お昼休憩まで、あと1時間。仕事の内容は変わり映えしないけれど、今日はいつもより時間が過ぎるのが早い気がする。たぶん、気持ちがそわそわと落ち着かないせいかもしれない。
こんな状態で仕事をするのは下手なミスをしそうだと思って、気持ちを切り替えるために普段は職場では飲まないコーヒーでも淹れようかと給湯室へ向かう。
するとそこには、同じ部署の河田さんと、峰越さんがいた。
「あ、お疲れさまで〜す」
「お疲れさまです」
最悪。その気持ちが、顔に出ないようにやんわりと口角を上げる。こんなところに出くわすなんて、最悪だ。かと言って、回れ右をしたら露骨すぎるので、さっさとコーヒーを淹れてこの場から離れようと決意して、給湯室に足を踏み入れた。
この狭い給湯室に3人の人が入ると、身動きがしづらい。それなのに、2人はもう1人分のスペースを作ろうなどという動きはせずに、なぜかわたしの方をじっと見る。その視線を気にするなという方が無理なので、わたしはその視線にいま気づいたような素振りをすると、河田さんが峰越さんをちらっと横目で見た後に、改めてわたしに視線を向けた。
「……三影さんさぁ、もしかして、彼氏でも出来た?」
言葉の意味を理解するまでにほんの数秒かかって「え?……いや、できてません、けど」と歯切れの悪い返事をする。身体の温度が、嫌に上がる。
「え〜? そうなの?」
今度は峰越さんが、わざとらしげに声を上げる。今日も、小さくて吊っている目元には黒いアイラインで囲んで、瞼には紫色のアイシャドウがのっている。影が多くて、より小さく見える。
「なんか河田さんとね、最近三影さん雰囲気が変わったって言ってて、彼氏でも出来たのかな〜ってついこの間話してたんだよね」
「そうそう。なんかかわいくなったしさぁ」
この2人は、30代後半でお互いに歳が近い。わたしが入職したとき、女性社員の中ではふたりがわたしと歳が近いわけだったけれど、15歳以上離れているとそれはもはや近いとは言えない。
まあそれは分かるけど、わたしが厄介だと思ったのは何かと“あたしたち”と“三影さん”で線を引かれて会話されることだった。歳の差があればジェネレーションギャップがあるのは当たり前だけれど、2人は、特に峰越さんは自分と河田さんは“一緒”であるのだということを会話の端々で強調して、わたしとの差別化を図りたがっていた。そうすることで、自分の安心と居場所を確保しているのだろうと思う。
それに、2人が仕事中なのに“推し”のK-POPアイドルの話で盛り上がっているのはもはや風景になっている。仕事の妨げで迷惑であるのはわたしだけじゃなくて周囲の社員も感じていることだけど、峰越さんは、今は人事部の部長になった朝川さんという女性社員が私たちの部いた時から気に入られていているからか、権田係長は峰越さんとその峰越さんお気に入りの河田さんには注意をしない。
「えー、いやぁ、全然そんなことないんですけどね」
「なんだぁ、そっかぁ。まぁ、出会いもね、無いからねえ」
「そうですよ〜。私になんて出会いなんてないですよ」
自分を卑下する言葉が、頭で考えるよりも先に口からこぼれる。早くこの場から離れたくて、ポットの給湯ボタンを押す。
「でもさ、ほら、最近気になる人が出来たとか? ないの?」
今度は河田さんが言う。まだこの手の話が続くのかと思うと、うんざりしてきて、嫌気がさしすぎて息が詰まる。
「え? えー、別に、そんなのもないですよ。ほんと、悲しいくらいに出会いとか、ないんで」
ポットから出るお湯が、もっと勢いが良かったらいいのに。とぽぽぽ、と一定の量しか出さないポットがもどかしくて、給湯ボタンを押す人差し指に力が入る。
「そっか、そっか。まあ、そうだよねー」
「そうだよねって、ちょっと失礼じゃん。 峰越さんは、あたしたちと違って、まだ若いんだしさぁ」
「あぁ、ごめんごめん。 そうだよねって、変な意味じゃないからね。 三影さん、かわいいもんね」
視界の真ん中にはポットが映っているのに、片隅で峰越さんがわたしの全身、頭から爪先までを品定めするように視線を向けている様子が見える。
全身の肌が泡立つみたいに、寒気がしてくる。なんだか今すぐ、この身体の皮を全部剥いで、別の容姿に取り替えられたらと思う。わたしではない、誰かなら、こんな居心地の悪い空間に身を置くこともなかったかもしれない。
マグカップにお湯がたまる。はやく、はやく。
「全然、そんなことないんで……はは、じゃあ……」
「は〜い」
彼女達に背を向けて給湯室から足を踏み出したとき、クスクス、と笑い声が聞こえた。身体はやっとあの空間から抜け出すことができたのに、あの笑い声が、わたしの背中にまとわりついている。
あんなところで喋ってる暇があるのなら、あんたらが出来ずにわたしのところに流れ込んできた仕事を返してあげるのに。そう喉元で毒を吐いても、結局言葉にせずに、黙って彼女らが“やらない”仕事をやり続けている自分が情けない。
