「……大丈夫ですか」

 「な、何がですか」

 「息、すごく切れてるから」

 「あ、はぁ、はい……はぁっ、すみません、はぁ」

 深呼吸を繰り返してなんとか、徐々に呼吸が楽になってきた。言葉を発する前に、またひとつ深呼吸をする。冷たい空気が熱い喉を通っていく。

 「どうして、そんなところに、いるんですか」

 男の人が立っているのは橋の欄干の向こう側で、手は何にも掴まったりはしていない。男の人は、頭を少し掻いた。

 「……まあ、ちょっと疲れたなと、思って」

 男の人は、白い顔を向こう側に戻す。その人はまたただの影になって、向こう側にある暗闇に溶けてしまったかのように真っ黒になった。

 「ここから飛び降りたら、もう色々考えずに済むのかなぁと考えていたんです」

 橋の上は、風が強い。頬に冷たい風がピリピリと当たるほどに。そんな強い風に、その人は今にもふっと背中を押されてしまいそうで、それを想像したら足が竦んだ。目の前にその人はいる筈なのに、ただの黒い影でしかないその後ろ姿が瞬きをしている間に消えてしまうのではと思ったら、目を閉じられない。冷たい風に晒された目が、痛い。

 「あの、まずは、考えるのは一旦やめて、私の方に来ませんか」

 私はその場から動かずに言った。本当ならこちらに思い切り引き寄せてしまいたいけれど、私が一歩身体を動かして揺れる些細な空気の動きでさえ、彼の背中を押す力になってしまいそうな気がした。

 「あなたと僕は他人だから、今のことは見なかったことにして大丈夫ですよ。それに、急いでいるんじゃないんですか?」

 冷え切った、淡々とした声に怯む。けれど、“でも”と手を握って拳を作った。

 「普段なら、見なかったことにして、素通りしてたと思います。……他人だし、確かに急いでました。だけど、今日は、嫌なんです」

 言いながら、少しだけ声が震えた気がした。でも、強い風のおかげで男の人にはきっと気付かれていない。

 「自分勝手で、大変申し訳ないと思います。でも、今日、あなたがこの後死んでしまうというのが、とても、すごく嫌なんです」

 男の人は、再びこちらに振り返る。一瞬だけ目が合った後、その人は視線を落とした。分からないけれど、ふっと少しだけ微笑んだ、そんな風に見えた。

 「……わかりました。まずは、あなたのところに行きますね」

 そう言って、男の人は欄干に手を掛けると腰をかけて、くるりとこちらに体を向けた。私は半歩歩み寄って、手を差し出す。男の人は、さっきまでのどこか淡々とした言葉とは裏腹に、遠慮がちに私の手のひらにそっと手を置いた。
 
 真っ白で、凍っているみたいに酷く冷たい手だった。私はその手を握って自分の方へと引き寄せる。トン、と地覆から男の人が降りる軽い音が小さく響いた。ぼんやりと光る街灯の灯りを頼りに腕時計を見ると、時間は23時を過ぎている。私の時計を覗き込んだその人は「まだ今日が終わりませんね」と言う。

 「はい。なので、ちょっと話しませんか」

 「……話すって、何を?」

 「なんでもいいです」

 私は手を離して地覆に腰掛けると、男の人も隣に腰掛けたのでひとまずホッとする。

 「私は、三影 伊都と言います」

 「遊井 匡です」

 ゆうい きょう。声には出さず、喉元でその名前を繰り返す。綺麗な名前。

 「……お仕事は、何されてるんですか」

 「グラフィックのデザイナーしています」

 私は内心驚いて、匡の横顔を見る。近くで見たその顔は、皮膚が薄そうで、鼻筋が通っていて唇も薄く、近くで見た方がより儚げに思えた。

 「へえ……すごい」

 「伊都さんは?」

 匡がこちらを見る。切れ長の瞳で、優しい雰囲気を持った顔だ。

 「私は……事務です。きのこを製造販売してる会社の」

 「しめじとか、えのきとか?」

 「とか、舞茸とかエリンギとか」

 「へえ。僕、きのこ大好き」

 私は声に出さずに頷いた。私もきのこは好きだったけれど、就職してからは苦手になってしまった。

 「なんにでも合いますよね。味噌汁や鍋もいいし、炊き込みご飯とか、ソテーにしても美味しい。値段も変わらないし」

 そう話す匡は、さっきまで死のうとしてたことを忘れるくらい穏やかに笑っている。私はそれが、本当に死ぬことを覚悟したように見えてしまう。

 匡が、初対面で何者かも分からない私の我儘を聞いてくれたのは、死ぬのが今日でも明日でも変わらないからか。

 「僕が、どうしてそこに立ってたか知りたいですか」

 匡と目が合う。橋の上を一台の車が通り過ぎていく。匡の顔の輪郭がより鮮明に見える。やはり綺麗だった。

 「教えて、くれるんですか」

 言うと、匡は欄干に寄り掛かって上を見上げる。私も同じようにしようと思ったけれど、目を離したらいなくなってしまいそうだったので、匡に視線を向けたままにした。

 「僕が話したら、伊都さんも話してくれますか?」

 「え」

 思いもよらない一言に、露骨に驚く。匡は横目で私を捉えた。

 「話すのは、なんでもいいですよ」

 「……分かりました」

 冷たい風が、今も頬を刺す。けれど、匡が隣にいるせいか、さっきよりも痛くない。

 匡は、夜空から視線を落としてぽつりぽつりと話し始めた。