど経っている。まだ、あの2人は戻ってきていない。

 「あのー、三影さん」

 今までデスクにいなかったはずの田村くんの声が聞こえて、ハッと少し驚いた。

 「備品整理のことなんすけど……」

 「ん? それは、まだ来週で間に合うから——」

 「でも、権田係長から今日中にするようにって……」

 「え?」

 つい聞き返した。途端に、私の視界にいないはずの権田係長の気配が感じられて、ザワりと鳥肌が立つ。ちらりと視線を向けるが、権田係長のデスクにはバカでかいモニターが2台設置されているのでその姿はここからでは確認できない。

 私はため息を噛み殺して、視線を田村くんに戻す。「そっか。それなら、今からやりましょうか」と言って重たい腰を上げた。また刻々と、わたし自身の業務に充てられる時間が減っていく。
 
 「三影さん、今日具合悪いですか?」

 「…………え?」
 
 倉庫までの移動中、振り返ると田村君は私の顔を見ているので、私も久々に彼の顔を見た。もともと短髪なのにパーマがかかっているその髪型は、流行りなのかなんなのかといつも考えさせられるほどに彼に似合っているかよく分からない。でも確か、他部署の女の子が芸能人の誰々に似ているって言ってた、という話を峰越さんから聞いた覚えがある。その芸能人は、誰だったっけ。

 「全然、元気ですよ」

 田村君が後輩になってからこの半年間で、初めて彼から業務内容以外に話しかけられた。こんな珍しいこともあるんだなと余裕のない頭の片隅で考える。

 自分の手元に顔を戻して、倉庫の扉を開ける。埃が浮遊している空気の中に体を折れ込むと、なんだか体が痒いような気がしてくる。

 「そうっすか。なんか、普段より元気ない気がしたんで」

 頭の中を覗かれたような不意な言葉に「そう、ですか?」とつい言葉に詰まる。

 確かに、今日私は元気がないと思う。もともと朝から落ち着かない気分で、ついさっきの出来事ここ最近で、一番気分が落ちていると言っても過言ではない。

 社員の中には自分の機嫌を露骨に表に出す人がいたり、それを察しろと無言の圧をかけてくる厄介な人たちが居て、それだけで仕事がやりづらくなる。ただ仕事するだけでも頭を使うのに、他人の精神衛生までこちらが気を遣うとなると更に疲れる。

 だから、会社では自分の感情を表情や雰囲気に出さないようにと努めているつもりだった。田村君にわざわざ言われてしまうほど面に出ていたのだと思うと、なんだか自分自身にもっと上手くやれよと失望する。

 なるべく平静を装って、社用のタブレットを見ながら在庫確認のやり方を田村くんに教える。今日も今日とて、メモを取らずに両手は後ろで組まれたまま。「じゃあ、手分けしてやりましょうか」と伝えて、二手に分かれる。ちょうど、背中合わせになるような形になった。

 「あの、なんで三影さんって、ここに就職したんですか」

 「……え?」

 また、業務外の話だ。しかも、唐突で脈略がない。
 
 「……なんとなく。地元から少し離れたところで……それで、あまり都会すぎず、福利厚生が整っている所で探してたら、ここになりました。……で、分からないところって?」
 「そうなんすね。なんで、地元から離れたかったんすか?」

 「それは……なんとなく」

 なんとなく。本当のことを田村君に言えるはずもないし、言いたくもない。地元には良い記憶はあまりないし、進学先の土地だって私がフライパンで頭を殴った姉の元彼がいたりするので、できれば今後一切遭遇しないようにしたかった。だから、地元から離れられて、姉が暮らす東京ではないところなら、どこでも良かった。

 「へえ。なんとなくで、こんなところ来たんすね」

 こんなところ。その言葉には、卑下が含まれているような気がした。田村君は、地元が好きではないのだろうか。

 思いの外、会話が続いていることが意外だった。そして多分、この流れだと次は私が田村君に聞く番なのだろう。

 「……田村さんは、どうしてここに就職したんですか?」

 「俺は、実家から通える距離で探して、ここかなぁって感じで」

 「へぇ」

 ……あ、どうしよう。会話が、途切れる。別に途切れても良いはずなのに、私の相槌から途切れてしまうと思うと居心地が悪い。でも、特にこれと言って次の言葉が思い付かない。

 手を動かして仕事を進めたいのに、頭はそっちでいっぱいになって、手が止まる。喉元がむず痒い。