デスクに戻って、コーヒーを啜る。気持ちを切り替えたくて淹れたコーヒーだったけれど、うまみもこく深いわけでもなくただ強烈に苦くて、胸の真ん中に広がったままの嫌な感情と混ざり合っていく。
……匡さんが淹れてくれたコーヒーの方が、何百倍も美味しい。
今日の夜のことを想像すればするほどに、その先の、匡がいなくなったわたしの生活が嫌なくらい鮮明に浮かぶ。ただ、ほんの数ヶ月前に戻るだけ。ただ仕事に行き、好きな音楽を聴いたり映画でも観ながらちょっと気分をリフレッシュできたような気になって、自分の生活はこれで良いのだと肯定しながら毎日を繰り返す。
その以前の生活の中で、わたしの中心に居続けたのは姉の存在だった。それなのに、今、中心にいるのはきっと匡なのだろう。それこそ、周りが雰囲気が変わったと言うくらいその変化はわたしにとって大きかった。
考えれば考えるほどに、胸の中に広がる仄暗い渦が広がっていく。この感覚さえ、久々だ。ほんの一瞬、キュッと目を瞑る。匡がいずれ居なくなることは分かっていたでしょうと、自分に言い聞かせる。言い聞かせて、納得させる。
デスクトップの右下に表示されている時刻を見ると、給湯室に行ってから15分ほど経っている。まだ、あの2人は戻ってきていない。
「三影さん」
今まで隣のデスクにいなかったはずの田村くんの声が聞こえて、ハッと少し驚いた。左側を見上げると、田村くんが立っている。
「すみません、この前教えてもらった備品確認のことなんすけど……」
そう言いながら持っていたiPadの画面を見せてくる。どうやら、やり方がうろ覚えで不安になって声を掛けてきたらしい。
毎回そうなるんだから、ちゃんとメモ取っておいたらいいのに。気持ちの中ですんなり出てくる言葉を、
「三影さん、今日具合悪いですか?」
「…………え?」
昼を過ぎ、後輩の田村君と備品の在庫を確認するため倉庫まで移動している途中、彼から声を掛けられた。
振り返ると、田村君は私の顔を見ている。もともと短髪なのにパーマがかかっているその髪型は、流行りなのかなんなのかといつも考えさせられるほどに彼に似合っているかよく分からない。でも確か、他部署の女の子が芸能人の誰々に似ているって言ってた、という話を峰越さんから聞いた覚えがある。その芸能人は、誰だったっけ。
「全然、元気ですよ」
私は自分の手元に顔を戻す。田村君が後輩になってからこの半年間で、初めて彼から業務内容以外に話しかけられた。こんな珍しいこともあるんだなと余裕のない頭の片隅で考える。
「そっすか。なんか、普段より元気ない気がしたんで」
まさかの図星で「そう、ですか?」とつい言葉に詰まる。今日は出社してからも頭の中は夕方のことで頭がいっぱいで、考えれば考えるほど気分が沈んで仕方がなかった。
でも、もしも匡から部屋を出て行くと言われてもそれが匡にとって良いことなんだったら、それでいいんだ。それに、本当にただの私に考えすぎかもしれないから、もう色々考えるのはやめようと、やっと自分を納得させることができそうだったのに田村君のなんとも的外れな言葉の所為で思考が降り出しに戻った。何より、なるべく会社では自分の感情を出さないようにと努めているつもりだったのに、今日は田村君にわざわざ言われてしまうほど面に出ていたのだと思うと、なんだか自分自身にもっと上手くやれよと失望する。
「三影さんて、なんでここに就職したんですか」
「え」
また、業務外の話だ。しかも、唐突で脈略がない。倉庫の前について、扉の鍵を開ける。ここはいつも埃っぽい。そう思っただけで鼻の下がムズムズしてくる。
「……なんとなく。地元から少し離れたところで……あ、まずそこのコピー用紙からお願いします。あ、うん、それ。……それで、あまり都会すぎず、福利厚生が整っている所で探してたら、ここになりました」
言いながら、あまりに正直すぎたかなと思う。
「そうなんすね。なんで、地元から離れたかったんすか?」
「それは……なんとなく」
なんとなく。本当のことを田村君に言えるはずもないし、言いたくもない。地元には良い記憶はあまりないし、進学先の土地だって私がフライパンで頭を殴った姉の元彼がいたりするので、できれば今後一切遭遇しないようにしたかった。だから、地元から離れられて、姉が暮らす東京ではないところなら、どこでも良かった。
「へえ。なんとなくで、こんなところ来たんすね」
こんなところ。その言葉には、卑下が含まれているような気がした。田村君は、地元が好きではないのだろうか。
思いの外、会話が続いていることが意外だった。そして多分、この流れだと次は私が田村君に聞く番なのだろう。
「……田村さんは、どうしてここに就職したんですか?」
「俺は、実家から通える距離で探して、ここかなぁって感じで」
「へぇ」
……あ、どうしよう。会話が、途切れる。別に途切れても良いはずなのに、私の相槌から途切れてしまうと思うと居心地が悪い。でも、特にこれと言って次の言葉が思い付かない。
手を動かして仕事を進めたいのに、頭はそっちでいっぱいになって、手が止まる。喉元がむず痒い。



