カーテンの隙間から差し込む朝陽を眺めていたら、ドアの向こう側で物音がし始めた。微かに聞こえる足音、沸いたお湯をカップに注ぐ音、テレビの音はそれらの音よりも小さかった。音に暫く耳を澄ませているとドアから少し離れたところから『仕事に、行ってきますね』と小さな声が聞こえた。僕はその伊都さんの声を聞いた時、何故か涙が止まらなかった。
昨晩、ここに帰ってきたのは何時だっただろう。橋の上に居た時はすでに0時を回っていた。朝が来るのが早いのは当たり前だ。きっと伊都さんは数時間しか眠れていないはずだ。そう思ったら自分が情けなく思えたのに、ドアの向こうの物音は心地良かった。音に耳を澄ませて瞑ると身体が床底に沈んでいくような感覚に襲われて、僕はその時やっとまともに眠れた。明良が出て行ってからは、もしかしたら帰ってくるかもしれないという淡い期待と、目が覚めてもやっぱり一人なのだと実感する怖さで眠れなかった。
けれど、もしかしたら、やっとその不安から少しだけ解放されたのかもしれなかった。それは、同じ空間に誰かの存在を感じられる安心感が多少なりともあったからかもしれない。それか、やっぱり僕はもう一人になったのだと諦めがついたからかも、しれない。
それから僕は今まで眠れなかった時間を取り戻そうと本能が言っているみたいに、いつの間にか眠りに落ちて、目が覚めたら伊都さんが貸してくれた漫画を読む生活を送った。時々、部屋のドア下の隙間から[お腹空いたら、冷蔵庫適当に見て食べて大丈夫ですよ][シャワーとか、適当に入ってもらって大丈夫ですよ]と伊都さんが書いたメモ紙が入ってきて、昔に見たスパイ映画みたいだなと思って少し笑った。僕は伊都さんの善意に甘えて、伊都さんが仕事に行っている合間にシャワーを借りた。人の家のシャンプーやトリートメント、ボディソープの嗅ぎ慣れない香りに包まれた自分の身体は、これまでの自分とは少しだけ違うものになったのだと思わせた。
借りた漫画は、読み進めて行くうちに続きが気になって次第に眠気を我慢してまでページを捲っていた。今思えばとんでもない怠惰な数日間だったけど、あの時の僕にはあぁする他に自分を保つ方法がなかったのだと思う。最終巻を読み終えた日は、もう終わってしまうのだという喪失感を味わいつつも読み終えたら達成感があった。
そして、その時がチャンスだと思った。僕はそれまで伊都さんとは全く顔を合わせられていなくて、正直、どんな顔をして会えば良いのか分からなくなっていた。でも、漫画を読み終わったことを伝えるのは決して不自然ではない気がして、そのまま漫画の感想を伝えたり、改めて色んなことのお礼を伝えることができるんじゃないかと思った。
意を決してゆっくりドアを開けてみたけど、リビングは暗いままだった。電気をつけて時計を見ると時間は22時を過ぎている。伊都さんは、いつも、あの日のような時間に仕事を終えて帰ってくるのだろうか。
ふと、テーブルの上に視線を落とすと見覚えのあるメモ紙とボールペンが置いてあった。メモには、[部屋は、寒くないですか]と、線が細いけどしっかり芯のある伊都さんの文字が書かれていた。そのメモの下にもう一枚あった。好奇心に負けて捲ってみると[話したいことがあったら、いつでも、]と書きかけのままのメモだった。



