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 時計の針は17時半を指している。伊都さんの仕事が終わる時間だ。マグカップに淹れていたほうじ茶を飲み切って、台所に立つ。食器洗剤が切れたので、台所下の収納を探す。先週詰め替えを買っておいて良かった。

 ここに来て3ヶ月が経ち、この部屋のどこに何があるのかは大体把握している。それに、伊都さんの好きな食べ物や好きな音楽、好きな色も、もう大体知っている気がする。

 このアパートは1LDKで、10畳ほどのリビングと6畳ほどの洋室だ。僕が借りているのはその洋室で、部屋には布団と机、仕事用のパソコンが置いてあるだけ。あの日、伊都さんから『ここに居たらいいですよ』と言われて案内された部屋は、何も物が置かれていなくて、クローゼットの中に来客用の布団セットが仕舞ってあるだけだった。

 『本当はワンルームを借りようと思ったんですけど、ここら辺ってファミリー向けの物件が多くて。 だから、一部屋余計で使ってなかったんです。 適当に、気遣わないで、何してても良いんで。 あ、この布団は未使用なんで、大丈夫なんで』

 伊都さんはクローゼットから布団を取り出しながら、早口で言っていた。“大丈夫”って、何がだろうとぼんやり考えている間に伊都さんは布団を敷いてくれていた。そして『あ、そうだ』と呟いて部屋から出て行くと、今度はノックをして、僕の小さな返事を聞いた後に『これ、読みますか』と漫画本を抱えて開いたドアの隙間から顔を覗かせていた。僕が頷くと、伊都さんは抱えた分の漫画を床に置いて、それから残りの分も抱えて部屋まで持って来た。全31巻ある長編の少年漫画だった。

 その晩僕は眠れず、枕の横に積み上げられた漫画本の巻数の数字をただ眺めていたらあっという間に夜が明けた。羅列された数字を眺めながら頭の中に浮かんでいたのは、明良と、明良の妻になった女性のことだった。明良に会うまでは、もしかしたら自分の元に戻ってきてくれるかもしれないなんて自分よがりに考えていた。

 でも、会ってしまったら、あまりに自分が身勝手だったと思い知って、こんなことになるならいっそ会わない方が良かったんじゃないかと思った。こんなことになるなら。